第3話 夜の校舎
昨晩、あの奇妙な幻覚に頭を悩ませた咲空は、いまだにその光景を忘れられずにいた。
そして今、夜の9時。昨日の予告通りオカルト研究会の七不思議調査が、静かに始まろうとしていた。
月明かりが校庭を青白く照らし出し、蝉の声すら止んだ夏の夜に、咲空は小さく息を吐きながら問いかける。
「……で? 夏休みの夜の学校に、どうやって入ったんだよ。鍵は?」
その隣で、黒江は意味ありげに微笑むと、わざとらしく人差し指を立てた。
「ん~、そこはまあ……クラスの文芸部から借りたってことで?」
「“借りた”って言い方、すげー怪しいんだけど」
「だって仕方ないじゃん?その子の正体、知っちゃってさ~。ね? 弱みって便利だよねぇ」
咲空の眉がぴくりと動き、険しく寄せられる。
「お前、脅したのかよ……」
「やだなあ、ただの“お願い”だってば~。しかもさ、万が一見つかっても安心。私の知り合いの親がね、ちょっと警察方面にコネがあるから」
そう言って黒江は、まるで鍵を操るマジシャンのように、ポケットから銀色の鍵を取り出し、月明かりの下でくるりと回して見せた。
「それに、立花ちゃんも県議の娘だし~ ちょっと入ったくらいで大ごとにはならないよ、多分だけどね~」
そのあまりにも無邪気な笑顔に、咲空は背筋を撫でられるような寒気を覚えた。
「……一線は超えるなよ。今だって黒に近いグレーなんだからな」
黒江は肩をすくめ、軽く笑って応じた。
「あはは、大丈夫だよ~。だって、そこのビビリ会長を見られなくなるのは、ちょっと困るし?」
その言葉に、まるで合図されたかのように、校門の陰から一人の少女がそっと顔を出した。
茜だった。肩をすぼめ、怯えたように辺りを見回すその様子は、まるで夜道に迷い込んだ子猫のように心細げだった。
「ほ……本当に行くの? 黒江ちゃん……」
「当然でしょ~!」と黒江は満面の笑みで応じる。彼女の明るさと対照的に、茜の肩が細かく震えだす。
「茜ちゃん、もしかして怖いの? あっ、それなら……お守り、あるよ~」
姿はそう言いながら、鞄の中をがさごそと探り始めた。その表情はにこやかで、どこか得意げだ。そして次の瞬間、彼女が取り出したのは――。
「……藁人形じゃん!! 近づけないでぇぇぇぇ!!」
茜は思わず叫び声を上げ、顔を青ざめさせながら大きく後ずさった。目は完全に恐怖で見開かれ、体を小さく縮こまらせている。
そんな騒動の中、咲空はふと姿に目を留めた。
「……お前、今日もそのお面なのな。くまって、どんな基準で選んでんの?」
姿はくまの面をつけたまま、無言で首をかしげる。その仕草はどこかシュールで、返事になっているような、いないような曖昧さを残す。
その空気を切るように、咲空が周囲を見渡し、眉をひそめた。
「……で? 健人のやつは?」
その問いには姿は答えず、代わりに黒江が軽く手を上げて応じた。
「ああ、森林公園に宇宙船らしきものが落ちたって聞いて、そっち行ってるみたいだよ~」
「自由だな……俺もサボればよかった……」
咲空はぼそりとつぶやきながら、夜の校庭を見上げた。ひんやりとした空気の中、月が冴え渡る。校舎の窓という窓はすべて黒く沈み、まるで闇の口を開けて、何かを飲み込む準備をしているようだった。
「それじゃあ、校舎に入るけど……七不思議って、皆は把握してる~?」
黒江が軽い調子で問いかける。
「知らないし、興味もない。サボればよかったと後悔してる」
咲空は目を逸らしたまま、冷めた声で返す。
「うん。咲空はそうだろうね~。じゃあ、立花ちゃんは?」
「ええと……本校舎の東階段の鏡に、夜映ると異界に消える――だっけ?それぐらいしか知らないよ」
「おお、3番めのやつだね~ 茜は……まあ知らないよね~」
黒江は笑いながら、指を折って数え始めた。
1. 第3保健室の人体模型
北校舎にある古い保健室の人体模型が、夜になると勝手に場所を移動しているらしい。
2. 夜中のチャイム
誰もいないはずの深夜に、校内チャイムが突如鳴り響くという現象。原因は不明。
3. 東階段の鏡
本校舎の東階段にある大きな鏡。夜にそれに映ると、二度と戻れない異界に取り込まれるという。
4. 音楽室のピアノ
真夜中、誰もいない音楽室で、ピアノがひとりでに旋律を奏でるという噂。
5. 第2体育館の靴音
閉館後の体育館で、駆け回る足音が聞こえることがある。だが中には誰もいない。
6. 旧校舎の幽霊
今は旧校舎は取り壊され、美容科の新校舎となっているが、その廊下で黒い服の幽霊を見たという話が残っている。
7. 語ってはいけない最後の不思議
最後の七つ目。その正体を知ること、語ること自体が禁忌とされている。
「七不思議なのに、七つ目がわからないとか……その時点で十分不思議だろ」
図書館裏の搬入口で鍵を開ける黒江の背中を見つめながら、咲空は小さく笑った。
「ま、バカバカしいくらい凝ってるところは嫌いじゃないけどな」
図書館の搬入口から校舎内へ入るメンバーの最後尾で、咲空は呆れ半分にぼやく。
このとき、校舎に足を踏み入れるという選択が、やがて異変の始まりとなることを、誰一人として予想していなかった。