【八】 鳥籠
木々の間をかろうじて人が通れる程度に切り開いた細い山道を、縞稀は黙々と歩き続けた。
どこへ向かっているのか分からないまま、手慣れた様子で進んでいく藤璃の後ろ姿を必死に追いかけながら、その歩く速さは人並み外れていて、まるで宙を歩いているかのようだと思った。
やがて山道を登りつめると、大きく視界が開ける。すでに雨は止み、灰色の空からは薄日が差し込んでいた。ようやく目的地にたどり着いたのかと、両膝に手を当てて呼吸を整えていると、涼しい顔をした藤璃が振り向いて何かを指差した。
「下を見てみろ」
言われるまま、足元を覗き込むと、そこには森全体を見下ろせる光景が広がっていた。
木々をなびかせる風が、縞稀の体を吹き抜ける。汗ばんだ体に、ひんやりと冷たい空気が心地よい。あがった息が少しづつ回復していく。
「ここから見える景色は美しいだろう」
藤璃の声が、どこか優しげに響く。
「ここには四季それぞれの美しさがあるんだ。今は初夏だから新緑が美しいな。春には小鳥の声が、夏には蝉の声が聞こえる。そして秋には見事な紅葉を見せ、冬には白化粧される。私はこの場所が好きなんだ」
嬉しそうにそう言う藤璃の横顔を見つめながら、縞稀は彼女の言わんとすることがよく分からなかった。
なぜ今、そんな話をするのだろう。藤璃が自分に見せたいものというのは、この場所なのだろうか。それが由羅乃を助けることと、どう関係しているのだろう。
「どうした? 何か言いたいことがある顔だな」
「どうして、私をここへ?」
「この美しい景色をおまえに見せたかった、それだけだよ」
何の疑問もなくそう答える藤璃に、縞稀は一瞬、自分が何のためにここまで来たのか、自分でも分からなくなった。
「私は由羅乃を助けるために、あなたについてきたんです」
「分かっているよ……だから見せたかったんだ。おまえが守る世界が、どれだけ美しいのかを」
「私が守る世界……?」
「そうだよ、おまえは守りたいんだろう?」
「私はただ由羅乃を助けたいだけです」
「由羅乃を助けるには、この世界を守るしかないんだ」
どういう意味なのかと訊ねようとして、口を開きかけると、ふわりと暖かくて柔らかい感触に包まれた。最初に出会った時も、こんなふうに藤璃に優しく抱きしめられたことを思い出す。
「藤璃様……?」
「縞稀……おまえは、ここが好きか?」
なぜそんな質問をされるのか分からなかったが、藤璃の腕を強引に振りほどくのは躊躇われて、縞稀は小さくつぶやいた。
「……ここへ初めて来たときは、すべてが美しいと感じました」
自分はいったい何を言おうとしているのか、自分でも分からない……そんな疑問に戸惑いながらも、黙ったままこちらを見ている藤璃に促されて、縞稀は言葉を続けた。
「でも今は……ただ美しいとは思えません」
「なぜそう思う?」
藤璃の声が優しく問いかける。
「ここには……たくさんの死を待つ命があるのだと聞きました。死を待つだけの絶望なんて……耐えられるわけがない」
「死を待つだけ……か。それが絶望だというのなら、我々人間は、生まれたときから死を待っている、違うか?」
藤璃の問いかけに、縞稀は何と答えるべきか一瞬迷った。
「……違いません。でもここには、生きる希望がありません」
そう言うと、藤璃は少し悲しそうに笑った。
「希望はあるよ。どんな人間でも、生きている限り、希望はある」
縞稀は目の前で微笑む相手を見つめた。静かな声で、けれど揺るぎない眼差しで、彼女はそう繰り返した。
「少し昔話をしようか」
藤璃の長い髪が風になびき、その視線がすうっと遠い過去を見つめるように、遠くへ向けられた。
「おまえは知らないだろう、この場所が作られる以前のことを。当時、闇落ちした人間はね……すべて排除されるんだ。誤解のないように言うと、排除とは物理的に生命活動を停止させるということだ。闇落ちした人間は、もはや人として生きているとは見なされなかった。だから排除という言葉で誤魔化したんだ。でも……やっていることは殺戮と同じだ」
「殺戮……」
「ひどいと思うかい? でも穢れになり果てた人間は、無尽蔵に闇を生み出す存在でしかない。周囲の人間をすべて闇で侵していく。助けることなど到底不可能だ。だとしたら、もう選択肢は排除するしかなかったんだよ」
「でもね、想像してみてくれ。もしそれが、自分の大切な人だったら、大切な家族だったら……それでも排除できるだろうか?」
「排除しなければ……さらに多くの人間が犠牲になる。だから決断せざるを得なかった。けれどその決断をすることは、その決断をした人間に、大きな傷跡を残すんだ。たとえ助からないと分かっていても、まだある命を終わらせることは、決してやってはいけないことなんだ」
「だから私は……当時の親方様と長老会に、反旗を翻した」
初めて知らされるその事実に、縞稀は息をのむ思いで相手を見つめた。反旗を翻すということは、玄武の一族すべてを敵に回すということだ。それがいったい何を意味するのか、縞稀には想像すらできない。
「……それで、どうなったのですか?」
続きをせかす縞稀の問いかけに、藤璃は子供のような笑みを浮かべた。
「結果は見ての通りさ。少なくとも私は生き延びている。といっても、私の力じゃないよ。運が良かったのさ。当時の親方様は不慮の事故で亡くなり、長老会も大きく体制が入れ替わった。誠珂が頭首になってからは、闇落ちした者を排除することは禁止された。けれどそれと同時に、新たな問題が生まれた。彼らを隔離するための受け皿が必要になったんだ」
「感染を防ぐためには隔離するしかない。でも隔離するには常時結界を維持しなければならない。個人で対応するには限界があったんだ。だからこの場所が作られた。患者たちを受け入れ、隔離するための、巨大な鳥籠としてね」
「ここでは個々の患者を個別の結界で隔離することに加えて、この里全体を覆う結界を張り、四六時中それを維持している。もし術者が死んで結界が維持できなくなったら、結界内のすべての患者を排除することになっている」
さらりと藤璃はそう言ったが、それはひどく残酷な条件だ。これほどの巨大な結界を維持できる人間が、そうそういるとは思えない。
「おかげで私はここから一歩も出れないし、死ぬこともできない。まったく、とんだ足枷ができてしまった」
茶目っ気のある笑みを浮かべて、肩をすくめる藤璃の様子を、縞稀は素直に受け止めることができなかった。この人は自分自身を犠牲にして、この場所を守り続けている。でもそうしなければ、多くの命が失われてしまうのだ。
そんな縞稀の問いに答えるかのように、藤璃は続けた。
「たとえ足枷であっても、私はこの場所が好きなんだ。ここに希望がないなんて言わせない。もしこの里がなかったら、由羅乃はすでに排除されていた。でも彼女は生きている。生きている限り、希望は残されている」
違うかい?―――そう藤璃の目が問いかけている。けれど縞稀は何と答えてよいか分からなかった。確かに由羅乃は生きている。けれどそれを希望と呼ぶのか分からない。希望とはもっと明るいもの、未来を照らす光のようなものだと思っていた。今の自分には、そんな光はどこにも見えなかった。
「さて」
不意にぱんと音がして顔を上げると、藤璃が両手を合わせて立っていた。
「昔話はこれで終わりだ―――本題はこれからだよ」
そう言って、すぐ近くにある岩へ近寄り、二人分の座れる場所を見つけると、そこへ座るようにと、縞稀を手招きした。
言われるままそこへ腰を下ろすと、そっと頬に触れる感触があった。
「……痛かったか?」
そう言われて初めて、頬をぶたれたことを思い出した。
「いえ……私の方こそ、我を忘れてしまい……すみません」
間近でじっと見つめる藤璃の視線に、縞稀は思わず顔を逸らした。
「本当に大きくなったな、縞稀。もっと顔をよく見せておくれよ」
「あの、藤璃様はなぜ私のことを……」
「そうだな、まずは、そのことを話さなくてはいけないな」
今から話すことは他言無用だ、そう前置きをして、藤璃は話し始めた。
「おまえが玄武の屋敷へ連れて来られたのは、まだ幼い子供のときだった。そのときのことは覚えているか?」
「はい……」
「あの頃、誠珂と私はある目的のために動いていた。それは将来、闇飼いとなる子供を見つけ出すこと、そして彼らを無事成長させることだった」
闇飼いとなる子供―――その事実に驚くと同時に、これまで自分が生かされていたのだということを、縞稀は理解した。小さな子供が闇飼いであることを隠し続けることなど、やはり不可能なのだ。
「当時、おまえ以外にも何人か候補の子供がいたが、すべて成長の途中で闇落ちしてしまった。闇落ちせずに最後まで生き残ったのは……おまえ一人だけだ」
闇飼いの子供たち……どこかで会っていたかも知れないが、もう誰かは分からない。当時、脱落者は何人もいたし、彼らがどこへ行ったのかは誰も教えてくれなかった。
「玄武の掟では、闇飼いは禁忌とされるが、それは闇落ちするリスクが高く、闇落ちしたときの影響が大きいからだ。けれど闇落ちさえしなければ―――それは貴重な戦力となる。むしろ闇飼いが必要不可欠な場合がある。その最たる例が、」
「巫女様……」
縞稀は無意識にそう答えていた。ずっと疑問だったことが、ここですべて繋がっていく。
「そうだ、もう他宇良のことは知っていたか」
「はい……他宇良様が亡くなって、闇が祓えなくなったと聞いたとき、すべてが分かりました。他宇良様は闇飼いなのだと」
やはり我々は何も知らされていなかったのだ。闇祓いの意味も、巫女様のことも。それはまるで、信頼していた相手に裏切られたような気持ちで、縞稀の心の中に小さな怒りのような感情を生み出していた。
「本来、闇というのは意志を持たない。けれど宿主をもった闇は、その宿主の影響を受けて意志を持つようになる。我々はそれを破魔と呼んでいる。巫女はその破魔を使役して、闇を喰わせているのだ」
破魔……それが自分の中に棲むモノの呼称らしい。名前がついたところで、そのおぞましさに変わりはないが、自分以外にもこれを知る人間がいるというのは、少しだけ心強い。
「巫女様がその破魔をもつ闇飼いだったとして……分からないことがあります。私たちがこれまで行ってきた儀式は数百にも及びますが、そこで集めた闇を喰い続けることは、いくら巫女様の破魔でも不可能ではないのですか?」
たった一度の儀式でさえ、破魔を戻すのにあれだけの苦痛が伴うのだ。そう何度も闇を喰わせていたら、それを受け止める宿主の方がもたないはずだった。
「そうだな……だからこそ、破魔を受け継ぐのだ」
「受け継ぐ……?」
「破魔は宿主が死ぬと一緒に消滅する。だが宿主が死ぬ前に、別の宿主に移れば、新たな宿主の中で棲み続けることが可能だ。そうやって何代も継承された破魔は、通常の破魔とは比較にならないほど、巨大な破魔になる」
藤璃が言わんとすることが恐ろしくて、縞稀は相手を凝視した。
「巫女の飼う破魔とは、歴代の巫女たちが飼い続けてきた破魔なんだよ」
「なんて……ことを」
そんなおぞましいことを、これまで私たちはやってきたのだ。すべて一人の巫女に押し付けて、醜いものには蓋をして。何が玄武の守護だ、何が闇祓いだ。こんなものは、
他人の犠牲の上に成り立つ偽善にすぎない―――
「先代の巫女から次代の巫女へ、破魔を受け継ぐことで、巫女は闇を喰い続けることが可能になる。それが代替わりの儀式だ。けれど他宇良はもういない―――だからもう、他に選択肢がないんだ」
藤璃の顔が強張るのを見て、縞稀は嫌な予感がした。
「闇飼いとなる子供を見つけ出して育てる目的は……将来、巫女の代替わりに支障が出た場合に、代わりに破魔を受け継ぐための人間が必要だからだ」
「藤璃様……?」
「よく聞け、縞稀。おまえは、先代の巫女、夜久羅様の破魔を受け継がなくてはならない」
唐突に出たその名前も、破魔を受け継げと言われたことも、縞稀には他人事のように聞こえた。
破魔を受け継ぐ……? なぜ自分がそんなことに巻き込まれているのだろう。自分は闇飼いであることがばれて、もうすぐ処分されるのではなかったのか。そんな自分が、なぜ今更、巫女の破魔を受け継がなくてはならないのだろう。
「なぜ私が……」
「おまえが次の巫女になるからだ」
「待ってください……次の巫女になるのは……」
由羅乃だと言おうとして、自分では巫女になれないと言った彼女の言葉を思い出す。
藤璃が言わんとしていることを、縞稀は理解するのが怖かった。すでに頭では理解しているのに、それを認めるのが怖かった。
「どうして……」
「守り手が選んだ。次の巫女を選ぶのは守り手しかできない」
「そんな……どうして……」
「こんな言い方は卑怯だと分かっている。けれど、もしおまえが破魔を受け継げば、巫女となる運命を受け入れれば、由羅乃を助けられるかも知れない」
大きく目を見開き、藤璃の顔を凝視する。可能性があるのなら何だってすると、そう言った自分の言葉が脳裏をかすめる。
そうだ、何だってする、その決意は今も変わらない。ならば、そのために巫女になる必要があるというのなら……なぜ迷う必要があるのだろう。巫女になれば、由羅乃を助けることができるのだ。そう、巫女にさえなれば……
その刹那、あのときの忘れがたい恐怖が蘇る。永遠に終わらない闇の底、それがどれほどの恐怖を生み出すのか。いまもまだ鮮明に残っているその爪痕が、縞稀の心を強く締めつけた。
―――だから生贄が必要なのだ
あの男は知っていた。すべて知っていて、冷たい表情の裏で強く憤っていた。
自分たちがどれほど無知で残酷だったかを思い知る。すべてを巫女一人に押し付けて、彼女たちがどんな気持ちで闇を喰っていたのか―――私たちは何ひとつ知らなかったのだ。
「私は……」
その瞬間、遠くで大きな音がして周囲の空気を震わせた。
腰を降ろしていた岩場から藤璃が素早く立ち上がり、縞稀も慌てて地面に足をついた。どこかで地震が起きたのかと縞稀は思ったが、藤璃の深刻そうな顔を見て、そうではないのだと分かった。
「相変わらず強引なやり方だな」
藤璃は苛立たしげにそう言うと、何か術式らしき言葉をつぶやいた。わずかに振動していた周囲の空気がぴたりと止んだ。
誰かが強引に彼女の結界内に侵入したのだと、縞稀は直感した。もしかしたら久沙戯かも知れない。もしそうなら、その目的は脱獄した自分を捕えに来たに違いなかった。
「縞稀、悪いが私は行かなくてはならない。おまえは一人で館に戻っていてくれ。話の続きは戻ってからにしよう」
「藤璃様、私は……」
「そう急ぐな、考える時間も必要だろう」
今は問答無用とばかりに、藤璃は縞稀の口に指を当てた。
それ以上は言葉を続けることができなくなり、縞稀はその場で、藤璃が転移する様を見送ることしかできなかった。この結界の中ならば、自由に転移できると聞いていたが、それは見事なまでに一瞬の転移だった。
まるで突風が吹き抜けた後のように、辺りは静けさを取り戻し、一人残された縞稀はただ茫然とその場に立ち尽くしていた。
視線を遠くへ向けると、先ほど見た光景が変わらずそこにある。無数に点在するあの屋根のどこかに、由羅乃がいるのだ。
巫女になれば由羅乃を助けられると藤璃は言った。それがどういうことなのか、今は考えることが怖かった。自分はただ、由羅乃を助けたいだけだ。闇落ちした人間を救うことができないなんて、誰が言ったのだろう。闇は祓われるべきもの―――ならば由羅乃の中の闇を喰えばいいのだ。
破魔を受け継ぐまでもない。戸倉のときと同じように、自分の中の破魔に闇を喰わせればいい。破魔を再び自分の中へ戻せるか分からないが、何かあれば久沙戯が自分を処分するだろう。躊躇う理由はどこにもないと、縞稀は思った。
†
館に戻ると、心配そうな顔で比壬が待っていた。藤璃は自分と二人で話をしたいと言ったので、彼は館で留守番をしていた。
「縞稀……大丈夫なのか……?」
そう言いながら、縞稀の姿を見ると安堵したように息を吐いた。雨の中を瘴気をまき散らしながら帰ってきたと藤璃から聞いていたので、比壬にもかなり心配をかけてしまったのだろう。
「心配かけてごめんなさい……でももう大丈夫よ」
できるだけ明るくそう言うと、比壬は少し表情を曇らせた。
「藤璃様に何か言われたのか?」
「なんでそう思うの?」
「なんとなく……」
自分の感情をここまで細かく読み取ることができる相手に、縞稀は少し戸惑いながらも、やはり彼にすべて話すことはできないと、言い訳するかのように言葉を続けた。
「藤璃様からはいろんな話を聞いたわ。隔離の里ができるまでの話とか、私が屋敷に連れて来られたときの話とか」
比壬は黙って聞いていたが、藤璃が侵入者を追って転移したこと、侵入者はおそらく自分を追ってきた久沙戯であることを伝えると、彼は急に表情を険しくした。
「藤璃様の結界を破るなんて……いったいあいつ、何者なんだ?」
悔しそうにそう言ってから、仮に侵入できたとしても、ここでは藤璃の力が絶対で、勝手な真似はできないから安心しろと付け加えた。
「結界に穴をあければ、闇が外へ漏れだす危険があるんだ。いくら本家の人間でも、そんな強引な手段を使うなんて……」
「あの髪と目の色から、おそらく玄武以外の血筋だと思う。何か特殊な能力があるのかも知れない」
本家とは巫女が住まう場所を管理する人間たちのことだが、実際に会うことは滅多になかったし、本家に関する情報は、長老会も口を閉ざしている。
「仮にそうだとして……あいつの目的は何なんだ?」
「……最終的な目的は分からない。でも少なくとも、私の処分が目的の一つであることは確かだと思う」
「あんたを処分したいなら、こんな面倒なことをしなくてもいいはずだ」
それはずっと気になっていた。処分するだけなら、あの審議の間で、闇飼いであると結論を下せばよかったはずだ。
「まるで……私を親方様に処分させようとしている……」
牢獄での不自然なほどの拘束を思い出しながら、縞稀は拳を強く握りしめた。誠珂が何を考えているのかは分からない。でも自分のせいで彼が苦しむのだけは嫌だった。
比壬は少し考え込むように腕を組んで、それから顔を上げた。
「あんたを処分することが目的じゃないのだとしたら?」
「……どういうこと?」
「ずっと気になっていたんだ、あいつが審議の間で言ったことが。その犠牲が別の犠牲の上に成り立っているとしたら……って、あれはどういう意味なのか」
あのときの久沙戯の憎悪の表情を、縞稀は思い出す。藤璃から真実を聞かされた今なら、その言葉の意味が分かる気がした。
「久沙戯は憎んでいるのかも知れない……巫女という生贄制度を。それを容認してきた玄武の統治を。だから皆の前で私が闇飼いであることを見せつけ、玄武の頭領としての責任を問うつもりなのかも知れない」
彼は他宇良を知っていた。それも孤高の闇を共有できるほど近しい存在だった。だとしたら、彼が生贄制度を憎んでいてもおかしくない。あの押し殺したような怒りの正体は、他宇良を苦しめ続けた玄武に対する怒りなのかも知れない。
「その可能性はありそうだが、それだと辻褄が合わないことがある。あいつはあんたを戸倉へ送ったんだろ? もし玄武を崩壊させたいなら、そんなことはしないはずだ」
比壬の指摘はもっとものように聞こえたが、縞稀には何となくその答えが分かってしまった。
「可能性としてはあり得るわ……あのとき彼は、他宇良様を助けようとしたのよ」
「なんだって……?」
わずかな望みをかけて、闇飼いである自分を結界の中へ放り込んだ。運が良ければ、他宇良への負荷を減らすことができる。それほどまでに、彼は切羽詰まっていたのかも知れない。
「だったら尚更、おかしいだろ。あいつがあんたを排除する理由なんかない。むしろ、あんたに感謝してるくらいだ」
「でも助けられなかった……他宇良様も、由羅乃も、私は何もできなかった」
両手で顔を覆う縞稀の腕を、比壬はぐいと掴んで引き寄せる。
「冗談じゃない、あんたは皆を守ったんだ。あんたが闇を喰わなかったら、もっとひどいことになっていた。何もできなかったわけないだろ」
比壬の真剣な眼差しを縞稀は泣きたい気持ちで見つめ、それから絞り出すような声で伝えた。
「比壬、お願いがあるの……今すぐ由羅乃のいる場所を教えて」
一瞬、意味が分からないといった顔で比壬が口を開ける。
「なん、だって……?」
「もう時間がないの。ここで捕まってしまったら、私は屋敷に連れ戻されてしまう。そうなれば二度と由羅乃を助けることができなくなる」
「そんなことにはならない。藤璃様がそんなことはさせない」
比壬は知らない、彼女が自分を巫女にしようとしていることを。けれどそれを口に出すことはできず、縞稀は懸命に訴えるしかなかった。
「いま由羅乃を助けられるのは私だけなの」
比壬は表情を強張らせ、必死で懇願する縞稀の顔をまじまじと見つめた。
「……いったい何をする気だ?」
「闇を祓うわ。私にはそれができる」
「本気なのか? もし失敗すれば、おまえ自身も闇落ちするんだぞ」
「それでも、由羅乃を助けたい」
何の迷いもなく答える縞稀に、比壬は何と答えてよいか分からなかった。彼女が本気であることも、助けるためなら躊躇なく自分の命を投げ出すことも、嫌というほど分かっている。だからこそ、比壬は首を横に振ることしかできなかった。
「……ダメだ、危険すぎる。せめて藤璃様が戻ってからだ」
「お願い、比壬。もう時間がないの」
懸命に訴える縞稀の様子に嫌な予感がして、比壬はその瞳を覗き込んだ。
「どうしたんだ、縞稀……なにをそんなに焦っている?」
わずかな間があって、それから静かな声が聞こえた。
「逃げるなと……運命に立ち向かえと、あなたが教えてくれたのよ。誰かを守りたいと願うなら、最後まで戦えと」
俯いた顔からは表情が読み取れない。比壬はどうしようもない不安に押しつぶされそうになるのを堪えて、震える声を押し殺すように答えた。
「縞稀、おまえ……」
「あなたが止めても、私はあきらめない」
そう言って外へ出ようとする相手の腕を、比壬は反射的に引き止めた。
一瞬、つかんだ腕に強い不快感が走り、比壬は思わず手を放して後ずさった。驚いて顔を上げると、どす黒い瘴気の渦が、縞稀の腕からどくどくと流れ出ていた。
「どこへ……行く気だ?」
「由羅乃のところよ」
「隔離の里を探し回る気か? それこそ、あいつに見つかって連れ戻されるぞ」
けれどその問いに答えるつもりはないらしく、黒く変色した腕をゆっくりと持ち上げ、そして宙を切るように振り下ろした。
比壬は信じられない面持ちで相手を見つめる。けれどそこには、ただ静かにこちらを見つめる闇色の光があるだけだった。
「お願い、私の邪魔はしないで」
瘴気は触れるものすべてを闇で侵していく。床も扉も窓さえも、その瘴気で黒く染まっていく。比壬は言葉を発することも忘れて、ただ彼女の後ろ姿が遠くに消えてゆくまで、その場を一歩も動くことができなかった。
†
隔離の里の結界は、闇に対する耐性は極めて高いが、物理的な障壁としては意外と脆い。つまり、人がその結界を出入りすることは、結界の術式さえ解析できれば、比較的容易ということだ。
とはいえ、この自分の術式を解析できる者など、数えるほどしかいない。だからこそ、外部からの侵入者があの男であることは、藤璃には分かり切っていた。
結界の破損個所まで転移すると、予想通りの男が、待ち構えるように立っていた。相変わらず白い衣装を頭から被り、明らかに不審人物そのものだ。あの目立つ髪を覆い隠しているつもりなのだろうが、どうみても逆効果だと言ってやりたい。
「こんな手荒な真似をして……本家の人間は礼儀を知らないようだな」
皮肉交じりにそう言葉を投げかけてみたが、久沙戯は動じる様子もなく、ただ淡々と答えた。
「手荒な真似をしたことは謝る。だがもう時間がない。あれを引き渡してもらおう」
藤璃は無言のまま、相手の見えない顔を睨んだ。
「まだ早すぎると言っているのが分からないのか? こんな強引なやり方をして、もし耐えきれなければ、すべてを失うことになるぞ」
表情の読めない相手に、藤璃は苛立ちを覚え、ゆっくりと相手に近づく。久沙戯は正面を向いたまま、その場を動かない。
「これ以上、巫女の不在を長引かせれば、それこそすべてを失うことになる。それが分からないのか、恣陀玖の魔女よ」
その名を聞いた瞬間、藤璃の全身から強い風が巻き上がった。黒髪が激しく舞い上がり、彼女の怒気が相手を呑み込もうとしていた。
「その名前を久しぶりに聞いて思い出したよ……おまえたちへの嫌悪感をな。言っておくが、ここは私の領域だ。ここで勝手なことは許さない」
「勝手はどちらか。いにしえの契約に縛られているのは我々だって同じだ。おまえたちこそ、こんなやり方をいつまで続ける気だ」
「黙れ、部外者が口を挟むことではないだろう」
そう言い放った途端、久沙戯の肩が大きく揺れた。俯いた顔から、絞り出すような声が漏れる。
「部外者か……すべて知っているおまえが、私を部外者と呼ぶのか」
渦巻く風が、白い衣装を翻させる。藤璃は久沙戯のすぐ目の前まで来ていた。
「―――そうだな、おまえは部外者じゃない。おまえのせいで他宇良は死んだのだから」
藤璃の手が宙を切ると、白装束の下から、白銀の髪がこぼれ落ちる。あらわになった久沙戯の顔を、藤璃は憎悪の視線で凝視した。
その瞬間、これまで耐え続けてきたはずの、怒りとも悲しみとも分からない感情が、行き場を失った子供のように、彼女の中で溢れ出した。
「なぜだ……なぜ、否定しない」
何も言わない相手を、藤璃は凝視し続けた。そしてそれがすべての答えなのだと分かった瞬間、その場に泣き崩れた。
「なぜだ? なぜ……他宇良を死なせた……おまえが側にいながら、なぜ……」
予感はあった。先見が告げていた。それでも、運命を信じたくなかった。巫女に命を与え続ける守り手がいる限り、他宇良が死ぬことはないと信じたかった。
「……すまない」
久沙戯のかすれた声が聞こえた。
「許してくれとは言わない。けれどこのまま手をこまねいていては、彼女の遺志を無駄にすることになる」
†
縞稀は必死で走っていた。目に映る光景がどこなのか、耳に届く音が何を知らせているのか、すべての認識を放棄して、ただソレの感覚だけを頼りに走り続ける。手足から伝わる痛みさえも、邪魔だった。さながら本能に従う獣のようだと思ったが、それでいい、今はその力が必要だ。
比壬の足止めは長くはもたない。瘴気が消えれば彼は動き出す。そうなれば、地の利を知り、身体的能力で優位に立つ彼に追い付かれるのは時間の問題だった。そうなる前に、由羅乃の居場所を突き止めなければならない。
この広い隔離の里の中から、彼女が隔離されている小屋を見つけ出すことは、そう容易ではない。小屋は無数に点在していたし、藤璃が見せたあの光景が、この里のすべてとは限らない。
それでも、なぜか分かるような気がした。自分の中のアレが、まるで惹き寄せられるかのように、ずっと疼いている。由羅乃の中の闇を欲しているかのように、ソレは叫び続けている。
―――カエリタイ
分かっている、おまえの望みは分かっている。だからもう、振り返らない。
彼を傷つけたことを後悔するのは、自惚れているからだ。おまえに後悔する資格なんてない。最初から分かっていたはずだ、自分がどうすべきかを、自分がなんなのかを。
忘れるな―――おまえは、祓われるべきモノだということを。