2、リリーの向かった先
リリーは、家を追い出されると、ひとまず王都内の宿に泊まることにした。
彼女は謂れのないことで責められ、心当たりのない理由で家族から見放されて、ひどく傷ついていた。
しかし、彼女には終わったことを考えるよりも、当面差し迫った問題があった。それはこれからどうするのかという問題だ。
彼女が持ち出せたのは生活するための私物と、今泊まっている宿で一ヶ月程度暮らすだけのお金。たったそれだけだった。あとは私物にも売ればそれなりになるものも結構あるはずだけど。
しかしどちらにせよ、宿ではなく、どこか自分の住まいとして落ち着ける先を見つける必要がある。再起する時の元手をできるだけ残すため、宿代で手持ちを減らすのは避けたい。
住まいを頼れる人といって、リリーがまず思いついたのは、従兄のトーレスター伯爵アルフレッドだった。
彼は優しく誠実な人間で、私の話を親身になって聞いてくれる。私が親戚で一番信頼している人物だ。
でも……とリリーは思った。キャスリーンの手はそこまで伸びているかもしれない。
あの優しいアルフレッド兄にまで軽蔑されたらと考えると、リリーは恐ろしい気持ちがした。ちょっと勇気でないな。
他に誰かいるだろうか?
しばらく考えてみても、リリーはなかなかこれといった人物が思いつかなかった。
学生時代から卒業後も含めて、ある程度友達付き合いはあるにはあるが、気の置けない友達となるとあまりいなかった。仕事や勉強が好きな彼女の性格は、他の貴族からするとあまりに真面目すぎるらしい。彼女は貴族受けのいいように接するくらいには社交的だったが、その代わり、一定以上仲のいい友達というのはできなかった。
もちろん頼めば断られないような人はいることにはいるが、お互い気を遣うから申し訳ないし。あと、変な貸しを貴族の家相手に作りたくないし。
そんなことを言っていたら誰もいなくなるか。
いや、待てよ。
リリーはその時思いついた名前に、宿の部屋の中、一人で声を出して笑ってしまった。追いつめられた緊張状態で、変なテンションになっていたのだ。
あいつのことを考えつくなんておかしいな。いや、案外おもしろいかも。確かに、あいつなら気を遣わなくて済むか。
後から考えたら、この時の自分は本当に冷静さを失っていたのだなと思う。
リリーはそのテンションのまま、その相手に手紙を書いて、しばらく滞在出来ないか問い合わせたのだった。手紙を出した次の日には、どうにかして出さなかったことにしたい、と思うぐらい後悔した。
しかしすぐに、快く了承する旨の手紙が返ってきたので、リリーは自分のしたことを反省しながら、その家を訪ねたのだった。
「おお、久しぶりだな」
王都の中心部から馬車で少し行ったところにある、郊外のその屋敷を訪ねると、彼女にとって懐かしい顔がリリーを迎えたのだった。
彼はウェリック男爵エドガー。彼はリリーの学生時代の同級生で、卒業後に男爵位を継承したらしい。
「ええ。学生ぶりね」
「全く面倒くさいやつがきたもんだ」
エドガーはしかめっ面をした。
リリーはそう言われても、嫌な気分にはならなかった。むしろ「本当にそうね」って言いそうになった。だって、今の私どう見ても「面倒くさいやつ」だ。
彼女はその言葉で改めて自分が、学生ぶりに急に押し掛けて泊めさせろと言っている非常識な人間であることを自覚したのだった。
そんなことを考えて、扉の前で下を向いて立ったままでいたリリーに、エドガーが、
「何しているんだ。早く入れよ」と言った。
「いいの?」
「何が?」
「だって迷惑でしょう。仲が良かった訳でもない女がいきなり来て泊めろって。もし嫌だったら別のところに行くけど」
エドガーはいらいらした表情をした。
「ああ、相変わらず面倒なやつ。もう、早く入れよ」
そう言って、リリーが手に持っていた鞄を無理やり奪い取ると、それを持って家の中に入ってしまった。
「あ、待ってよ」
そうして、リリーはウェリック男爵家に滞在する事になったのだった。
荷物の運び込みが落ち着くと、エドガーはリリーを居間に呼んだ。
紅茶が出されるとリリーはそれを口にして、ほっと息を吐いた。
「温かいお茶なんて久しぶりだわ」
実際はそんなはずはないのだが、最近は心に余裕がなさすぎて、飲み物が温かいかすらあやふやになっていたのだ。それで、リリーは自分がどれだけ追いつめられていたかに気づいたのだった。
「急に押し掛けてごめんなさい」
「そりゃびっくりしたけどさ。でも、何かよっぽどのことがあったんだろ? 一体何があったんだ?」
「もちろん、それは話すわ」
そう言って、リリーは深呼吸をした。思い出すのも嫌だったが、事情を言わずに滞在させてもらうのは都合良すぎる気がした。それに、誰かに話を聞いて欲しいという気持ちもあった。まだ頭の中がごちゃごちゃで、うまく整理して話せるかはわからなかったが。
エドガーはリリーの顔色が悪くなったのを見て、
「嫌だったら別に話さなくていいけど」と言った。
しかしリリーは首を振った。
「いいえ、大丈夫。ありがとう。でも、話すなら今の方がいい。逆に今話さなかったら、余計に話しづらくなると思う。それよりこんなことを聞かせていいのかな。あまり楽しいお話じゃないから」
「そんなこと俺が気にすると思うか?」
「わかったわ。じゃあ話す」
そうして、リリーは事の顛末を話したのだった。
話しはじめると、リリーは止められなくなった。話は整理できていなくて、筋道も順番もめちゃくちゃだったと思う。
自分にべったりの弟。弟に紹介された婚約者。リリーはその婚約を良く思わないと、弟に話したこと。それが原因なのか、家族から、弟たちの結婚を邪魔する者扱いされたこと。
「私は自分の意見をただ言っただけ。私には何の権限もないのだから、そのまま『それでも俺は結婚するつもりだ』、そう言うだけでよかったのに。貴族の家の嫡男だったらそういうものでしょ。なんで私が邪魔したことになるの」
それから、やっていないことを様々、事実として言いふらされたこと。それを全部、家族が信じたこと。そのことで自分の立場がどんどん悪くなったこと。そして、結局家を追い出されたこと。
「それで、どこにも行くところがなくなって、ここに来たの」
リリーが話し終わり、エドガーの顔を見ると、今にも怒り出しそうな表情をしている。
彼はそれから一度、強く首を振ると、
「あり得ないだろ」と呟いたのだった。
それを聞いた瞬間、彼女は感情が激しく揺さぶられた。そして彼女の目からは涙が溢れ出た。
それは悲しいというか、ずっと胸の奥に押し込んでいた不安とか、苦しさとかそういうものが、一気に外に流れ出たような感じだった。
リリーは辛いことがあって、それを他人に相談したとしても、滅多に泣くことはなかった。相談相手が優しい態度で聞いてくれるのを見ると、この人は今、私に気を遣ってくれてるんだって考えて冷静になってしまう。ひねくれているのだ。
エドガーは思ったことを正直に言うやつで、学生時代はそれが嫌だったけど。彼との学生時代の思い出は喧嘩ばかりで、全然仲は良くなかった。でもだからこそ、彼が怒るとそれは素直な感情だとわかって、彼女の心に真っすぐ届いたのだった。
その一方で、エドガーの前で泣くのはリリーにとって恥ずかしくてたまらなかった。彼はそういうものを見せるような距離感の人じゃないのだ。だから「嫌だ。泣きやみたい」と思った。
いきなり家にやってきた人間が急に号泣するなんて、端から見たら、馬鹿みたいだ。だから笑って欲しかった。何泣いてんの?って。
リリーのそんな思いとは裏腹に、エドガーは泣いている彼女を真剣な表情で、何も言わずに見つめていた。彼女が泣くのは、決しておかしくない、当然のことだと言うように。
しばらくすると、彼はまた温かい飲み物を用意して、無言で彼女の前に置いた。
それは、スパイスが少し効いた、ほのかに甘い紅茶だった。
リリーは、それはやめてほしいと思った。そんなことをされると余計止められない。もっと泣いてしまう。
やがてリリーが泣き止み落ち着くと、エドガーは口を開いた。
「それで、やり返すのか?」
それは明らかに怒った口調だった。
リリーは、それについてちょっと考えてみて、首を振った。
「いいえ。もう私、あの家に関わりたくない。あの公爵令嬢、ああいうタイプの人って、関わるとどんどん泥沼に嵌まって疲弊するの。付き合うだけ損だと思う」
「そうなのか。女って面倒くさいな」
エドガーがそう言うのを聞いて、リリーは笑った。
「あなたって、そういうやつだったわね」
エドガーは嫌なことをされると、やり返す。殴られたら殴り返す。そんな風に生きてきた人間なのだ。
リリーはエドガーとの学生時代のことを思い出した。
彼女はエドガーとよく喧嘩していた。
彼は、学校内で何かと揉め事を起こして、リリーが注意することが多かった。貴族ならもうちょっと忍耐強く穏やかに冷静に行動しなさい。そんなことを彼女が言うと、毎回口論になるのだ。
学生時代のリリーは、貴族は優雅で高貴であるべきと考えていた。それなのにエドガーはそれとは全然違って荒々しく粗暴に見えたから、リリーは彼のことが気に入らないし、いろいろ言いたくなったのだ。
それにエドガーはリリーにだけ強く当たるように思えた。他の女の子には言わないようなことを言ったりしてくる。それが彼女は、自分が下に見られているようで本当に嫌だったのだ。
でも改めて今考えてみると、お互い子どもだったなって思える。
貴族社会の様々な陰湿なやりとりに比べればかわいいものだ。今のリリーには特にそう思えた。
「まあゆっくりしていけよ。居たいだけ居てくれていいぞ。ここに気にする人はいない」
「その、あなたには恋人とか婚約者とかはいないのよね」
「あたり前だろ。来ていいって返事した時点でわかるだろ」
「普通はそうだけど」
「俺が常識ないって言いたいのか」
「いえ、そういうことじゃなくて、学生時代のあなたのことを考えたら、私のことを女性だと思ってないんじゃないかと。野良犬か何かだと思ってたんじゃないかなって」
「野良犬って……」エドガーはそれをどういう意味で捉えればいいのか困った顔をした。「そんなわけないだろ。まあしばらく恋人とか出来る気配はないからさ。気にせず居てくれていいよ」
「ありがとう」
「俺なんかのところに嫁ぎたいやつなんかいないよな」
リリーはエドガーが、急に弱気なことを呟いたので驚いた。学生時代の印象からすると、そんなことを言うイメージがなかったのだ。
「どうしたの?」
「俺の性格とか、親からもいろいろ言われるし、それに……いや、こんなことどうでもいいな」
「別にエドガーは大丈夫でしょ。顔はまあまあ良いんだし。あなたみたいなのが好きな女性だっているんじゃない? 私は悪くないと思うけどな」
「からかうなよ」
そう言ってエドガーは顔を赤くして、立ち上がった。
「だいぶ夜も遅い。いろいろあって疲れただろうし、リリーももう休んだ方が良い。何かあったら召使いに言ってくれ。俺は寝るよ。じゃあ」
「うん」
そう言うと、エドガーは足早に居間を出ていってしまった。
リリーは自分が言ったことが気に触ったのだろうかと心配になった。でも私はからかったつもりはなかったんだけどな。
部屋を出ていくエドガーの背中を見ながら、彼女はそんなことを思ったのだった。