第二話 『優しい人ほど、何も言わない』
第二話です。
翌朝、城はいつも通りに目を覚ました。
鐘が鳴り、侍女たちが廊下を行き交い、朝の挨拶が交わされる。
昨日、婚約破棄があったとは思えないほど、世界はきちんと動いていた。
それが、この城の強さであり、残酷さでもある。
私は窓辺に立ち、庭を眺めていた。
朝露を含んだ芝生が光り、何も知らない顔で花が揺れている。
――何も知らないのは、花だけだ。
扉の外から、控えめな足音がした。
「……おはようございます」
侍女長の声だ。
城の中で最も礼儀正しく、最も“空気を読む”人。
「おはよう」
彼女が入ってくる。
いつもと変わらない所作。
けれど、頭の上に浮かぶ文字は、いつもより多かった。
(まずは様子を見る)
(余計なことは言わない)
(こちらから触れないのが正解)
……やっぱり。
「お加減はいかがでしょうか」
決まり文句。
心配しているようで、何も聞いていない言葉。
「問題ありません」
私はそう答えた。
それ以上も、それ以下も言わない。
侍女長の頭の上。
(よかった、と言うべき?)
(でも、ここで感情を示すと巻き込まれる)
(城としては、静かに収めたい)
私は、ほんの少しだけ苦笑した。
昨日の婚約破棄は、
個人の問題ではなく、「城の出来事」になっている。
誰もが、
「どう振る舞うのが安全か」
それだけを考えている。
「本日は、ご予定はございますか」
(予定を入れさせない方がいい)
(一人にしておいた方が波が立たない)
「特にありません」
それを聞いて、侍女長はわずかに安堵した顔をした。
その顔の上に、また文字。
(静かにしていてくれれば助かる)
――ああ。
優しい人ほど、何も言わない。
それは思いやりではなく、
“波風を立てないための優しさ”だ。
侍女長が下がった後、私は部屋を出た。
じっとしていると、思考ばかりが深くなる。
廊下では、すれ違う人たちが皆、丁寧に挨拶をする。
普段より、少しだけ丁寧に。
(可哀想な方)
(でも深入りは禁物)
(何か言うと立場が悪くなる)
誰もが同じ距離感。
近づかない。
でも、突き放さない。
庭に出ると、
顔見知りの貴族令嬢が一人、立っていた。
「……おはよう」
彼女は、昔から私に優しかった人だ。
派閥も違うし、利害も重ならない。
だからこそ、安心できる相手だった。
「おはようございます」
彼女は少し間を置いてから言った。
「……大変でしたね」
その頭の上。
(本当は何と言えばいいか分からない)
(でも、何も言わないのは冷たい)
(せめて一言)
私は、その本音を見て、少しだけ胸が温かくなった。
「ありがとう」
それだけで、十分だった。
彼女はそれ以上、何も言わなかった。
婚約破棄の理由も、王子のことも、聞かない。
(聞かない方がいい)
(今は、聞くべきじゃない)
それもまた、優しさだ。
でも。
沈黙の中で、
彼女の本音が、ふっと揺れた。
(もし私だったら、耐えられなかっただろうな)
その瞬間、私は少しだけ苦しくなった。
――比較しないでほしい。
私は、強いから耐えているわけじゃない。
ただ、叫ばなかっただけだ。
彼女は軽く頭を下げ、去っていった。
私は庭に一人残される。
風が吹く。
葉が擦れ合う音がする。
昨日より、世界は少しだけ静かだ。
でもそれは、
誰もが「何も言わない」からだ。
私はふと、気づいた。
昨日、王子に言われた言葉。
「可愛げがない」。
可愛げとは、
泣いてみせることか。
怒ってみせることか。
弱さを分かりやすく差し出すことか。
もしそうなら、
私は確かに可愛げがない。
私は、
自分の弱さを、他人の安心材料にしたくない。
背後から足音がした。
振り返ると、
以前から私を気にかけていた貴族が立っていた。
「……少し、お話を」
その頭の上。
(ここで恩を売っておく)
(今後の立場が有利になる)
(断られたら、それまで)
私は一瞬、迷った。
断るべきか、聞くべきか。
けれど、
この城で生きていくなら、
「聞かない」という選択もまた、意思だ。
「少しだけなら」
彼は微笑み、
私の横に立つ。
「お辛いでしょう。ですが、城としても、穏便に……」
(面倒は避けたい)
(余計な噂は困る)
(あなたが静かにしてくれれば助かる)
私は、最後まで聞かなかった。
聞く前に、分かってしまったから。
「ご心配なく」
私は、静かに言った。
「私は、何もするつもりはありません」
彼の頭の上。
(助かった)
(これで問題は広がらない)
――そう。
私は、
「何もしない」という選択をしただけで、
周囲の人間を安心させている。
それは、
私が弱いからでも、
負けたからでもない。
ただ、
この城では、それが一番“安全”な行動だからだ。
部屋に戻る途中、
ふと気づく。
誰も、
「あなたは悪くない」とは言わない。
誰も、
「悔しかったでしょう」とも言わない。
優しい人たちは、
何も言わない。
それが、
彼らなりの誠実さであり、
同時に、残酷さでもある。
自室に戻り、扉を閉める。
静けさが、また戻ってくる。
私は椅子に座り、両手を見つめた。
震えてはいない。
でも、強くもない。
私は、今日も泣かなかった。
怒らなかった。
叫ばなかった。
それで、
この城は平穏を保っている。
――その平穏の上に、
私は、ぽつんと立っている。
「……これでいい」
誰に向けた言葉でもない。
自分に言い聞かせるための言葉。
優しい人ほど、何も言わない。
だから私は、
自分の心だけは、見失わないようにしなければならない。
扉の外で、
また足音がした。
噂は、まだ動いている。
でも、
誰も表では何も言わない。
静かな戦いは、
続いていく。
そして私は、
今日もまた、
何もしないという選択を、
自分の意志で選び直す。
それが、
私がここで生き残るための、
最初の一歩なのだから。
誤字脱字はお許しください。




