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この作品には 〔残酷描写〕が含まれています。
苦手な方はご注意ください。

孤城の雪

作者: ふー

「さぁ! 俺たちコサック騎兵の出発だ!」


 村中から湧き上がる歓声。美しい娘の踊り。


 私を抱きしめる母。昔の武勇伝を語りだす父。


 そして、泣きながら私に花を渡してくれた愛する少女。




 そんな半年前の景色が、頭をよぎった。




 トルコ人が私たちの領土に攻めてきたとき、私は興奮に震えていた。初めて私はフメリニツキーのように、イェルマークのように、戦いで名を残し、祖国の英雄となる資格を得れると思った。今、私はクリミアの激戦地にいる。



 今日も黒海で爆音が響く。のぞき窓から薄暗い外の様子を見ると、どうやら輸送艦が英仏艦隊に襲われているようだ。陰鬱な景色を眺めていると楽しいことを思い出したくなる。だからであろうか、今私が故郷(ロディナ)を思い出したのは。


 英仏の100隻近くの連合艦隊を見てから7カ月。それからというもの、毎日およそ2時間おきくらいに大砲の音が聞こえる。波に乗せられて毎日数十、数百の死体が流れてくる。もはやこれも、包囲戦の日常となりつつあった。


 初めは毎回吐き気を催す悪臭を感じたが、今やその処理を淡々と行えるほど、私の人の心が失せてしまった気がする。戦争という悪魔は人を変えるようで、豚の死体を恐れていた私は既にいない。いるのは、肉を纏ったからくりの様な私だけだ。


 太陽がバルカン半島の方に沈み、月が故郷(ロディナ)から浮かび上がってくると毎夜のように自分の行いに苦しむが、日中にその虚しさを感じることはなかった。

 日中は、如何に生きるか、それを考えることで精一杯だった。




 しかしこの毎日も悪いことずくめではない。私は悪魔のような時間で、戦友とも呼べる友人を作ったのだ。「セルゲイ……見ろ。英仏艦隊だ」彼の名はドミトリー。モスクワよりも北、ノヴゴロドの出身だった。


 彼はセヴァストポリ要塞の中でも明るく振舞い、英仏艦隊が200隻の規模でやってきても何食わぬ顔で大砲を使い、見事フリゲートを1隻撃沈するなど、非常に豪胆な男だ。その性格は要塞内の士気を大いに高め、未だに持ちこたえられている理由の一つでもある。




 しかし、時々彼の性格を嫌悪する。

 私というのはどうやら悪魔になり切れないようで、昼には確かに悪魔だが、夜には信心深い1人の孤独な若者である。よく夜になって考えてみると、彼は戦争を肯定しているとしか思えない。

 こんな湿った薄暗い要塞に、誰が好き好んでいくだろうか? ひょっとしてこいつは、私たちを戦争に引きずり込む悪魔ではないのか?


 祖国の為に戦う、とは言うが。

 拷問したトルコ人は皆「貴様らが攻撃して来た」と繰り返す。その言葉はもしかしたら、本当は道を踏み外しているのは我々なのではないかと思わせる。そして、その外道は死ぬべきだ、という司令官の言葉が今深く突き刺さる。




 ひとたび息を吸い込み、余計な思考を排除する。

 しばらくの後、私は胸から双眼鏡を取り出し、仄暗い夜に黒煙を噴き出すおぞましい怪物を眺めた。


「どうだ? そっちは」

「大丈夫だ。それよりドミトリー。気になることがあってね」



 夜の思考は息で消せるほど浅いものではないようだ。

 冷静さを保ってくれるはずの夜が、私の思考を促し、むしろ冷静さからかけ離れた状態に私を誘拐した。夜の怖さは暗闇から戦艦がやって来ることでも窓の奥で雄たけびを上げながら死を恐れぬ兵士が突撃してくることでもない。恐怖で冷静さを乱し、私たちの未来のように諍いを起こすことだ。


 しかし一度生んだ言葉はまた母の体に戻ることはない。

 後悔の念を以て、私はドミトリーの言葉を待った。


「どうした? 友人よ」暗闇の中でも蝋燭に照らされて分かる、整った笑顔に気圧されそうになる。さて、どうごまかそうか。ここはいっそ、夜の自分に勢いを任せることにしようか。

「あぁ。どうしてお前は私たちを鼓舞するんだ?」



 ドミトリーの顔が曇る。私の言っている意味が分からないのだろう。

「気持ちはわかるよ。確かにそうだ」曇った顔で俯き、頭を掻く。



「いいか、セルゲイ。この戦いに祖国の未来がかかっているんだ。疑問を持つべきじゃない。俺たちは純粋に偉大なる大地を守るんだ」

 昼の私なら、彼のこの出まかせを受け入れたかもしれない。しかし今はそうではない。彼の綺麗ごとが鬱陶しく、また悪魔のおだて文句のようにも聞こえた。


 しばらく黙って考え込む。ドミトリーが何か声をかけているようだが、その言葉は一切私には届かなかった。しばらくすると、その言葉が愉快なジョークのようにも聞こえてきた。


 窓の外では雪がちらつき始める。細雪だ。春の真っただ中だというのに雪が降るなど、おかしなことだ。そしてそのおかしさは、ドミトリーの言葉に似たような雰囲気を帯びていた。


「人を殺して守るものなど、あるのかねぇ」私はそう呟き、ゆったりと起き上がる。そして自分が横たわっていた塔の最上階を目指し始めた。




 ふらふらと塔の上に立ち、舞い散る雪が彩る赤く染まった黒海と、黒煙を上げて白い閃光を放つ巨大戦艦をぼんやりと眺める。誰の顔も見えないが、恐らく必死の形相で戦っていることだろう。


 恐らく誰かが今血を流した。木製の甲板に倒れていることだろう。

 彼の脳内には誰の顔が浮かんでいるだろうか。母? 父? 兄弟? 娘? それとも愛する人? それを私が理解することはあり得ないことだった。




 徐々に浮かび上がってくる太陽が見せてくれた東の山々は、雪をかぶっていた。恐らくこの雪は更に酷くなり、今猛威を振るっている艦隊も撤退していくことだろう。また今日も死体が流れ着き、一つ一つ丁寧に埋葬する暇もなく焼いていくのだろう。だって、それが陸上の兵士たちの仕事なのだから。


 もう考えたくない。これほどまで精神を疲れさせる夜が、本当は悪魔ではないか? そんなことさえ思うようになるのは既に私の正気が失われている証拠かもしれない。太陽に向けて十字を切る。


 この狂気から救われる手段は唯一、神に祈ること。そうだと思うしか私はもはや救われないだろう。既に私は、狂気の歯車の一員なのだから。




 自分の狂気を自覚してからは、もう時間は早かった。私が気が付いたときには、戦艦の主砲は私に向けられていた。慌てて逃げようとしても、無駄だ。そんな声が耳の中に響く。




 そうか。神はもう、私の味方ではないのだ。最後に私が見たのは母でも父でも兄弟でも、愛する人でもなく、戦友のうろたえ、泣き叫ぶ顔であった。

 彼は人の心を失ってなどいなかった。しかしそのことに気づくのにはもう遅すぎたのだ。初めから狂気に満ちていたのは、私だけだったのだ。




 細雪は激しさを増し、要塞を白く飾り上げる。しかし彼の故郷で降る雪のように純白でなく、赤と黒の混じった雪であった。

 

 そしてその日、要塞は降る雪と同じ色の旗を上げた。

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