五〇三高地の戦い
銃弾が飛び交い、塔のガラス窓は砕け散っている。
『こちら五〇三高地。敵方の攻勢により状況は劣悪です! ルーデル大佐』
報告するすぐ横で仲間が胸を撃ち抜かれていた。「リスター!」
「構わない……俺を放ってお前は先へ行け」
直後、彼は絶命する。左手には恋人との二人きりの写真が握られていた。
「すまない……」俺は彼に両手を合わせると、意を決して窓から飛び降りる。堅い土に着地した瞬間、激しい弾幕が俺を襲う。それは矢継ぎ早に投げられたナイフのように、明確に命を狙って俺の胸へと一直線に突き進む。咄嗟に伏せ、塹壕のようなくぼみに身体を滑らせる。
『オーバー。こちらルーデル。通信を確認した。貴殿の作戦成功を祈る』
胸に付けたトランシーバーから、やっと上長から指示を受ける。が、これはもはや指示ではない。ある種《自殺しろ》と言われているような内容だ。平地でぬくぬくと指示を出しやがって。この機械を粉々に破壊してやろうか。
しかし、残念ながら俺は一兵卒であり、作戦に異議を申し立てる身分ではない。上長の指示を懇切丁寧に拝借して、バカみたいに命を落とすだけだ。しかも増援もよこさず、俺を完全に見捨てる気と来た。
俺の人生はここで終わってしまうのか。それは嫌だった。腹いせに銃を一発、適当に引き金を引いた。直後、悲鳴が聞こえた。どうやら一人の人生を奪ったらしい。すまないな。今は幽霊となっているであろうその男に声かける。俺はまだ、死ぬわけにはいかないのさ。
この作戦のゴールである、我が国の姫を助けるために。
仕方ない。俺は本気を出すことにした。
同時にリロードのためか、銃撃の雨が一瞬止んだ。この瞬間だった。
「さあ、死ぬときは死ぬ時だ。一発、勇気出すか」
俺は奮起すると、背中の翼をはためかせた。鷲のように大きく、鷹のように強く。敵は分かりやすく慌てふためいていた。それはそうだ。生きながら空を飛ぶ人間なんているわけがいなかった。しかし、流石は熟練の兵士。次の瞬間にはもう銃弾が翼を掠めていた。
「それは話が聞いていない。じゃあ、奥の手を出すか」
俺は仕方なくポケットに手を突っ込むと、折りたたまれた金属を取り出し、開いた。それは高性能爆弾であった。俺は高速で敵の陣地まで飛び込むと、上空から落とし物をするように爆弾から手を放す。直後、爆風と閃光が地上から走った。
「ははは。ざまあみろ。俺の手に敵わないものはないのだ」
しかし、よく目を凝らすとあの衝撃から生き残っている人間がいるではないか。地面の凹みから手を伸ばすようにして這い上がる敵兵が湧いていた。
「何を小癪な。そんな人間には、こうだ」
だから俺は、今度こそ根絶するためにポケットからミサイルを取り出すと、それを地上に投げつけた。刹那、耳が破裂しそうなほど高音が走る。自分の翼がもげそうなほどの威力だった。
「また這い上がってこられると面倒だから、念入りに毒でも入れておくか」
まったく、俺はいいアイデアを思い付いた。これもポケットをまさぐって、アジサイの花束を取り出した。有名な化学物質はすでに相手方も対策しているはずだから、するなら自然にできたものがいい。俺はそう思って、花束のアジサイをミキサーにかけるように千切り果て、液体にするとそれをスプリンクラーのように散布した。
「だから俺に敵いっこないと言っているのだ。ははは」
その調子であっさり牢獄に潜入すると、まもなく姫は見つかった。
「あなたは――最強の兵士・エルサー」
「どうもユレン姫。私がエルサーと申す者です」
初めて見るが、彼女は鼻が高く、また目もリスのように大きく、愛らしい。そして一国の姫という立場にあるのにもかかわらず、彼女の姿勢は謙虚そのものだった。
「ささ、私の背中に捕まって。早くここから逃げ出しましょう」
「私のために命を張ってくれて……ありがとうございます」
俺に対してこんなにも腰を低く接してくれているのは彼女が初めてだった。俺もいつも以上に言葉を選び、彼女を運ぶ時も振動が無いように気をつけて走った。俺の力は軍以外の人間は王国とあっても秘密裏ということだったから、力を見せびらかすことができないのが残念だ。
「本国はどうなっているのかしら。私がいないことで混乱を招いているのかしら」
「いいえ、大丈夫です閣下。たとえ混乱が起きようとも、私の力で祖国に平穏をもたらしましょうぞ。私の命は、国民の皆様のものですから」
背中で姫が涼しげに笑っていた。
「頼もしいですね。エルサー」
返事に困って、俺は咳払いで答えた。
ここから祖国に帰ると、きっと俺は凱旋を受けるのだろう。国を救った英雄、姫を助け出した勇敢な兵士。あらゆる動物の遺伝子が入った俺の身体を、数百万にも上る全ての国民が羨望し、たたえてくれる。国の資本家は俺をパーティーに招待し、政治家は俺に勲功を与える。新聞の見出しは俺一色でテレビをつけると二十四時間三百六十五日俺が映っている――なんと素晴らしきこの世界! 想像しただけで高揚するものがある。
「早く祖国に帰り、凱旋しましょうぞ」
俺は姫に言った。姫は肯定のしるしに、こんと頭を俺の背中にぶつけた。
「エルサー。あなたが居なければ、私は国の恥として囚われたままだったわ」
ふふ、と姫が囁いたのは、悪い気分がしなかった。
――ところで、何度お会いしてもユレン姫は美しい。それは事実、他国の伯爵が見惚れて手紙を送るほど、彼女の魅力は世界各地に知れ渡っていた。
――今なら、俺が姫を手にすることもできるのではないか。
「ユレン姫」俺はさっそく作戦を開始した。
「どうしたのですか?」何も知らない呑気な声が届く。
「少し寄り道していきましょうか」
「どうしてですか? 早く国元へ帰り民を安心させなければ……」
「いいのです。民草のことなど。王国の人間とは、少しくらい気を抜いても許されるのです」
「はあ……」彼女は釈然としないようだが、それでも頷いた。俺に命を預けてしまっている、という状況も合わさっているのだろう。
俺は牢獄を脱すると、人目のつかないところへ動いた。
「それで、これからどこへ行くのですか?」
「すぐそこに花畑があります。そこには七色に咲く花々があるそうです。一度ご覧になられてはどうかと思い、向かわせていただきます」
俺はほんの少しだけ馬の気持ちになって、地面を強く蹴り飛ばすように走った。
「エルサー。足が速いですね」
「ええ。姫をお運びするのに、時間がかかっては申し訳がありませんから」
花畑は数分でついた。俺は姫を下ろすと、彼女の隣に立った。
「どうでしょう。綺麗ではありませんか」
「……ええ、とても綺麗です」
彼女が花畑に視線を奪われているのをよそに、俺はこの状況に興奮を覚えた。……俺は今、あの姫の隣に立っているではないか? まるで姫と婚約した皇太子のように、俺は彼女の隣を占有しているのではないか!
そう考えると、一面視界の限りに咲く花々が国民の群衆に見えてくる。……そう、ここは宮殿。俺はバルコニーで民草を見下ろす立場にあり、隣には純白のドレスを着ている彼女がいる。民衆は俺を見上げ、喉が嗄れるほど称賛の声を上げる。まなざしを送る。
俺は学校の教科書に大きく乗り、《祖国を救った英雄・エルサー》として今後数百年、数万年にわたって愛される偉人となる。そのための第一歩が、この花畑でこの姫なのだ。
――太陽のように無限に輝く栄光が、すぐそこまで来ている。
「姫に伝えたい儀が」
俺は意を決し、姫の方を向いた。
「どうしたのですか?」俺の改まった様子を見て、彼女は顔を引きつらせていた。
「私は姫をお救いしました。敵の大群の中、二人で牢獄を脱しました。そして、今こうして二人でこの美しい限りの花畑を見ています。……この中で、私は一つ、決心をいたしました」
彼女の顔は緊張で見えなくなった。だが、それでいいのだ。一気に勢いに任せろ。これは栄光の第一歩、俺が永遠を手にする第一章なのだ。
「そこで、私は姫のことが……!」
「エルサー」突然話を遮るように、姫は口を開いた。
「どうしましたか、姫」
話の腰を折られ、興奮していた感情が冷えていく。
姫は、花々を見てこう言った。
「……そろそろ、民たちに私の姿を見せなければ」
姫は俺を見上げながら、優しいまなざしで、だが譲らない口調で言った。
「エルサー。私を連れて我が国へ帰りなさい」
待て待て待て。聞いていた話と違う。俺は牢獄に囚われ、窮地に追いやられた姫を救ったのだ。その栄光として、俺は姫と結婚するのだ。なのに、なんだこれは? いつの間にか俺は失敗しそうになっているではないか。……栄光の一段目から、俺は失敗するのか?
「エルサー。花畑は嬉しかったです。ですが、もうそろそろ私は戻らねばなりません」
「待ってください。私は姫のことを一番に思っております。姫のためなら死ねます」
ええい、もうなりふり構ってられない。俺はなんとしてもこの機会を逃すわけにはいかんのだ。何のために、俺は何のために動物の遺伝子を取り込んだと思っているのだ。
「そうだ、そうだ。これを見てください。姫」
俺は本気を出し、背中から翼を生やした。
「これで世界どこでも飛べます。大海原でも氷の大地でも大火山でも。姫が望むように、私は姫と共に世界を駆け巡ることができるのです」
更に畳みかけて、俺はポケットに手を突っ込んだ。
「さらにこれを見てください。これは高性能爆弾です。平時、姫を狙いに来る不届きものや祖国を亡きものにせんと狙う敵対国の兵士を、これで返り討ちにしてみせましょう。安心していただけるように、弾はポケットから何発も出てきます」
もう一押し、自分にできることをやり尽くせ。俺は自分に命じて最後の武器を取り出した。
「そしてこれは、花束であります。アジサイの花束。必要であればバラの花束、ガーベラの花束、キキョウの花束も用意できます。姫が見たい花を教えてくだされば、わたくしめがこのポケットからいつでもなんでもご用意いたしましょう」
そして、俺は姫に花束を差し出した。
「姫。婚約してください」
全力は尽くした。俺は、彼女に承諾されるものだと思っていた。
しかし、姫はそれを笑顔で断った。
「ごめんなさい。エルサー。私は、民草のものですから」
その瞬間、頭に昇るものがあった。
俺はナイフを取り出そうとして、ポケットに手を突っ込んだ。
手を引き抜いて、鋭利な刃を彼女に向けたその瞬間――
――大きな銃撃音と共に、身体がぐらりと横に揺れた。
撃たれたのか? なんだ? 何がどうした。混乱した脳で情報を整理する。
そして、視界の端で銃を構える男がいたことに気付いた。
なぜだ……そう思い、胸のあたりを見てハッとする。
しまった。トランシーバーをつけたままだったのだ。俺は身体が倒れながら、最後に花畑と驚いた様子の姫を見ながら、死にゆく恐怖と共に視界が暗くなっていくのを感じた。
二
ある生徒は祖国の歴史について、授業を受けていた。
その中で、【五〇三高地の戦い】が登場した。遥か昔、数百年前に隣国と戦争状態にあった我が国が、この戦いで快勝を収めたこと。そしてこれがきっかけで、自国に勝利がもたらされたこと。生徒は教師の話に熱心に耳を傾け、メモを取っていた。
ふと、教師が教科書の隅を指さして口を開いた。
「この戦いで大活躍を果たした、我が国の英雄が一人いる。その名前は【ザッケン・ルーデル】大佐として五〇三高地の戦いを指揮し、見事圧勝に導いた英雄さ」
生徒は教科書に線を引き、教師の言葉を記憶するようにメモを取った。ルーデル大佐。それが、この戦争の英雄らしい。すると、その様子を見ていた教師が雑談交じりに口を開いた。
「ちなみに、この戦いで【ウィッケ・エルサー】という兵士が大暴れしたそうだ。戦勝直後、彼は原因不明の射殺で命を落としたが、それでも大活躍した痕跡は素晴らしく、兵士の間で語り草となっていたらしい」
その言葉を聞いて、その生徒が手を上げた。
「先生。質問です。大活躍したのなら、なんで彼は教科書に載ってないんですか?」
「彼は英雄ではなかったってことさ。彼個人としては英雄に見えるけど、でも、国民から見れば彼は大多数の兵士の中でしかなかった。いつだって人は、自分以外はどうでもいい存在さ。だって、エルサーとルーデル、どっちが英雄でも俺たちの暮らしは変わらないだろう?」
それもそうか、と思った生徒はノートを閉じた。
@__Tougenkyou
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