黒のイデア 終に堕つアンラマンユの識別証
(ええっ、なにあれ?)
(すごいよね。痛々そう)
(離れた方がいいんじゃない? ほら、うつるかもしれないし)
地下鉄に乗って大江戸ユメミヤグラへ向かう僕を、周りの乗客がささやき合っていた。
分からなくもない。僕だってほんの少し前までは眉をひそめてささやく側の人間だった。包帯にまみれた僕の姿はミイラさながらだ。関わりたくもないだろう。
体もかゆい。火傷の痕が僕の体をじくじくと苛める。しかし、掻くことは医者から止められている。それなので我慢する僕を、皆が離れた場所から浮浪者あるいは感染患者を見るような眼つきで見ている。
分かってしまう。僕は、世間からあぶれてしまった。ものすごく惨めだ。
(……くそうっ!)
憎い。みんな憎い。なぜ僕だけが、こんな目に遭わなければいけないんだ――。
「……着いた」
夜九時を過ぎ、逃げるようにして列車から降りた僕が、下を向きながら駅の改札を抜ける。
駅を出て地上へ出た僕が、高さ628メートルのランドマークタワー・大江戸ユメミヤグラを見上げる。流石は日本最高の建造物、青色にライトアップされた塔の真っすぐ夜空を貫く様に、僕はしばし見とれてしまった。
カラスは「待っている」と言っていた。僕が辺りを見回すが、カラスの姿など見当たらない。
ユメミヤグラのエントランスへ向かう。しかし、ここにもカラスはいない。
(やっぱり化かされたのか。……え)
僕が目を見開く。閉め切られているエントランスの自動ドアが、誘うように開いたのだ。
入っていいのか。中を覗くと誰もおらず、疑いながらも侵入し、静まり返った真っ暗なフロアを進む。
無人の受付を抜ける。すると、ぼんやりとした照明が点いた一画が奥の方にあったため、そちらへと足を進める。一画は大きなエレベーターの前で、僕が扉の前に立つと、
「……は?」
今度はエレベーターの扉が勝手に開いたため、つい間の抜けた声を上げてしまった。
広々としたエレベーター内部。四十人くらいは乗れるだろう。ためらいながら中に入ると、扉が自動で閉まり、エレベーターが上昇し始める。
ぐんぐんとエレベーターは昇る。高層へ向かっているのは分かるが、このエレベーターは僕をどこへ連れて行こうと言うのか。その未知なる不安に胸の鼓動が早まっている。
「……うわあ」
程なくして到着したエレベーターの扉が自動で開き、促されるままに降りると、その先にはキラキラと輝く階下の街が待ち受けていたため、僕が感嘆の息を漏らした。
受付を通り抜けるときに拝借したユメミヤグラのパンフレットを開く。地上350メートルの第一展望台、通称展望デッキ。今いる場所はたぶんここだろう。
階下の絶景を眺めながらデッキを進むと、またエレベーターがあって扉が開いたため、僕が中に入る。昇るエレベーターの先は一般客が行けるユメミヤグラ最高到達点、地上450メートルの第二展望台だろうか。更なる高層からの展望に期待してしまう自分がいる。
エレベーターが到着する。しかし、降りた先で僕は思わぬ人物に遭遇する。
「……うわっ」
「おおっ!? こ、子供ぉ?」
無人の第二展望台。そこで複数の男と鉢合わせしたために僕と男が互いに驚いた。
第二展望台は二階層となっており、らせん状のスロープを進んで下層から上層に登るのだが、そのスロープを上っていると、黒のスーツを着た体格の良い男二人と、その二人の後ろにいる男の計三人と出くわした。
まずい、ガードマンか。そう後ずさる僕に対し、男二人が怪訝な顔を浮かべて僕を凝視する。
「なんだ、この気味の悪いガキは。どこからここに入り込んだ?」
ミイラのような姿の僕を黒スーツの一人がけなしたが、僕を捕まえようとはせずにただ構えていた。
僕を捕まえないのか。ガードマンではないのか。訝しむ僕を後目に、後ろの男が前の黒スーツ二人に何か呼びかけている。
間もなくして、黒スーツの一人が、
「おいガキ」
ドスの効いた低い声で僕を呼ぶ。
「ここで見たこと、全部わすれるんだ。いいな?」
「……は?」
「誰にも話すな。ここで見たことが俺の耳に入ったら、お前の命はないものと思え」
「…………」
「分かったらどけ。道を開けろ」
脅された僕が端に退いた。
腹は立つ。だが、黒スーツ二人は悪い人相をしている。一度は病院の屋上から飛び降りようと思った僕だが、ヤの付く人と言っても差し支えのない風貌の男二人に逆らうほど命知らずじゃない。
黒スーツ二人と後ろの男が下層へと下りる。しかし、ちらりと見えた後ろの男の横顔に、
(えっ。あの人って)
僕が口を押さえて目を剥いた。
細めの目とちぢれた顎のひげ、特徴的な厚い唇。間違いない、テレビで見た顔と同一だ。黒スーツ二人の後ろに隠れていた男は、今の総理だった。
日本のトップが退出した無人の第二展望台。それを知った僕がスロープを見上げる。――ここは一体なんなのか、ここからさき僕なんかが進んでいいのだろうか、と二の足を踏んでいると、
「ほほっ、待っておったぞ」
スロープの上から子供が現れて僕を呼んだ。
悠然と現れた子供の成りに僕が目を瞬かせる。子供は巫女の格好をしていた。だが、現代の神社で見かけるような巫女の装いではなく、アイヌの人が着るような着物をまとっている。
髪型まで特徴的で、子供の成りを表すと弥生時代の巫女だ。そんなはるか昔から現れたような黒い装いの子供が僕を呼んだ。
「余はここの管理人にして時を超えし大御神、〝卑弥呼〟ぞ。着いてくるがよい」
僕が子供の先導でまたエレベーターに乗った。
エレベーターは更に上昇する。二度も言うが一般客が行ける最高到達点は第二展望台までだ。僕はその上にいま向かっている。
程なくして着いたフロアは真っ暗だった。ガラスから射す月明かりだけがフロアを照らしている。
フロアの中央まで足を進めた子供が、振り返って僕に告げる。
「ようこそ、闇に見込まれし沙門よ」
子供が傍らの丸いテーブルに乗った山積みの果物を、一つ手に取りながら僕を妙な呼称で呼んだ。
シャクッ――、とリンゴをかじった子供に僕が訊き返す。
「サマナ?」
「ほほっ。まずは名を訊こう。其方、名を何と言う?」
リンゴをほおばりながら僕の名を尋ねる子供。何なのだこの子供は。僕を待っていた、とはどういうことだ。
口調はうさんくさい。自らを「余」などと呼ぶ上に、名が卑弥呼なんてふざけているのか。それに成りがコスプレを通り越して不気味極まりない。
ここの管理人と言っていた。こんな子供がユメミヤグラの管理人なんてある訳がない。そしてカラスもいない。やはり化かされているのか。名乗らない方が懸命だろう。
「名前なんか、ないよ」
僕が気付く。僕は家族をすべて失った。
更に醜く変わり果てた。僕のことなんかもう誰も知らない。こんな今の僕に名前なんかない。
「名がないだと?」
僕の返答に子供が訊き返す。
「ああ。僕は家族も何もかも失った。もう僕の事を知る人はいないから、名前は捨てたよ」
「ほほっ、おかしなことをのたまうのぉ。捨てようにも捨てれるものではなかろうに」
「いいじゃないか、別に名前なんかなくても。知る必要あるのかい?」
「ほほっ、ほーほほっ。こいつは中々に傑作じゃ。其方のような粋がった子供、余は好みじゃぞ」
「君に好みとか言われても」
「余が名付けてやろう。そちは今から〝ボイド〟じゃ。名前もない心もない、空っぽのボイド」
「勝手に名付けるな」
「ほほっ、名を捨てたのであろう? なら名付けるのも勝手じゃろ?」
愉しそうに笑う子供に、僕が何を言うのも諦めた。
このような輩、人の話を聞くわけがない。まして子供だ。もう好きにさせておこう、と息を吐いたときだった。
子供がテーブルから丸い物を手に取る。またリンゴを食べるのか、と思ったが違った。子供が手にした黒い玉から異様な気配を感じる。何と言うべきか、凄まじいエネルギーを放っている。
僕が目を見張る。子供が右手につかんでいる闇よりも暗い黒の球体に。そして、子供がその右手を僕に差し出す。
「受け取るがよい。この玉を手にすれば、其方の怒り、恨み、憎しみ、哀しみ、全て晴れようぞ」




