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短編集

兄から婚約者を交換しようと言われたので、喜んで交換した話

「ユフィ、ほら、あーん」


 とろけるような甘い笑顔で、手ずから焼き菓子を差し出す金髪の青年。


 麗しいブルーの眼差しはこれ以上ないほど優しく、さりとて有無を言わせない視線で婚約者を見詰めていた。


「…………あ、あーん……」


 か細い声と共に口を開いたユフィは、真っ赤に熟れた林檎よろしく、羞恥を露わに焼き菓子を頬張った。


 彼の指まで食べてしまわぬよう、細心の注意を払って唇を動かせば、向かいの席から恍惚とした声が上がる。


「可愛い……清らかで美しくて奥ゆかしくて天使みたいに綺麗なユフィが…………僕に餌付けされてる……」


「ごほっ」


 やり過ぎだというほどに褒め称えた後、最後の一文で何もかも台無しにするのはいつものことだ。


 類稀なる美貌のわりに少し妙な性格をした第三王子ヘレイスと、国防の要たる侯爵家の令嬢ユフィ。


 白亜のテラスで白昼堂々イチャついているこの二人は、つい一週間前までそれぞれ別の人間と婚約していた者同士である。


 ヘレイスは伯爵家の娘と、そしてユフィは第二王子と結婚する予定だった。


 しかしながら先日、第二王子はへレイスの元にやって来てこんなことを言ったのだ。



『婚約者を替えないか? ユフィは騎士の家門出身のせいか、大人しすぎてつまらん。顔は良いんだが、俺の好みとしてはお前の婚約者の方が……』



 ああ何て馬鹿な兄だろう、婚約のためにどれだけの人間が水面下での争いを繰り広げてきたか全く考えていなさそうだな、そもそも自分の妻になる相手を何だと思っているんだこの遊び人──ヘレイスはいつも通りの笑顔を浮かべながら、内心で兄を罵りまくっていた。


 実際、第二王子は女遊びが激しいという評判しか上がらず、半ば無理やり侯爵家の娘であるユフィが宛てがわれたのも、彼の派閥が少しでも印象を良くしようと奮闘した結果だった。


 三人の王子のうち、未だ誰が次期国王になるか決まっていない状況下、貴族たちは自分の地位を確保すべく今日もあれこれ動き回っている。そんな彼らの努力を見事に無下にしようとしている兄に、事の重大さはもちろん理解できていなかった。


『いいですよ、ならさっそく書簡を送っておきましょう。僕はユフィ嬢の家と親しいので、きっと穏便に話してくれると思います』


(お前がどうなるかは知らないけど)


 満面の笑みと快すぎる返事に、第二王子は何の疑いもなく喜んでいた。




 一方へレイスの婚約者である伯爵令嬢も、なかなか頭に豪勢な花畑を構えた人だった。


『ヘレイス様はぁ、どうしてわたくしを選んでくれたんですか? やっぱりぃ、ユフィ様より可愛くて気も利くから?』


『消去法かなぁ』


『ひどぉい! もう、そんな意地悪言ってわたくしを困らせないでくださいっ』


『ははは』


 それは意地悪ではなくマジの回答だった。

 最も強い力を持つ家門、つまり由緒正しき公爵家の一人娘は、長兄である第一王子妃として既に結婚済み。


 次点で候補として上がるのが、王国の剣として長らく王家に仕えてきた侯爵家のユフィ。彼女は第二王子の派閥が大急ぎで確保してしまった。


 その次に来るのが、王家の血をうっすらと引く伯爵家だった。娘が砂糖と綿で出来てること以外は文句なしだったので、国王にオススメされたのである。




 実のところヘレイスは、ユフィが第二王子の婚約者となってしまった時点で、誰かと結婚する気を失くしていた。


『ユフィと結婚できないなんて、僕の人生はもう無意味だ。ゴミ以下だ。百歩、いや五千歩譲って第一王子殿下ならまだしも、よりによって無能の第二王子なんて』


 へレイスは三日三晩、寝室に閉じこもり呪詛を吐き連ね、それは世話をしていたメイドや侍女が次々ノイローゼになるほど鬱々しい光景だった。



 そう、ヘレイスはユフィが大大大好きだったのだ。

 病的なほどに。



 そもそも、ヘレイスの曾祖母が侯爵家出身だったこともあり、幼い頃からユフィとの交流はあった。


 端的に言えば一目惚れだった。


 淡いハニーブロンドの髪をふわふわと揺らして、緊張気味に頬を紅潮させながら初対面の挨拶をされた瞬間から、もう虜だった。


 ヘレイスより二つほど歳下の、ほっぺがぷにぷにした丸っこい女の子。舌っ足らずに一生懸命喋る姿や、ヘレイスの隣を小走りに付いて回る姿、それから少し大きくなり貴族らしい振る舞いを身に付けてからも可愛さは倍増するばかり。


 加えて騎士の血が流れているおかげか、彼女が時たま見せる凛とした眼差しに駄目押しの一撃を食らったへレイスは、もはや虫の息であった。


 結果、絶対この子と結婚する、と齢九つほどで決心したのである。


 しかしその決意を国王に表明しようとした矢先、第二王子の後見人がユフィを婚約者にしたいと申し出てしまったのだ。




「殿下……? あの、如何されましたか……?」


「うん? 何でもないよ、ごめんねユフィ」


 当時の絶望を思い出したせいで、不覚にもユフィと二人きりの時間に意識をよそに飛ばしてしまった。


 慌てて取り繕えば、ユフィがほっと笑顔を浮かべる。可愛い。いくつになっても可愛い。神の奇跡を凝縮して一身に受けたのではないかというほど破壊的な可愛さだ。


 ヘレイスはまた一つ焼き菓子をつまんでは、ユフィの慎ましい唇の前にそれを差し出す。


「殿下、私はその、もう昔のような幼子ではありませんので……っ」


「ユフィ、僕たちは婚約者なんだから、ヘレイスと呼んでくれと言っただろう?」


「えっ、あ……」


「ユフィ」


 愛しさを限界まで詰め込んだ声で呼びかければ、ユフィの透けるような白い頬に紅葉が散る。


(可愛い死ぬ。可愛さで殺される。可愛さは凶器だなんて知らなかった。いやしかしユフィにえいえいっと殺されても全く構わないというか寧ろ本望というかぶっちゃけ何をされても……何をされても!? 結婚したら何をされるんだ!? 何でも全力で受け入れるけどまずは手始めに膝枕がい)


 ヘレイスが爽やかな笑顔で気持ち悪いことを考えているなど露知らず、ユフィはおずおずと焼き菓子を咀嚼し、飲み込み。


「へ……ヘレイス、さま……」


「アッぐ」


「ヘレイスさま!?」


 恥ずかしそうに名前を呼ばれたことで冗談抜きに心臓が止まりかけたへレイスは、呻き声を漏らして顔を覆ってしまった。


「何でもない何でもない、ただユフィがあまりに可愛くて呼吸の仕方を忘れただけだ」


「ご、ご冗談は後にしてお茶をお飲みになってください」


「いやこれが冗談じゃなくて本当でね」



「──ヘレイス!!」



 それまでだらしなく笑っていた顔をスンと引き締めたへレイスは、無言でユフィの隣に椅子を移動させる。


 耳障りな声を聞かせないよう、ユフィの小さくて白い耳をそっと両手で塞いでやれば、神聖なるテラスにずかずかと不躾な足音がやって来た。


「へレイス、婚約者を元に戻せ!」


 案の定、それは顔面蒼白の第二王子だった。


 大方、自分を支持していた貴族たちと全く連絡が取れなくなり、ようやく失態に気付いたのだろう。今、第二王子の味方は伯爵家ぐらいしかいないのではなかろうか。


 対するヘレイスは元から侯爵家と仲が良かった上に、他の貴族たちとも一度の失態で崩れるような脆い関係は築いていない。ユフィと婚約を結び直したところで、大したダメージはなかった。


 へレイスは愚かな兄を困った笑みで迎え、少し気まずそうなユフィの肩を抱く。何て柔らかくて華奢な肩なんだと動揺するのは後にして、ひとまず邪魔者を追い払うことにした。


「すみません、よく聞こえませんでした。何と仰いましたか? 伯爵令嬢が可愛くて仕方ない交換してくれてありがとう? それは良かった」


「違う! 元に戻せと言った! あの頭の悪い伯爵家の女も、婚約の変更に納得していないようだからな!」


「頭の悪いって……自己紹介かな……お言葉ですが、それはあなたが急に婚約者を替えようだなんて言い出したせいですよ。ちなみに僕はとっっっっても満足してるのでこのままユフィと結婚します、ねぇユフィ?」


「は、はい?」


 耳を塞いでいるので上手く聞き取れていないだろうが、ユフィは戸惑い気味にへレイスを見上げた。不意打ちの上目遣いに深刻なダメージを受けたへレイスは、鼻血を堪えながら彼女を抱き寄せる。


「ンンンンッ可愛い生き物が僕の腕の中にいるっ! ありがとう神よ、幼き頃に数え切れないほどあなたに呪いの言葉をかけた僕を辛うじて見捨ててはいなかったのですねもっと早く僕に運を回せと言いたいところだけど」


「ヘレイスさま、一体何のお話を」


「くっ……おいヘレイス!! 話を聞いてるのか!? ユフィ、お前も何を普通に受け入れている? なにが騎士の家門だ、王族の男なら誰でも良かったんだな、この尻軽が!」


 第二王子の大きな罵声は、へレイスの手では防ぎきれなかった。ビクッと肩を揺らしたユフィが、怯えた顔で俯いてしまう。


 だが誇り高き騎士の血は、握り締めた拳を震わせるだけで、彼女に涙を流すことを許しはしなかった。


「わ……私は、他でもない第二王子殿下のご希望に従ったまでです。先日、殿下は確かに婚約を破棄すると私に仰いました。その旨を一字一句余さず記した書面もございます」


「ほう、さすが侯爵だね。ユフィ、その書面あとで見せてくれるかな? さぞかし酷い暴言を吐かれたんだろう、可哀想に。陛下には共有した? まだなら僕がお渡しするよ」


「いえ、すでに父がご報告申し上げました」


「な、何だと!? 陛下に!?」


 白々しく感心しておいて何だが、婚約破棄の証言とそこに添えられるであろう短慮な暴言を書き留めておくよう侯爵家に指示したのは、他でもないヘレイスである。


 元より侯爵は、可愛い愛娘を下半身だけで生きているような第二王子に嫁がせることを非常に嫌がっていた。しかし王家との縁や他の貴族からの圧力を跳ね除けることが叶わず、渋々と婚約を承諾したに過ぎない。


 そこへ突如として降ってきた婚約破棄と新たな縁談を、侯爵は大層喜んでくれた。幼馴染みとして仲が良かったへレイスなら、ユフィを安心して預けられると。


 だからこそ婚約破棄の取り消しだなんて馬鹿げた事態にならぬよう、第二王子の爛れた素行を徹底的に調べ上げ、ユフィに投げかけられた暴言の数々も記憶している限り書き連ね、国王に丸ごと報告させた。


 第二王子はガサツなわりに悪知恵だけは働くので、国王の前で良い子ぶるのが大変上手かった。派閥にいる貴族たちが噂を揉み消していたのも相俟って、なんと国王は第二王子を「ちょっと女好きなやんちゃ坊主」ぐらいにしか認識していなかったのだ。


 ましてや、王家に忠誠を誓ってくれている侯爵家の一人娘に「華やかさがない」だの「愛想がない」だの心無い暴言を吐いていたなど──夢にも思わなかったようで。


 事実を目の当たりにした国王はしばらく体調が悪そうに呻いていたが、やがて泣きそうな顔で侯爵に謝った。実の娘のように可愛がっていたユフィに対しても真摯に謝罪した後、へレイスとの結婚を許可したわけだ。


 つまり、国王はすでに第二王子の本性を知っていて、婚約を元に戻すなんてことはまず許さない。


 そして今回の身勝手極まりない婚約破棄によって失われた各々の信頼も、二度と戻ることはない。


「伯爵令嬢と仲良く、慎ましく、静かにお過ごしください。まあ伯爵に背後から刺されるかもしれませんが……どうぞご油断なきよう」


 へレイスの元婚約者があれほどまでお花畑に育ったのは、過保護を越えた化け物級の父親が溺愛していたからだ。


 彼はきっと今頃、勝手に婚約を入れ替えたあげく後ろ盾も何も無い第二王子をどう調理してやろうか拳を鳴らしている最中だろう。普通に話す分には常識的な紳士なのだが、いやはやどうなるか楽しみだ。


「さ、刺され……俺は王族だぞ、そんな馬鹿な……」


「公務もまともにこなさない、貴族と良好な関係も築けない人間は王族とは呼べませんよ。いいですか兄上、あなたが選べる道は伯爵令嬢を愛し抜くことだけなんです。浮気なんてしたら問答無用でちょんぎられ……おや逃げ足が速い」


 へレイスが警告を終えるより前に、第二王子はテラスから逃亡していた。


 情けない後ろ姿に溜息をつき、ようやく静かになった空間でユフィを見下ろす。


「ごめんねユフィ、つまらない話を聞かせて。お茶が冷めてしまっ……ユフィのいれてくれたお茶が……無駄な話をしている間に冷めてッ……!?」


「い、入れ直しますから! どうかそのように落ち込まないでください」


 愕然とティーカップを覗き込んだへレイスだったが、ユフィが入れたお茶は冷めても美味しいに決まっているではないかと思い至り、しっかり飲み干してからもう一杯おかわりして美味しく頂いた。



 へレイスが至福の顔でティーカップを置くと、しばらく口を閉ざしていたユフィが意を決した様子で顔を上げる。


「へ、ヘレイスさま」


「何だい?」


「あの……ヘレイスさま……私」


 切り出しにくい話なのか、もじもじと何度も名前を呼ばれるたびにヘレイスの意識が飛びそうになる。これは多幸感を利用した新手の拷問かもしれない。


 などと思った矢先。



「私、本当は幼い頃からずっと……ヘレイスさまの妻になるのが夢だったのです──ヘレイスさま、どうか椅子にお戻りを……」



 とんでもない爆弾を前触れもなく投げられたへレイスは、気付けば芝生にダイブしてゴロゴロしてしまっていた。


 ハッと我に返ったものの、ニヤけまくる顔を抑えることが出来ず、よろよろと椅子に雪崩れ込む。


「え……なに? え? 幼い頃って? ふふ、いつかな? ユフィがまだカーテシーが上手く出来ずに地面に座り込んでた頃かな?」


「そ、そんなことまで覚えていらしたのですか!?」


「当たり前じゃないか、僕はユフィのことなら全部覚えてるよ。好きなお花も、好きなお菓子も、お気に入りの髪飾りも、似合うドレスの色も、靴擦れを起こしやすいことも髪が癖気味で悩んでることも」


「それぐらいで大丈夫です……」


 無限に続きそうだと早めに察したユフィが、控えめにへレイスの言葉を遮る。


「いつから、と明確には思い出せませんが……ヘレイスさまがとても優しくて、良くないと思いながらも、昔はつい兄のように慕っておりました」


「兄……何ならたまにお兄様と呼んでくれても」


「……いいえ、ヘレイスさまは私の旦那様になる方ですもの」


「ウッッッ」


 恥じ入りながらも不満げにお兄様呼びを拒否したユフィの「旦那様」は、殺人的に可愛かった。


 またもや芝生に転がり落ちた残念な美青年に、ユフィは心底おかしげに笑う。


「私、ヘレイスさまと再びこうしてお話できる日が来るなんて思っておりませんでした。……第二王子殿下に怯えながら、ヘレイスさまを遠くから眺めるしかないのだと、諦めて……」


「ユフィ……」


 婚約を逃したあの日から、かれこれ十年以上。地獄のような日々はきっと、今日の幸せのためにあったのだ。


 第二王子から投げ付けられた暴言を思い出してか、涙ぐむユフィをそっと抱きしめる。ふわりと鼻腔をくすぐる甘やかな香りに誘われ、ヘレイスはあわや深呼吸しそうになった自分を律しつつ告げた。


「ユフィ、僕こそ嘆くだけで何も出来なかった。……兄上があんなことを言い出す直前まで、もう君を攫ってしまおうかと無責任なことさえ考えていたよ」


「……ヘレイスさまは、私のことを、お、お好きなのですか?」


「うん!?」


 がばりと抱擁を解いてユフィの顔を覗き込むと、真っ赤に火照った頬がそこにある。なんて可愛い……じゃなくて。


 へレイスは暫しの逡巡を経て、重大なミスに気が付いた。


「しまった!! ユフィを愛でることに心血を注ぎすぎたせいで肝心なことを言ってなかった……!!」


 ユフィを椅子に座らせたまま、へレイスはその場に跪く。そうして王子然とした──一応れっきとした王子だが──洗練された振る舞いでユフィの手を取り、その甲に羽のような軽さで口付けた。



「ユフィ、好きだ。僕も昔からずっと、君のことしか見ていなかった」



 素直な気持ちをそのまま告げれば、ユフィが破顔する。それは、今まで見てきた中でも最高に可愛い笑顔だった。



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