5、リリーとエドガーのその後
リリーとエドガー、二人は茶葉を寝かせている小屋に来ていた。
そこでは夏摘みの茶の葉、いわゆるセカンドフラッシュの茶葉の乾燥と発酵が行われていた。
王都では、セカンドフラッシュの茶葉の人気が高い。だから、今生産している茶葉の出来が特に重要なのだ。
今日はその全工程が終わる日だった。
「さて、どんな出来かな。早速、飲んでみよう」
エドガーは、ティーポットに茶葉を入れて、コンロで沸騰させたお湯を注いで紅茶を抽出したのだった。
二つのティーカップに濃い黄金色の液体が注がれた。二人はティーカップを持ち上げて、顔を近づけた。
「香りはいいね」とリリーが言うと、エドガーは頷いた。
それから紅茶を口にすると、
「おいしいな」とエドガーが呟いた。
「これならいけそうね」
エドガーは紅茶を飲みながら、満足そうな表情をしたが、同時にどこか寂しそうでもあった。
彼のそういう表情は、今だけではなくて、この頃よく見るものだった。今まで彼女はそれが気になっていても、あえて聞かないでいた。
でもこの時のリリーは、紅茶がおいしかった安心感からか、つい口に出してしまった。
「なんだか寂しそうね」
「ん?」
「おいしい紅茶が出来たっていうのに、エドガー、なにか寂しそう。気のせいだったらごめん」
「あー。いや、気のせいじゃないよ。やっぱり顔に出てた?」
リリーは頷いた。
「紅茶が出来たのは嬉しいし、出来にも不満はないんだ」
「うん」
「それから、リリーが来てからずっと俺は楽しいし感謝してる」
「何、急に。お礼を言うのは私の方だよ。それに私も楽しい」
「それはよかった。でも楽しいからこそ、いつか、リリーがここを出ていくんだなと思って寂しい気分になるんだ。って、俺恥ずかしいこと言ってるな」
リリーは首を振った。
「実はな。リリーが来る少し前に、俺には婚約間近の相手がいたんだけど、彼女に急に出ていかれたんだ」
「そうなんだ。それはつらいね」
「その人が出ていく時に、俺の性格には難があるって言われてさ。学生時代、リリーにもいろいろ注意されたもんな。結局直せなかった俺が悪いんだ。それで酷く落ち込んでいる時に、リリーが来てくれた。それからは落ち込んでたことも忘れるくらい、充実した日々だった。でもそんな日々もいつまでなんだろうって……いや、悪い。こんな俺の勝手な事情を一方的に話して」
「勝手だとは思わないよ。それに私、あなたの性格に難があると思ったことない」
「ありがとう」
エドガーは、リリーが慰めにそういう言葉をかけてくれていると捉えたようだった。彼女は本心で言っていたのだったが。
エドガーは少しの間何かを考えて、それからまた口を開いた。
「でも、この茶葉が完成したのは良い区切りだろう。ある程度元手も出来ただろうし、独り立ちするなら応援するぞ。リリーは優秀だから、何をやってもうまくいくと思うし。俺の家にいるのもいろいろ気を遣うだろう。王都の家探しなら、いい人を知っているから紹介するし」
エドガーは、そんな言葉とは裏腹に、その表情はとても悲しそうだった。まったく嘘をつくのが下手なやつ。
「なあ、早い方がいいよな。明日にでも家を探しに行くか?」
「私出ていかないわ」
リリーは、自分でも思いがけず、そう口にしていた。
最近のリリーは、そろそろこの家を出ていこうかなと考えていたのだったが、エドガーの悲しそうな表情を見ていたら、不思議なことに、急にそうする気持ちが消えてしまったのだった。
「本当か。出ていかないって、いつまで?」
「いつって、別にずっと居てもいいけど。あなたが居て良いというだけ」
リリーの言葉を聞いてエドガーは驚いたような表情をした。それから、とても嬉しそうな表情になった。
「それって、俺と結婚してくれるってこと?」
その言葉を聞いて、今度はリリーが驚いたのだった。
「え、ああ、そういうふうにとれるのか」
「え? 違うの? ああ、俺の勘違いか。すまない」
今度はエドガーはわかりやすく落ち込んだ。
リリーは少し考えてから言った。
「いえ。考えたこともなかったから驚いただけ。それについて考えてみたけど、うん、私は嫌じゃないわ。あなたがいいのなら、私は喜んで」
そう言って、リリーはほほ笑んだ。
しかし後から考えると、リリーは自分がなんでそのことをすぐに受けいれたのかよく分からなかった。
リリーはエドガーを結婚相手、いや恋愛の相手としてすら、それまでに考えたことがなかったのだ。
ウェリック男爵家の広い屋敷のなか、エドガーの部屋から離れた部屋を居室にしていたとはいえ、同じ家に住んでいたのだからそういうことを考える方が普通なのかもしれない。しかしリリーにとって、エドガーは学生時代の知り合い、友達とまでは行かないけど気を遣わなくていい相手だと思っていた。
エドガーにそういう魅力がないという訳ではなくて、リリーがその種のことに疎いというか、勝手に自分がそういうことには縁のない人間だと決めつけていたのだ。
リリーは仕事をしているときが一番充実していて、あまりそれ以外のことに関心を持つことがなかったというのもある。
なのにエドガーとの結婚をすんなり受け入れられたのはなぜだろう。
リリーがそれを考えると、答えは意外とすんなり出た。
自分の結婚相手はエドガーでいい、そう思ったからだ。
それが答えと言えるのかは分からない。ただリリーはそれで納得してしまった。
何かを決める時に迷うのは、それより良い選択肢があるかもしれないと思う場合だ。でもリリーにとってエドガーより良い相手、それ以上に求めるもの、それは考えつかなかった。だからエドガーでいい、そう思ったのだ。
ただ単に、リリーが結婚相手に求めるものが少なかっただけかもしれない。でもそれも分からない。彼女にとって比較対象はなかったから。他に彼女が結婚しようと思える異性はいなかったし。
リリーがいいといっても、エドガーは自分なんかでいいのだろうかとしばらく不安そうにしていた。婚約間近で出ていかれたという相手に、性格に難があると言われたのが気になっていたのだろうか。
確かにエドガーの性格は貴族の令嬢から見ると、あまり「良くない」だろう。貴族たちのいう「優雅さ」とか「品の良さ」とかそういうものが彼にはあまりなかったから。かつて学生時代のリリーも彼のそういうところが気に入らなかった。
でもリリーが大人になって、花屋の人とか、貴族以外の人間とよく接するようになって、貴族でない人相手の方が、自分は接していて楽しいと思うようになった。そういう人たちは、なんというか自然なのだ。笑いたくなった時に笑い、嫌なことがあった時は怒る。その場にふさわしいか、それが周りにどういう影響があるか、それを一度考えてから笑ったり怒ったりする貴族を相手するのがリリーは疲れるようになってしまった。自分は貴族失格なのかもしれない。
そんなリリーからしてみると、エドガーの性格は自然だ。
貴族的ではないかもしれないけど、リリーは彼の性格の方が好きだ。
二人とも貴族という同じ身分で、性格の相性もどうやらいい、結婚相手としては思ったよりも適しているのかもしれない。
そうして二人は夫婦になったのだった。
日常生活も、茶葉生産の事業も順調なまま、数年が経った。
ウェリック男爵家の紅茶は、王都で流行に敏感な貴族たちを中心に早くも人気になっていた。それ以外にも、王都の商店で一般向けにも売り出していて、貴族でない裕福な人々も買えるようになり、なかなかの売れ行きだった。次はもっと、安く手ごろに飲めるタイプをどうにか商品にできないか、それが今の二人の目標になっている。
ある日、リリーの従兄アルフレッドがウェリック男爵家を訪れた。
「これが王都で評判の紅茶か。とても美味しいね」
「ありがとうございます」とエドガーは言った。
「それで、今日は何の用で来たの?」とリリーは尋ねた。
「なんだい? 用がなきゃ来ちゃだめなの?」
「はいはい。アルフレッド兄が来るのいつぶりかしらね。たしか半年は来ていない気が」
「だって僕もいろいろ忙しいんだよ。今日も何とか無理を言って来たんだから」
「そりゃそうでしょうよ、内務大臣様。そんな忙しいお方が、用事もなくこんな郊外の屋敷に足を運ぶ訳はないでしょ?」
「全くリリーには敵わないなあ」
アルフレッドはそう言って苦笑いして頭を掻いた。
「用件、そうだね。これも遅いって怒られそうだけど、子どもが産まれたんだったよね。おめでとう」
「ありがとう。もしかして、それを言うためだけに来てくれたの? それとも何かお祝いでも持ってきてくれたとか?」
「あー、これがお祝いになるといいんだけど。確か子どもは双子の男の子だったね」
「うん、そうだよ」
「ところで、君の実家が保有していたグラーブトン男爵の爵位がどうなったか知ってる?」
「え、急に話が変わるわね。爵位は、返上したんでしょ」
「その通り。それで返上したそれがどうなっているかなんだけど。実は、陛下にお願いして、今は僕が預かっているんだ」
「アルフレッド兄って本当に偉い人なんだね」
「似合わないかな?」
「いいえ。馬鹿にしてるみたいに聞こえたかもしれないけど、私、アルフレッド兄が内務大臣の間はこの国は安心って思っているのよ」
「急に褒めるじゃないか。なにか気恥ずかしいな」
「へへ」
「話を戻すけど、陛下からはもしふさわしい人がいたら、その人に与えてもいいと言われている。それで、君たちの子どもが双子だと聞いてさ」
「まさか」
「うん。グラーブトン男爵家、もっと言えばリリーの血を引く者にこの爵位をもらってほしいという思いが僕にはある。傍から見ても、それが筋じゃないかな」
リリーはエドガーの方をちらっと見た。
「私にとっては願ってもない話ですが」とエドガー。
「私も反対する理由はないわ」
「よし、じゃあ、その旨を陛下に伝えておくよ」
それから間もなくアルフレッドは帰っていった。リリーは、もう少し話したいし、本当は夕食でも食べていって欲しかったが、忙しいことはわかっていたので引き留めなかった。
アルフレッドを見送ったあと、お客用のティーセットなどを洗ったり、居間の片づけをしながら、エドガーはリリーに言った。
「よかったな」
「ええ。まあ、ご先祖様には一応顔が立つわね。でも個人的には、あんまり思い入れはなかったんだけどね。もう捨てた過去だったから」
「リリーらしいな。でも、俺的にはどちらに男爵位を継がせようという頭の痛い問題が解決したし、素直に嬉しいな」
「たしかにそうね。それは私的にも同じよ」
それからリリーはエドガーを見て、ほほ笑んだ。
「あなたはいつもちゃんと未来を見ているわよね」
「そうかな。確かに終わったことを振り返るのは苦手かも。進歩のない人間だと言われればそうだろうけど」
「いえ、良いと思うわ。そんなあなたとなら、これからもうまくやっていけそうだなって」
「なんだ。今日はいやに素直に褒めるね。さっき伯爵も驚いていたけど」
「別にいいでしょ。そういう日もあるの」
「悪いとは言ってないよ。どちらかというと、そんな日はもっと多くてもいいな。じゃあついでに俺もリリーと同意見だ。君と一緒なら心強い。信頼してる。これからもよろしく」
「急に何? 気持ち悪い」
「俺が言うのは駄目なのか」
「ふふ。そんなに困った顔しないでよ。冗談よ。あ、そうだ。紅茶の商品について思いついたことがあったんだけど、ちょっといいかな。見せたいものがあって」
「うん、なんだい?」
二人は話をしながら、居間を出ていった。
リリーとエドガーのいなくなった空っぽの部屋には、傾いた日が差し込んで、棚の中のティーセットを照らしていた。
二つの並んだティーカップが美しく輝いている。もう少し時間が経てば、隣にあるもう二つの少し小振りなティーカップにも日が当たるだろう。