日向の涙
「小林さん悪いんだけどお使いを頼まれてくれるかな」
冬の寒さが目の前に迫っていた頃、パソコンを前に仕事をしていると上司にお使いをたのまれた。特に急ぐ仕事も手元になかった日向は書類が入ったカバンを下げ地下鉄に揺られていた。
「——受付に渡すだけで大丈夫だから」
そう言われて来たものの、受付に人がいなかった。
「すみません」
奥に呼び掛けてみたが反応はなかった。
どうしよう。
受付の前で迷っていると「何かご用ですか?」と声をかけられた。振り向くとスーツをピシッと着こなした同じ年くらいの男性がいた。首から下げた社員証には《企画部・平岡 泰》と書いてある。
「あの、J企画ですが書類を届けに来ました。受付の方がいらっしゃらなかったので……」
「ああ、J企画さんの人?いつもお世話になってます」
「いえ、こちらこそ」
「その書類きっと俺宛てです。確認してもいいですか?」
男性は封筒を指差した。見ると確かに『企画部・平岡様』と書いてある。
「どうぞ」
日向が封筒を渡すと平岡は中身を確かめた。
「ありがとう助かりました。あっ失礼、こんなところで立ったまま」
「いえ、すぐに失礼しますから。では……」
「ありがとうございました」
日向は平岡に挨拶をしてその会社を後にした。
3日後、会社のエレベーターに乗っていると偶然平岡が途中から乗ってきた。
「あっこの間はありがとうございました。あの後急に会議が始まってあの資料がなかったら大変でした」
「そうですか。間に合って良かったですね」
「遅れました。O商事の平岡泰と言います」
そう言って名刺を渡された。
「すみません。あたし名刺なくて……」
「大丈夫ですよ、小林日向さん」
平岡は胸元に下がっている社員証を指差して微笑んだ。
その日の就業時間が終わり日向が会社を出ると平岡の姿があり、笑顔の彼は日向に向かって歩いてきた。
「こんな時間までこちらに?」
日向の問いかけに平岡は照れながら「いや、実はあなたを待ってました。このあともし時間が空いてればお食事でもいかがですか?」
今日は慎ちゃんはバイトって言ってたし、母さんも遅いから食事は外で済ませてきてって言ってたな。
「ええ、あたしでよければ」
日向は軽く考え笑顔で返事をすると平岡は嬉しそうに車に案内した。
食事の帰り平岡は家の前まで送ってくれた。平岡も車から降りると、門扉を開く日向の手を止めて抱きしめてきた。突然のことに日向は抵抗出来ないままでいると、すぐに平岡は体を離した。
「今日はとても楽しかったです。ありがとう」
平岡は車に乗り込み日向はそれを見送った。
玄関の方に向き直り門扉に手をかけると「日向」と声をかけられ足が止まった。
暗がりから慎太郎が姿を現し「さっきの誰だよ……」と怒った口調で駆け寄ると日向の肩を掴んだ。
「誰だよ日向!」
「会社の…取引先の会社の人。あの人とは何の関係もないよ。ただ食事をしただけ」
「何でもない人が抱きしめんのかよ?どうなんだ!おいっ!」
目の前で見た自分の恋人が男にしかも自分よりも大人な男に抱きしめられる光景に、年下である自分をバカにされたようで慎太郎は怒りを露わにした。
「慎ちゃん……。あたしだってあんなこと予測してなかった!分からなかったよ!」
慎太郎の口調に日向の言葉も厳しくなる。
「じゃあなんで抵抗しなかった。俺は年下だからそんなに頼りにならない?ガキだから?車もってないから?」
「そんなこと思ってない!」
「いや、絶対にそう思ってる。俺はそう思った……やっぱり年が近い方がいいんだろ?」
そこまで一気に怒鳴りながらまくし立てた。
こんなケンカは初めてだし、こんなに怒った慎太郎も見たことない。日向も後に引けずに言い返した。
「慎ちゃんには分からない会社の付き合いってもんがあるの!」
ハッとして口を閉じたがもう遅かった。
その言葉に慎太郎は日向の肩から手を下ろして今度は悲しそうな顔をした。
「子供の俺には分からないってことか……」
慎太郎はそのまま背を向け「日向が分からない。少し時間くれ」と言った後、一度も振り返らずに暗闇に消えていった。
「寺本くん、別れたんだって?」
その声は教室内に響き渡るほど大きかった。
「別れてはいない。ただちょっと……今は」
「じゃあ、あたし次の彼女候補にしてよ。ねえ…」
どこで情報を掴んできたのか、あの日から2日と経たないうちに小百合がまとわりついてきた。返事がない事を勝手によい方に解釈した小百合は、慎太郎の腕を抱きしめた。
「慎太郎〜!」
遠くから大声で名前を呼び大げさに手を振りながら小百合は走ってきた。
その様子を見た同級生は顔を合わせてコソコソ話した。
「何?あいつら付き合ってんの?」
「そうみたいだぜ。あの子ずっと前から慎太郎の事ねらってたもんな。なんか彼女と距離おいてたらしいんだけど、その隙にすぐに纏わりつき始めてたぞ。女って怖いよな。昨日まで他人のものだったものを次の日には自分のモノにするんだからな」
そんな話さえ小百合の耳には心地いい。
慎太郎はあたしのものよ!誰にも渡さない。
そんなオーラを出しながら慎太郎に目を付けていた他の子や、興味津々に見ている人に敵意丸出しの視線を投げつけ堂々と慎太郎と腕を組み校内を闊歩する。
「ねえ慎太郎?慎ちゃんって呼んでもいい?」
「ああ」
「ふふっ慎ちゃん」
小百合は慎太郎に抱きつきキスをしてきた。慎太郎もそれに答え小百合の唇を塞いだ。
「慎ちゃん……好きよ」
耳元で小百合が囁く。
日向と距離を置いて4日が経った。常に慎太郎にくっついている小百合の姿は校内では有名になりつつあった。
「慎ちゃん」
「ん?」
「うちにくる?あたしひとり暮らしなの……」
小百合は目を少し潤ませ慎太郎を見つめて意味ありげに誘った。
小百合は部屋に着くと待ちきれなかったように抱きつき唇を合わせた。
「慎ちゃん、あたし慎ちゃんが大好き。ずっと好きだったの。来て……」
小百合は恥じらいを見せながら慎太郎の手を引きベッドへ近づいた。そして何も言わずに服を足下へ落とし下着姿で慎太郎に近づいた。
「慎ちゃん……抱いて」
慎太郎はシャツを脱ぎ捨て小百合と共にベッドへもつれ込んだ。
二人がぎこちない関係になって一週間がたった。
その日の午後三時過ぎ、会社の買い物から帰ってきた日向は少し寄り道をして温かい飲み物を飲みにきていた。店内には寒さをしのぎに来た客で大体の席は埋まっており、賑やかなおしゃべりが溢れていた。
そういえば慎ちゃんの学校はこの近くだったっけ?
そう思っているとき「——慎ちゃん……」耳に偶然その名前が飛び込んできた。
慎ちゃんなんて人いっぱいいるし……
そう気にしてはいなかったが、次の言葉が日向を凍り付かせた。
「小百合、寺本くんとうまくいってるんだ」
「うん。もう毎日楽しくて」「あら、ごちそうさま」
「ねえ…——」
「えーっ!」
「ちょっと声が大きいっ」
周りに聞いてほしいかのようにわざとらしい言い方だ。
「で、どうだったの?」
「思ってたとおりすごい優しかった。すごい引き締まってるの、慎ちゃんの身体。慎ちゃんったら毎日求めてくるのよ」
他に人がいる事もお構いなく、むしろみんなに聞いて欲しいかのように話す小百合達。
「もーやだー小百合、手が早いんだから」
「ごちそうさま」
慎ちゃん?本当に慎ちゃん?
慎ちゃん……あたし信じてたのに。慎ちゃんに謝って仲直りしようと思ってたのに……
テーブルにの上のココアが涙でにじんで見え、少し効き過ぎている暖房にも関わらず寒気で指先が冷たくなっていく感じがした。
日向はすぐ近くの席にいる小百合達に気が付かれないようにそっと店を後にした。
帰る日向のその姿を、小百合は偶然目にして少し驚いたが、勝利宣言をするかのように不適に微笑んだ。
その日また平岡から食事の誘いを受けた。日向はなんの躊躇もなくその誘いを受け、待ち合わせのレストランへ足を運んだ。
気が沈んでいる日向を見て平岡はその理由を聞いてきた。
「いいたく無ければ言わなくてもいいよ。ただ、喋っちゃえば少しは気が晴れるんじゃないかなって」
そう言われた日向は、慎太郎の事や昼間偶然聞いてしまったあの話を涙を流しながら平岡に話していた。
「おれだったら日向さんを泣かせたりなんかしない。ねえ日向さん。結婚を前提に正式に交際を申し込んでいいかな?」
真剣な顔で言われた日向は言葉が出ずに黙っていた。
「最近慎太郎くんとはどうなの?ちっとも来ないじゃない」
「さあ、どうなってるんだろうね」
「ケンカしてるの?あんなに仲良かったのに」
「知らないよ……」
あの日から8日がすぎたが、お互いに連絡はしなかった。母親に聞かれて「このまま自然消滅かな」と日向は何気なく答えた。そんな日向を母親は心配そうにみつめていた。
その日も平岡と楽しい食事をしていた。少しのワインでアルコールに弱い日向の顔はほんのり色づいていた。
「日向さん」
顔をあげると平岡が真剣な眼差しで見つめてきた。
「こんな事言ったら嫌われるかもしれない。だけど日向さんがあまりにもかわいらしくて……」
重ねた手の中に薄いホテルのカードキーがあった。
「上に部屋をとってあるんだ。結婚前にはダメだっ……て思ったんだけど無理みたいだ。日向さんがいやじゃなかったらこの後も一緒にいてくれる?」
部屋をとってあるという事は、勿論そういうことだろう。もう社会に出てだいぶたつので、その辺のことはわかっている。しかもお互い大人同士だ。学生の慎太郎にはできない平岡のスマートさに日向の気持ちは揺らいでいた。
偶然聞いてしまった小百合達のあの話が頭の中を駆け巡る。
『慎ちゃん優しくて引き締まってるのよ』
目をつむり小百合の声を頭の中から追い出そうとした。しかし頭の中に浮かんできたのは、ベッドで抱き合う笑顔の慎太郎と小百合だった。
日向は目を開けると、自分の手に重ねてある平岡の手にもう片方の手を重ねた。微笑む日向を見て泰も笑顔を返した。
静かに上昇するエレベーターの中で、日向は握られた手に汗をかいていた。
ポーンと音がし静かにドアが開くと、平岡に手を引かれてその後ろをついて歩いていった。足音は敷き詰められた絨毯に吸収され聞こえない。
部屋に着き平岡が手早くカードキーでドアを開けると、日向を部屋の中へと促した。正面の窓からは階下に広がる夜景が綺麗にみえた。
部屋の真ん中でその夜景を見ていた日向は、後ろから平岡にふわっと抱きつかれた。
「夜景、綺麗だね……」
「……うん」
心臓は早鐘のようにうっている。
「日向さん」
息がかかる耳元で名前を呼ばれぞくっとし顔が赤くなる。肩を掴かまれたまま、平岡が日向の正面へくるとそのまま彼の胸元に吸い寄せられ優しく抱きしめられた。その胸元に顔をつけ小さく深呼吸すると、広い胸元からはタバコの匂いがした。
慎ちゃんじゃないんだ……
タバコを吸わない慎太郎からこの匂いはしない。
こんな時にまでなって慎太郎の事を考えてる自分が悲しくなってきた。
「日向さん」
「平岡さ……」
平岡は日向の唇に手を当て「泰でいいよ」と言った。すると素早く日向の唇に軽く触れた。
「あっ」
にっこりと笑う泰に日向は照れて顔を赤面させた。
手のひらで頬を包まれ泰の顔が近づく。今度はさっきよりもより深い口づけだった。
シワにならないようにジャケットだけをハンガーにかけベッドルームへ。日向は泰に抱きかかえられベッドへゆっくりと下ろされた。
慎ちゃんごめんね
バイバイ……
泰の体がゆっくりと日向に重なる。日向は目を閉じて泰の重さを受け止めた————。
『慎ちゃんに会いたい』
日向は何時間も前にうったメールを思い切って送信した。
返事がなかったらあの子と一緒にいるのかな。そしたら踏ん切りつくのに……
しかし日向の予想に反してあっという間に返事が返ってきた。
『どこにいる?』
『家』
『いまから行く』
短いやりとりをすると、携帯を握りしめコートを羽織り外にでた。
外は雪が降りそうなくらい寒かった。ガードレールに寄りかかっていると、道の向こうから白い息をはき自転車に乗った慎太郎がやってきた。
慎太郎は自転車を倒しながら降りると日向を抱きしめた。
「日向……会いたかった」
「あたしも会いたかったよ……慎ちゃん、寂しかったよ」
慎ちゃんの頬は氷みたいに冷たかった。
離れていたのはたったの10日足らずだったが、二人には数ヶ月離れていたかのような長い時間だった。そしてこの10日の間に2人にはいろんな事があった。その全てをお互いに話した。
「あたしね、この間慎ちゃんが見たって人に『結婚を前提にお付き合いを』って言われてた。それで————」
「————平岡さ……ん」
日向は目を開け、はだけたYシャツの胸元に手を触れた。
「日向さん?」
「……ごめんなさい、やっぱり無理です。ごめんなさい」
泰は日向の上から降りると「日向さんに彼氏がいるのは知ってたよ」とため息混じりでいった。
「それを承知で誘った俺も悪いけど。彼が気になる?気が咎める?」
日向は申し訳ない気持ちでうつむいて頷いた。
「ごめんなさい……」
「仕方ないね……俺もちゃんとした返事をもらわないまま行動を起こしたし」
泰は大きな窓へ近づき、窓越しに外の夜景を見ながらタバコに火をつけて一息吐くと日向に笑顔を向けた。
「帰っていいよ。俺はこのままここに泊まるから。無理させてごめんね、小林さん」
日向はハンガーからジャケットを取りコートとカバンを腕にかけ、笑顔で頭を下げると無言で部屋を出て行った————
「慎ちゃんごめんね。あたし慎ちゃん以外の人と……」
日向の言葉を遮り、うつむいたままの慎太郎は自分のした最低な事を日向に告白した。
「日向はやっぱり大人だな。俺、友達とヤった……」
——あの日の次の日も、その次の日も慎太郎は小百合を抱いた。
「慎ちゃんのキスって優しいね。大好きだよ慎ちゃん」
小百合は慎太郎に抱きつきその胸に頬をスリ寄せて囁いた。
そう言われた瞬間慎太郎の頭に日向の顔が突然浮かんだ。
『慎ちゃんのキスって優しいね』
『日向が教えたんだろ?』
同じ事を日向にも言われそんな会話をした。
日向……
日向、日向!
俺なにしてんだ!
一気に頭が覚めた慎太郎はその次の日、小百合にこの事は間違いだったと謝った。
そして小百合は思いっきり慎太郎をひっぱたいた——。
一旦言葉を切った。ショックで涙を流しているであろう日向の顔は見れなかった。
「ごめん。俺日向だけだって言ったくせに!ヤる前も後も日向に悪いって気持ち全然なかった。ただ欲求だけ満たしてた。最低だな俺。子供だガキだ」
すると日向の腰に回していた手をスッと離した。
「そいつとはもうすっぱり切れた。ごめんな、他の女抱いた手で触られるなんて嫌だろ……」
慎太郎は日向から離れ「クソッ、俺最低だ」と自分の軽はずみな行動がどれだけ日向を傷つけ自らも傷つけた事に腹を立てた。やり場のない怒りが慎太郎の涙になって頬を濡らしていった。
「やだ……」
日向は自分から離れた慎太郎の手を掴んだ。
「やだ、離しちゃやだ」
ガードレールに座り泣いている慎太郎の頭を胸に抱きしめた。
「慎ちゃん、泣かないで泣かないで」
涙を流し鼻をすする慎太郎を日向は力いっぱい抱きしめた。
「あたし慎ちゃんが他の子と……って知ってた。学校の近くの店にいたら偶然その子がいて聞いちゃったの。あたし慎ちゃんに裏切られた感じがして……だからあの人に誘われた時、慎ちゃんがそういう事やったならあたしもって思ったの」
涙をこらえようと冷たい空気を吸い込み吐き出すと、その白い息は日向の悲しみと共にスッと消えていった。
「でも出来なかった。慎ちゃんあたし……慎ちゃんしかいらない」
「日向ごめんな、ごめん……ごめん」
頭を抱え込まれたまま、日向の背中に手を回して何度も謝った。
長く外にいたため、日向は寒気にゾクッとし身震いをした。
「寒い?おいで」
慎太郎は自分のコートの前を開きその中に日向を包み込んだ。
「あったかい……大好きな慎ちゃんの匂いがして気持ちいい」
コートの中で背中に手を回すと日向は力いっぱい抱きしめた。慎太郎ももう二度と離れないように日向を抱きしめながら、思っている事を口に出した。
「日向。今は言えないけど必ずあと1年で大学卒業するから待ってて」
「うん待ってる。でも絶対にあと1年だからね。それ以上は待てないよ……あたしすぐにおばさんになっちゃうから」




