私はあなたを許さない!
「時間か。今日の講義はここまでとしよう」
白髪の目立つ齢にして五十を過ぎた顔の男が、講義の終わりを宣言した。
講義室から退出する学生たち。それを見送る白髪の男の名は、矢間田貞夫と言う。
矢間田貞夫は、明治時代に創設された私立法律学校を前身とする有名大学校・鵬聖大学の教授を勤めている。
「矢間田センセー」
「ん? どうした?」
「今の講義で分からないところがあって、質問したいんですが、いいっすか?」
「ふむ、何かね?」
講義を受けていた学生がフランクな調子で尋ね、これに矢間田が答えた。
丁寧かつ分かりやすい説明をする矢間田。この教授は学生に「気安く接するように」と頼んでいる。
説明を受けて得心した学生が礼をする。
「分かりましたセンセ、ありがとうございました。では失礼しまっす」
「……ふふっ、若者は元気があってよいな」
講義室を去る学生の若さあふれた後ろ姿に、齢五十を過ぎる矢間田が笑みをこぼした。
しかし、学生の未来を矢間田が憂う。今の日本は、二十歳を迎えた男子に兵役の義務が課せられている。いま矢間田に尋ねた学生は十九歳で、あと一年経てば徴兵だ。そんな未来を矢間田は憂いている。
日が沈んだ夜の九時半。事務作業を終えた矢間田が、帰宅するべく自家用車を停めている駐車場へと向かう。
キャンパス内の駐車場には、指で数えられる程度の車しか停まっておらず、駐車場内には矢間田一人だけがいる。矢間田が電子キーのボタンを押し、自家用車のロックを開錠するが、そこに一人の男が現れ、
「お待ちしておりました、矢間田教授。相談があるのですが」
車に乗り込もうとする矢間田を呼び止めた。
「……君か。なんだね?」
男を認めた矢間田が息を吐き、そんな矢間田に男が、周りに誰もいないことを見計らって現れた用件を伝える。
「来月に集会が開かれるのですが、主催側がどうにも頼りない。教授の力添えをお願いできないかと思いまして」
矢間田に頼む男だが、その眼は頼みではなく、一種の覚悟を決めた据わった眼をしていた。
男の視線に矢間田が顔を逸らす。それから目を閉じ、一呼吸おいて答える。
「私にまた、五・〇二騒擾事件を起こせと言っているのかね?」
「はい。お願いします。知啓に優れ、弁舌も立つ教授の御力が必要なのです」
「……いや、断る」
「なに?」
「あの事件まで私は、国に怒りを伝えるためには過激な手段も多少は已む無しと思っていた。だが、まさか一般人にあれほどの犠牲が出ようとは」
「…………」
「私は暴力を侮っていた。少し煽っただけで、人々があんなにも理性のない獣になろうとは。……私は手を引く。あの事件、私は後悔しているのだ」
断る矢間田の返答に、男の眼がますます据わった。
小心者が。そう男が心の中で毒づき、狂気を帯びた眼で矢間田を威圧する。
「虫の良いことを。教授、革命に血は付き物ですよ?」
「革命だと? 正当化するんじゃない。君たちのした事は革命じゃない、不満のはけ口を探しているだけのうっぷん晴らしだ。一般人に暴行を加えておきながら、どの面さげて革命などと」
「ハハッ、それも革命の内ですよ。流れた血の量こそが怒りです、革命です。教授、毒を食らわば皿まで。共に地獄へ堕ちましょう」
「地獄へは堕ちよう。私のしたことは絶対に許されぬことだ。だが、革命だのと吹いて暴れたいだけの君たちとは金輪際関わらん」
毅然とした矢間田からの絶交に男が告げる。
「我が身かわいさに日和るとは。教授、貴方には失望しましたよ」
捨て台詞を吐いて去った男に、矢間田が溜め息を吐いた。
車に乗り込み、帰路を走行する矢間田。この教授は、五月二日に起きたデモの暴走事件、通称五・〇二騒擾事件を引き起こした人物だった。
都内で大規模なデモ集会が開かれる。それを聞きつけた矢間田と今の男および男の同志は、爆発物や騒音を発する器具など、各自人々の不安を煽る物を持参して集会に参加した。そして政治への不満を拡声器にて表しながら、爆発に騒音に乱闘などを引き起こしたりすることでデモの暴走をあおる一計を図ったのである。
矢間田は少し暴れて怒りが政府に届けばいい、という筋書きだった。だが、起こってしまった暴走は御し難く、デモの参加者は次々に暴力性を露わにし、それに乗じて今の男および男の同志も野放図に暴れ回って一般人に暴行を加えた。
一般の人を助けるべく国に考えを改めさせるつもりが、却って一般人を傷付ける結果となり、後悔した矢間田は二度としないと心に誓った。
(今の国は明らかに間違っている。だが、どうすればいい……)
自宅に着いた矢間田が車から降りる。
矢間田は若者が好きである。そして、自分は人生の折り返しを過ぎている。兵役を課して過酷な未来を若者に背負わせようとする国を変えなければ、と日々悩んでいる。
だからデモを煽った。しかし失敗した。この罪が矢間田は許されるとは思っていない。暴動を引き起こした罪はいずれ自首するつもりでいる。そんな矢間田の前に、
「矢間田、貞夫だな?」
包帯で顔を隠した彼が現れた。
「そうだが、君は?」
「お前に親と妹を殺された者だ!」
彼・鈴鬼小四郎が、怒りをむき出しに矢間田の胸倉をつかむ。
「聞いたぞ。お前が、五月二日にデモを暴走させたんだってな」
「うぐっ……。そうだが、は、放してくれ……」
「放すもんか! お前があんなことしなければ死ななかった。このっ、極悪人め!」
閑静な夜の住宅街に、彼の怒りが響き渡る。
消灯している周りの家々に次々と明かりが点くが、興奮している彼はその状況に気付いていない。
矢間田が懇願する。この男は抵抗を何ら試みず、彼の折檻を甘んじて受け入れている。
「頼む、謝りたいんだ」
「謝る、だって?」
「ああ。だから、放してくれ……」
苦しむ矢間田に彼が手を放した。
ゴホッ、ゴホッ――と、矢間田が咳き込みながら膝と手を突き、白髪の目立つ頭を下げる。
「誠にすまなかった」
「……っ!」
「許してくれるとは思っていない。なんなら殺してくれ」
詫びた矢間田に彼が動揺した。
彼は矢間田が、人の命など虫けら同然に扱う極悪人と思っていた。それが素直に反省を示し、殺してまでいいと詫びるものだから驚いている。
矢間田は真に詫びている。大学の教え子よりも更に若い少年。己のしでかした罪が、目の前の少年の未来を奪ってしまったことに悔いている。これに彼が、妹の最期の声を心中で思い出し、額を地面に擦りつける矢間田の頭を睨みつけるが、
「なんだなんだ。……えっ、ちょっと矢間田さん!」
「なに!? どうしたんですか矢間田さん!」
騒ぎに駆け付けた近隣の住民が、土下座する矢間田を目にして声を上げる。
ざわめく住民。これだけいては暴力など振るえない。
「このっ、卑怯だ……」
彼が罵りつつも声を荒げてしまった不覚を悔いる。
「ほほっ、殺さんのか?」
彼と矢間田を後ろから見ていた黒い巫女姿の子供が、彼に寄って訊いた。
一呼吸おく彼。それから子供に告げる。
「この状況じゃどうしようもない。それに」
「それに?」
「この人を殺したって、親と妹が戻るわけじゃない」
「ほほっ」
彼が諦め、続いて子供もこの場を後にした。
しかし、翌朝。彼に衝撃のニュースがもたらされる。起床した彼がニュース番組に目を向けると、矢間田貞夫の一家が殺害された字幕が画面に映っている。
規制線とブルーシートが張られた中継映像。それに映る家は彼が昨日矢間田の帰宅を待ち伏せていた家と同一だ。突然のことに彼が呆気にとられる。そんな動けない彼に、傍らにいる子供が因果を教える。
「あの男はの、粛清されたよの」
「粛清だって?」
「そりゃそうじゃろ。あれだけのことをしでかしておきながら、今になって罪を感じ、一人イモをひきおった。奴を信じてた者は裏切られたと思って当然じゃろ?」
「…………」
「そちが殺そうが殺さまいが、あの男は死ぬ運命にあったのよ。ほほっ」
憎むべき男が、彼の許しなく勝手に死んだ。
矢間田には罪を背負って欲しかった。罪に苛まれ、死ぬまで苦しんで欲しかった。その対象が忽然と消えた事実に、彼が愕然とした。