【一人目の住人】
返事が無いのを気にしたのかね。男はそれまで半身だけ出してたドアから出てきたよ。
全身が見えると、なおのこと奇妙な男さ。
でさ、パタリとドアを閉めるとふたりのほうへ歩いてった。革靴が床を叩く音を立てて。
カツカツコツコツ。手は後ろに組んで、カツカツコツコツ。ふたりのとこへやってきた。
するとさ、靴音には気付かなかったフィリアも、自分にかかる人影には気がついたよ。
さっと、また風切るみたいに前へ向かいなおした。
まるで小鳥みたいな動きさ。首を右に左にクルクル。
こんな状況でさえなかったら、多分こっけいに見える動きだろうけど、とても笑える空気でないのは、誰しも察するだろうね。
さて、影のほう。後ろを向いていた体を前へと戻すとさ、男が立ってるよ。
自分に大きな影を落として、自分よりもずっとでかい図体の男が、自分の頭のてっぺんからさ、背中をちょいと折り曲げて、黒いメガネで覗き込んでるんだ。
びびったろうね、フィリアは。
それこそここまでのことを考えればさ、何をされるのかと気が気じゃなかったはずさ。
だがね、フィリアはこれを幸運と思ってたなんて、聞いてもみんな、信用するかい?
そりゃあさ、恐ろしくてたまらなかったのはこれまた事実さ。
でも、それとこれとは話が別なんだよ。
フィリアは男が近づいたのが自分だったことを、ほんとに心底よかったと思ったんだよ。
なぜか? そいつは彼女が姉だったからとしか言えないね。
もしもさ、男が今、ついさっきまで扉のあった壁を見つめながらしりもちをついてるフィリオに近づいてたならどうなったろうと思う?
保障してもいいが、まず声も出せずに大泣きしだすのが目に見えてるよ。
その点、フィリアはまだ恐怖をこらえる力が残ってた。
ほんとに根っからお姉さんなんだよフィリアって子はね。
とはいえ、さすがのフィリアにもきつかったよ。
不気味な館。消えた扉。見知らぬ男。まるで怖い話でも始めるみたいな言葉ばかりだね。
だがそれが全部まったく現実に目の前にあるんだ。子供でなくても心が折れそうになる。
それでも気丈に、フィリアはあごを上げてさ、しっかと男の目を見返したよ。
まあ、正確には男の黒メガネを見つめたかたちなんだが、それは大したことじゃない。
この子の度胸を褒めてやろうってことさ。
ところがね。ここでようやっと、フィリアはこの館でのいくつかの心配事のうち、この男に対するものに限っては、単なる取り越し苦労だったことに気付かされるよ。
「どうやら気が動転して私の声が聞こえていなかったらしいね。では改めて自己紹介だ。私の名はアナトール。この館に住んでいる」
まずはそう言って、さらに言葉を続けたよ。
「いいかい? いろいろと心配も多いだろうが、少なくとも私や私以外にこの館にいる者は君らにひどいことをしようなんて考えたりやしないよ。むしろその逆さ。出来る範囲で君らを助けよう。それが私やその他の者たちの共通の考えだと断言するよ。なぜなら」
そして次の言葉で、フィリアは驚きと安心ていう、どうもしっくりこない組み合わせの感情を同時に抱くことなったよ。
「私も君らと同じく、この館に入った子供のひとりだったからね」
男の黒メガネを見つめてたフィリアが驚くと、しりもちついてたフィリオも振り返った。
都合のいいことは聞いてるもんさね。まったく、人間てのはほんとに面白いもんだよ。