【生じ始める亀裂】
カゾットに連れられて入った部屋は、つい数時間前に朝食をとったあの部屋だったよ。
もうかれこれ何時間って経ってるっていうのに、アナトールは相変わらず、椅子に座ったまんまで鹿爪らしい顔をテーブルに落としてた。
「アナトール。ちょいと話があるんだが、大丈夫かい?」
わざとらしく大きめの声で話しかけたカゾットに、アナトールはツバメみたいな勢いで頭を振り上げると、カゾットとその後ろについてきたふたりに素早く目を向けたね。
「なんだ……君たちか」
何を期待してたか、もしくは何を想定してたか、そこはアナトールにしか分からないが、少なくともカゾットやフィリオ、フィリアの登場以外を考えてたのは確かだろうね。
いつもの黒メガネ越しにでも、その感情の落差は十分伝わってきた。
まあ、想像はつくさ。
シャミッソーが戻ってくることでも期待したんだろう。
でも悪いがアナトール。それはさすがに虫がいいってもんだ。
この館に入ったが最後、幸運なんて望んじゃいけないよ。
そんなもの、望むだけ逆に自分を苦しめるだけさ。
一度はきちんと覚悟を決めたことだろう?
だったら、最後までしっかりおしよ。
そら、お客さんがお待ちかねだ。
「それにしても、今朝からずっとそのいかめしい顔は何事だい。何があった?」
「……シャミッソーが、今朝からもう、言葉すら理解できなくなったんだ……」
「……へえ」
さて、ここで異常事態発生だよ。何が起きたか?
大丈夫。そいつはフィリオとフィリアがいやってほど説明してくれる。
なにせもろにとばっちりを食ったからね。
ああ、そりゃもう気が気じゃなかったろうさ。
背中からすら伝わってくるんだよ。とてつもない機嫌の悪さがね。
カゾットの後ろで待機してたふたりにゃ、ちょっとした幻覚が見えたほどさ。
水色のはずのカゾットのコートが濃紺みたいに見えるほど影を纏ってく。
そんな幻覚だ。
「そいつは大ごとだ。ふむ、そりゃそんな顔にもなるだろうさ。だが面白いね。私はそんな話、今朝からこれっぱかりも聞いちゃいない気がするんだけど、これは何かな。私の記憶力がどうかしちまったのかね?」
ふざけた調子も、下らない嫌味も、まさにカゾットさ。
でも全然違うんだよ。
その底の部分に渦巻いてるもんがね。
聞こえ方こそ明るい口調のように思えたが、その違和感たるや半端じゃなかった。
表情も見えない。口調も明るい。
でも確実に伝わってくるんだよ。
カゾットのすさまじい怒りがね。
「いやいや、この子たちの気持ちがまったくよく分かるよ。ああ、ほんとさ。無理にでも聞かなきゃ、何も話そうとしやしない。いつもそうだ。アナトール、お前さんときたら、ほんとにいい性格してるよ」
「カゾット……違うんだ。別にシャミッソーのことを黙ってたわけじゃない。ただ、話すタイミングが今朝から無かっただけで……」
「無ければただ、だんまりか!!」
フィリオとフィリアにとっちゃ、こりゃ完全に考えの外だったろう。
まさか突然、カゾットが怒鳴り声上げるなんてさ。
しかもこうなっちまったら、ふたりには打つ手無しだ。
何と言っても話が見えない。
かろうじて、アナトールがカゾットにシャミッソーのことを話さなかったことが原因だろうことは分かったが、それ以外はさっぱりさ。
相変わらず、カゾットの逆鱗がどこにあるやら分からぬままだよ。
とてもうかつに口をはさめやしない。
「いつもこれだ、お決まりだよな! お前もシャミッソーも、必要なことは何ひとつ話しやしない! いいさ、お好きにどうぞだよ! 勝手に変わって、勝手に消えろ!! どうせみんな末路は一緒なんだ! 私だけ仲間外れにして、仲良くさっさと消えちまえ!!」
「……いい加減にしろカゾット、ふたりが怖がる。それに、(変化)については君だってとうの昔に覚悟していたはずだろう。今さらこれくらいのことで取り乱すんじゃない」
「私はこんな(変化)なんぞ、お前らから聞かされちゃいない!!」
そう叫んだ瞬間さ。
カゾットは引きちぎるみたいに目隠しを取り払った。
怒りに歪んだ顔が現れるもんだと誰もが思ったろうね。
でも実際はそうじゃなかった。
泣いてたよ。
銀色の瞳から真珠みたいな涙落として。
真っ白な頬を紅潮させて。
しばらく黙って泣いてたよ。




