揺れないための距離
町はずれの書店兼喫茶《深緑の古書店》。
くすんだ金髪の少年が、カウンター席に腰掛けていた。
年の頃は十代後半。細身ながら、無駄のない身体つきから、日々の鍛錬が自然とうかがえる。
リデルと呼ばれるその少年は、茶色の瞳に張りつめた真剣さを宿し、指先の先をじっと見つめていた。
指から五センチほど離れた位置に、ティースプーンが浮かんでいる。
金属はかすかに震えながらも、落ちることなく、一定の高さを保ち続けていた。
店主から教わっている、魔力制御の基礎練習だ。
リデルは週に何度か、この店の店主に魔法の扱い方を学んでいる。
「お茶でも飲もうか。」
カウンターの内側で本を読んでいた店主、リュカが顔を上げて言った。
「……い、いえ。」
リデルは短く答える。
意識を外した瞬間に、スプーンは落ちてしまう。
今は、飲む余裕などなかった。
「そう。意識せずに制御できる状態を目指してみて」
リュカはそう言いながら、ティーポットを温めるために入れていた湯を静かに捨てる。
ティーキャディの蓋を開け、柄の長いティーメジャーで茶葉をすくった。
その間も、リュカの隣ではティースプーンが、まるで透明な台に置かれているかのように、ぴたりと宙に留まっている。
浮かしているスプーンには視線すら向けず、リュカは茶葉をポットに落とし、先ほど沸騰したばかりの湯を注いだ。
ふわりと、茶葉の香りが立ちのぼり、カウンター越しにリデルのもとへ届く。
(どうやってるんだろう……)
同じ空間で、同じ魔法を使っているはずなのに。
自分は必死に縋りつくように意識を集中させているのに、リュカはただ“そこに置いている”だけに見える。
「うん。いい調子だよ」
リュカは紅茶を一口含み、リデルの手元を見ながら淡々と言った。
そのとき、木のドアが開き、ベルが軽やかに鳴る。
「いらっしゃい、グレン」
その名を聞いた瞬間、ティースプーンがゆらゆらと揺れた。
「おう。リデルも来てたのか。熱心だな」
いつもの、どこか気の抜けた声が響く。
魔力の制御が追いつかず、揺れていたスプーンは、乾いた音を立ててカウンターに落ちた。
「えっ。邪魔だったか。わりぃわりぃ」
グレンは少し驚いたように言い、軽く手を上げて謝る。
リュカは一瞬だけリデルに視線を向け、わずかに息を吐いた。
──今の制御、悪くなかったのに。崩れた理由があまりにもわかりやすい。
◆
少しの間を置いて、リュカが口を開く。
「……体内魔力の制御なら、僕よりグレンの方が上手いよ」
ティーストレーナーを構え、静かな手つきでカップに紅茶を注ぎながら言った。
「えっ。リュカさんより……!?」
思わず声が裏返るリデルに、グレンは椅子にだらけたまま肩を揺らす。
「ていうか俺、それ以外の魔法はほぼ使えねぇけどな」
椅子にだらけて座り、興味なさそうな声で言う。
その直後だった。
リュカは何の前触れもなく、カウンターの上に置かれていたティーカップ三客を浮かせ──
一斉に、落とした。
「えっ……!?」
驚きの声が上がるより早く、白い陶器は空を切る。
だが、割れる音はしなかった。
落下するはずのカップはすべて、グレンの両手に収まっていた。
片手にソーサー三枚、もう片方にカップ三つ。
「速……っ!?」
リデルは目を見開いたまま、息を呑む。
「これも魔力制御の応用。身体強化だよ」
リュカは何事もなかったかのように言った。
「お前な……」
グレンは渋い顔をする。
「次はそのまま落とすからな」
「……落ちる可能性は、計算に入れてなかった」
感情のない声でそう言いながら、リュカは紅茶を注いだカップを差し出した。
「グレンさん、すごい……!」
思わず感嘆がこぼれる。
リデルの瞳は、先ほどとは別の輝きを帯びていた。
「……グレンの身体強化は特別だから、今は真似しなくていいよ」
熱を帯びかけた空気を切るように、リュカが言う。
「リデルがやるべきなのは、動揺しても魔力を揺らさないこと」
先ほど、グレンが現れた途端にスプーンを落とした事を注意する。
リデルは小さく息を吸い、俯いた。
「……はい」
グレンはカップを元の位置に戻し、紅茶を一口啜る。
「ま、焦るな」
気の抜けた声で、それだけ言った。
その一言は、叱咤でも慰めでもない。
だが、リデルの胸に張りついていた緊張を、ほんの少しだけ和らげた。
◆
それから練習は順調──とは言いがたいが、
リデルなりに少しずつ、確かに安定してきていた。
カウンターテーブルの上、指先から離れた位置で、ティースプーンが宙に浮かんでいる。
金属は微かな震えを含みながらも、落ちることなく留まっていた。
呼吸を整え、肩の力を抜く。
店内は静かだった。
古い木の匂いと、淹れたての茶の香りが混じり合い、外界と切り離されたような空気を作っている。
「……いい。今は揺れてない」
リュカが落ち着いた声で言う。
カウンターの内側にいる彼は、リデルの指先ではなく、その表情を見ていた。
「視線は固定しすぎない。物を見るんじゃなくて、状態を見る」
「……はい」
短く答えながら、リデルは頷いた。
集中は続いている。だが、長くは保てない。
それでも以前より、確実に時間は伸びていた。
そのとき、木のドアが開いた。
ベルの音とともに、外の空気が流れて来る。
「店主くんに会いに来たよ〜!♡」
弾んだ声で、リリアンがカウンターに向かう。
陽の光を連れてきたような明るさに、空気が一瞬で変わった。
「こんにちは!」
その後ろから、カイルが入ってくる。
カウンターの状況を一目で察し、はたと足を止めた。
「……魔法の講義中なら、出直しますか?」
気遣うように店主のリュカに尋ねる。
その気遣いが、逆にリデルの意識を引いた。
(さっきまでやってたように……っ、できるところを見せる……)
見せたい、なんて思った瞬間に指先が重くなる。
気遣いなどされなくてもやれる、と肩に力を入れるほど
今、誰がどこに立っているか。
視線の動き。足音。空気の揺れ。
周りの状況が気になった。
浮かせていたティースプーンが震える。
「……っ」
揺れを抑えようとした瞬間、逆に魔力が偏り、揺れが大きくなる。
リュカはその変化を見逃さない。
「今のは、魔力の問題じゃない」
静かな声だったが、はっきりとした指摘だった。
「周囲を意識しすぎてる」
リュカは棚の一角から、小さな魔道具のランプを取り出す。
真鍮の台座に、曇りガラスのシェード。
中に嵌め込まれた魔石が、淡く光を宿している。
ランプを点けると、店内の空気に溶けるような光が灯った。
「これは近くの魔力の乱れに反応する。
暴走はしない。ただ、下手をごまかせないだけ」
リデルが改めてティースプーンを浮かすと、
ランプの光が、ちらちらと揺れた。
「へえ、きれいだね。店主くんが作ったの?」
リリアンが身を乗り出す。
「あ、今は集中させてあげましょう」
カイルがそっと制止する。
ランプが揺らめくように一度、明滅する。
(ランプが……!失敗するところを見られたくない……
違う……!周りに意識を向けないように……!)
周りを気にしないようとすればするほど
スプーンから意識が散っていった。
カイルの視線は、値踏みするものではなかった。
それがわかるからこそ、余計に意識してしまう。
グレンは、椅子に腰掛けたまま気怠そうな表情で静観している。
ランプの光は不規則に、忙しなく点滅する。
集中は完全に途切れ、
ティースプーンは力を失って、硬い音を立ててカウンターに落ちた。
リデルは黙って、視線を伏せる。
店内に、失敗を責めるでもなく、評価を下すでもない、
居場所のない沈黙が落ちたとき――
グレンは椅子にもたれままぽつりと言った。
「周り見えてんのは悪くねぇよ」
いつもと同じ、力の抜けた声だ。
「だが、真面目すぎだ」
肩をすくめるようにして続ける。
「全部相手にしてたら、身がもたねぇ」
その一言で、場の空気がすっと落ち着いた気がした。
リデルは深く息を吸い、吐く。
周りを見ない、ではない。
周りを把握したまま、切り捨てる。
再び、ティースプーンが宙に浮かぶ。
今度は、揺れない。
金属は静かに空中に留まり、
ランプの光も、微動だにしなかった。
「……」
リュカはしばらく黙って見つめ、やがて頷く。
「今のが正解。良くなってるよ」
リデルは大きく息を吐き、
照れくさそうに、それでも確かに誇らしげに頷いた。
「店主くんかっこいい〜♡
リデル、成長してるねえ!」
リリアンが楽しそうに言う。
カイルもまた、その様子を見て安心した表情を浮かべる。
それから、自分も焦らずに努力を重ねようと気を引き締めた。
グレンはカップを持ち上げ、紅茶を一口飲む。
◆
「そうだ。カイルはもう体調、いいの?」
カイルの紅茶に蜂蜜のポットを添えて差し出すリュカ。
「ええ、おかげさまで。ご心配ありがとうございます」
気恥ずかしそうに控えめに微笑むカイル。
「え!カイル風邪ひいてたの!大丈夫?」
──リデルの練習とは程よく距離を置き、会話をする面々。
リデルも会話の隣が聞こえても集中を切らさずに保てている。
リュカはそんなリデルにに少しだけ目をやり、
無表情の中にほんのわずかだけ──微笑みを滲ませた。
そして。
「お、いいじゃねぇか。リデル、順調だな」
背後を通ったグレンが身を乗り出し、何の気無しに声をかけた。
リデルの肩が跳ねる。
ティースプーンがゆらゆらと揺れ
ランプが忙しなく明滅する。
明らかに魔力が乱れた。
「……今のは、グレンが悪い」
リュカは淡々と告げる。
「えっ、俺か!?」
「うん、どう見ても今のはオジサンだね〜」
横で見ていたリリアンが笑う。
「練習のために敢えて負荷をかけたのかと……」
苦笑いするカイル。
深緑の古書店には、
再び、いつもの暖かな時間が流れていた。
練習のためにリデルを動揺させるギャグ回(後から来たリリアンとカイルに勘違いされるオチ)になる予定でした。
嫌がらせに近くなったのとグレンが損な役回りすぎたので、大幅に捨てて書き直しました。




