桜の季節の貴船神社
深山さんと次にまともに話したのは、
新歓から少し経った頃だった。
部室の掲示板の前で、
彼女は一枚の紙を見ていた。
貴船神社のアルバイト募集。
「応募するんですか」
声をかけると、
深山さんはゆっくり振り向いた。
「神社って、落ち着きそうじゃないですか」
その言い方は、
山の話をした時と同じだった。
結局、僕も応募した。
理由はうまく説明できない。
ただ、同じ場所にいたかった。
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貴船は、京都の中にあるのに
京都じゃない場所だった。
川の音が、
いつも人の声より先に聞こえる。
僕たちの仕事は単純だった。
お守りを渡して、
道を案内して、
おみくじの場所を教える。
それだけだった。
暇な時間が、思ったより多かった。
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深山さんは、その時間のほとんどを
水占みくじの前で過ごしていた。
水に浮かべると文字が出る。
それだけのもの。
なのに彼女は飽きなかった。
「引いてみます?」
ある日、そう言って紙を一枚取った。
水に浮かべる。
ゆっくり文字が浮かぶ。
深山さんはそれを見て、静かに笑った。
「当たってる気がします」
何が出たのかは教えてくれなかった。
僕も聞かなかった。
知らなくてもいいことのような気がした。
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昼過ぎ、仕事が途切れて
石段に座って休憩をした。
川の音が近い。
その時、深山さんの首元が見えた。
小さな赤い痣。
葉っぱの形に見えた。
「怪我ですか」
聞いた瞬間、聞かなければよかったと思った。
深山さんは一瞬だけ黙って、
それから笑った。
「昔からなんです」
短い言葉だった。
それ以上は続かなかった。
僕も続けなかった。
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帰りのバスを待ちながら、
深山さんは山の方を見ていた。
暗くなると山は形だけになる。
黒い輪郭。
「ここ、好きです」
小さな声だった。
「落ち着くんです」
前にも聞いた言葉だった。
その時、ほんの少しだけ思った。
この人は、帰りたい場所があるのかもしれないと。




