13歳の私は絶望したので、死にました。あなたたちが不幸になることを望みます。
13歳の私は絶望したので、死にました。あなたたちが不幸になることを望みます
私には大好きな姉がいる。
姉は王太子の婚約者。
美しくて、優しくて、頭が良くて、本当に素敵な姉。女性としても憧れている。
私には大好きな婚約者がいる。
政略結婚で、姉が王太子の婚約者になったため、私が相手に選ばれた。それでも良かった。初恋だった。
形ばかりだとしても、婚約者として扱ってくれた。優しくしてくれた。
ある日、王太子から家族全員が呼び出された。私の婚約者の家族も交えて。
王太子は、姉との婚約の解消を申し出た。
婚約者の入れ換えを申し出た。
王太子は急遽、外交上の理由で、これから五年ほど留学しなければならなくなったそうだ。
侯爵家同士の政略結婚は、王家が王太子の後ろ盾の強化を望んで果たされたこと。
結婚適齢期となった十八歳の姉を五年待たせるのは、忍びない。年齢的事情で、婚約者の入れ換えをすることになったらしい。
姉はこれまで王太子妃として学んで来た。それを無にすることになる。
なにより、私も大好きな婚約者と結婚できなくなってしまう。
冗談じゃない。と、思った。
けれども、その提案は、姉と婚約者を含めた両家によって快諾された。
不満を抱いたのは、私だけ。
そして、真実が明かされた。
どうして私を巻き込んだ!
1)大好きな人たち
アルシオン王国の初夏は、ローゼンベルク侯爵邸の薔薇園から始まる。
白い薔薇がいっせいにほころぶ朝、私は二階の窓から身を乗り出して、姉の姿を探すのが日課だった。
「セシル、落ちますよ」
下から聞こえる声だけで、すぐに見つけられる。
月明かりを溶かしたような淡い金髪に、菫色の瞳。薔薇を一輪手折るだけの仕草さえ、絵画の一場面になってしまう人。
それが、私の姉、ユリアーナ・フォン・ローゼンベルクだった。
十八歳。侯爵家の長女にして、王太子レオンハルト殿下の婚約者。
美しいだけではない。
姉は、朝いちばんに厨房の料理人へ労いの言葉をかけ、領地から届く陳情書を父より先に読み込み、出来の悪い妹の刺繍を「ここの色の選び方が好きよ」と褒めてくれる人だった。
私が失敗しても、決して笑わない。分からないことを尋ねれば、どれほど忙しくても、きちんと教えてくれる。
姉の隣に立つたびに、私は思った。
いつか、こんな女性になりたい。
「お姉さまは、どうしてそんなに何でもできるの?」
ある日、そう尋ねると、姉は少し困ったように笑った。
「できないことだって、たくさんあるわ。ただ、できるまでやめないだけ」
そう言って、姉は私の栗色の髪に、手折ったばかりの白薔薇を挿してくれた。
「セシルは可愛いから、白がよく似合う」
十三歳の私にとって、それは世界のすべてだった。
大好きな姉が、自分を可愛いと言ってくれる。
それだけで、その日は一日中幸せでいられた。
もう一人、私の世界の中心に近い場所にいた人がいる。
アルベルト・フォン・ヴァルトシュタイン。
ヴァルトシュタイン侯爵家の嫡男で、姉と同じ十八歳。濃紺の髪に琥珀色の瞳を持つ、口数の少ない人だった。
姉と、王太子殿下と、アルベルト様。
三人は幼い頃から同じ庭で育った幼馴染みだった。アルベルト様は殿下の側近候補でもあり、いずれ殿下の右腕になる人だと言われていた。
五つも年の離れた私は、その輪の外から、眩しいものを眺めるように三人を見ていた。
姉が王太子殿下の婚約者に決まったとき、私は嬉しかった。
お姉さまなら、きっと素晴らしい王太子妃になれる。
そして、空いてしまった「ローゼンベルク家の婚約者」という席に、次女の私が座らされた。
政略結婚。
幼い私にも、それくらいは分かっていた。
侯爵家同士の結びつきは、王家が王太子殿下の後ろ盾を強化するためのものだった。姉が王太子妃になる以上、側近候補であるアルベルト様のヴァルトシュタイン家とも、縁を結んでおく必要があったらしい。
だから、私が選ばれた。
それでよかった。
だって、初めての顔合わせの日、緊張で固まる私に、アルベルト様は黙って椅子を引いてくれたのだ。
「……足元に気をつけて」
たったそれだけの言葉で、私は恋に落ちた。
それからの私は、我ながら分かりやすかったと思う。
アルベルト様が来訪すると聞けば、いつもより念入りに髪を整えた。何を着ればいいのか、侍女のアンナに何度も相談した。
彼から贈り物が届くと、箱を開ける前から胸が躍った。
添えられているのは、いつも短い手書きのカードだった。
『庭の林檎が色づきました。お好きだと聞いたので』
『新しい本です。難しければ、読み聞かせます』
私はそのカードを一枚残らず、鍵のかかる引き出しにしまっていた。
夜、眠れないときに一枚ずつ読み返すのが、私の秘密の楽しみだった。
もちろん、彼が私を愛しているなどと思い上がっていたわけではない。
政略結婚なのだから、恋愛感情がなくても仕方がない。私を特別に好きでなくても、婚約者として扱ってくれる。それだけで十分だった。
少なくとも、あの頃の私は、本気でそう思っていた。
大好きな姉と、初恋の人。
二人が並んで、私を妹として、婚約者として、大切にしてくれる。
いつかアルベルト様のお屋敷に嫁いで、時々はお姉さまに会いに行く。お茶を飲みながら、たわいもない話をする。
そんな未来を、当たり前のように夢見ていた。
それで十分すぎるほど幸せだと、私は本気で思っていたのだ。
あの日までは。
2)白鷺の間
その日は、朝から細い雨が降っていた。
王宮からの急な呼び出しだった。
侍女のアンナが、私の髪を結いながら首をかしげる。
「お嬢様まで、とは珍しいですね。ヴァルトシュタイン侯爵家のご一家も招かれているそうですよ」
「アルベルト様も?」
「ええ。きっと、おめでたいお話です」
そうだといい、と思った。
鏡の中の私は、いつもより少しだけ背筋を伸ばしていた。
白鷺の間は、王宮の奥にある小さな応接室だった。
窓の外では雨に濡れた庭の芝が鈍く光り、壁際の暖炉には、季節外れの小さな火が入っている。
父と母、姉、私。
向かいの長椅子にはヴァルトシュタイン侯爵夫妻と、その隣にアルベルト様が座っていた。
目が合うと、彼はほんの一瞬だけ視線を逸らした。
――どうして?
小さな違和感が、胸の隅に引っかかった。
やがて、王太子殿下が入室した。
銀に近い金髪を揺らし、淡い翠の瞳で部屋を見渡す。穏やかな笑みを絶やさない、誰にでも優しい方。
そのはずだった。
「急な呼び出しを詫びよう。実は、外交上の都合で、私は近く隣国へ留学することになった。期間は、五年ほどになる」
ざわめきが起きた。
殿下は片手でそれを制し、姉へ向き直った。
「ユリアーナ。君を五年も待たせるわけにはいかない。十八歳の君が二十三歳になれば、婚期を逸してしまう。……だから、婚約を解消させてほしい」
空気が、凍った。
私は、自分の耳を疑った。
姉は、この日のために何年も学んできたのだ。
礼法、外交、歴史、近隣諸国の言葉。眠い目をこすりながら夜更けまで本に向かう姉の背中を、私は何度も見てきた。
王太子妃になるために積み重ねてきた努力を、なかったことにするというのか。
なにより、大好きな婚約者と結婚できなくなってしまう。
「そんな……」
声を上げかけた私の肩に、母の手が置かれた。
やんわりと、けれど有無を言わせない力で。
「代わりに、と言っては失礼だが」
殿下の視線が、ゆっくりと私に移った。
「セシリア嬢。君に、私の婚約者になってもらえないだろうか。そして、ユリアーナ嬢には、君の婚約者だったヴァルトシュタイン家のアルベルトを」
頭の中が、真っ白になった。
婚約者の、入れ替え。
私の初恋が、姉の許嫁だった王太子殿下と、まるで駒のように交換される。
「そんなの、困ります……!」
ようやく絞り出した声は、思っていたよりも小さかった。
「お姉さまは、王太子妃になるために、ずっと頑張ってきたのです。それに、アルベルト様は……」
言葉が続かなかった。
アルベルト様が、私のほうを見ていたからだ。
何かを言ってくれるのではないか。
そう思った。
けれど、彼は何も言わなかった。
「セシリア」
母が、諭すような声で私を呼んだ。
「王家のご提案です。悪い話ではありませんよ」
悪い話ではない。
父も同じ顔で頷いた。
ヴァルトシュタイン侯爵も、夫人も。
大人たちは、示し合わせたように穏やかだった。
確かに、悪い話ではない。
もとより、王太子との婚約も、ヴァルトシュタイン侯爵家との婚約も、政略的事情によるもの。
姉が王太子の婚約者に選ばれたのは、同い年だったから。理由はそれだけ。ローゼンベルク侯爵の娘なら、どちらでも良かったのだ。
それはヴァルトシュタイン侯爵家との婚約にも当てはまる。
だから、ローゼンベルク侯爵家にとっても、ヴァルトシュタイン侯爵とっても、予定通り縁が結べるなら問題ないのだ。
特にローゼンベルク侯爵家。父や母にとって、この提案は悪いものではない。
十八歳の婚期に入った姉より、十三歳の私が婚約者となって王太子の帰国を待つ方が、色々と都合がいい。
筋は通っている。
そのくらいのことなら、私にも理解できる。でも、納得はできなかった。
私は助けを求めて姉を見た。
そして、息を呑んだ。
姉は、微笑んでいた。
驚きも、怒りも、戸惑いもない。
ただ静かに、申し訳なさそうに目を伏せて微笑んでいた。
隣のアルベルト様も、まるで最初から知っていたかのように、深く頭を下げていた。
「謹んで、お受けいたします」
姉の声が、雨音の向こうで響いた。
「私も、異存はございません」
アルベルト様まで、そう答えた。
私は、二人を見つめた。
何も言えなかった。
姉は、私の大好きな姉だった。
アルベルト様は、私の大好きな婚約者だった。
二人とも、私に優しかった。
だからこそ、分からなかった。
どうして、そんなに簡単に。
どうして、私には何も聞かずに。
反対したのは、この部屋の中で、私ひとりだけだった。
3)温室の真相
三日後、私はひとりで王宮の温室に呼ばれた。
ガラス越しの陽射しが、南国の鉢植えの葉を透かして、床に緑の影を落としている。
むっとするほど湿った空気の中、殿下は白いテーブルに紅茶を二つ並べて、私を待っていた。
「来てくれてありがとう、セシリア嬢。……先に言っておくけれど、君を傷つけたいわけではないんだ」
「では、何がお望みですか」
自分でも驚くほど、冷えた声が出た。
殿下は少し困ったように笑った。
「正直な子だね。では、こちらも正直に話そう。君には、知る権利があると思うから」
そして殿下は、本当に、すべてを話してくださった。
姉と、私の婚約者――アルベルト様が、ずっと昔から想い合っていたこと。
姉と王太子殿下の婚約、そして私とアルベルト様の婚約が決まるよりも前から、二人は互いを見ていたこと。
けれど、貴族、それも高位貴族の子女には、果たさなければならない役目がある。
だからこそ思いを封じ、姉は王太子妃になる道を選び、アルベルト様は、その妹である私の婚約者になる道を選んだこと。
「二人とも、実に真面目だった。立場を弁えて、決して越えてはならない線を守ってきた。……だから私は、報いてやりたかった」
殿下は、カップの縁を指でなぞった。
「学園に通った三年間も、私たち三人はいつも一緒だった。そこへ隣国から留学生の令嬢が来てね。世話役を、私たちが任されたんだ」
殿下の頬が、わずかに緩んだ。
「一目で、心を奪われたよ。彼女も、私を想ってくれた。四人で出かけることも多かった。傍からは友人同士の外出だが、実のところは、二組の逢瀬のようなものでね」
二組。
その言葉の意味を、私はすぐには飲み込めなかった。
「その頃からだ。婚約者を入れ替えられないかと、話し合い始めたのは」
「……お姉さまと、アルベルト様も?」
「ああ。二人も、私の事情を知っていた。互いの望みが叶うなら、協力しようという話になったんだ」
私は、膝の上で手を握りしめた。
「留学すれば、五年かけて彼女と結ばれる方法を探せるかもしれない。身分も国も違う。簡単にはいかないだろうがね」
「……だから、お姉さまとの婚約を解消するのですか」
「ああ。互いに、都合がよかった」
都合。
その言葉が、頭の中で何度も反響した。
姉とアルベルト様にとっては、好きな人と結ばれるために都合がいい。
殿下にとっては、好きな人を迎えるために都合がいい。
そして、私は。
「安心してほしい。王太子妃教育は、形ばかりのものでかまわない。無理に励む必要もない。いずれ解消する婚約だからね。その後は、君に相応しい婚約者を、私の責任で用意しよう」
私は、カップを持ち上げようとして、指が震えているのに気づいた。
「この入れ替えのことは」
声が掠れた。
「お姉さまと、アルベルト様は、最初からご存じだったのですか」
「もちろんだ。二人とも承諾している。好き合う二人を結ばせる私に、たとえ君との縁が絶たれても、生涯の忠誠を誓うと約束してくれた」
殿下は、とても良いことをしたような顔で微笑んだ。
私は、ゆっくりとカップを置いた。
笑い出しそうになるのを、唇の内側を噛んでこらえる。
そして、顔を上げた。
姉に教わった、一分の隙もない淑女の笑みで。
「理解しました」
殿下は、ほっとしたように肩の力を抜いた。
「そうか。聞き分けのいい子で助かるよ」
「失礼いたします」
椅子を引き、完璧な角度で礼をする。
温室の扉に手をかけたところで、私はふと足を止め、振り返った。
「五年後。王太子殿下に、放置され捨てられた令嬢」
「……え?」
「社交界での私に下される評価ですが、なにか?」
殿下の笑みが、そのまま固まった。
「私は、既に一度、婚約解消された身です。王太子殿下の婚約者になってしまったことで、五年後の婚約解消が二度目となります」
「セシリア嬢、それは……」
「私なら、新しい婚約者を用意すれば問題ない。そうお考えなのですよね」
殿下は答えなかった。
「私の将来を、私の知らないところで決めておきながら、私が何を失うのかは、考えてくださらなかったのですね」
返事は待たなかった。
言葉だけをそこに置き去りにして、私は温室を後にした。
長い廊下を歩きながら、私は静かに計算していた。
五年。
殿下が隣国へ行っている間、婚約者の私は、きっと放置される。プレゼントどころか手紙の一通も届かないだろう。
気持ちの全ては、留学先にいる恋人に向けられている。あの人の中に、私は存在していない。国に残した婚約者を気遣うといった、私側の外聞を取り繕ってくれるような配慮など、期待できない。
そして五年後。
殿下は、隣国から愛する人を連れて帰ってくる。
その人と結婚するのだと宣言して、私との縁を切る。
そのとき、私は十八歳。
殿下に五年間放置された末、婚約を解消された令嬢に、どんな縁談が来るというのだろう。
一度目の婚約解消は、姉に婚約者を譲ったから。
二度目は、王太子に捨てられたから。
理由など、社交界の人々には関係ない。
面白おかしく噂され、憐れまれ、値踏みされる。
私の未来は、私が何もしなくても、すでに決められていた。
大人たちは「十三歳だから、子供だから、別の男をあてがえば忘れる」と思っている。
けれど、私はもう十三歳だ。
人生の仕組みも、社交界の残酷さも、理解できてしまう程度には、大人になっていた。
私の未来を、勝手に都合のいい生贄にしないでほしい。
大好きな婚約者を取り上げられ。
姉の婚約者だった王太子に、都合よく利用され。
社交界での私の価値だけが、静かに、確実に、下がっていく。
私だけが、知らなかった。
初恋が、はじめから「繋ぎ」だったことも。
姉が彼を想い続けていたことも。
三人が私抜きで、私の未来を相談し、「うまくやる」と決めていたことも。
十三歳だから。
子供だから。
新しい婚約者をあてがえば、そのうち笑って忘れるだろう。
三人は、きっとそう思ったのだ。
悪気なく、軽く。
――ふざけるな。
生まれて初めて、私は心の中でその言葉を使った。
窓から差す光が、廊下の床に長い影を落としていた。
その影を踏みながら、私の中で、何かが静かに、決定的に、冷えて固まっていった。
4)最後の手紙
その夜、屋敷は静かだった。
夕食の席で、姉は私の様子を気づかうように、何度か声をかけてくれた。
「セシル、食が進まないのね。……ごめんなさい。突然のことで、驚いたでしょう」
「いいえ、お姉さま。大丈夫です」
私は、完璧に微笑んだ。
姉が教えてくれた、貴族の令嬢の笑顔で。
姉はほっとしたように頷いた。
その安堵の表情が、何よりも深く私の胸を刺した。
お姉さまは、私が納得したと思っている。
私が、姉の幸せを願っているから、我慢してくれると思っている。
そうなのかもしれない。
私は、姉が幸せになることを願っていた。
けれど、それは私の初恋を差し出してもいいという意味ではなかった。
自室に戻り、鍵のかかる引き出しを開けた。
アルベルト様のカードが、ぎっしりと詰まっている。
『庭の林檎が色づきました。お好きだと聞いたので』
……あの林檎の言葉も、お姉さまの好物だったのだろうか。
『新しい本です。難しければ、読み聞かせます』
あの本も、私だから贈ってくれたのではなかったのだろうか。
そんなことを考えてしまう自分が、嫌だった。
彼が私を好きではなかったとしても、贈り物を喜んだ気持ちまで嘘にしたくはなかった。
あの短い言葉に胸を躍らせた時間まで、なかったことにしたくはなかった。
けれど、もう、何を信じればいいのか分からない。
カードの束をそっと取り出した。
その奥には、彼に渡せないままになっていた小さな小箱があった。
彼が好む深い青の糸を使い、夜更けに幾度も指を刺しながら縫った、イニシャル入りのハンカチ。
『少し遅くなりましたが、お誕生日の贈り物です』
添えるはずだった、私の手書きのカード。
私はそれを、引き出しの最前列に、わざと目立つように置き直した。
カードの束をそっと元の場所に戻し、引き出しに鍵をかけた。
鍵は、机の真ん中に置いた。
机に向かった。
ペン先が、紙の上で小さく鳴る。
三人の秘め事を、一つ残らず書き記した。
誰が、いつから、何を知っていて、何を私に隠していたのか。
殿下の留学の本当の理由。
姉と婚約者の想い。
「忠誠」と引き換えに交わされた約束。
そして、私の知らないところで決められた、私の未来。
宛先は、思いつく限り。
両親。
ヴァルトシュタイン侯爵家。
国王陛下の侍従長。
王都の情報紙。
ゴシップを扱う新聞社。
同じ手紙を何通も、何通も書いた。
秘密を、秘密のままにできないように。
最後に、言葉を書き足した。
私から未来を奪った皆様へ
王家からのご提案。とても素晴らしい方法を思いついてくださり、本当にありがとうございます。
おかげさまで、相談できる大人もいません。
大好きだった、お姉さま。
大好きだった、婚約者様。
あなたたちが不幸になることを望みます。
王太子様、異国の恋人と、どうぞ不幸せに。
書き終えてから、しばらくその文字を見つめていた。
涙は出なかった。
悲しくないわけではない。
ただ、もう、泣くことにも疲れてしまったのだ。
インクが乾くのを待ち、手紙に封をした。
夜明け前、早朝の使いに託す。
何も知らない使用人は、いつものように礼儀正しく頭を下げて去っていった。
「お嬢様、こんなに早くからお出かけですか」
廊下で行き合ったアンナが、不思議そうに目を丸くした。
「少し、散歩を。……アンナ、いつもありがとう」
「まあ、急にどうなさったんです」
笑って首を振る彼女に、私は微笑み返して、それ以上は何も言わなかった。
侯爵家の端、使われなくなって久しい古い時計塔へ向かう。
螺旋階段は暗く、一段ごとに石が冷たい息をしていた。
最上階の窓から見える王都は、まだ眠っていた。
朝靄の底で、ぽつりぽつりと家々の灯りが滲んでいる。
思い浮かぶのは、庭を並んで歩いたあの人の、歩幅の合わせ方だった。
薔薇を挿してくれた姉の指先だった。
悲しいくらい、優しかったのに。
――もしも、ここまで追いかけてきて、一言でも引き止めてくれる誰かがいたなら。
そんな考えが、ちらりとよぎった。
けれど、階段の下には、誰の足音もなかった。
私は最後に、眠る王都を見渡した。
大好きだった人たちがいる場所。
私の生まれた場所。
私が、幸せになれると信じていた場所。
夜明けの鐘が、遠くで鳴った。
そうして、侯爵家次女セシリア・フォン・ローゼンベルクの物語は、十三歳で終わった。
5)翌日
――ここから先は、私が見ることのなかった話。
ローゼンベルク侯爵邸に悲鳴が響いたのは、その朝のことだった。
侍女のアンナは、膝から崩れ落ちた。
夜明け前に会った、あの穏やかな笑顔が、最後になるとは思っていなかったのだ。
「お嬢様……どうして、どうして……っ」
母は、娘の部屋の椅子に座り込んだまま、動けなくなった。
机の上には、書き損じの手紙と、引き出しの鍵が残されていた。その引き出しには、渡されることのなかった贈り物があった。
そして、その翌日。
王都の街角では、新聞売りの少年たちが声を張り上げていた。
「号外だ、号外! ローゼンベルク侯爵家のご令嬢が、王太子殿下と姉君、元婚約者の秘密をすべて書き残して――!」
手紙は、同じ文面のまま、一斉に届けられていた。
国王陛下の侍従長の手元へ。
ヴァルトシュタイン侯爵家へ。
ローゼンベルク侯爵家の書斎へ。
情報紙の編集部へ。
ゴシップ紙の記者の机へ。
国王陛下は、手紙を二度読んでから、長い間、何も言わなかった。
「……レオンハルトを、呼べ」
それが、国王が最初に発した言葉だった。
陛下も、両親も、ヴァルトシュタイン侯爵家も、三人の本当の事情を、誰も知らなかったのだ。
すべては、三人の間で決められ、三人の間で頷き合われていたことだった。
真相は、公式的には発表されなかった。
王家は、威信を守るため、発覚当初は王太子を庇おうとした。
しかし、少女の手回しによって、すでに複数の新聞社が同じ内容の手紙を受け取っていた。
一社を黙らせても、ほかの社がある。
一つの記事を否定しても、別の手紙がある。
何より、王太子本人が、婚約者に対して同じ内容を話していたのだ。
すべてをなかったことにするのは、もはや不可能だった。
噂は王都を駆け巡り、尾ひれをつけながら社交界を覆った。
――婚約解消を前提とした、新たな婚約。私的な恋のために留学を利用し、十三歳の少女を、駒のように扱った王太子。
――王太子妃の地位に目が眩み、妹の婚約者を想い続け、妹の初恋を犠牲にし、妹を王太子に差し出した姉。
――思い人を手に入れるために、婚約者の少女を「繋ぎ」として扱い、婚約者の少女を王太子に差し出した侯爵家嫡男。
舞踏会の控え室で。
茶会の片隅で。
馬車の窓越しの会釈の中で。
三人の名前は、もう決して好意的な響きでは囁かれなくなった。
王太子の留学は、取り止めとなった。
留学そのものには外交上の意義があったとしても、今回の計画の動機が明らかになった以上、予定どおりに送り出すことはできなかった。
しかも、王太子は個人的な恋愛のために、王家の婚姻政策を覆そうとしていた。
侯爵家同士の婚約は、王太子の後ろ盾を強化するためのものだった。それを、本人の都合で入れ替えようとしたのである。
王太子としての判断力を疑われるのは、当然だった。
姉との婚約は、解消されなかった。
解消できるはずがなかった。
この醜聞のあとに婚約まで解消すれば、王家は自らの不誠実さを認めるようなものだ。
そして、国王は決断した。
レオンハルトを、王太子の地位から退かせることを。
廃太子となったレオンハルトは、臣籍降下し、伯爵位と北の僻地グラウフェルトの領地を与えられた。
それは、王族としての責任を問われた末の処分であり、事実上、王位継承の道を閉ざすものだった。
結婚したユリアーナを伴い、元王太子は、ほどなくその領地へ旅立つことになった。
一方、アルベルトは、ヴァルトシュタイン家の後継者から外された。
父である侯爵は、息子が王太子に忠誠を尽くそうとしたこと自体を責めたのではない。
婚約者である少女の気持ちを確認することもなく、彼女の未来を勝手に決めたことを問題とした。
政略結婚の相手に対して、何を行ったのか。
その噂は、あらゆる家の門を閉ざしていた。
新たな嫁ぎ先を探して釣書を送っても、届くのは丁寧な断りの返事ばかりだった。
信用というものは、一度失えば、決して元には戻らない。
そして、もう一人。
レオンハルトが恋した隣国の留学生、フィオナの名も、いずれ世間の噂に上がることになる。
そのことを、彼女の両親は誰よりも早く悟っていた。
こうして、三人が望んだ未来は、誰一人として手にすることができなかった。
6)恋に浮かされた三年間
なぜ、こんなことになったのか。
遡れば、十五歳から十八歳までの、学園の三年間に行き着く。
王太子レオンハルト、侯爵令嬢ユリアーナ、侯爵家嫡男アルベルト。
幼い頃から互いを知り尽くしていた三人は、学園でも自然と同じ席に並んだ。
そこへ、隣国から一人の留学生が編入してくる。
名を、フィオナという。
栗色の巻き毛に、よく笑う灰緑の瞳の少女だった。
教師は、三人に頼んだ。
慣れない異国の学園です。どうか、面倒を見てやってください、と。
レオンハルトは、一目で恋に落ちた。
フィオナもまた、彼に惹かれていった。
四人で過ごす放課後が増え、街歩きや湖畔への遠出にまで広がっていく。
表向きは、ただの友人同士。
実質は、二組の逢瀬だった。
ユリアーナの隣には、いつもアルベルトがいた。
「もしも、あの人と添い遂げられたなら」
「もしも、立場を取り替えられたなら」
最初は、夢物語のつもりだった。
冗談の延長で口にした言葉が、いつしか「できるかもしれない」に、そして「そうしよう」に変わっていく。
もともと、王家と侯爵家の婚約は、王太子の後ろ盾を強化するためのものだった。
ユリアーナが王太子妃となることと、アルベルトが王太子の側近として支えること。その両方が、王家にとって望ましい形だった。
しかし、当事者たちは、そこに別の未来を見つけてしまった。
ユリアーナは、アルベルトと結婚したい。
アルベルトも、ユリアーナと結婚したい。
レオンハルトは、フィオナを妻に迎えたい。
ならば、婚約者を入れ替えればいい。
そうすれば、誰もが好きな人と結ばれる。
政略的にも、問題ない。
その考えの中で、三人は、セシリアの存在を都合よく処理した。
セシリアはまだ十三歳。
新しい婚約者を用意すれば、いつか今の恋を忘れるだろう。
王太子妃教育も、形だけでよいと説明すればいい。
五年後に婚約を解消したところで、その頃には十八歳だ。新たな縁談を整えれば、十分にやり直せる。
そう考えれば、誰も傷つかないように思えた。
少なくとも、三人の目にはそう映っていた。
レオンハルトは、自分が王太子であることを忘れたわけではなかった。
むしろ、自分の立場と権限があれば、問題を解決できると考えていた。
ユリアーナは、妹を愛していなかったわけではない。
ただ、セシリアなら自分の幸せを願ってくれるだろうと、勝手に信じていた。
アルベルトも、セシリアを露骨に冷遇していたわけではなかった。
婚約者として礼を尽くし、贈り物をし、彼女が喜ぶならと、短い手紙も書いた。
彼女が自分を慕っていることには気づいていた。
しかし、彼女の気持ちがどれほど真剣なものなのか、確かめようとはしなかった。
婚約はいずれ解消される。
彼女には別の相手が用意される。
まだ十三歳なのだから、いつか新しい恋をするだろう。
そう考えれば、自分が彼女の想いに応えられないことを、真剣に考えずに済んだ。
三人とも、自分たちの未来を決めることには熱心だった。
けれど、その未来の端に置かれた少女が、何を失うのかを考えることには、あまりにも無頓着だった。
恋は、人の目を曇らせる。
誰もが浮かれていた。
彼らの頭には、「好き合う者同士が結ばれる」という美しい筋書きしかなかった。
その筋書きの端に置かれた十三歳の少女が、笑って頷くはずだと、疑いもしなかったのだ。
7)叱られる三人
王宮、国王の執務室。
その空気は、真冬の井戸のように冷たかった。
「何を考えていた」
国王陛下の声は、怒鳴り声ではなかった。
それが、かえって恐ろしかった。
「お前は、王太子だ。侯爵家との婚約は、お前の後ろ盾を固めるために、王家が結んだものだ。それを、子供の恋で動かしたのか」
「……彼女たちも、納得して」
「十三歳の娘は、納得していなかった」
レオンハルトは、口を閉ざした。
「それを最後に、あの子は自分の命で示した。お前たちの計画の中に、あの娘の席は、一度でもあったのか」
何も言えなかった。
「留学の目的も、婚約の入れ替えも、すべて自分たちの都合だった。お前は、王太子として何を守るべきなのか、考えたことがあるのか」
レオンハルトは、唇を噛んだ。
好きな人と結ばれたい。
その願い自体が、罪だったわけではない。
だが、そのために王家の婚姻政策を覆し、何も知らない少女の将来を勝手に決めた。
自分がどれほど大きな権限を持っているのか。
その権限を振るうことで、誰の人生を変えてしまうのか。
彼は、一度も真剣に考えなかった。
そして国王は、最後に、こう問うた。
「お前が侯爵家次女の立場だったら、許せたか?」
レオンハルトは、答えられなかった。
隣で、王妃がハンカチを顔に押し当て、肩を震わせていた。
ローゼンベルク侯爵邸の書斎では、父のヴィルヘルムが、静かにペンを置いていた。
「ユリアーナ。お前は賢い子だと思っていた」
「……はい」
「その賢さを、よりによって、そんなことに使うな」
姉は何も言い返さなかった。
唇を青くして、膝の上で固く指を組んでいる。
「お前がアルベルトを想っていたとは、知らなかった。だが、たとえ知っていたとしても、セシリアの気持ちまで勝手に決めていいわけではない」
父は、深く息を吐いた。
「私も同罪だ。『王家のご提案』と言われて頷いた。あの場で、娘の顔を確かめもしなかった」
拳が、机の上で震えた。
「あの子は、私を見ていたのだぞ。私を見て、助けを求めていたのに……!」
あの日、セシリアが何かを言いかけたことを、父も覚えていた。
けれど、自分はその声に耳を傾けず、母の言葉に頷いてしまった。
王家の提案なのだから。
侯爵家にとって悪い話ではないのだから。
娘も、いずれ理解するだろうから。
そう考えて、何も尋ねなかった。
そして父は、最後に、こう問うた。
「お前が妹の立場だったら、許せたか?」
ユリアーナは、顔を上げることもできなかった。
妹が自分を慕ってくれていることを知っていた。
自分の幸せを願ってくれるだろうと、信じてもいた。
けれど、それは、妹の初恋を犠牲にしていいという意味ではなかった。
やがて、堪えきれない嗚咽が、細い肩から漏れた。
ヴァルトシュタイン侯爵邸では、侯爵が息子を前に低く言い放った。
「後継者の座は、剥奪する」
アルベルトは頭を下げたまま、動かなかった。
「殿下への忠義は、分かる。お前が、殿下の望みを叶えようとしたことも理解はできる」
侯爵は、そこで一度言葉を切った。
「だが、お前は、婚約者の少女に何と言って頭を下げたのだ」
「……何も」
「そうだ。何も、だ」
侯爵の声が、わずかに震えた。
「お前は、あの子に何も言わなかった。それが、すべてだ」
アルベルトは、拳を膝の上で握りしめた。
「お前があの子を愛していなかったとしても、婚約者として向き合う責任はあったはずだ。あの子の気持ちを確かめることもなく、将来を勝手に決めていい理由にはならん」
そしてヴァルトシュタイン侯爵は、最後に、こう問うた。
「お前が、あの子の立場だったら、許せたか?」
アルベルトの拳が、膝の上で小さく震えた。
許せるはずがない。
そのことを、誰よりも分かっているのは、彼自身だった。
三人とも、相手の気持ちを想像する機会はあった。
話し合うこともできた。
自分たちの都合だけで決める前に、立ち止まることもできた。
それなのに、しなかった。
悪意があったからではない。
自分たちの選択が、誰かを深く傷つけるとは、本気で考えていなかったからだ。
8)四人目の娘
騒動の渦中に、もう一人の少女がいた。
王太子が一目惚れした隣国の留学生、フィオナ。
彼女の名は、まだ世間の噂には上がっていなかった。
けれど、それが時間の問題であることを、彼女の両親は誰よりも早く悟っていた。
「このままでは、お前は『王太子を誑かし、その婚約者である十三歳の侯爵令嬢を死に追いやった女』と呼ばれることになる」
ミュラー伯爵が、重々しく言った。
死んだのは、十三歳の少女。しかも、隣国ではあるが、王太子の婚約者で、侯爵家の令嬢。
人々が注視するのは、事実の羅列。
隣国の出来事だからこそ、そこに含まれている事情は、汲まれたりしない。
「殿下は、もう王太子ではない。お前を守る盾は、どこにもないのだ」
「お父様、私は……私は何も知りませんでした! 殿下たちの計画も、あの方の婚約者のことも……っ」
「分かっている。お前も、浮かれていただけなのだろう」
伯爵は、娘の顔を見つめた。
「だが、世間はそうは見ない。王太子が恋をした相手というだけで、お前の名は広まる。死んでしまった令嬢と結びつけられれば、何を言っても信じてもらえなくなるだろう」
フィオナは、唇を震わせた。
彼女は、レオンハルトを愛していた。
彼が王太子であることを知っていたからこそ、簡単には結ばれないことも分かっていた。
それでも、いつか二人で未来を選べるかもしれない。
そう信じていた。
まさか、そのために別の少女の婚約が入れ替えられようとしていたとは、知らなかった。
「お父様、殿下は……」
「もう、どうにもできないのだ」
伯爵夫人が、娘の手を握った。
「あなたが悪いと決まったわけではないわ。でも、このままここにいれば、あなたまで傷つくことになる」
娘の価値が落ちきる前に。
噂が、国境を越えて届く前に。
両親は、迅速に動いた。
数週間後、フィオナは、行き先も告げられないまま船に乗せられた。
行き先は、海を越えた遠い他国。
一夫多妻の制度がある国の、第三側妃だった。
「せめて、殿下にお別れの手紙を」
「それは、できない」
伯爵夫人は、娘の手を握ったまま、泣いていた。
「ごめんなさい。あなたを守るためなの」
港を離れる船の甲板で、フィオナは遠ざかる陸地をずっと見つめていた。
たった一度、恋をしたこと。
たった一度、自分たちの世界に浮かれたこと。
その代償が、これほど大きいとは、誰も教えてくれなかった。
彼女は、セシリアのことをほとんど何も知らなかった。
その少女が何を考え、どれほど傷つき、何を願っていたのか。
知る機会すらなかった。
けれど、自分が愛した人の選択が、取り返しのつかない悲劇につながったことだけは、理解していた。
9)もしも、あの子が生きていたなら
もしも、セシリアがあの日、命を絶たずに生きていたなら。
五年後、留学から戻ったレオンハルトは、フィオナとの恋を諦めることなく、セシリアとの婚約を解消していただろう。
そのとき、世間は彼女をどう見るだろうか。
最初の婚約では、姉と婚約者に裏切られた令嬢。
次の婚約では、王太子に五年も放置された末、捨てられた令嬢。
十八歳になった彼女に、新たな縁談が舞い込むとは限らない。たとえ相手が見つかったとしても、これまでの経緯が彼女の評判に影を落とすことは避けられなかった。
約束通り王太子が婚約者を用意したとして、王太子の命令による結婚。評判の良くない令嬢。
嫁ぎ先での彼女の待遇は、良いものではなかっただろう。
「……あの子は、全部、分かっていたんだ」
レオンハルトは、温室でセシリアが口にした言葉を思い出した。
――五年後。王太子殿下に、放置され捨てられた令嬢。
あれは、幼い少女の癇癪などではなかった。自分たちが決めた未来の先に何が待っているのか、彼女には見えていたのだ。
レオンハルトは、彼女の婚約者を姉に替えた。自分との婚約を、いずれ解消するつもりでいた。そして、彼女が抗議しても、子供の言葉だと軽く受け流した。
ユリアーナもまた、妹の大切な人を自分のものにすることを受け入れた。妹がどんな思いでその場に立っていたのか、考えようとしなかった。
アルベルトは、婚約者であるセシリアの気持ちに気づきながら、何も告げなかった。彼女が傷つくと分かっていても、いずれ婚約は終わるのだからと、向き合うことを先延ばしにした。
三人とも、彼女に新しい婚約者を用意すれば、それで済むと思っていた。
けれど、婚約は相手を替えれば済むようなものではない。そこには本人の気持ちがあり、積み重ねてきた信頼があり、世間からどう見られるかという現実もある。
彼女の未来を決める場に、彼女自身の意思だけがなかった。
誰か一人でも、あの場で立ち止まっていれば。
誰か一人でも、セシリアの顔を見て、彼女の気持ちを尋ねていれば。
結末は違っていたかもしれない。
だが、三人の誰も立ち止まらなかった。
悪意があったからではない。自分たちの望みを優先するあまり、彼女の痛みを深く考えなかったからだ。
その結果、彼らは一人の少女から、未来を選ぶ機会さえ奪ってしまった。
10)謝る相手のいない場所
北の領地、グラウフェルト。
冬の庭には雪が積もり、窓の向こうには白い景色が広がっていた。
ユリアーナは、誰もいない部屋で一通の手紙を前にしていた。
便箋には、何度も同じ言葉が書かれている。
――ごめんなさい。
その先が続かない。
宛名を書くことも、手紙を届ける相手を思い浮かべることもできなかった。謝りたい妹は、もうどこにもいないのだから。
ふと、幼い日の記憶がよみがえる。
「お姉さまは、どうしてそんなに何でもできるの?」
そう尋ねたセシリアに、ユリアーナは笑って答えた。
『できないことだって、たくさんあるわ。ただ、できるまでやめないだけ』
あのときの自分は、本当に何でもできると思っていたのかもしれない。
けれど、いちばん大切なことはできなかった。
妹の苦しみに気づくことも、妹を守ることも。
ユリアーナは便箋を握りしめ、声を押し殺して泣いた。
同じ屋敷の別の部屋では、レオンハルトが一通の手紙を読み終えていた。
フィオナの父から届いたものだった。娘は遠い異国で結婚し、今後は連絡を取らないという。
レオンハルトは手紙を机に置いた。
彼女を迎えに行くために留学すると決めた。セシリアとの婚約を一時的なものと考え、五年後には解消するつもりだった。
その先に、フィオナとの未来があると信じていた。
だが、彼が望んだ未来に、フィオナ自身の意思や幸福がどれほど含まれていたのだろう。
彼女もまた、自分の恋に巻き込んだ一人だった。
レオンハルトは目を閉じた。
『君に相応しい婚約者を、私の責任で用意しよう』
あのとき、自分は、それを誠意だと信じていた。
今となっては、あの言葉を口にした自分を、どれほど恥じても足りなかった。
一方、ヴァルトシュタイン侯爵家では、アルベルトが小さな木箱を開いていた。
セシリアの母から返されたものだった。
中には、彼がセシリアに贈ったカードが、一枚残らず収められていた。そして、深い青色の糸で刺繍されたハンカチが一枚。
端には、アルベルトのイニシャルが縫い付けられている。まだ渡されていなかったそれには、何度も針を刺し直した跡があり、ところどころに小さな血の染みが残っていた。
ハンカチの下には、手書きの小さなカードが挟まれていた。
『少し遅くなりましたが、お誕生日の贈り物です』
少女の丸い文字が、ひどくまっすぐに並んでいた。
添えられたセシリアの母の手紙には、こう記されていた。
『あの子は、あなたの言葉を、一枚残らず大切にしていました。そして、あなたにこれを渡す機会を、ずっと探していました。……その引き出しの、誰にでもすぐ見つけられる一番目立つ場所に、残してあったのです』
アルベルトは、ハンカチを手に取った。
セシリアを、ただ名前だけの婚約者だと思っていたわけではない。彼女に向けた気遣いは、すべてが義務や演技だったわけではなかった。
けれど、彼女が自分に寄せる想いの深さに気づきながら、その想いに応えるつもりはないと告げることも、婚約者として彼女の未来を案じることも避けていた。
いずれ婚約は解消されるのだから、今は優しくしておけばいい。
そう自分に言い聞かせ、彼女の心と向き合う責任から目を逸らしていたのだ。
アルベルトはハンカチを顔に押し当てた。
謝りたかった。
彼女が自分の言葉を大切にしてくれていたことも、渡す機会を探してくれていたことも、今になって知った。けれど、何を伝えたところで、もう届くことはない。
もし、生きて、彼女が自分を憎んでくれていたなら。
もし、生きて、許さないと告げられる機会が残されていたなら。
そう願うことさえ、彼女にさらなる何かを求める身勝手さなのだろう。
セシリアは、ただ、自分たちを信じていた。
三人は彼女の気持ちを軽く考えた。少し我慢させても、新しい婚約者を用意すれば、いつか忘れて幸せになれると思っていた。
その一度の思い込みが、取り返しのつかない結末を招いた。
彼らはこれからも生きていく。
ユリアーナは、妹を守れなかった姉として。
レオンハルトは、自らの恋のために一人の少女の未来を踏みにじった元王太子として。
アルベルトは、彼女の想いを知りながら、向き合うことから逃げた男として。
そして、何を悔やんでも、何を償おうとしても、セシリアが生きるはずだった時間を、返すことはできない。
少女の呪いは、現実となった。
けれど、それで取り戻せるものは、何ひとつなかった。
初夏の朝、また白い薔薇がいっせいにほころぶというのに――
窓から身を乗り出して姉を探す小さな影だけが、二度と、そこにはいない。




