黒猫と迷い込んだ配達人
37歳。独身。高校を卒業してからずっと国内でも大企業と呼ばれる配送会社の一社員として生活をしてきた。お世辞にも良いとは言えない給料、しかし贅沢をしなければ生活ができる程度のそれにひとまずは安堵をしながら俺は毎日を繰り返していた。
朝は7時前には会社へ行き、当日配送分の荷物の整理、配送ルートの確認、荷物の積み込み。それが終わると全体集会だ。20年近く、同じことをしているのだからこの一連の朝の仕事に関しては手慣れたものだ。欠伸を噛み殺しながら部長の話を左から右へ聞き流す。安全、品質、迅速な配送、すでに耳にたこができるほど聞いた言葉。時計とにらめっこしながらそれが終わるのを待つ。
解散、という言葉で散り散りになる配送メンバー。配送地区は決められているので他のメンバーとはここを離れると会うことはない。配送が終わった者から退社してもいい決まりなので明日までその顔を見ることはないだろう。先ほど噛み殺した欠伸が、再度襲ってきたので上司に背を向け思いっきり口を開けた。その瞬間、隣の地区を担当している男が俺に話しかけてきた。
「よう、眠そうだな」
そいつの名前は桂木という。二次元の世界に行ったらその名前は要注意人物のそれだろう。
「ちょっと昨日夜更かししちゃってな」
ここ5年ほど音沙汰のない作者の、大好きな小説を読んでいたらとっくに寝る時間を過ぎてしまっていた。おかげで寝不足である。
「そうか、まぁ気を付けろよ。無理をしないで途中で少し寝ろよな」
「あぁ、ありがとう」
彼はまだ30になったばかりだっただろうか。初対面の時から敬語を使わなかった彼は、しかしそれが彼なりの距離の詰め方なのだと後に分かった。不躾な態度に最初は遠ざけていたが、今はそれに全く気にならないほど仲が良くなった。これはどうでもいいことだが、彼は既婚だ。羨ましかった。
社外に出てトラックに乗り込む。車内のメンソールガムを口に放り込み、両頬を叩く。よし、今日も頑張ろう。
配送の仕事というのは、楽そうに見えて案外重労働だ。配送物によっては荷物の重さはまちまちだし、配送先によってはその荷物を持ちながら長い階段を昇ったり、ずいぶん歩くこともある。そんな苦労をしながらも留守だった時にはもう本当に歯がゆい気持ちになる。最初は憤りを感じたものだが、今となっては配送順がずれてしまうことになるのでその面倒くささの方が勝ってしまっていた。頼むから時間指定をするならその時間は確実に家にいてくれ。
配送を終えて、会社に帰る途中にふと見慣れぬ鳥居を見つけた。ここが担当地区になってからもう3年の月日が経とうとしている。こんな所に神社なんてあったっけな。記憶を掘り起こしながら俺はその脇を通った。いや、あんな所には無かった。じゃあ最近できたのか?それにしてはずいぶん古臭かったような。俺はサイドミラーで後ろを確認する。しかし、もうその鳥居は木に隠れてしまい、見えなくなっていた。まぁいいか、そう思いながら正面に視線を戻すと、道路を小動物が横切るのが見えた。咄嗟にブレーキを踏む。反動で体が前につんのめる。すぐに視線をフロントガラスの外へ向けたが、そこに先ほど見た影は無い。もしかして轢いてしまったのか、血の気が引くのを感じながら車外へ出る。いない、どこだ。車の下を覗き込むとようやくその姿を見つけることができた。
「にょうー」
猫だった。黒猫だった。それも、変な鳴き声の。
その猫は俺に気付くと、すぐさま俺が来た方向へ走って行ってしまった。その後ろ姿を見送っていると奇妙なことに気付いた。尻尾が2本あったのだ。不審に思ったのもつかの間、その猫はすぐに闇の中へと消えてしまった。まぁすでに日は暮れて辺りは真っ暗だし、何かの見間違いだろう。眠いし。早く退社して今日は昨日の分もぐっすり眠ろう。俺は颯爽とトラックに乗り込み、その場を跡にした。
愛する我が家に帰ってきた後も、なぜかあの猫と鳥居の姿が気になって仕方が無かった。時短ができる配送ルートを常日頃から考えているものだから街の風景は目に焼き付けるようにして毎日を送っている。もちろん、神社なんてものがあれば覚えているはずだ。スマホのナビアプリでその鳥居があった場所を見てみたが、やはりそこには神社なんてものは無かった。というか、暗かったのにその存在が確認できたというのはどういうことなのだろうか。頭を悩ませていると都合よく桂木からメッセージが届いた。こいつだったら隣の地区なこともあって何か知っているかもしれない。今期のアニメの感想を求めるそれを無視しながら俺は聞いた。
『そんなことより平地区の農道の脇に鳥居があるの知ってたか?』
平地区というのは俺が担当している配送地区の名前だ。
『え?どうかな。そこ帰り道だから毎日通ってるけど神社があるなんて知らないな』
桂木でさえ、知らないとなるともう謎は深まるばかりだった。
『なにかあったの?』
『鳥居があった。あとそういえば近くに猫もいたな。変な鳴き声の』
『どんな?』
『にょうとか言ってた』
『それ猫じゃないでしょwww』
『ちょっともっかい見てくるわ』
『え、こんな夜更けに?』
時刻は22時を回ったところだ。翌日の仕事の為にいつも23時には眠ることにしているからまだ1時間ほど余裕がある。
『気になって眠れそうにない』
『じゃあ俺も行く』
『いいよ別に』
『いや、面白そうだし』
そんなわけで20分後に現地で待ち合わせをすることになった。
「おーう、お疲れぇ。早いな」
俺が現地に着くと、桂木はすでにそこで待っていた。
「だって車で5分だし」
桂木は得意げにそう言った。
路肩にそれぞれの車を停めて鳥居があった場所に向かう。
「でもほんとにあるの?何かの見間違いだったんじゃないの?」
「だからそれを確かめに来たんだろう」
「まぁ、そうか。確かに」
農道を徒歩で進む。車道から少し離れていたのでそこへ向かうには徒歩で向かう必要があった。田舎なので街灯はほぼ無く、月明かりだけで進む。
「一応、懐中電灯持ってきたけどいらなかったかも」
「そうだな。今日は満月だし」
視線の先にぼうっと明るいものが見えた。提灯のような温かみのある明かりだ。
「あそこだ」
俺の視線の先を桂木も追う。桂木もすぐにそれを見つけたようだ。
「なんだあれ」
「分からん。とりあえず行ってみよう」
鳥居の前に着くとその奥に石の階段があり、その両際に吊るされている紐に提灯が等間隔でぶら下がっていた。それは上に続いていき、階段の先はここからでは見えない。
「え、こんなところに神社なんてあったっけ」
桂木は混乱している。
「あったんだな。知らなかったけど」
桂木は、あれー?だのうーん、とか言いながら首を傾げている。
「とりあえず上がってみるか」
「え、行くの!?」
「行くよ、そのために来たんだろ」
「えー」
「来たくなければ来なくていいよ。俺一人で行ってくる」
桂木の返事を待たずに俺は鳥居をくぐった。くぐった瞬間、なぜか気温が少し上がった気がした。神の加護とでもいうのだろうか。
「ちょっと待って!俺も行く!」
そう言って俺の後を追ってきた桂木は、しかし鳥居をくぐる瞬間に何かにぶつかったように後ろへ倒れた。
「え?」
桂木は目をぱちぱちとさせながら俺を見ている。俺も桂木をただ見ることしかできなかった。
「なんで?」
二人同時に鳥居に近付く。腕を伸ばしてみると、鳥居の真下に壁のようなものがあるのが分かった。分かったが、それを見ることはできなかった。
「なんだこれ」
「というか俺も出られなくなったのだが」
「たしかに」
このままでは明日の仕事など行けようもない。まあ最悪、鳥居の脇の森を突っ切って出ればいいか。枝とか痛そうだけど。
「とりあえずちょっと上まで行ってくるわ。30分経っても戻ってこなかったら通報してもらっていい?」
「わ、わかった」
「じゃあ行ってくる」
「俺も森突っ切ってそっち行けるかどうか試してみる」
「あぁ、頼む」
桂木に向かって手を振り、階段を昇る。いったい、何段あるんだろう。上に目線を向けてもやはりその先は見えない。とりあえず一心不乱に階段を昇った。
10分は昇り続けた。普段から肉体労働をしていたおかげで体力はあった。見上げるとようやく階段の終わりが見えた。ようやくか、安堵しながら残りの階段を昇っていく。そしてついに目的の場所へ到着した。
だだ広い空間だった。しんと静まり返り、まるで世界から切り離されてしまったようだった。正面中央には大きすぎず、しかし小さくもないお社がある。そこに続く石畳を踏みながら辺りを見渡すと、階段を照らしていた提灯はこの敷地をぐるっと囲っているようだった。他には何もなく、ただお社だけがぽつんとそこにあった。神社だったら他にお守りを買う購買だったり、参拝前に手を洗う手水舎があるはずだ。それが無いのがいささか不気味だった。人の気配はまるで無く、ただ神様だけがそこにいるような。
急に気付いた。賽銭箱があるべき場所に誰かが立っている。その姿は遠目からでは男か女かさえ分からない。それに近付きながら声をかける。
「あの、こちらの神社の方ですか」
少し近付くとようやくその姿を確認できた。巫女服のようなものを着ており、こちらに背を向けている。長い髪が腰辺りまで垂れている。女性だろうか。
「あの、すみません」
人間であることに安心しながらさらに声をかける。しかし、その女性は何も答えない。お社の前に着き、その女性にさらに声をかけようと口を開きかけた時、お社の中から視線を感じた。全身の毛が逆立つのを感じた。悪寒だった。おそるおそるそちらに目を向けるとお社の中に大きな目が二つ見えた。なんだ、あれは。それから目を離せずにいると、
「やはり来てしまったのですか」
と、女性の声がした。急な音にひどく驚いて女性に目をやるとこちらを振り返っていた。その女性は切れ長の目で俺を見ていた。
「やはり、とは」
「いえ、こちらの話です」
それ以降、彼女が口を開くことはなかったのでこちらから質問を投げかけた。
「ここは、どこなのですか」
「そうですね、あなたたちにも分かるようにいうならば、間、ですね」
「間・・・?」
「世界の世界の隙間です」
「どういうことですか」
「残念ですが、あなたはもう今までいた世界に戻ることはできません」
「・・・え?」
「どうか、巻き込んでしまうことをお許しください」
そう言って彼女は目を伏せ、両手を合わせた。
「巻き込む・・・?」
その時、お社の中からまばゆいほどの光が溢れてきた。咄嗟に手でその光を遮る。視界が光で満たされていく中、かろうじて見えたのは先ほどの女性ではなく、一匹の猫だった。尻尾が2本ある、黒猫。
「ごめんなさい。ごめんなさい」
その女性の声でその猫は鳴いていた。いや泣いていた。完全に視界が光で満たされた後、次に目を開けた先に広がっていた風景は先ほどまでいた神社ではなく、透き通るまでに広がる青空と、血のようなどす黒い赤に染められた地面だった。
「どこだ、ここは」
俺は一人、そうつぶやいた。