1、弟の婚約者に実家を追い出される
「リリー、お前、ジョージとグリーンベル公爵令嬢との結婚を邪魔しているだろう。二人が、お前のせいで結婚できないと言っている」
リリーは、父親であるグラーブトン男爵ジェームズに呼び出されて、そう告げられたのだった。
「なんのことでしょう。私には、身に覚えのないことなのですが」
「白々しい。見聞きした者が屋敷内に大勢いるのだ。家族だから大目に見ていたが、もう限界だ。お前はこの家から出ていきなさい」
「お父様、ちょっと待ってください。誤解なんです」
「いや、お前の話なんて聞きたくない。もう決まったことだ。早く出ていけ」
そうして、リリーは実家を追い出されたのだった。
リリーが、弟のジョージと公爵令嬢との結婚の邪魔をしている。
そんな噂が、少し前から家の中で流れていることはリリーも知っていた。でも面と向かって言われるわけではなく、陰でこそこそ言われているので違うと主張することもできなかった。
噂は日ごとに大げさになっていた。いつの間にか、彼女が弟の結婚を邪魔するためにあんなことをした、こんなことをしたという具体的な話が増えていた。最終的に、それらは噂ではなく、明白な事実になっていたらしい。でも、リリーに心当たりのある話は一つもなかった。誰かが、意図的にそういう話を吹聴して回っているとしか考えられない。
誰か? 自分でそう思っておいて、リリーは苦笑した。裏で糸を引いているのが誰かなんて。あの女しかいない。なのに、わかっていても、リリーにはどうすることもできない。
どうしてこんな事になったのだろう?
リリーは頭の中で事の次第を辿ってみた。発端は、弟のジョージが婚約者についてのある相談を私にしたことだ。
「姉さん、会って欲しい人がいるんだけど」
リリーの部屋に、弟のジョージがやって来てそう言うと、彼女は「またか」と思った。
ジョージは、何かあるたびに姉のリリーに相談しにくる。
いつも「自分で考えて決めなさいよ」と言うのだけれど、ジョージは「姉さんの意見を聞いておきたいんだ」と言って話しはじめるので、仕方がなく耳を傾けることになる。
今回もそうだった。
「俺、結婚しようと思っている人がいるんだけど、彼女に会ってくれないかなと思って」
「いつの間に。初耳だわ。それは嬉しいお話ね。でもなんで私が?」
「姉さんに判断して欲しいんだ。俺があの人と結婚してもいいか」
「何を言ってるの? あなたはもう成人してるし、この家の跡取りなのよ。自分で考えて、自分で判断なさい」
「わかってるよ、姉さん。でも今回だけ。ね、お願い」
「今回だけ」って、何度聞いた言葉だろう。
いつもリリーは、「もう大人なのだから」と言って、弟の頼みを断る。それで一旦は引き下がるのだが、またすぐ頼みに来る。そのうち何度も断るのは可哀想だと思って、話を聞き入れてしまう。ジョージはそういうふうに人に頼るのが上手なのだ。
だけど、結婚かあ。
リリーは、結婚は弟にとって自立するいいきっかけになるのでは、と思った。それに弟が結婚する相手がどんな人物か気になるのも事実だった。
「はあ。わかったわよ。今回だけよ」
「やった。ありがとう。姉さん」
ジョージはいつまでも子どもみたいだ。リリーの目から見ると、精神的にあまりにも幼く見える。これで先々大丈夫なのだろうか。
リリーはジョージの婚約者と会う前に、その人物の情報を侍女に調べさせた。
名前はキャスリーン。グリーンベル公爵の三女だという。
公爵令嬢? ジョージは随分、立派なお相手を見つけたのね。
リリーは、両親は大喜びだろうと思った。両親は家柄に対する信仰が強いのだ。私にも伯爵やら公爵やら、高位の貴族の令息と結婚してくれたらな、など願望をいつも語ってくる。
一方で、リリーは公爵令嬢と聞いて、あまり良いとは思えなかった。
なんで公爵令嬢様が、うちみたいなぱっとしない男爵家の息子と結婚しようと思うのだろうか。
何か良くない魂胆があるのでは? というのは私の考えすぎだろうか。
いや会ったこともない人を、そんな風に疑うのはよくないな。一度会って人となりを見てから判断するべきだ。
リリーはグリーンベル公爵の邸宅を訪れると、屋敷内の庭園に案内された。庭の一角に置かれたテーブルにキャスリーンと二人で向かって座り、出された紅茶を口にしたのだった。
キャスリーンは見目麗しい令嬢だった。肌理の細かい白い肌に、整った目鼻立ち、一目彼女に恋する男性も多いだろう。その上、公爵令嬢であることを考えると、申し訳ないけど、やっぱり弟と釣り合うとは思えない。
一つ親近感を覚えたのは彼女の髪色だった。リリーと同じ真っ黒の髪。王都の貴族としては、かなり珍しいし、リリーは自分の髪色があまり好きではなかった。でもキャスリーンみたいな美しい女性と同じだと思うと心強い味方を得たようで嬉しかった。
ただ不思議なのは、確かグリーンベル公爵家の方々は皆、煌めくようなゴールドブロンドの髪をしていたはずだということだった。家系のどこかにそういう血が入っていて、彼女に突然そういう特徴が表れたのかもしれない。
テーブルの上には真っ赤な大輪のバラが活けられていた。
「美しいバラですわ」
とキャスリーンはリリーに語りかけた。
「それはありがとうございます」
リリーがお礼を言ったのは、そのバラがリリーの家が生産したものだったからだ。
最近、王都の貴族の間ではバラを愛でるのが流行っている。リリーの家の農園で生産されるバラは通常より大きい花が特徴で、貴族たちにとても人気があった。そのバラの生産でリリーの家はかなりの収益を上げている。
「あなたの家の農園にはこんなに立派なバラがたくさん咲いているのかしら」
「出荷の時期になるとそうですね」
「それは素晴らしいわ」
「家の農園は広いので人手が必要です。時期になると家の者総出で収穫します。もちろん弟も。彼、何年も前、家で農園を始めた頃、バラ園が小さかった時からずっと手伝ってくれるんですよ」
「そう。それはいいわね」
「はい。改めて、愚弟とご結婚の約束をしてくださったとのこと、グラーブトン男爵家の者として、光栄に存じます。それにしても、まさか弟が公爵家のキャスリーン様とお近づきになるなんて想像できませんでしたわ。一体いつどのように、お知り合いになったのでしょう」
バラの話は単なる導入のようなもので、弟の話が本題だ。リリーはそう思っていた。それはキャスリーンも同じ考えだと思っていたが。
「さあ、いつどこだったかしら。よく覚えてないわ。それよりもバラ園のことですけど……」
リリーは、何度も弟の話を出したり質問したりしたのだが、キャスリーンはその度、露骨に退屈そうな表情をしてすぐ話を変えてしまうのだった。彼女がするのは、バラ園の話ばかりだった。
「あの、今思いついたことがあるのですけど。うちの土地で余っているのがあるのだけれど、そこもバラ園にしたらもっと収益があがるでしょう。そうではなくて?」
「ええ、そう思います」
「我ながらいいアイデアだわ。だって公爵家の土地で生産したら、もっと付加価値がつくはずです。今より値段を上げても売れるはずよ」
「はい」
「ちなみにグラーブトン男爵家の今の収支はどんな感じなのかしら」
リリーはそれに答えるのは気が進まなかったが、キャスリーンが結婚しようと思っている相手の家の情報を知りたいと思うのは自然だと思ったので教えた。
「立派な額ね」とキャスリーンは目を輝かせた。「でも、もっと増えるわ。楽しみね」
この人お金のことにしか興味がないのだろうか?
リリーはだんだんキャスリーンの性格に不安を覚えてきた。
キャスリーンが口にした話題に、バラ園以外のものも少しはあったが、それはリリーにはとても奇妙に思える内容だった。
「あなた香水何を使ってらっしゃるの?」とか、
「洗髪剤は?」とか、
「趣味はなんでしょう」
なぜかリリーについての情報を熱心に聞き出すのだ。
後は、弟についての話も少しはあった。それもリリーに絡んでの話であったが、
「ジョージはとってもあなたのことが大好きみたいね。彼いつも、あなたの話をしますのよ」
「お恥ずかしいですわ。いつまで経っても子どもみたいで、どうかと思いますが」
「いいじゃない。ほほ笑ましいわ。ねえ見て、私、髪を黒く染めたの」
そう言ってキャスリーンは髪を触りながら言った。
やっぱり地毛はゴールドブロンドなのだろう。それをわざわざ美しい金色を黒く染めてしまうなんて分からないものだ。私にはその色が羨ましいというのに。
「この髪、ジョージは気に入ってくれてるのよ。『姉さんみたいだ』って」
「え? ジョージがそんなこと?」
リリーはそれを聞いて、鳥肌が立った。私みたいに見えるのが良いって、ジョージは何を考えているのだろう。それにキャスリーンもそれを嬉しそうに話しているけど、私には理解できない。
「あら、もうこんなお時間。もっとお話したかったのに残念だわ」
案の定、リリーがキャスリーンと会ったすぐ後、ジョージが「彼女、どうだった?」と聞きにやってきたのだった。
「とても綺麗な人ね。それに家柄も素晴らしいし」
「そうだよね。じゃあ、結婚してもいいかな?」
なぜ私に許可を求めるのだろう? 意見を聞くまではいいけど、それは自分で決めなさい、とリリーは思った。
リリーは自分が、キャスリーンのことをどう思ったか考えてみた。
正直、良い印象はない。
話していてジョージに対する愛情は全くあるように思えなかった。酷い言い方かもしれないが、あるのは、お金への愛情だけ。それをジョージの姉である私に隠そうともしなかった。
はっきり言って私は彼女のことを好きになれない。
でも結婚するのはジョージだ。お金にしか興味がなくても、ジョージとうまくいけばいいし、グラーブトン男爵家の一員としてやっていければいい。私と仲が悪くても、その程度のことは、どこの家でもあることだろう。結婚を否定するほどの要素ではないと思う。
では彼女が、グラーブトン男爵家に嫁いで来て問題ないか。
リリーは、それは大いに不安だと思った。
一番の問題は、グラーブトン男爵家の現在の家業であるバラの生産である。
バラの生産は、リリーの発案で一から始めた事業である上に、今でもリリーが中心となって様々な采配をしている。そこにキャスリーンは干渉してくるだろう。私との価値観の違いで仲違いをして、もしかしたら私をバラの生産事業に関わらせないようにするかもしれない。それは大いにありえることのような気がした。それでも、うまくいけばまだいいけれど。
万が一、バラの事業が失敗したら? グラーブトン男爵家は落ちぶれるだろう。その時、キャスリーンはどうするだろう。
リリーには、キャスリーンがグラーブトン男爵家に嫁ぐ最大の理由は、バラの生産とそれが生み出している大きな利益に思える。それがなくなったら、彼女にとってこの家に居続ける意味があるのだろうか。彼女はグラーブトン男爵家を見捨てるのではないか? その後に、うちに何が残る?
私が悲観的に考えすぎているのかもしれないが、会った時のキャスリーンの言動を考えると、十分ありえる未来に思えてしまうのだった。
「私は賛成できない」
リリーはジョージだけでなく、自分の家に関わることでもあると思ったので、正直にそう言った。
「え?」
「やっぱり男爵家に、公爵家の方が嫁いでくるのは、いろいろと大変よ」
「なんでそんなこと言うの?」
ジョージはそれを聞いて、残念そうな表情をした。
ジョージは単純にキャスリーンのことが好きなのだろう。その彼に、こんなことを言うのは心苦しい気持ちにもなった。
「姉さんは、彼女のこと嫌い?」
リリーは、正直に「うん、好きではない」と言ってしまいたかったが、うるうるとした瞳で聞いてくる弟にそんなことを言うのは流石にできなかった。
「そういう話じゃなくて。グラーブトン男爵家はバラの生産で名を上げ、今や、ありがたいことに高位の貴族の方々にも一目置かれています。でも逆に言うとそれしかない。とても脆いの。それがなくなったら、貴族として何の力もない存在になってしまう。そんな家に公爵家の令嬢が嫁いでくるのは、私にはあまり良い事だと思えないの」
「姉さんは心配しすぎだよ。それに俺たちは愛し合っている。結婚するにはそれで十分じゃない?」
リリーはため息をつきたくなった。百歩譲って、キャスリーンの方も同じ考えなら、まだよかったのだが。
しかしリリーも譲歩しなければいけないところもある。
「これはあくまで私の意見。最後はあなたが判断しなさい。この家を継ぐものとして」
ジョージは梯子を外されて、途方に暮れた子どものように困惑した表情を浮かべていた。
しかし、少ししてから、
「わかったよ」とジョージが言った。
「そう。もう少し自分で考えて、あなた自身の……」
「結婚するのやめる」
「え?」
「キャスリーンとの婚約はなかったことにするよ。姉さんの言う通り」
「何を言ってるの。自分で考えてって言ったのに」
「これが俺の考えなんだ」
そう言って、すっきりとした顔で部屋を出ていく将来のグラーブトン男爵の後ろ姿を見ながら、リリーはこの家大丈夫だろうかと不安になった。
婚約を破棄するのは簡単にできることではない。しかし、現在ジョージがキャスリーンと交わしているのは正式な婚約ではなく、言ってみればその前段階だった。前段階というのは、本人同士の口約束でされた婚約である。
本人たちが口約束をする時点で親の理解を得ていることが多い。だから正式な婚約とあまり変わりはない。ただし正式なものではないので、何か特別な事情があればなかったことにはできる。実際、それはたまに聞く話である。
ジョージは婚約のことをすでに両親に伝えていて、間違いなく賛成されていただろう。
それなのに、親でもない姉の私の意見で婚約をなかったことにするというのは、いくら何でも周りの理解の得られることではないし、相手方に無礼でもある。
もし婚約を破棄するとしたら、親に頼んで何かそれらしい特別な理由を作ってもらう必要があるが、そんなことがあの弟や両親にできるのだろうか。あんなに公爵令嬢との結婚を喜んでいた両親が受け入れるとは思えない。そもそも、弟がそこまで考えて、「結婚するのをやめる」と言ったかというと、そうではない気がする。
リリーは、これから一体どうなるのだろう、と不安で一杯だった。
だから次にジョージに会った時に、彼が何ごともなかったように、
「姉さん、俺やっぱりキャスリーンと結婚することにしたよ」
と言った時には、リリーは肩透かしを食らったようだった。
でも、それは意外であるにしろ、リリーにとっては受け入れられることだった。
自分で決めたのなら私には言うことはない。やっと自分で考えられるようになったのか、と少し嬉しかったぐらいだ。
しかし、その後に弟の口から出てきた言葉はリリーにとって衝撃だった。
「姉さん、ひどいね」
そう言って、ため息をついて、大げさに首を振ったのだった。
「俺とキャスリーンの仲を引き裂こうとしたなんて」
「いきなり何? 何を言っているの?」
「姉さんは俺を独り占めしたいんでしょ。それで彼女に嫉妬して、俺と彼女との結婚に反対した。姉さんにはがっかりだよ。いつも俺のことを考えて、俺のためにいろいろ言ってくれると思ってたのに」
リリーは動揺した。自分の耳を疑うというのはこういうかと思った。
「え、どうしてそんな話に?」
「どうしてって。キャスリーンが教えてくれたんだ。そうだって彼女が言うんだから、正しいに決まっている」
「キャスリーンが? 私、そんなつもりは一切ないし、一回会っただけの彼女が私のことをそんな風に決めつけるっておかしくない?」
私がジョージを独り占めしたい? そんなことあるはずないじゃないか。いつも自分で考えて決めなさいと言っているのは私だ。私はむしろ、ジョージにもうちょっと距離を置いて欲しいと思ってたのに。
「もうやめてくれ。姉さんと話してると、姉さんの言うことが正しいように思えてきてしまう。彼女も、俺はもう姉さんとは話さない方がいいって言っていた。だからじゃあね」
そう言ってジョージはリリーのもとを立ち去った。
それからジョージはリリーを明らかに避けるようになった。それだけでなく両親も、彼女に対して冷たい態度を取るようになり、更には家の召使いたちも、よそよそしく接するようになったのだった。
あんなに、リリーにべったりだったジョージがまるで別人みたいになった。
何が起こっているの?
あまりに突然の変わりように、リリーはどうしていいか分からなかった。
自分の家にいるのに、急に独りぼっちになったようだった。
グラーブトン男爵家には、キャスリーンがしばしば出入りするようになった。
ジョージはキャスリーンに懐いていたし、両親も彼女を気に入っているようだった。
しばしば、居間からはキャスリーンとリリーの家族が楽しそうに話す声が聞こえてきた。しかし、リリーが所用でそこに入っていくと、その場がしんと静まりかえる。彼女がそこに居辛いように、皆わざと黙っているのだ。
リリーがキャスリーンと廊下などで顔を合わせると、彼女は毎回リリーにしか見えないように、ふふっと品良く笑うのだった。
そして、すれ違いざまに彼女から香ってくる匂い、明らかに彼女はリリーと同じ香水を付けていた。
ある時には、彼女が好きな本を彼女が片手に持っていることもあった。
まるで、キャスリーンがこの家でリリーに成り代わったようだった。
「私がいるから、あなたはもういらないわ」
キャスリーンの微笑みはそう言っているようだった。
それから、リリーが結婚を邪魔しているという噂が流れはじめたのだった。
やがて、リリーを抜きにした家族で弟の結婚式の日取りが決められ、準備が進められていた。多分自分はそこに呼ばれないんだろうなと彼女は思った。
こんな状況で、この家に居続けるのは辛かった。
だから、追い出された時はほっとする気持ちすらあった。
父親に呼び出され、家を出ていくように言われると、リリーは抵抗しても無駄だと悟り、大人しく支度をして出ていったのだった。