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桜はひとを選ばない
夜の鞍馬山に来たのは、
理由があったわけじゃない。
ただ、ここに来なければいけない気がした。
深山さんも、何も聞かなかった。
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山の夜は、街と音が違った。
風の音。
葉の揺れる音。
遠くの水の音。
人の声が、ほとんどない。
深山さんは、迷いなく歩いていた。
初めて来たはずの山なのに。
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「深山さん」
声をかけると、足が止まった。
振り返らないまま、
小さく言った。
「懐かしいんです」
その言葉は、もう驚かなかった。
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風が強くなった。
木々が揺れた。
空気が変わった。
深山さんが、空を見上げた。
長い沈黙のあと、
小さく笑った。
「迎えに来てくれたんですね」
誰に向けた言葉か、聞かなくても分かった。
その顔は、今まで見た中で一番幸せそうだった。
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その瞬間、理解した。
守れなかった理由。
何度やり直しても届かなかった理由。
深山さんは、
ずっと誰かを待っていた。
僕ではない誰かを。
春よりずっと前から。




