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三流魔術師リディアの誤算~巣立つはずの天才弟子が、私への執着を隠さなくなりました~  作者: 河有信号


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三流魔術師リディアの誤算~巣立つはずの天才弟子が、私への執着を隠さなくなりました~

才能がない、というのは実に残酷で、かつ清々しいほどどうしようもない事実だ。


魔術式を血反吐を吐く思いで練り上げ、睡眠時間を削りに削って挑んだ王立魔術院の試験で、隣に立つ天才が欠伸混じりに放った極大魔術にすべてを塗り潰される。そういう経験を10代の頃に何回も繰り返せば、人間、三十路を迎える頃には自分の限界というやつとすっかり折り合いがつくようになる。


この世界の魔術師の仕組みは極めて単純だ。


魔術師として出世し、宮廷や研究機関へ進むためには魔術師学校への所属が絶対的な前提となる。


だが、十五歳から十七歳までの三年間は「基礎魔術習得期間」と定められており、大半の者は国営の魔術学園に通うか、あるいは優秀な魔術師の個人弟子となって基礎を叩き込まれる。そして十八歳から、魔術学院や宮廷魔術師の研究室へ配属されて、初めて一人前の魔術師としてのキャリアが始まるのだ。


そして、現在のリディア・ヴァーミリオンの肩書きは、王都の外れにある下町で小さな工房を営む「生活魔術師」だ。


聞こえはいいが、要するに花形のエリートコースから外れた町の便利屋である。主な成果は、下水道の汚泥を分解する浄化陣の改良だの、パン屋の石窯の熱効率を三割引き上げる保温術式の改良などの地味なものである。


けれど、自分が徹夜でひねり出した泥臭い改良術式で街の連中が「いやあ、リディア先生のおかげで今年の冬はアカギレができねえよ!」と笑ってくれるなら、まあ、私の人生もそう捨てたものじゃない


――そうやって穏やかに、枯れた三十代を過ごすはずだったのだ。この規格外の怪物さえ、うちの工房に転がり込んでこなければ。


「リディア、また徹夜したでしょ。目の下にひどい隈。三十過ぎてからの徹夜は肌に呪いをかけるようなものだって、先週も言ったよね」


「やかましいわね、誰のせいで書類仕事が溜まってると思ってんのよ! あんたが昨日、裏路地で絡んできた酔っ払いに『三日間、靴の中から絶対に小石が消えない呪い』なんて悪趣味な術をかけたせいで、衛兵詰所から始末書を要求されてんの!」


朝の光が差し込む工房のテーブルに突っ伏していたリディアは、頭上から降ってきた涼やかな声にガバッと跳ね起きた。


目の前で呆れたようにため息をついているのは、エプロン姿で湯気の立つハーブティーのカップを盆に乗せた少年――ルカだ。年齢は今年で十六になる。


六年前、うちに引き取ったばかりの頃はリディアの腰のあたりまでしかなかった小さな背丈は、ここ二年ほどで面白いように伸びて、今では百八十センチを超える長身になってしまった。

金色の髪と、少し垂れ目がちな優しげな翠の瞳は、六年前に病で亡くなった彼の父親――リディアの恩師であったグレン師匠に驚くほどよく似ている。


それでいて少年特有のあどけなさが抜けた輪郭は、ハッとするほど端正で整っており、近頃は街を歩けば若い娘から奥様方までが思わず振り返るほどの美貌を備えていた。だが、その王子様めいた外面に騙されてはいけない。中身は師匠の温厚さの欠片もない、不遜で生意気な毒舌家だ。


「人聞きの悪いことを言わないでよ。あいつら、商店街の売上金をカツアゲしようとしてたんだよ? 本来なら内臓を裏返すくらいの呪術を叩き込んでもよかったところを、小石で済ませてあげたんだ。俺の慈悲深さを褒めてほしいくらいだけど」


「十六歳の少年が朝の食卓で『内臓を裏返す』とか爽やかに言わないの! あと、あんたがかけたその小石の呪い、衛兵隊の解呪班が総出で挑んだのにビクともしなかったそうよ! どんな高位の複合呪術を編み込んだのよ!」


「え、ただの初級呪術の応用だけど。術式の結び目を三重の裏返しにして、対象の魔力呼吸に同期させただけだよ。そんなのも解けないなんて、王都の解呪班もレベルが落ちたね」


ケロッと言い放つルカの言葉に、リディアは頭を抱えてテーブルに突っ伏した。


初級呪術の応用、だと。魔力の呼吸に同期させる呪術なんて、熟練の魔術師でも一握りしか扱えない高等技術だ。しかもこの弟子は、その気になれば人の命を容易く蝕む「呪術」と、逆に欠損した四肢すら繋ぎ直す最高峰の「治癒魔術」という、魔術理論上もっとも相反する二つの系統を息をするように同時行使する。


「ほら、突っ伏してないで手を貸して。指先が冷え切ってるし、魔力枯渇の初期症状が出てる」


ルカがテーブルの向かいに座り、リディアの右手を取った。陶器のように滑らかな、自分よりずっと大きな指先が触れた瞬間、じんわりと温かな緑色の光がリディアの掌から全身へと駆け巡る。


ただの疲労回復の治癒魔術ではない。リディアの体質と魔力波長に完璧に合わせ、神経の昂ぶりを鎮めながら枯渇した魔力回路を優しく満たしていく、信じられないほど緻密な治癒術だ。鉛のように重かった瞼がスッと軽くなり、背筋が勝手に伸びる。


「……あんたねえ。こんな高度な治癒魔術を、寝起きのお茶代わりみたいに使うんじゃないわよ。王都の貴族なら金貨十枚は積むわよ、これ」


「リディア以外に使う気ないから、相場なんてどうでもいいよ。はい、朝ごはん。昨日パン屋のマルタおばさんのところで窯の保温陣を直してあげたでしょ。お礼にって、焼きたてのチーズパンを山盛りもらったから」


「あ、マルタさんの新作! やった!」


目を輝かせてパンに手を伸ばすリディアを見て、ルカがほんの少しだけ目を細め、甘やかすような、それでいてどこか底知れない熱を孕んだ笑みを浮かべたことに、当のリディアはこれっぽっちも気づいていない。


彼女にとってルカは、十歳の頃から六年間も手塩にかけて育ててきた「小さな弟子」であり、何より――人生で一番苦しかった時期に自分を救ってくれた、亡きグレン師匠の大切な忘れ形見なのだから。


グレン師匠は、決して高名な魔術師ではなかった。才能という点ではリディアと似たり寄ったりで、派手な魔術は使えなかったけれど、太陽みたいに温かい人だった。魔術師学園に通っていた頃から、身寄りのない平民でありながら必死に魔術を学んでいたリディアのことを、グレンはずっと気にかけ、温かく見守ってくれていた。


だが、グレンは心から愛する妻を大切に想う良き夫であり、リディアに対してはあくまで不器用な後輩の面倒を見る師匠以上の感情は微塵も持っていなかった。若かったリディアが抱いていたほのかな憧れや淡い恋心なんて、グレンの底抜けの優しさと妻への純愛の前に、とうの昔に溶けて消えていた。


魔術師学園を卒業した後、宮廷研究機関への就職試験に挑んだ時のことを、リディアは今でも鮮明に覚えている。筆記では合格基準を余裕で満たしていた。けれど、身分制度の壁がそびえる魔術師の世界で平民であること、そして決定的に「先天的な潜在魔力や魔力の出力量が平凡以下であること」を理由に、採用の門戸は容赦なく閉ざされた。自分の知識や努力だけではどうにもならない現実を突きつけられ、路地裏の冷たい石畳にうずくまって声を殺して泣き崩れていた夜――。


行き場のない絶望に涙に暮れていたリディアの手を温かく握りしめ、『君の魔術は、人を幸せにするためにあるんだよ』と笑って頭を撫でてくれたのが、当時すでに妻を亡くしていたグレン師匠だった。


その師匠が六年前に流行り病で亡くなった時、遺されたまだ十歳のルカを引き取ることに、リディアは一秒のためらいもなかった。師匠から受けた恩を、すべてこの子に返そうと決めたのだ。


なのに、


十歳で引き取ってからわずか一年足らずで、ルカはリディアが教えられる魔術をすべて追い抜いた。

十五歳から十七歳までの基礎習得期間を迎えている現在、彼の治癒と呪術の才は異常な速度で開花しており、魔術学園にも通わず生活魔術師であるリディアの下にいる彼の技量は、すでに通常の一般的な魔術師の領域を遥かに超越していた。


その現実を改めて突きつけられたのは、午前の仕事――肉屋の大型保冷庫の冷却陣の再構築と、ついでに頼まれた親父さんのぎっくり腰の治療――を終え、ルカと共に大通りを歩いていた時のことだった。


「あっ、ルカくん! こんにちは!」


「ルカくん、今日もいい男だねぇ! うちのリンゴ持ってきな!」


通りを歩くたび、花屋の看板娘が頬を染めて手を振り、果物屋の若い奥さんが黄色い声を上げる。すれ違う娘たちが、長身で端正な顔立ちのルカを見ては「ねえ、あの子すごく素敵……」「どこの騎士様かしら」と熱い吐息を漏らして振り返っていく。


当のルカは、娘たちには愛想笑いのひとつも浮かべず、「どうも」と素っ気なく会釈するだけで、手にした買い物袋を持ち直してはリディアの歩幅にピタリと合わせて歩いていた。


「……あんたねえ、若い女の子がせっかく声かけてくれてるんだから、もうちょっと愛想よくしなさいよ。せっかくの男前が台無しよ」


「なんで俺がどうでもいい連中に愛想を振りまかなきゃいけないのさ。それよりリディア、靴紐が緩んでる。転ぶよ」


大通りの真ん中で、ルカは何のためらいもなく片膝をつき、リディアの編み上げ靴の紐を慣れた手つきで結び直した。周囲の娘たちから「えっ、なんであんな地味な女の人に……?」「どういう関係なの……?」とざわめきと嫉妬の入り混じった視線が突き刺さり、リディアは居心地悪さに顔をひきつらせる。


その時だった。


「――お待ちなさい、ルカ様!」


凛とした、よく通る声が雑踏を切り裂いた。


振り返ると、純白に金糸の刺繍が施されたローブを纏った一人の若き女性が、従者を伴ってこちらへ歩み寄ってくるところだった。年の頃は二十歳。縦ロールに巻かれた艶やかな金髪と、誇り高き貴族の血筋を思わせる勝気な碧眼。胸元に輝く紋章は、王立治療魔術院のものだ。


彼女の名はセリア・フォン・クラウゼ。十八歳の段階ですでに画期的な治癒術の成果を挙げて若くして自身の研究室を持ち、現在は二十歳にして治療魔術の最前線を牽引する天才治癒魔術師だった。


「あ、セリア導師。今日も下町の巡回診療ですか、ご苦労様です」


リディアが声をかけると、セリアはリディアを一瞥してツンと顎を上げた。


名門貴族の令嬢でありながら、彼女は「病や怪我に貴賤はない」という信念のもと、こうして定期的に下町まで足を運び、貧しい人々や労働者の怪我を無償で治療して回っている。高慢なところはあるが、傷ついた人々を救おうとする医療者としての情熱と優しさだけは間違いなく本物だった。


先月、下町の荷馬車の横転事故で重傷者が出た際、たまたま居合わせたルカが神業のような治癒魔術で瀕死の怪我人を瞬時に救ったのを目撃して以来、彼女はルカを熱心に治療魔術院へ勧誘していたのだ。


――もっとも、ルカを見つめる彼女の潤んだ瞳と赤らんだ頬を見れば、それが単なる「人材の勧誘」にとどまらない恋慕の情であることは、誰の目にも明らかだったが。


「ルカ様、先日の私からの推薦状、読んでいただけましたか? 私の研究室の特別枠を用意いたしましたわ。あなたほどの治癒の才を持つ方が、こんな場所でパン屋の石窯の修理や、下水道の浄化陣の修正ばかり手伝っているなんて、あまりにも勿体ないです!」


セリアが一歩踏み出し、ルカを見上げて熱っぽく語りかける。長身のルカを見上げるその仕草は、若く美しい女性らしい気品に満ちており、周囲の通行人も「お似合いじゃないか」と足を止めた。


だが、ルカはリディアの斜め後ろから一歩も動かず、実に退屈そうに答えた。


「手紙なら読まずに竈の火種にしましたけど。何度言わせるんですか、俺はここを離れる気はないって」


「なっ……! どうしてですの!? 私の研究室に来てくだされば、最高峰の設備も、あなたの研究を支える予算も、すべて私が用意いたしますのに!」


つれないルカの態度に、セリアの白い頬が悔しさと羞恥で紅潮する。そして彼女の視線は、ルカが大事そうに作業着の裾を掴んでいる隣の小柄な女――作業着姿のリディアへと向けられた。


なぜ、これほど美しく才能に溢れた青年が、自分に見向きもせず、こんな年上の女にばかり執着するのか。治癒の才が生活魔術の雑務で埋もれていくことへの医療者としての義憤と、生まれて初めて抱いた恋心が引き起こす嫉妬が、セリアの中で限界を超えて弾けた。


「……っ、あなたね! あなたがルカ様を言いくるめて、自分の手元に縛り付けているんですわね!」


セリアの指先が、ビシッとリディアに突きつけられた。


「えっ、わ、私!? いや、私はむしろ――」


「お黙りなさい! 自分の胸に手を当てて考えてごらんなさいな! あなたは魔術師学校の高等部すらまともに抜けられず、生活魔道具の修理や調整しかできない生活魔術師でしょう!? そんな基礎しか扱えない方が、自分の工房の雑務を手伝わせるために、百年に一人の天才の足を引っ張って時間を奪うなんて……! それは彼によって救われるはずだった何千人もの患者に対する冒涜ですわ!」


セリアの言葉は、人々の命を本気で救いたいと願う彼女だからこそ、一切の迷いもなく鋭利だった。


「彼に相応しいのは、あなたのような平凡な魔術師ではなく、同じ高みで魔術を語り合える私のような人間です! 少しでも師匠としての良心があるのなら、今すぐ彼から手を離しなさい!」


大通りが、水を打ったように静まり返った。


リディアは何も言い返せなかった。セリアの言っていることは、リディア自身が最近、毎晩のように自分を責め続けてきた言葉そのものだったからだ。


「そう……ですね。セリア導師の言う通りです。私みたいな平凡な魔術師が、この子の足を……」


俯いて唇を噛み締めたリディアの肩を、不意に、強い力で引き寄せる腕があった。


「――リディア。なんでリディアが謝るんだよ」


頭上から降ってきた声は、冷え切っていた。


ハッとして顔を上げると、ルカがリディアを背中に庇うようにして、セリアの前に立ちはだかっていた。


いつも街の人間に向けている穏やかな表情が、跡形もなく消え失せている。端正な顔立ちから一切の感情が抜け落ち、ただ翠の瞳だけが、氷のような冷酷な光を放っていた。


「ひっ……!」


セリアが思わず一歩後ずさった。


普段のルカなら、リディアに害をなす相手には容赦なく呪術を叩き込むところだ。だが、ルカは魔力を練り上げなかった。セリアがどれだけ高慢だろうと、下町の怪我人を分け隔てなく治療する魔術師であることを知っていたからだ。


「セリア導師、治療魔術師としての腕と志だけは本物だと思って、これまでは黙って話を聞いてたけど。」


ルカが一歩、セリアに向かって踏み出す。ただそれだけで、セリアの従者が息を呑んで立ちすくむほどの圧倒的な威圧感が場を支配した。


「今の発言で、導師の顔を見るのも嫌になった。誰が誰の足を引っ張ってるって? 下水道の浄化陣ひとつで街の疫病を未然に防いでる俺の師匠を『平凡』だと? 街の人の暮らしを守ってるリディアを馬鹿にしているのか。」


「あ、あなた、何を……私はただ、あなたの才能が埋もれるのを心配して……!」


「俺の才能は、俺のものだ。誰のために使おうが俺の勝手だろ。……二度と、その口で俺の師匠を見下すな。次にリディアにそんな口を利いたら、容赦しない。分かったら、もう俺たちの前に現れるな。」


それは、セリアに対する完全なる拒絶だった。


セリアは顔面を蒼白にし、ボロボロと大粒の涙をこぼしながら、「な、なんのつもりよ……っ!」と声を震わせて踵を返し、走り去っていった。


後に残されたのは、呆然とする通行人たちと、顔を真っ青にしたリディアだけだった。


「ちょ、ルカ! なんて言い方すんのよ! セリア導師は本当にあんたの才能を思って――」


「帰るよ、リディア。胸糞が悪い」


ルカはリディアの手首を掴むと、返事も待たずに大股で歩き出した

 

 工房の近くには、彼の同世代の友人たちが何人かおり、普段は気さくに声をかけ合っていた。だが、今のルカの纏う殺気立った雰囲気に、通りすがりの友人たちも「おい、どうしたんだよあいつ……」と遠巻きに息を呑むばかりだった。


その広い背中を見つめながら、リディアの胸には、先ほどのセリアの言葉が棘のように深く突き刺さって抜けないままだった。


『百年に一人の天才の足を引っ張って時間を奪うなんて……!』


リディアは空いている方の手で、エプロンのポケットに入っている一通の黒い封筒の感触を確かめ、密かに奥歯を噛み締めた。


セリア導師に言われるまでもない。そんなことは、私が一番よく分かっている。だからこそリディアは昨日、ルカに内緒で王都の中央区画へと足を運んだのだ。




***


王宮の魔術機関の中でも、ひときわ異彩を放つ黒曜石の塔――通称『黒塔』。


そこは呪術魔術のみを専門に扱う最高峰の研究機関であり、その統括導師を務めるヴェンツェルは、十八歳の段階で画期的な呪術の成果を挙げて自身の研究室を持ち、現在は三十歳にして王国の呪術研究の第一人者と呼ばれる男だった。




「――対象の魔力呼吸に同期させた三重の裏返し結び、か。しかも詠唱なし、触媒なしでそれをやってのけたと?」




黒塔の最上階。冷え冷えとした執務室で、ヴェンツェルはリディアが持参した衛兵隊の報告書に視線を落とし、氷のように整った横顔で低く呟いた。




切り揃えられた黒髪に、感情の温度を感じさせない灰色の瞳。貴族の生まれでありながら門閥や血統を一切顧みず、平民であろうと実力と真摯さがあれば引き上げ、逆に公爵家の御曹司であろうと魔術に不誠実な怠け者は容赦なく放逐する、徹底した冷徹な合理主義者だ。


魔術院時代からの同期であるリディアは、ルカの呪術の才能に振り回されるたび、こうして第一人者である彼の元へ相談に駆け込んでいた。


「そうなのよ。ただの小石の呪いなのに、解呪班の術師が三人がかりで魔力を注いでも結び目すら見つけられなかったって。ねえヴェンツェル、あの子、やっぱり私なんかが教えていい器じゃないわ」


机の向かいで頭を抱えるリディアを見やり、ヴェンツェルは手元の報告書を閉じた。


「相変わらず自己評価が極端に低いな、お前は。……言っておくがリディア、俺はお前の魔術師としての力量を決して低くは見ていないぞ」


「なぐさめなら要らないわよ。」


「事実を言っているだけだ。確かにお前の先天的な魔力の出力量は平均以下であり、それらが必要不可欠な治癒や攻撃魔術、あるいは俺の専門である呪術といった分野で名を馳せるのは、どう逆立ちしても無理だろうな」


「……そこまで身も蓋もない言い方しなくてもいいじゃないのよ!」


ムッとして唇を尖らせるリディアに、ヴェンツェルは机の端に置かれていた別の羊皮紙――リディアが黒塔に来るついでに査読を頼んだ『下水道の汚泥分解・循環陣』の設計図を指先でトントンと叩いた。


「だが、お前のこの術式はどうだ。最小限の魔力で恒久的に稼働するよう、文献もない煩雑な既存の古代浄化術式を分析し、最適な術式に改良されている。千回の失敗を厭わずに最適解を導き出す泥臭い執念だけは、黒塔の研究員にも決して劣るものではない。」


ヴェンツェルの声には、お世辞や同情の響きは微塵もなかった。ただ純粋に、魔術という真理に真摯に向き合う者への敬意だけがあった。


「人を殺すことや治すだけが魔術ではない。市民の生活基盤を支えるお前の生活魔術は、実用性と完成度において極めて優秀だ。もっと胸を張れ」


「……ヴェンツェル。あんた、たまにそうやって真っ当に人を褒めるから調子狂うのよね」


照れ隠しに頬を掻くリディアを見て、ヴェンツェルの灰色の瞳がほんのわずかに和らいだ。


社交界では、擦り寄ってくる貴族の女たちを蛇蝎のごとく嫌い、「氷の女嫌い」として恐れられているヴェンツェルである。だが、昔から魔術のことになると目を輝かせ、一心不乱に研究するこの同期の女に対しては何故か嫌悪感を抱かなかった。


「だが、お前の弟子のルカだ。あいつの呪術の才が規格外であることもまた事実だな。呪術は一歩間違えれば術者自身の精神や肉体を蝕む。お前の手元では、万が一の暴走に対処できまい。……ほら、持っていけ」


ヴェンツェルが引き出しから取り出し、机の上に滑らせたのは、黒塔の紋章が刻印された特待生の推薦状だった。


「最近、顔を合わせるたびにお前から散々相談されていた件だ。俺の直轄の研究室に迎え入れてやる。基礎理論から高等呪術の制御まで、俺が直接叩き込もう」


「ほんと!? ありがとう、ヴェンツェル! やっぱりあんたに相談してよかった!」


ぱあっと顔を綻ばせて推薦状を両手で包み込むリディアを、ヴェンツェルは頬杖をついて静かに見つめた。


「……ところでリディア。六年も面倒を見てきたその生意気な弟子を黒塔に放り込んだら、お前はあの工房で一人暮らしになるわけだな」


「え? まあ、そうなるわね。ずいぶん静かになるだろうけど


「なら、いっそ俺と結婚するか?」


あまりにも平坦な、明日の天気を尋ねるようなトーンだった。


リディアは推薦状を持ったまま、三秒ほど固まり――次の瞬間、椅子をガタッと鳴らして立ち上がった。


「はあああ!? あんた、呪術の反動で脳みそでもやられたの!? 天下の女嫌いのヴェンツェル導師が、なんで私みたいな三十路の生活魔術師にそんなこと言うわけ!?」


「実家の親が縁談をうるさく言ってくるのでな、書類上の妻が一人いれば実に合理的だと思ったまでだ。お前なら俺の研究の邪魔をしないし、むしろ魔術の議論ができて退屈しない」


「却下よ、却下! 合理性でプロポーズする男がどこにいるのよ! 冗談は顔だけにしなさいよね、じゃあね!」


顔を真っ赤にして怒鳴り散らし、嵐のように執務室を出ていくリディア。


バタン、と扉が閉まり、静寂が戻った室内で、ヴェンツェルは冷めた紅茶のカップを手に取り、誰もいない空間でふっと口角を上げた。


「……別に、冗談のつもりではなかったのだがな」


他の女が近づくだけで虫酸が走る自分が、あの騒がしくて泥臭い女と一つ屋根の下で暮らし、老後まで魔術談義をする未来を想像しても、不思議と不快ではなかった。


***


工房に戻り、扉が閉まったところで、リディアはルカに掴まれていた手首を振り解き、大きく息を吸い込んだ。


もう、先延ばしにはできない。私がここで甘えていたら、この子は自分の才能をこんな小さな工房で燻らせてしまう。


ポケットから、昨日ヴェンツェルから受け取ったばかりの漆黒の封蝋が押された羊皮紙の封筒を取り出し、作業机の上に置いた。


「……ルカ。大事な話があるの。そこに座って」


いつもとは違う、張り詰めたリディアの声色に、ルカがピタリと足を止めた。買い物袋を脇に置き、無言で机の前の椅子に腰を下ろす。その翠の瞳が、机の上の封蝋――『黒塔』の紋章を捉えた瞬間、すっと細められた。


「これ、ヴェンツェルからの推薦状よ。……ほら、あんたの呪術の件、前からあいつに相談してたでしょ? 昨日の小石の呪いの話をしたらね、ぜひ自分の直轄研究室に特待生として迎え入れたいって」


リディアは、師匠らしく弟子の門出を祝う顔で明るい声を出した。


「セリア導師の弟子はあんたが嫌がるだろうけど、ヴェンツェルなら話が別でしょ。ヴェンツェルがどれだけ冷徹で、魔術に対して嘘をつかない男かは、あんたも私の話で耳にタコができるくらい聞いてるわよね? 貴族も平民も関係なく実力だけで評価する、この国の呪術の第一人者よ。そのヴェンツェルが直々に引き取りたいって言うんだから、こんな下町の生活魔術師の工房なんかより、ずっと――」


言葉は、最後まで続かなかった。


パチン、と乾いた音が響いたかと思うと、机の上にあった推薦状が、前触れもなく黒い灰へと変わったのだ。火種もないのに、呪術によって炭化し、サラサラと崩れ落ちていく。


「……なっ」


リディアは目を剥いた。


「あんた、何すんのよ! それ、私がヴェンツェルに何度も頼み込んで、昨日やっと書いてもらった推薦状なのよ!?」


「へえ。昨日、俺に内緒で出かけてたと思ったら、またあの黒塔の導師のところに行ってたんだ」


ルカがゆっくりと立ち上がった。


先ほど大通りでセリアに向けた冷ややかな無表情とは違う。グレン師匠に似た優しい垂れ目が、今は底にどす黒い炎を宿したみたいにギラついていた。


「あの女に言われたことが、そんなに堪えたわけ? それとも、ここ最近やけに『ヴェンツェルが』『ヴェンツェルが』ってあの男の名前を嬉しそうに口にすると思ったら、俺を黒塔に厄介払いして、自分はその自慢の同期様と仲良くやるつもりだったわけ?」


「なっ、なによその言い方! 厄介払いなんかじゃないし、ヴェンツェルとはそんなんじゃ――って、今は私

の話はいいでしょ! さっきセリア導師に言われた通りなのよ! 私の魔術なんて、せいぜい街のパン屋の窯を温めるくらいしか能がない平凡なものなの! あんたみたいな天才が、いつまでも私なんかの下にいたら才能が腐るわ!」


「誰が、そんなこと頼んだ?」


低く、地を這うような声だった。


机を回り込んできたルカが、後ずさるリディアの退路を塞ぐように一歩踏み出す。背中が工房の壁にぶつか

った。逃げ場がない。昔は頭を撫でるのに屈み込まなければならなかった小さな少年が、いつの間にか自分より頭一つ分以上も大きくなって、その長身の影ですっぽりとリディアを覆い尽くしている。


ドン、とリディアの顔のすぐ横の壁に、ルカの長い腕が突かれた。


「ちょ、ルカ、近い……っ!」


「リディアこそ、俺の話を聞いてよ。俺がいつ、黒塔に行きたいなんて言った? いつ、あんた以外の人間を師匠にしたいなんて言った?」


「だって、それが魔術師として当たり前の幸せでしょ! 才能がある人間は、より高い場所へ行って、歴史に


名を残すような大魔術を極めるべきなの! 私みたいに、途中で花形から脱落して泥水をすするような真似、あんたにはさせたくないのよ! そうじゃなきゃ、私、グレン師匠に顔向けが――」


「――親父の名前を出すな!」


ルカが吠えた。壁を突く拳がギリ、と音を立てて握り締められる。


「六年だぞ、リディア。親父が死んでから六年、俺はずっとあんたの隣にいたのに、まだ親父のついでみたいに俺を見るのかよ……!リディアが頭を撫でる時も、無理して笑う時も、いつも俺の向こう側に親父の影を見てる! 俺は親父の身代わりじゃないし、あんたが勝手に背負ってる恩返しの道具でもない!」


ルカの怒りに触れて、リディアは言葉を失った。


ルカの翠の瞳が、悔しそうに、そして泣き出しそうなほどの熱を帯びて、至近距離からリディアを射抜いている。


「俺が尊敬してるのは、王宮の魔術師なんかじゃない」


「ルカ……」


「六年前、親父が死んだ時、王宮の偉い魔術師どもは『下町の平民の流行り病など診る暇はない』って見捨てたんだ。でもリディアは違った。才能がないって笑われながら、指先から血を流して三日三晩、親父の苦しみを少しでも和らげるための魔道具を徹夜で作ってくれた。十歳の俺の手を握って、一緒に泣きながら、今日まで毎日泥だらけになって街の連中のために術式を描き続けてきた!」


ルカの声が震えていた。壁に突いていた彼の手が滑り落ち、リディアの両肩を痛いほどの力で掴む。


「俺が治癒魔術と呪術を死に物狂いで覚えたのは、どこかの研究機関で出世するためじゃない。……二度と、俺の大事なものを奪わせないためだ。リディアを馬鹿にする奴らを全員呪い殺してでも、あんたが一生、傷つかずに笑っていられるようにするためだ!」


「な、なに言ってるの……ルカ、そんなことのために……」


「あんた以外の人間が俺の師匠を名乗るなんて、虫酸が走る。だいたい、そのヴェンツェルとかいう男も気に入らない。俺の相談っていう口実で、あんたを何度も黒塔に呼び出して……あんたから微かにその男の魔力の残り香がするたび、俺がどれだけ腹の中で腸が煮えくり返ってるか、知りもしないくせに!」




「ま、待って、魔力の残り香って、ただ昨日の帰りにヴェンツェルの執務室で浄化陣の図面を見てもらっただけよ!?」




「それが気に入らないって言ってるんだ!」




ルカはフッと荒い息を吐き、そのまま崩れるようにリディアの肩に額を預けてきた。


鎖骨のあたりに、青年の熱い吐息と、柔らかい亜麻色の髪が触れる。心臓が、肋骨を突き破りそうなほど跳ね上がった。


「……ねえ、リディア。あんたが自分を平凡な三流だって言うなら、俺は一生、三流の弟子でいい。いや、違うな」


肩に顔を埋めたまま、ルカの長い両腕がリディアの背中に回り、逃げられないようにギュッと抱きしめられる。十歳の頃の細っこい腕とはまるで違う、逞しくて強引な男の腕の力だった。


「俺が独学でそのヴェンツェルすら超える世界一の魔術師になって、王都の連中なんか全員ひれ伏させてやる。そうすれば、あんたは『世界一の魔術師を育てた、世界で唯一の師匠』だ。さっきの女性にも、他の誰にも、二度とあんたを平凡だなんて言わせない。黒塔の導師だろうが誰だろうが、俺からあんたを奪えなくなる」


「ま、待って、ルカ、ちょっと離れなさい、苦しい、というか近いっ……!」


「離さない。ここで離したら、リディアは、また俺をよそにやる算段をするでしょ。……六年も一緒にいて、どれだけ鈍感なら気が済んだんだよ、この馬鹿師匠」


顔を上げたルカの端正な顔には、もはや弟子の敬意などという生易しいものではなく、三十路のリディアですら気圧されるほど剥き出しの、強烈な独占欲と熱が渦巻いていた。


「街の連中も、さっきの女性ですら気づいてるのに、リディアだけだよ。俺がまだ十歳の子供のまま、親父の息子だから懐いてるなんて思ってるの」


「え……?」


「俺はね、リディア。ずっと前から、リディアを一人の女として見てるし、リディアしか要らないって決めてるんだ」


それは直球な告白だった。あまりにも真っ直ぐで、逃げ場のない豪速球が、リディアの思考回路を粉々に打ち砕いた。


「い、いや、だって、あんた十六で、私、三十よ!? 十四も年上なのよ!? あんたみたいに背も高くて顔もよくて才能もある男なら、さっきのセリア導師みたいな綺麗なお嬢様がいくらでも寄ってくるじゃない! 私なんか地味で、才能もなくて、徹夜明けで目の下に隈ができてるような女なのよ!?」




「だから何? 十四年分、俺が急いで大人になればいいだけの話でしょ。よその女なんか、どれだけ着飾ってても石ころにしか見えないよ。その目の下の隈も、パンをもらって子供みたいにはしゃぐ顔も、魔術のことになると誰より真っ直ぐなところも、この六年間で全部俺が一番近くで見てきたんだ。黒塔の同期だろうが誰だろうが、リディアの可愛いところなんか絶対によその男には見せてやらない」


そう言って、ルカはリディアの頬に片手を添えると、呆然と固まっている彼女の唇のすぐ横――口角のあたりに、自分の唇をチュッと押し当てた。


「――っ!?」


頭のてっぺんから湯気が噴き出しそうなほどの衝撃に、リディアの顔面が一瞬で沸騰した。


「な、ななな、なにすんのよこのガキィッ!!」


「ガキ扱いするからでしょ。それに、これくらいしておかないと、うっかり他の男に拐かされそうだしね。……次は外さないから、覚悟しておいてよ、リディア」


至近距離で、悪戯っぽく、けれどどうしようもなく甘い顔で微笑む美貌の弟子に、リディアは人生最大の魔力枯渇――もとい、酸素欠乏症に陥りながら、ただ口をパクパクと開閉させることしかできなかった。


***


「――で? 結局、黒塔への推薦状とやらはどうなったんだい?」


数日後。パン屋の石窯の前で、店主のマルタがニヤニヤと笑いながら尋ねた。


店頭では、リディアが真っ赤な顔で分厚い書類の束を小脇に抱えながら、新作のベリーパイを袋に詰めてもらっている。


「く、黒塔の件は、本人がどうしても他人の弟子になるのを嫌がるから一旦保留にしただけです! でも、こんな下町の工房で一生燻ぶらせるわけにはいかないから、せめて来期の王立魔術師学校の高等部には絶対に通わせるつもりなんですからね! ほら、今日だってその編入試験の願書を取り寄せて――」


「へえ、また新しい竈の火種を仕入れてきたんだ。気が利くね、リディア」


隣で荷物持ちとして控えていたルカが、通りがかりの娘たちの熱い視線を一瞥もせず、リディアの脇からひょいと願書の束を抜き取った。


「あーっ! こらルカ、返しなさい! 燃やしたら承知しないわよ! いい加減に観念して学校くらい行きなさい、同年代の魔術師のコネを作らないと将来困るでしょ!」


「困らないよ。俺の将来にはリディアがいればそれで足りるって、こないだ壁際で嫌というほど説明したはずだけど? ……それとも、もう一回ここで復習する?」


ルカが一歩距離を詰め、あの時の口角の感触を思い出させるように自分の唇に指先を当ててみせると、リディアは「ひゃあっ!」と奇声を上げて願書をひったくり、耳まで真っ赤にして後ずさった。


「ば、馬鹿なこと言ってないで荷物持ちなさい! 私は師匠として、あんたを絶対に魔術師学校に放り込んでみせるんだからね!」


「はいはい、せいぜい頑張りなよ。俺も、頑固な師匠をどうやって落とすか毎日考えるのが楽しみだからさ」


ギャーギャーと騒ぎながら先を行くリディアと、それをどこか楽しそうに見下ろしながら、自然な手つきで彼女の買い物袋を奪い取るルカ。


「やれやれ、こりゃあ学校に通わせるどころか、師匠の方がまるっとお嫁にもらわれちまうのも時間の問題だねぇ」


呆れつつも微笑ましそうに目を細めるマルタの前で、十六歳の天才魔術師は、自分の師匠の華奢な手首をしっかりと掴み、誰にも渡すまいと歩き出したのだった

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