【七】 休息
そこは不思議な空間だった。
夜明けの光が辺りを照らしだし、淡い緑の木々が静かにささやく。あちこちで朝露が光を受けてきらめいている。小鳥たちのさえずる声。ひんやりと心地よい風。木々と草花の中に溶け込むように建つ、白い壁と深緑の屋根の館。
美しい―――そう感じた。この空間を構成するすべてが、まるで別世界のように美しかった。ここが本当に隔離の里と呼ばれる場所なのだろうか。今まで自分が想像していたものは随分と様相が異なる。
朝食の準備ができるまで、少し時間があるので、好きに時間をつぶしてほしいと言われたのが少し前。比壬に外を案内してもらおうと思ったが、彼も準備で忙しそうだったので、縞稀は一人で散歩することにした。
結界の中であれば自由に散策してもらって構わないと言われたが、どこまでが結界の中なのか見当がつかない。それほど大きな空間、これほど巨大な結界を、藤璃は一人で常時維持しているのだと聞いて、縞稀はその力の大きさに圧倒される。
昨日、初めて藤璃と会ったとき、草花の香りがすると縞稀は思ったが、その香りはこの森全体を包み込む香りと同じだと気付いた。この香りがする場所は、すべて彼女の手の中であり、安心して息のできる場所なのだ。彼女の守るこの場所は、縞稀が今まで過ごしたどんな場所よりも、暖かくて光に満ちている、そんな気がした。
ずっと昔からおまえを知っている―――そう言った藤璃の言葉を思い返す。
あのとき聞き間違いでなければ、彼女は確かに言ったのだ。誠珂が自分を館へ連れてきたあの日から、ずっと知っていると。そして、自分のことは何度も聞かされたとも。その事実が、自分にとって何を意味するのか、縞稀にはよく分からなかった。
自分の中で、期待のような、不安のような、漠然とした感情が渦巻いている。知りたいという期待と、知りたくないという不安。こんなふうに暖かく歓迎されることも、あんなふうに優しく抱きしめられることも、自分にはひどく不釣り合いな気がして、どうしようもなく苦しかった。不釣り合いで歪な自分は、いつかここにあるすべてを壊してしまうんじゃないかと、そんな漠然とした不安に押し潰されそうになる。
これ以上、ここに居てはいけない……そんな自分の心の声から逃げるように、縞稀はひたすら歩き続けた。
無意識に歩き回るうち、縞稀は自分が戻り道を見失ってしまったことに気付いた。館の位置は確認できたが、そちらの方向へ進む道が見当たらない。周囲を見回すと、少し遠くに小さな家の屋根が見える。もしかしたら人がいるかも知れない。戻り道を聞くために、縞稀はその家に向かって歩き出した。
近づいていくと、確かに人の気配がする。窓の奥で人影が動いているのが見える。どうやら一人は子供のようだ。
「瀬斗、早く早く! 朝食に遅れちゃうよ」
子供の甲高い声が響くと同時に、扉が開いて、小さな人影が飛び出してきた。
「そんなに慌てなくても大丈夫だよ、摩礼。それより、ちゃんと髪をとかさないと……」
扉の奥から出てきたのは、大きな身体の男だった。子供にせかされて、しぶしぶ出てきた様子だったが、戸口の近くに立ち尽くしている縞稀の姿に気づくと、視線を上げた。
「えっと……君は?」
はしゃいでいた子供が、彼の視線の先を振り返る。縞稀と視線が合った瞬間、その笑顔は瞬時に消え、ひどく警戒したような表情になった。
「あんた誰? 何の用? なんでそんなところに立っているの」
「こら、摩礼。お客さんに向かって、その口のきき方は失礼だぞ」
摩礼と呼ばれた子供は、不機嫌そうに顔を背けて、男の後ろに隠れてしまった。縞稀はどうしてよいか分からず、ただその場に小さくなって頭を下げた。
「あの、ごめんなさい……驚かせてしまって」
「いやいや、あんたが謝ることはないさ。すまんね、ちょっと人見知りが強くて」
大男は困ったように頭をかいて、自分の後ろに張り付いている摩礼の頭をぽんと叩いた。
「ほら、摩礼、隠れてないで、ちゃんと挨拶しなさい」
けれど顔をちらりと見せたきり、摩礼は動く気配を見せない。男は呆れたように肩をすくめ、それから縞稀の方を向いて、すみませんと頭を下げた。
「いえ、こちらこそ突然すみません、私はただ道を教えてもらいたくて」
「ああ、なるほど、ここは迷路みたいだからね。よければ案内しようか。どちらまで?」
愛想のよい大人の笑顔。その後ろで摩礼が何か言いたそうに睨んでいる。
「その……藤璃様の館に戻る道が分からなくなってしまって」
「ということは……君はもしかして、比壬の連れてきたお客さんかな?」
比壬の名前が出たことで、縞稀は安堵したように頷いた。
「それなら、俺たちも同じ場所へ行くところだ。今から一緒に行くかい?」
明るい声でそう答える男の好意に感謝しつつ、その背後で間違いなく機嫌を損ねたであろう少年のことを思って、縞稀は困ったように苦笑した。
瀬斗と名乗ったその男は、その鍛えられた大きな体格とは裏腹に、気さくで人好きのする人物だった。縞稀は彼の好意に甘えることにして、一緒に藤璃の館へ向かうことにした。
「瀬斗さんたちはいつからここに……?」
訊いてよい質問かどうか迷ったが、縞稀は少しでもこの場所のことが知りたかった。瀬斗は機嫌を損ねた様子もなく、ちょっと苦笑いをしてから答えた。
「俺がここに来たのはもうだいぶ前さ。昔ちょっとヘマしたことがあってね。ここへ運ばれたことがあるんだ。それ以来、藤璃様の下で働いているんだよ」
過去に闇落ちしかけたことがある、という意味だろうか。一度でも闇落ちしかけた者は、再び落ちる恐怖から、闇祓いには戻れないと聞いたことがある。
「摩礼の方は、まあ、訳ありでね……今は私が面倒を見ているんだ」
そう言って、足元の少年の頭に視線を落とす。瀬斗の歩みがひどくゆっくりなのは、摩礼の歩幅に合わせてのことだろう。少年の顔は縞稀の方からは見えなかったが、瀬斗の服の裾を掴みながら、大人しく歩いているようだった。
「そういう君は、比壬とはどういう関係なんだい?」
「え……」
思わぬ問いかけに、縞稀は思わず目を見張る。
どういう関係かと訊かれて、何と答えればよいのだろう。知り合ったのは昨日、それも牢獄の中とは、とても口に出して言えなかった。正確には、初めて会ったのはさらに前……闇のうごめく結界の中でだったが、当然、これも言えるようなことではない。
縞稀が答えに窮している様子を見て、瀬斗は慌てて言い訳をした。
「あ、いや、困らせるつもりはないんだ。ただあいつが誰かをここへ連れてくるなんて初めてだからさ……ちょっと嬉しいというか、その、気になってしまって」
苦笑交じりにそう言うと、今度は少し真面目な顔になって、眉をひそめた。
「それよりも、あいつ……あんたに迷惑かけてないか? いつも言い付けは守らないし、好き勝手に館を抜け出すし、危険なことに首を突っ込む悪い癖があるんだ」
確かに今回の件は、彼の方から言い出したことだ。一度は断ったのに、彼は強引に自分を連れ出してしまった。でもそのことを、自分は迷惑だと思っているのだろうか。
「比壬には……何度も助けてもらいました。迷惑かけているのは、むしろ私の方です」
そう言葉にすると、その感情はすとんと縞稀の中に落ちた気がした。
自分は彼に感謝しているのだ。あの場所から連れ出してくれたことに。新しい世界を見せてくれたことに。もしあのまま、あの場所でうずくまっていたら、おそらく自分は何も知らないまま、すべてを放棄してしまっていたに違いない。
瀬斗はそんな縞稀の横顔を見やると、声を上げて笑った。
「気にするな。あいつの場合、自業自得ってもんさ」
見上げると、屈託のない笑顔があった。その笑顔は、比壬のそれと似ている。見た目も性格も全く違う二人だけれど、この人も比壬と同じ空気をまとっていると、縞稀は思った。
この場所にあるものすべてが、これまで自分が居た場所とは、あまりに違いすぎる。人も生き物たちも、ここでは暖かくて光に満ちている。空気が穏やかに流れていく。目を細めて辺りを見回すと、縞稀はようやくその理由が分かった。
そうか―――ここでは、闇を怖れる必要がないのだ。
「……ここは本当に、いいところですね。とても安心する。これもすべて、藤璃様の結界のおかげなんですね」
何気なくそう言うと、瀬斗が不意に足を止めた。
「あんた、何も知らずにここへ来たのか」
「え……?」
先ほどまでとは明らかに異なる瀬斗の声に、縞稀は驚いて彼を見上げる。
「悪いが、ここはあんたが思っているような場所じゃない」
険しい表情でそう答える瀬斗に、縞稀は自分が何かまずいことを言ったのだろうかと思い返してみるが、皆目見当がつかない。
「それは、どういう意味ですか……?」
「ここにあるのは、恐怖と絶望だけだ。何も知らずにここへ来たのなら、さっさと帰った方がいい」
瀬斗の態度が急変したことに、縞稀はひどく戸惑った。先ほどまでの、愛想良い態度は消え、その口調は明らかに自分への警告だ。
ひどく嫌な予感がして、縞稀は全身に緊張が走るのを感じた。
「待ってください……私は」
その瞬間、細く高い叫び声が上がった。それが摩礼の声だと分かったのは、彼がひどく怯えた様子で、瀬斗の足にしがみついているからだった。
「どうした、摩礼?」
「あれ……」
彼が指差した先には、小さな茂みだった。目を凝らして見るが、縞稀には何も見えない。瀬斗は特に慌てた様子もなく、膝を落として摩礼の顔を覗き込んだ。
「大丈夫だ、あいつらは襲ってこれない。おまえが怖がるから、余計ついて回るんだ」
そう言われたものの、摩礼は怯えたまま顔をうずめている。
「しょうがないな……」
そう言って、瀬斗は摩礼の体を宙に浮かせると、そのまま肩の上に座らせた。
「これなら怖くないだろう?」
摩礼は瀬斗の頭に抱きついていたが、やがて恐る恐る顔を上げて、周囲に視線を素早く走らせると、こくりと頷いた。摩礼が落ちついたことを確認すると、瀬斗は彼を肩に乗せたまま、再び歩き出す。
今何が起きたのか、縞稀にはよく分からなかったが、とりあえず彼の後についていく。さっさと帰った方がいいと言われたばかりだが、藤璃の話を聞くまでは、意地でも帰るつもりはなかった。
気まずい雰囲気のまま、しばらく無言で歩き続けていると、瀬斗がぽつりと口を開いた。
「こいつには、俺たちには見えないモノが見えるんだ」
その言葉に、とりあえず今すぐ追い返されることはないと判断して、縞稀は瀬斗の横まで歩みを進めた。
「ここは結界のおかげで外の闇は入ってこれないけれど……中から生じる闇は防げない。人間がいる以上、人の心に巣食う闇は常に存在する。そうしたモノが、こいつには見えてしまうんだ」
先ほど彼が指差した茂みにいたのは、そうしたモノだったのだろうか。もしかしたら、自分が産み出した闇かも知れないと、縞稀は一瞬どきりとした。
「そのせいもあって、摩礼は初めての相手には決して近寄らない。間違って相手の心を覗きこんでしまって、何度も気を失ってるんだ」
その言葉をちゃんと最後まで聞いていれば、不用意に彼と視線を合わせるようなことはしなかった。けれど気付いたときにはすでに遅く、縞稀は摩礼の様子を窺おうと顔を上げ、そして驚いたように見開かれた鳶色の目を見つめていた。
「あ、あああ……!」
「おい、摩礼、どうした?」
慌てて瀬斗が彼を抱き降ろす。縞稀も駆け寄ろうとして、すぐに足を止める。彼を怯えさせているのは、まさに自分なのだ。
「ごめんなさい、私が目を合わせたから……」
瀬斗はしばらく摩礼を抱きしめていたが、やがて肩の力を抜いて、大きく安堵の息を吐いた。
「大丈夫だ……いつもの発作じゃない」
瀬斗の胸に顔をうずめていた摩礼が、ゆっくりと顔を上げる。目を何度も瞬かせて、自分でも驚いたように茫然としている。
「摩礼、気分はどうだ?」
「……うん、なんか、大丈夫みたい」
そう言って、縞稀の方へ顔を向ける。縞稀は目を合わせないように顔を背けるが、摩礼は平然と言ってのけた。
「この人の中にいる闇が……すごく大きくてびっくりしただけ」
その言葉に、今度は瀬斗が驚いたように縞稀を見る。
「あんた……闇飼いだったのか?」
自分の中のアレを見ても大丈夫だという摩礼にも、それを聞いて何の抵抗もなく闇飼いだと言える瀬斗にも、縞稀は何と答えてよいか分からなかった。
「すまねえ、さっきは帰れなんて言って……悪かった」
なぜ謝られるのか、縞稀には分からない。
「あなたたちは……怖くないの?」
「あんたがか?」
こくりと頷くと、瀬斗は可笑しそうに笑って立ち上がった。
「はははっ、怖くねえよ。あんたからは闇の気配は感じないしな。それに、摩礼があんたの中の闇を見ても気を失わなかったんだ。ある意味、すごいことだぜ」
困惑した様子の縞稀を見ると、瀬斗は真面目な顔をして頭をかいた。
「ここに長く居るとな、こういうことには慣れっこになるんだよ。ここは闇落ちした人間が送られてくる場所だ。闇落ちした者は、自ら闇を生み出し、周囲に撒き散らす。俺はそれを散々見てきた。闇が怖いなら、ここで仕事なんかできない」
そう言って、瀬斗は空を仰ぎ見る。目には見えないが、そこにあるはずの巨大な結界を眺めるように目を細めた。
「ここの結界は本来、外の闇の侵入を防ぐためではなく、中の闇を外へ流出させないためのものなんだ。闇落ちだけでなく、摩礼のように特殊な能力を持っている者たちも、闇を暴走させる危険性が高いという理由で、ここに隔離して閉じ込める」
それが、この場所が鳥籠と呼ばれる所以だと、瀬斗は言った。何も知らずに、ここがいいところだと、安心できると、そう言った自分に対して、瀬斗が手厳しい言葉を発したのは、そういう理由だったのだ。
それでも、と縞稀は思う。たとえ一歩も外に出ることが叶わないとしても、少なくともここには居場所がある。力強く守ってくれる手がある。そして何より、この世界はこんなにも美しい。ここにあるのが恐怖と絶望だけだとは、縞稀には思えなかった。
そのとき、ふと視界の遠くに人影が映った。小屋の中から一人、二人と現れる人影に、縞稀はどこか見覚えがあるような気がした。その予感はやがて確信に変わり、縞稀は懸命に目を凝らして、その様子を見守った。
間違いない、あれは桂陀の取り巻き連中だ。
「どうした、縞稀?」
縞稀の様子に気付いて、瀬斗が声をかける。
「あの人たちは……」
瀬斗は怪訝そうに縞稀を見つめ、それからその視線の先を追った。
「ああ、彼らは一昨日ここへ運ばれてきた闇祓いたちだね。闇の侵蝕は比較的軽かったから、無事回復したんだろう」
その言葉に、縞稀は思わず声を上げた。
「じゃあ由羅乃も……ここにいるんですね?」
その名前を耳にした途端、今度は瀬斗は大きく目を見開いて、縞稀を凝視する。
「君は……彼女の知り合いなのか?」
「由羅乃は私の友人です。ここに来てるなら……由羅乃も無事なんですよね?」
「……なんてことだ、君が」
驚きで言葉を失った様子の瀬斗に気付き、縞稀は急に嫌な予感がして問い詰める。
「由羅乃は……無事なんですよね……?」
無言のまま顔を背ける瀬斗に、縞稀はさらに詰め寄った。
「由羅乃はどこですか? 由羅乃に会わせてください」
「……無理だ。彼女は隔離されている。隔離された患者には会えない」
「会えない? どうして?」
「君が闇に感染するかも知れないからだ。隔離とは……闇落ちした患者を結界の中に閉じ込めて、周囲への闇の感染を防ぐという意味だ。それに会ったところで、もう何もできない」
「……どういう意味?」
瀬斗は苦しそうに顔を歪め、すがりつくように自分を見上げる縞稀の腕を、両手でしっかりと掴んだ。
「そのままの意味だ。闇落ちから戻れなくなった人間を救う手段はない。ただ衰弱して……死を待つだけだ」
大きく見開かれた目が、恐怖と絶望の色に変わっていくのを、瀬斗はどうすることもできずに見守った。
「噓……そんなこと、信じない」
「噓じゃない、俺がここまで運んだんだ。闇の侵蝕がひどくて、すでに瘴気の放出が始まっていた。藤璃様の結界がなかったら、ここまで運ぶことさえできない状態だった」
わずかに唇が震えたが、縞稀の口からは何の言葉も出なかった。
「言っただろう、ここにあるのは恐怖と絶望だけだと。ここにある小屋はすべて結界で隔離されている。あの屋根の数だけ、死を待つ命があるってことだ。それでも、強制的に命を絶つことはしない。ここはそういう場所なんだ」
瀬斗の言葉が遠くで聞こえているような気がした。乾いた心の奥底で、何か不快な衝動が生まれて、縞稀は胸を抑えてしゃがみこんだ。
何だろう、この感覚は……苦しいのか悲しいのか、それさえも分からない。ただどうしようもなく不快で、空虚で、気持ち悪い。思考は停止しているのに、断片的な感情だけが、断続的に押し寄せてくる。
結局自分は助けられなかったのだ、守ると約束したのに。ずっと見守っていると、そう心に誓ったのに。あのときの、黒く変色した由羅乃の顔が浮かんだ。助けてと、自分の名を呼ぶ声が聞こえた。それなのに、自分は助けることができなかった。結局、自分がしたことは、何ひとつ意味をなさなかった。
突然の嘔吐感と息苦しさが縞稀を襲う。
吐き出せるのなら、すべて吐き出してしまいたい。自分の中にある、醜くておぞましいモノすべてを。それを受け入れている自分の感情のすべてを。
どくんと心臓が脈打つ。あのとき呑み込んだアレが、心の奥でうずいている。あの場所に集まったすべての闇を喰い尽くしたアレが、今もなお自分の中で蠢いている。
ああ、そうか―――醜くておぞましいものは自分自身。アレを呑み込んでもなお、生きている自分自身だ。
顔を上げると、目に映るものすべてが、ただ霧のように虚ろで、冷たい憎悪に満ちていた。
†
「雨が……降ってきましたね」
比壬は窓の外を見上げて、そう呟いた。薄暗い空には、灰色の雲がどんよりと立ち込め、まるで不穏な空気を運んでくるようだった。
朝食の準備をするため、一足先に館に来ていた比壬だったが、急に降りだした雨に何か嫌な予感がして、一人残してきた相手の身を案じ始めていた。
「縞稀のことが心配か?」
藤璃の問いかけに、比壬は心を見透かされたと知り、気まり悪そうに答える。
「あいつのことだから、道に迷ってるんじゃないかと思って……」
「迷ってはいない、でも泣いているな……まあ、遅かれ早かれ知ることだ」
そう答える藤璃の声に、比壬の心配は不安に変わる。
「藤璃様、それはどういう意味ですか? まさか、あいつ……」
比壬の予想を肯定するかのように、藤璃は視線を落とした。
「あれは自分が何をしているのかさえ気付いてないよ。まったく、あんなに闇を吐き出して……困った子だ」
呆れた口調のくせに、ひどく悲しそうな笑みを浮かべて、藤璃はくるりと背を向けた。椅子の背に掛けられた異国風の薄布を手に取ると、雨避けにと頭を覆うように被る。
「ちょっと出かけてくる。朝食は先に取っていてくれ」
「俺も行きます!」
後を追うように比壬が駆け寄る。けれど藤璃は首を横に振った。
「ダメだ、おまえの手に負える状態じゃない」
「だったら尚更……藤璃様一人を行かせるわけにいきません」
藤璃は少し驚いたように比壬の顔を見返した。そこには驚き戸惑う少年の面影はなく、静かに覚悟を決めた強い眼差しがあった。
「比壬、おまえ……」
藤璃がそう言いかけたとき、突然、大きな音と共に扉が開いた。勢いよく雨風が部屋に吹き込み、藤璃は思わず顔をしかめる。
その直後、息を荒くした瀬斗が飛び込んできて、切羽詰まった声を上げた。
「藤璃様、大変です! 摩礼が……摩礼が……」
尋常ではない瀬斗の様子に、比壬は自分の嫌な予感が当たってしまったのだと直感した。勢いよく外へ走り出そうとする比壬を、素早く押し留めたのは藤璃だった。
「落ちつけ、比壬。言ったはずだ、おまえの手には負えないと」
そう言って、素早く呪文を唱えて、比壬の足止めをする。
藤璃は瀬斗の方を振り返ると、いつもと変わらぬ笑みを浮かべて言った。
「瀬斗、大丈夫だ。まずは何があったか、話してくれないか」
藤璃の声に落ちつきを取り戻した瀬斗は、ゆっくりと頷いた。
「それが……よく分からないんです。ここへ向かう途中、雨が降ってきたと思ったら、摩礼が急に震え出して……いくら声をかけても反応しないんです」
走ってきたせいで上下に揺れる瀬斗の腕の中には、小さく縮こまって震えている少年の背中が見えた。確かにひどく怯えている様子だったが、彼自身に異変があるわけではなさそうだった。
藤璃はそっとその背中に手を当てると、優しくさすりながら、小さく魔除けの呪文をつぶやいた。
「大丈夫だ、瀬斗。この冷たい雨のせいだよ。彼には刺激が強すぎたんだ。暖かくして部屋で休ませてやるといい」
瀬斗は安堵したように表情を緩め、取り乱した自分を恥じるように頭を下げた。
「すみません、ここ最近はずっと調子がよかったので、慌ててしまって……」
「おまえが一緒にいると摩礼も安心できるんだろう。目が覚めるまで、おまえが側にいてやってくれ」
そう言って、意味ありげに視線を送る藤璃の意図を察したように、瀬斗は小さく頷くと、摩礼を休ませるために奥の部屋へと向かった。
彼らの姿が扉の向こうに消えたのを確認すると、藤璃はおもむろにその視線を反対側の扉の方へと向ける。そして、そこにいる相手の名を呼んだ。
「原因はおまえだろう―――縞稀?」
扉の後ろから、ゆっくりと姿を現した相手に、藤璃は動じることなく視線を細めた。藤璃の背後で足止めされていた比壬は、驚きのあまり、言葉を失ったまま立ち尽くしている。
雨で濡れた髪が頬に張り付き、人形のように立ち尽くす姿は、さながら抜け殻のようだった。青白い顔は冷たく無表情で、その虚ろな目には何も映っていない。そして何より、彼女の周囲に漂う闇の気配が、最悪の状況が起きてしまったことを意味していた。
藤璃はふうっと息を吐き出して、額に降りかかる髪をかきあげた。
「瀬斗から聞いたのか……由羅乃のことを」
その名前に、びくりと縞稀の体が反応する。それと同時に、どす黒い何かが縞稀の体から溢れ出る。これまでの闇とは比べものにならないほどの深く黒い闇―――その触手であらゆるものを侵蝕する穢れだった。
「そうか……そこまで落ちたか。だがまだ意識があるなら運がいい。いいか、よく聞け、縞稀。おまえが自分の感情を制御できないせいで、この雨が降っているんだ。おまえの中の闇が、灰色の雨となって降っている。これ以上、ここで闇を撒き散らす気なら、私はおまえを隔離するしかない」
いつになく厳しい口調に、比壬は藤璃が本気で縞稀を隔離する気なのだと思った。そして自分でも驚くことに、彼はそれを止めようとしていた。
「お待ちください、藤璃様!」
「どけ、比壬。私の邪魔をする気か?」
「それは……」
自分が邪魔をしているのだと咎められて、比壬は言葉を失った。そんなつもりはない、自分が藤璃の邪魔をするはずがない。それなのに、気付いたら体が勝手に動いていた。
なぜ?と自問する比壬の背後で、小さくかすれた声が聞こえた。
「……由羅乃に会わせてください」
振り返ると、ゆっくりと近づく縞稀の姿があった。歩くたびに、全身から黒い霧のような瘴気が漂う。穢れの放つ瘴気は、通常の闇よりも侵蝕力が強い。
「そんな状態で会えば、間違いなくおまえの中の闇が暴走する。おまえのせいで、たくさんの人間が死ぬことになるぞ」
生気を失った顔に、わずかに赤みがさす。
「由羅乃は死なない、勝手なこと言わないで!」
「まだ分からないのか、おまえ自身が穢れになるんだ」
藤璃は躊躇なく手を伸ばし、比壬があっと思ったときには、縞稀の肩をつかんでいた。その白い腕に、どす黒い闇の触手が這い上がり、侵蝕しはじめる。
「藤璃様、手を離してください、穢れが……」
引き止める比壬の声を無視して、藤璃は容赦なく縞稀の肩を揺さぶる。
「目を覚ませ、縞稀」
「いや! 由羅乃に会わせて!」
そのとき、ぱんと高い音がして、縞稀の体が傾く。よろめきながらも何とか両足で踏み止まる。頬を押さえる縞稀の腕を、藤璃は躊躇なく引き寄せ、再び頬を叩いた。数回それが繰り返され、その度に縞稀の体はよろめき、ついには膝をついた。
痛みを与えることは現実に引き戻す手法として有効だが、果たしてこの状態の縞稀に効果があるのか、比壬には分からなかった。
「由羅乃を助けたいのなら、まずは私の話を聞け。それから、どうしたいか考えろ。少なくとも、今のおまえに由羅乃は助けられない」
その言葉と同時に、縞稀の体から一気に闇の渦が湧き上がり、藤璃の全身を覆い尽くす。茫然とする比壬の目の前で、次の瞬間、藤璃の周囲の闇が勢いよく吹き飛ばされ、その反動で縞稀は地面に投げ飛ばされた。
比壬は冷や汗をかきながら、藤璃の後ろ姿を見つめた。藤璃ほどの人間がそう簡単に闇に侵されるはずがないと分かっていても、あそこまで無防備に穢れに近づいて、もし呪文の発動があと少しでも遅れれば、さすがに危なかったはずだ。藤璃がここまで無茶をするのを見るのは、比壬も初めてだった。
そんな比壬の心配を余所に、藤璃はこの状況を冷静に見つめていた。
これ以上、穢れが増したら、自分でも手に負えなくなる。そうなる前に、縞稀を隔離するしかない。けれどそうなれば……すべての希望が失われてしまうのだ。
「縞稀、目を覚ませ! 由羅乃を助けたいのなら、目を覚ますんだ」
けれどその声が相手に届くことはなく、虚ろな目に映るのは、深い絶望の闇だけだった。
「ようやくここまで来たのに……やっとここまで来れたというのに、すべて失われてしまうというのか」
けれど迷っている時間はなかった。穢れの侵蝕が予想以上に早い。周囲に充満してく瘴気が、思考を停止させてしまう前に、片を付けなければ。
(もはや、ここまでか……)
握り締めた拳をゆっくりと開き、藤璃は腕を上げた。小さく息を吐き出し、結界の術式を唱えようとした、まさにそのとき、低く絞り出すような声が聞こえた。
「……できるの?」
聞き間違いかと耳を疑ったが、それは確かに彼女の声だった。
「本当に……由羅乃を助けられるの……?」
ゆっくりと俯いた顔が上を向く。そこには、先ほどまでの虚ろな目は消え失せ、強い光が戻っていた。
「あなたは今、助けたいのならと言った」
その射抜くような視線を受け止めながら、藤璃は息を呑む。
「それはつまり……由羅乃を助けられるということ?」
こんな状態の相手と、まともな会話ができるというのが、信じられない状況だった。藤璃は相手の動きを慎重に見守りながら、ゆっくりと答えた。
「ああ……そうだ、助ける方法はある」
そう答えると、周囲の闇がまたたく間に消えていく。全身から溢れ出た穢れが、跡形もなく消滅していく。それはまさに一瞬だった。まるで夢を見ていたかのように、辺りから闇の気配が消え去った。
「縞稀、おまえ……」
あれだけ強い闇に深く侵されながら、闇落ちせずに戻ってきたのか。それも、完全に闇を制御した状態で。ここまで見事に闇を飼い慣らしているとは、予想以上だと藤璃は思った。
「由羅乃を助けるためなら何だってする……だから教えて、どうすればいいの」
その強い意志が、ただ一人を救いたいと願う、その強い意志こそが、彼女をここへ戻らせたのだ。
藤璃は泣きたいような衝動に駆られた。震える唇を噛みしめ、そして空を仰ぎ見るように上を向くと、押し殺した感情を吐き出すように溜息をついた。
「ならばついて来い……おまえに見せたいものがある」