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百物語

罪の記憶

作者: よる

 森の中で出会った少女たちだった。

 白い肌に金色の柔らかそうに波打つ長い髪、細い肢体。

 14歳ほどの美しい少女たちはわずかな身長差の良く似た姿で、一目で姉妹だろうと思わせた。

 人間ではあり得ないほどの可憐な容姿の二人の出現に、最初こそはどきどきと心臓を荒立たせていたが、シフォンは深呼吸を繰り返して自分を落ち着かせてゆっくりと言葉を紡いだ。

「お嬢さん方、私になにかご用ですか?」

 声ははじめ哀れっぽく震えてしまい、慌てて取り繕った。

「ご用があるのはあなたのほうでしょ?」

 大きい少女深い夜の色の瞳がシフォンをじっと見つめて、紅でも塗っているように可愛らしい唇をとがらせていた。

「誰か、誰かとずっと叫んでいたわ、うるさいぐらいに。だから来てあげたのよ」

 そう言うと少女はシフォンの脚に目を向けた。

 脚は地面の上で、あらぬ方向に曲がっていた。

「折れていて歩けないのね」

 痛そうね、と淡々と付け加えた。

「あ・・・その、足を滑らせて山道を・・・だから誰か人を・・・」

 しどろもどろに説明をしていた。

 山道を転がり落ちて脚が立たなくなっていた。

 大声を張り上げて懸命に助けを求めて、どのくらい経っていたろうか。

 足の痛みは熱となってシフォンの全身を支配しようとしていた。

 背もしたたかに打ち付けていたが、そちらは今となってはもうあまり気にならなかった。ひたすら、足が痛い、熱が上がったのか体中が火にあぶられているように熱かった。

 太陽のあるうちに助けを得ないと命に関わると思った。

 夜になると街から離れた人気のない山の中、人を食らう害獣が徘徊しかねない。

 満足に動けない身で、身体のあちこちに擦り傷を負って血を流しているシフォンは恰好の餌食となるだろう。

 鄙びた田舎のさらにこんな場所に都合よく人がやってくるとは思ってはいなかったが、諦めもつかなかった。

 まだ23歳。まだ死にたくはなかった。

 家族や兄弟が待つ村に−−−家に戻りたい。

 まだ死になくない!

 シフォンは少女たちの情に訴えようとしていた。

 種族は違っても、言葉を理解し合える間柄だった。

 肉食獣だろうと、腹さえ空いてなければ、または自分に危険を感じなければ無駄な攻撃はしかけないだろう。

 痛みと熱でもうろうとする頭で考えて、必死にシフォンは言葉を探す。

 穏やかに、丁寧に。どうかこのまま立ち去ってくれるように。

 −−−シフォンには彼女たちに助けを求めるという発想はまったくなかったのだ。

 冷や汗も混じる汗がだらだらと額を流れ落ちてゆき目に入ってくる。

 塩分にしみた目をしばたかせるシフォン、少女には泣いているように思えたようだ。

「可哀想に、そんなに痛いのね」

 歩み寄った背の少し高い少女はシフォンの傍らで膝を着いていた。

 シフォンは驚いて這って逃げようとしていたが、脚という重りがそうはさせなかった。

「ねえさん・・・なにするの?」

 お揃いの深緑色のドレスを着て、それまで黙りこくっていたわずかに背の低い少女−−−こちらは深い湖の瞳の妹が姉の行動に心配そうに声をかけた。

 姉の小さい手がそっとシフォンの足に触れた。

 痛みではなく、恐怖でシフォンの肩が震えた。

 もう一方の手がシフォンのふくろはぎを掴むとゆっくりと動かして膝が正常な角度になるように置き直した。そのあと数回手は優しくシフォンの脚を撫でていた。

「痛い?」

「・・・いや・・・」

 見上げる美しい少女に、驚くシフォンは声を絞り出して答えた。

 痛みはまだあった。でも明らかにそれまではと違って軽くなっていた。

「痛さがもっと少なくなるように治してあげるから、待ってて」

「ねえさんっ!!」

 はっきりと不満の色を見せた妹を振り返ると

「あなたが治してあげてよ。私、こういうこと苦手だから」

「いやよ!それに人間に関わっちゃだめって言われているじゃない!!」

 妹の意見に姉は少し困ったような顔になった。

「だけど・・・可哀想だわ・・・」

「言いつけをやぶるの?そんなことしたら怒られるわよ!」

「だけど・・・」

 さすがにシフォンも、少女たちの口論の理由を悟っていた。

 固唾をのんで動向を見守っていた。

 姉少女は自分を助けようと言っているのだ。

 しかし、妹は反対する。

 そう言いつけられているのだろう、二人に上質なドレスや靴を与え、髪を梳かしリボンを結びつけて慈しむ者、大人たちに。親かもしれない。

 だけど、姉はこのままでは可哀想だと−−−。

 シフォンの運命はこの少女たちにかかっているだろう。

「放っておくべきよ」

「でも、そうすると動けなくて死んでしまうわ。ここで死ぬのよ。あなたの好きなお花畑にこんなに近いところで。・・・死んだら腐るわ。臭いもする。いいの?」

 シビアな内容にシフォンは内心呻いたが、口は開かなかった。

 それはいいの?

 もう一度、答えない妹に問いかけられた。

「治したらいなくなる・・・?」

「ええ。そうよ、だってこの人間だってこんなところにいる必要ないもの」

「治すだけよ。運ぶのはいや。でも治してもすぐには足はうまく動くようにならないわ。わたし、運ぶのはぜったいにいや。ねえさんが運ぶのもいや!」

「それはだいじょうぶよ。痛みがへったらもっと動けるようになるわ。それに私が木の枝を切ってきて杖にしてあげるから。自分で戻ってゆくわよ」

 すぐ横にいるシフォンを完全に無視した姉妹の会話は結論に至ったようだ。

 すなわち、美しい金の髪の少女たちは人間のシフォンの怪我を治しことに決めたのだ。


 少女の手が膝の上にかざされた。

「ぜったいに動かないでよ。少しでも動いたらわたし、すぐにやめるから!じっとしているのよ。動いたら怒るからっ!!」

 強い口調で何度も確認した後で妹は、シフォンの側によって座り込んだ。

 反対の手は姉の手を握りしめている。

 シフォンは、自分だけでなく少女たちも恐れていることをはじめて知った。

 存在は知らない者はいないだろう異種族の者たち。

 世界に共存する者たちは、しかしその種族的な相違のために一線を引いていただろう。

 特にその驚異の触れることなく物に影響を与える能力を持たない人間の方が相手を一方的に恐れるようになっている−−−とシフォンは思っていた。

 でもそうではないのだ。

 寿命が長い彼らの人口は人間に比べて少なく、出会うこともほとんどない状態でどんどん相手に対しての不安感は増していく一方だった。

 少女の手の平から、まるで創世記にある神の御技のようにちりちりとした不思議な波動が伝わって、そのあと波は大きくふくれあがってシフォンをすっぽりと飲み込んでいた。

 一瞬ぐらんと視界がぶれて暗転した後、目を開けたシフォンの目の前から妹の姿は消えていた。

 伸ばしても届かない距離を置いて二人は立ち並んでいた。

「もうあまり痛くないはず」

「でも一度壊れたんだもの。いきなりは元通りに動かないわ」

 はいと姉はどこからか用意した頑丈な木の棒をシフォンに両手で差し出した。

 可憐な少女からなにげなく手渡された物の重みにもう片方の手を慌てて添えなくてはならなかった。

「ありがとう。とても助かったよ、ほんとうにありがとう」

 少女たちにシフォンは深く頭を下げていた。

 痛みが嘘のように薄らいでいた。自分の足は癒されたのだと疑いはなかった。

「いいのよ、べつに」

「そうよ、わたしたちのお気に入りの場所からさっさと去ってくれればいいのよ」

「ああ、そうするよ」

 苦笑混じりに微笑んだシフォンはあることを思い出していた。

「そうだ。お礼にならないかもしれないが・・・」

 肩掛けの鞄の蓋を開けて、中から二つのお菓子の包みを取りだしていた。

 姪っ子たちに華やかな街のお土産として買い求めた物だった。

 両手でそれぞれ二人に。

 先に受け取った妹は言った。

「それもちょうだい」

 鞄の中に残っていた一つだった。シフォンの姪は三人であり、お菓子は三つあったのだ。

「私たち三人なの。弟の分もちょうだい」

 続いて受け取った姉も弟思いに要求して、ああ、わかったとシフォンも頷いた。

 図々しいとも聞こえるお願いだったがシフォンには微笑ましく、姉妹たちの兄弟愛に、なんだ、本当に人間と一緒なのだと嬉しくさえなった。

 最後のお菓子も妹の手に渡して、シフォンはゆっくりと杖を支えに立ち上がった。

 シフォンのできる二人へのお礼の最後は、なるべく早くこの場所から立ち去ることだと考えたからだ。


 はずれた道に戻って山道を下り、ゆっくりゆっくりと村への道を歩き続けていると運良く野良作業から戻る馬車が通りかかってシフォンを拾ってくれた。

 日が暮れる前に村に戻ることができたシフォンはその足で村の中心に建つ神殿に向かっていた。

 この日、シフォンにもたらせた幸運と、優しい少女たち、そして世界の母なる神に深い感謝の想いを伝えるためだった。

 祭壇にささやかな供え物をして、跪き一心に祈りを捧げる姿に気がついた数年前に街から赴任してきた神官ダラスが、不思議そうにシフォンに近寄っていった。




 十日ほどたった晴れた朝だった。

 村はずれの小さなシフォンの家に神官ダラスが訪れたのだ。

「ダラス様、こんな早くにどうさないましたか?」

「おまえを助けたという少女たちに、神に仕える聖職者として一言感謝を述べたいと思ってな」

「あの子たちはそんなことは望まないと思います。わざわざ赴いて言葉を伝えるよりも、そっと心の中で感謝して生きてゆけばいいと−−−」

「わたしにきさまは意見をするというのか!」

 シフォンより四つほど上なだけの年若い神官はカッと怒りを顕わにして、怒鳴りつけていた。

「おまえは黙って従い、わたしを少女たちに会ったという場所に案内すればいいのだ!」

 あまりに剣幕に恐れをなして、シフォンは杖を取って歩き出すしかなかった。

 脚はずいぶんと楽になってきていたが、山道は杖がないとまだ心配だったのだ。

 途中まではダラスの馬車で、その先は汗だくになりながら急かされて歩み、道から土塊と一緒に転がり落ちたあの場所に到着した。

 シフォンは少女たちを呼ぶように命令された。

 ダラスの態度は到底少女たちに礼を述べたいという謙虚なものではないと感じていた。とても物騒で不安になったが、体格の良い大男と一人向かい合う細身のシフォンは口答えもできずに

「お嬢さんたち、お嬢さんたち、助けていただいた者です、シフォンです。どうかいらっしゃったら姿を見せてください」

 心のなかで、どうか聞こえないようにと願いながら大声で呼びかけていた。

「ああ、もうこのあたりにはいないようです」

「いいから続けろ」

 小突かれて、シフォンはしばらくの間、繰り返させられていた。

「お嬢さんたち、優しい二人のお嬢さんたち−−−」

 大声に喉が痛くなって声が枯れていったが、許されなかった。

 しかし。

 もうこれ以上待っても意味はないとダラスも思い出したそんな頃だった。

 草地の奥に広がる林の木立の陰に少女が立っていた。

「うるさいわ、あなた。・・・でもこの前のお菓子は美味しかったわ。で、いったい今日はなに?・・・うるさいの、もうここに来ないでよ」

 妹の方の少女だった。

 姉よりもきつい性格をしていて、はっきりと物を言う子だ。

「ああ、お嬢さん、あのこちらの神官ダラス様が−−−」

 シフォンを横に押しのけてダラスが前に進み出た。

「よく村人を助けてくれた。感謝するぞ。褒美を与えようと思ってな」

 不気味な猫なで声でダラスを言った。

 長い官衣の懐に入れて何かを掴んだ拳を少女に向けた。

「いらない。・・・もしかしてこの前と同じお菓子?」

 少女はシフォンのお菓子をとても気に入ったのだろう。褒美だという物に興味を持った。

「そのお菓子だよ。ほら、ここに取りにくにるといい」

「・・・お菓子貰ったら、あなたたち直ぐに帰ってゆく?もう来ない?」

「ああ。そうだね。用が済んだら帰るよ」

 シフォンは横で二人に交互に目を走らせておろおろとしていた。

 酷く危険な予感がした。

「お嬢さん、やっぱり駄目だっ−−−」

 シフォンは乱暴に突き飛ばされて草の中にどさりと倒れ込んでいた。

「ほら、こっちに。美味しいお菓子だよ」

 大きな手の中に掴んでいる物は端からは見えなかった。

「早くおいで」

 少女はおそるおそるダラスに歩み寄っていった。

 そして、そっとダラスの拳に手を伸ばした。

「きゃああ」

 悲鳴が上がっていた。

 ダラスが少女の手首を掴んで引き寄せたのだ。

 少女も必死に逃れようと暴れていたがダラスにはなかなか通じず、あっという間に、それは鮮やかな早業で少女の手首に嵌められていた。

 薄い水色の石が目を引く腕輪がかちりと少女の手首を巻いて、丁寧に鍵までかけられてしまっていた。

 少女は大きく目を見開いていた。

 腕を見て、ダラスを見上げた。

 ダラスは腕の力を抜いたので少女はその場にずるずると崩れるように座り込んでいた。

「・・・いや・・・気持ち悪い。この石、外して・・・」

 少女は草の上に倒れているシフォンに泣きそうに頼んでいた。

 驚くシフォンは、だいじょうぶだよと、少女を励ましてから、ダラスに抗議した。

「ダラス様、いったいこれはどういうことですか!」

「その青い石は特別な石だ。彼らの恐るべき力を吸い取って無効化する奇跡の石だ。この腕輪さえつけておけば彼らは恐れる必要もないただの子供だ」

「なぜそんな騙すような酷いことを!!彼女は嫌がっている、どうか外してやってください。優しい私の命の恩人なのです!!」

 ダラスは酷薄な笑みを薄い口元に浮かべていた。

「無知な愚か者は思いつかなくても当然だろうな。教えてやろう−−−」

「妹になにするの!!」

 そのとき二人の目の前の空間を割っていきなり姉少女の姿が現れた。

 素早く駆け寄った姉が妹を抱き寄せようとした一瞬に差で妹の肩を抱いたのはダラスだった。

 その上、刃物が少女の首筋にあてがわれた。

「ねえさん・・・逃げられないの・・・石が邪魔するの」

 泣きそうに訴え、姉も押さえ込まれている妹の右手首に嵌められた腕輪に気がつくと、すうと表情を固くした。

「妹から離れて。私、怒るわよ」

「怒れば、こいつは人間のように呆気なく死ぬことになるぞ?」

 ぐいと刃が首に食い込んで、赤い滴が垂れていったのがシフォンにも見えた。

「やめて!」

「おかしな真似をしたら、こいつの首が地面に落ちてしまうことになるぞ!」

 立ちつくす少女の足下に草の中に何かがぽんと投げられた。

「妹と離れたくはないだろう?それをつけてこっちに来るといい。そうすればおまえも一緒に連れてゆく」

 ダラスが投げた物は妹の手首にある物と同じ腕輪だった。

 沈黙があたりを支配していた。

 どこに連れてゆくのかとは訊かなかった。どこにしても二人は望まない場所だったろう。

 広い晴れた空の元、草や木の葉の揺れる音が普段と変わらずに優しかった。

 少女は妹と足下に交互に目を向けていたが悲しい決断してしまったのだ。

 姉は−−−それを拾おうとした。

「駄目だ!!やめてくれ、頼むからっ」

 それはどちらに向けての言葉か自分でもわからなかった。

 焦れば焦るほど思うように動かない脚がもどかしい。

 ようやく立ち上がったシフォンは

「いいなりにならなくても−−−そんな男、あんたらの力で倒せるんだろう!」

 彼の一族には人間にない恐ろしい能力があった。

 触れることなく、物を壊して人も殺すことができるはずだ。

「無理なの。あの石と私たち相性が悪いから、石があるとなにもできないの。動けないし、飛べないし、なんにもできないの。息をするだけで苦しくなるの−−−可哀想なクルセアイ。ごめん、一人辛いね」

 嗚咽を堪えていた妹は、ねいさんと悲痛に零すと、もう我慢できなくなってしまったように声を上げて泣き出していた。

 シフォンの前で、二人はただの少女だった。

 非道な者の前で涙を呑むしかない幼い少女たち。

「やめてくれよ・・・頼むから・・・」

 シフォンの声は少女たちにもダラスにも届かなかった。

「そうだ−−−そのままゆっくりとこちらに歩いてこい」

 片手で妹の肩をがっちりと捕縛したまま、刃物を握ったままの手が姉に差し出された。

 腕に自ら枷を巻いた姉は静かに男に歩み寄る。

 妹の元に。

 目の前に立った姉を妹は両腕を伸ばして抱きついていた。

「ねえさん、ねえさん・・・こわいようぅっ」

「だいじょうぶよ。お父様お母様が気づいて直ぐ駆けつけてくださるわ。だから平気よ」

 妹の震える体を抱きしめて優しく慰める言葉のなんて、悲しいことだろう。

 シフォンは夢中だった。

 助けなくてはならないという一心だった。

 彼女たちのおかげで自分は命拾いをし、彼女たちは自分のせいで危険に晒されようとしている!!

 ダラスに飛びかかっていた。

「逃げてくれ、早く、押さえているうちに君たちは遠くにっ!」

「愚か者めが!」

 腕力は比べ物にならなかった。しがみついてなんとか奪い取ろうとしていた刃物は、振り払われてよろめいたシフォンの脇腹に突き立てられた。

「・・・ああ・・?」

「シフォン、動いちゃ駄目よ!!」

「血がいっぱい出てる。シフォンが死んじゃう!!」

 少女たちの叫び声に、大丈夫だからと呟いたシフォンはまだ諦めてはいなかった。もう一度ふらふらとダラスに寄って−−−。

 死んだって、守らなくてはならないものが人にはあるだろう。

 それがシフォンにとってこの少女たちだった。

「見苦しい男だ」

 流れ出した血に衣服の腹部や下肢をべっとりと染める男を撃退するのは、容易いことだった。足一本で十分だった。

 ダラスは長い職衣に包まれる足をあげるとシフォンの負傷している方の膝を目がけて踵を打ち込んでいた。強烈な蹴りを正面からまともに食らった膝は大きく凹んでしまった。

「シフォン!!」

 獣のような呻き声をあげてひっくり返ったシフォンに少女たちの合従が聞こえた。

 ダラスの足下に抱き合って蹲る二人は、シフォンのために涙を浮かべていた。

 それがシフォンの知る少女たちの最後の姿だった。






「その後、彼女たちがどうなったかわからない。ダラスは首都に神殿本部のすぐに移っていった。出世されたのだと村人たちは自分のことのように喜んでいたな・・・あの男は少女たちを土産にしたんだろう・・・」

 シフォンは長い思い出話をそう締めくくって、ぐったりと目を閉じた。

 年老いてやせ細った男の看病につく妻ハンナは、思いがけない夫の告白に顔色を失っていた。

 衰弱してベッドの上で夢うつつの日々を送る夫が見ている悪夢だと笑い飛ばしたかった。

 しかし同じ村で育ったハンナは、シフォンが若い頃に山で大怪我をしたことをはっきりと覚えている。そして、ある日突然村を去っていったダラス神官のことも覚えていた。

 ダラス神官が去る何日か前、シフォンが杖をつきながらダラス神官と村を出てゆき、もともとダラスが好きではなかったハンナは落ち着かず、後を追うように村を出て追いかけていた。

 馬車に追いつこうとしたわけではなく、ただ気になってたまらなかったのだ。

 そうしてぶらりと歩き続けた結果、ハンナは血臭を、血まみれで倒れるシフォンを林の中で見つけたのではなかったか。

「・・・でもどうしてダラスさまは−−−」

「神殿は魔術の探究と研鑽にたずさわる。魔術は、彼の一族が人間に与えた恵みだと・・・旅の学者から聞いたことがある。・・・彼女たちの協力があれば研究は、進むだろう・・・」

「・・・協力?」

 ハンナは骨と皮ばかりになった夫の腕を包む掌に力を込めた。

 ゆっくりと頭を横に振った。

「無断で子供を連れ去るなんて・・・それは子供を攫ったってことよ・・・?」

 そんなもの協力とはいえまい。

 研究のためだとて許されることでもあるまいと思った。

「泣かせて無理矢理連れ去って・・・協力?親御さんは・・・とても悲しんだわ・・・」

 しばらく呆然と目を見張っていた老婦人の目からはらはらと涙がこぼれ落ちていた。

 子供を奪われた母親は、かつてのハンナのように泣き崩れただろう。

 大怪我をして発見されたシフォンは幼なじみのハンナの献身的な看病のなかで幸いに一命を取り留めた。

 しかし、長い訓練をしても結局二度と走ることは出来ない重傷だった。

 怪我が癒えていってもシフォンはあまり笑顔を見せなくなった。時折見せる暗い横顔、でも自暴自棄にはならない強い男は、足を引きずりながら黙々と働く人生を送った。

 朝早くから畑に出て夜までみっちりと一人働く男の横でできる限りの手助けをしたいと思ったハンナは、体を不自由にした男との結婚を反対する両親を説き伏せて一緒になったのだ。

 ハンナが自分を誇れる英断だった。

 でも、長い人生で何度か後悔したことはあっただろう。

 その最たるものが、一人息子ポルソウを失ったときだった。

 村の仲間と渓流に釣りに遊びに行った日、息子はまだ18歳だった。

 森の中で出くわした魔族の女がいきなり大鎌を振り上げたのだと、村まで辿り着いた青年の最期に言葉にハンナは知らされたのだ。

 無惨に刻まれた息子の遺体を抱いて、ハンナは半狂乱になって呪いの言葉を吐き散らした。

 許せなかった。大事な子供を、魔族め、忌まわしい生き物め、死んでしまえ−−−。

 そのときハンナを、シフォンは静かにやめなさいと、諫めたのだ。

 一緒に憎い相手を呪ってくれもせず、大酒を飲むだけの男の背中は家族に対して愛が薄いのだとさらに深い絶望に落とされたハンナは、一度は離縁を決意したのだ。

「すまない・・・ポルソウが死んだのも私のせいなのだよ・・・私があの日おとなしく死んでさえいれば、もっと強い男であの時二人を守ってやれたなら・・・こんなことにはなっていなかったのだ。・・・すべては私のせいだったんだっ!!」

 がっと見開かれたシフォンの落ちくぼんだ目からも涙があふれ出して頬を伝い枕に吸い込まれていった。

「私は許されない罪を犯した−−−」

 少女たちに、息子に、そして世界に・・・。

 ハンナの少女時代、魔族はこれほど人間に対して攻撃的ではなかった。凄惨な残虐事件など聞いたことはなかった。

 でもある時期を境に、人間に対して暴力的な態度が向けられるようになった。

 村が襲われた。

 街が崩された。

 人が大勢殺された。

 狂気と言われる種族の蛮行にも、誰も知らないこんな理由があったのなら−−−。

「私は・・・ハンナ、どうか許してほしい、私を許してくれ、おまえからポルソウを奪ったのは、私なのだ!」

 よろよろと身体を起こし、額を敷布に擦りつけて詫びようとする夫を妻は胸に抱きとめていた。

「ああ、あなた・・・ずっと一人きりで苦しんできたのね・・・」

 結婚式でさえも、神殿に入りたくないと頑なに拒んだシフォンはただの偏屈ではなくて、無力な者に許されるささやかな抗議だったのだろう。

 結婚して50年近くが過ぎようとしていた。

 時折、魔族によって引き起こされる人々の悲惨な死の知らせが聞こえてくる。

 ぼんやりと、ハンナは考えていた。

 シフォンの前で連れ去られた少女たちはまだ戻らないのだろうか。

 まだ戻らずに必死になって仲間たちは捜しているのだろうか。

 一人息子失ったとき、ハンナは思った。

 わたしに力があったら。魔族に対抗できる強い力があったら。恨みをはらせる復讐を叶えてやれる力があったなら−−−ハンナはあの時、暗い衝動に支配された。

 違いがあるとしたら、人の時間は短く老いを迎える−−−そして、ハンナにはその力がなかったというだけだっただろう!




「ああ、あなた。もうあなたはなにも悪くないわ。償いの時は終わったの、わたしが知っているわ。・・・もういいの。一人苦しんでもうすべては許されたわ。・・・だから、少し休んで−−−」

 ハンナの言葉に安心して嬉しそうに、子供のような笑みを浮かべたシフォンはベッドに身体を戻すと、まもなく静かな寝息が聞こえだした。

 死を迎えようとしている夫にハンナに他の言葉は思いつかなかったのだ。




 穏やかな眠りを確認してハンナはそっと寝室を抜けた。居間は太陽の差し込む時間は過ぎていた。

 だから家の扉も抜けた。

 光が欲しかったのだ。

 世界は彼女がまだ少女だった頃からも変わらず巡り、再び穏やかな春を迎えようとしていた。

 家の前の道を近所の子供連れの若夫婦が通ってゆき、ハンナに気づいて会釈がされた。ハンナも丁寧に頭を下げた。

 今日も雲のない良い天気だった。

 しかし。

 その昔、シフォンが徐々に世界の色を失っていったように、ハンナからも眩い色合いが消え失せてしまっていた。

 希望を失った暗い灰色の世界がハンナの目前に広がっているのだ。




 慈しむべき子供たち、一族の宝を奪われた者たちの嘆きは深い。


 しかし、少女たちを失った痛みと悲しみが長い戦いの原因だと知るものは神殿の上層部だとてほとんどいないのだ。

 秘密裏に大都に運び込まれた少女たちは魔術という素晴らしい技を紐解く鍵だった。与えられただけの技ではなく、未知なる仕組みを理解して己たちのものにしたいだろう。

 研究が進むまで大切に、逃さないようにしなくてはならない。

 邪魔されないために、横取りされないために情報は隠さないといけない。

 成人した魔族をどうこうなど考えられなかった。危険すぎるのだ。

 その点、腕輪を嵌めた幼い彼女たちは、身体も小さく非力で、申し分なかった。

 その上、二人いるということは、双方で互いを封じることもできるのだ。

 暴れたら、もう一人を殺してしまうぞと。

 田舎の神官が持ち込んだのは、恐ろしいほどに甘美な少女たちだった。

 彼女たちは一部の人間にとって、守り切るためにはどれほど金を注ぎ込んだって、どれだけ犠牲が出たって少しも惜しくない品物だった。

 そのせいで世界がどうなろうが、探求心の前には気にもならない。良心さえ霧散するほどの貴重な貴重な秘宝だった−−−。









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