【六】 逃走
深い深い闇の中で、私は一人彷徨っていた。
子供だった私は、そこがどこなのか、どこへ向かえばよいのか、何一つ分からずに、ただただ、与えられた本能のままに、闇の中を歩き続けた。導く大人は誰もいない。友と呼べる存在もいない。むしろ、その意味すら知らない子供だったから、自分が寂しいのだと感じることもなかった。
そう、何も知らない子供だったのだ。本当に、何も知らない無知な子供だった。他人の痛みも分からず、心の機微にも気付かず、何を見ても何を聞いても、人と喜びや苦しみを共有することの意味を知らなかった。自己という小さな殻の中に閉じこもり、その外側に広がる世界を知ろうともしなかった。
闇祓いとして育てられた日々は、決して楽しい日々とは言えなかったが、あの頃の自分は何も知らないがゆえに、今よりも幸せだったのかも知れない。少なくとも今の現実を、あの頃の私なら、何の疑問も抱くことなく受け入れたに違いない。
けれど、今なら分かる。自分の心も、他人の心も、何ひとつ理解できない子供が、闇を祓うことなどできやしない。
あの大きな手が差し出されたあの日から、私はずっと守られていた。初めて居場所を与えられ、目的を与えられ、自分の生きる意味を感じられるようになった。それがたとえ、私の一方的な想いであったとしても、それで充分だった。見返りなんて必要ない、その人のために頑張ることができたのだから。人の心を理解したいと思うようになったのも、寂しいという意味を理解できるようになったのも、すべてあの人が与えてくれたのだから。
はっと目が覚めた。闇の中で懐かしい光が見えたような気がした。辺りは薄暗く、うっすらと差し込む灯りは、月の光のようだった。
気付くと、目から涙がこぼれ落ち、その温かな液体は後から後から溢れ出てきた。
なぜ……泣く?
自分自身に問いかける。頭で考えるのではなく、心の声を聞く。感情は嘘をつかない。どんなごまかしも通用しない。だから、認めてしまうしかないのだ。私は悲しんでいる。あの人を裏切ってしまったことに、あの人につらい役目を背負わせてしまったことに、ひどく心が悲しんでいる。
人に寄生する闇は、宿主が死ねば共に消滅するとあの男は言った。だとしたら選択肢はそれしかない。迷う時間がないのなら、もう迷う必要もない。ただやるべきことをすればいいだけだ。
縞稀は腕を上げようとして、それが動かないことに気付いた。腕どころか、体全体が何か縛りつけられていて、身動きが取れない状態だった。口も布のようなもので縛られていて、息をすることはできたが、顎を動かすことができない。唯一動かせる首を捻ると、小さな窓のついた扉が1枚だけ見えた。それ以外の窓はない。ここが独房の中であることは間違いないが、ここまで頑丈に拘束されるのはどこか不自然だった。
(どうあっても明日の儀式までは生かしておきたいのか……)
久沙戯―――そう呼ばれていた、あの男の目的は何なのか。あんなふうに長老たちを扇動し、親方様さえも従わせる、本家から来た人間。そんな人間が、なぜ自分の目の前に現れたのだろう。
そして、孤高の闇。あの場所を知る者が他にもいるなんて、思いもしなかった。あの男の言葉が事実だとするならば、あの場所を孤高の闇と教えてくれたあの人が、他宇良様その人だ。
戸倉で必死で助けを求めたとき、自分に手を差し伸べてくれたのは、他宇良様だった。あの人の手が触れた瞬間、気付くと意識は孤高の闇に戻っていた。あの場所は、自分の中の闇が作り出した幻覚か何かだと思っていたが、実際は幻覚などではなく、意識体だけが存在可能な場所なのかも知れない。
分からないことだらけだった。けれど、それがなんだというのだろう。もうすぐ終わる命なら、思い悩む必要もない。そう頭では分かっているのに、なぜあの青い瞳が何度も脳裏に蘇るのだろう。
無表情で冷酷な顔の裏に、何か強い感情を隠している。冷たく光る青い瞳の奥に、見えない本心を隠している。それが何なのか、自分は知りたいのだろうか。他人の感情を知りたいと思うなんて、久しくなかったはずなのに。
その時、どこかで物音がしたような気がした。
聞き耳を立てていると、また何か鈍い音が響いた。どさりと重たいものが床に落ちたような音。先ほどよりも近い。
やがて足音が響いてきた。間違いなくこちらへ向かってくる。やがて扉の前で止まると、鉄格子の隙間から、じっとこちらの様子を窺っているようだった。
「縞稀……そこにいるのか?」
縞稀は思わず耳を疑った。誰かが自分の名を呼んでいる。この声は、先ほどの審議で、比壬と呼ばれていた少年だろうか。
「そこにいるのか?」
再度の問いかけに、何と答えるべきか迷ったが、とりあえず首を縦に振る。
「分かった、待ってろ、今開けてやる」
相手はその仕草で声が出ないことを察したのか、すぐに鍵穴をいじり始める音がした。やがて、かちりと音がして、扉が開く。そこから現れたのは、やはりあのときの少年だった。
比壬は縞稀の状況を確認すると、手早く拘束を外し始めた。縞稀は呆気に取られたまま、彼の器用な手の動きを眺めていた。
「よし、これで全部外れた……どこか怪我してないか?」
心配そうに覗き込む少年の顔を、縞稀はまじまじと見つめ返す。
「どうしてこんなことを?」
「おまえを助けにきた」
さらりとそう言う相手に、縞稀は眉を寄せた。この少年に自分を助ける理由などないし、そもそも自分は助けて欲しいとも思っていない。
「なぜ助けるの」
「俺が助けたいと思ったから」
そう言って、縞稀の手を掴んで外へ連れ出そうとする。縞稀は慌てて掴まれた腕を引き戻した。
「待って! こんなことすれば……あなたもただじゃ済まないでしょう?」
「それは……なんというか、もう手遅れなんだ。ここに来るまでに、いくつもだたじゃ済まないことをしてるから」
再び歩き出そうとする比壬の手を、今度は力いっぱい振り払った。驚いたように振り返る少年に、縞稀は強い眼差しで答えた。
「私は行かない」
「なぜ? このままだと、おまえの命が危ないんだぞ。それでもいいのか」
「構わない。私はここで処分されるべきだと思うから」
比壬は一瞬、動きを止め、それから真面目な顔で縞稀を見た。
「処分されるべき人間なんて一人もいない」
「いかなる手段をもってしても、闇は祓われなければならない。それが私たち闇祓いの使命だと習わなかった?」
「悪いけど、俺は使命とか大義とかが大嫌いなんだよ。俺はおまえが、本当はどうしたいのか、それが知りたい」
「知ってどうするの? あなたがそれを叶えてくれるの」
「できることなら協力する」
「そう……だったら、その短剣で私の心臓を刺して、今すぐに」
比壬は目を見開き、初めて表情を固くした。
「できないなら、今すぐここから出ていって!」
睨みつけるような縞稀の視線に、比壬は拳を握り締めると、その手で縞稀の胸ぐらを掴んでぐいと引き寄せた。
「いい加減にしろよ、おまえは誰かを守りたいんじゃなかったのか? あの結界の中で、必死に名前を呼んでいたのは、そいつを守るためじゃなかったのか? それなのに、このまま死んでしまっていいのかよ!」
目の前の相手が、なぜにここまで強い感情を自分にぶつけてくるのか、縞稀には理解できなかった。それでも、彼の感情が嘘ではないことは分かった。
「……こうすることでしか、守れないからよ。あなたは何も知らない。知らないくせに、知ったような口をきかないで」
「そうかよ、だったら俺にも分かるように説明してみろよ」
少年の目が本気で怒っていることに、縞稀は戸惑う。彼が自分のために怒っているのだとしたら、その理由が分からない。分からないことが苦しいとさえ感じる。
「自分がいつ闇落ちするか、びくびくしながら生きるのは、もうたくさんなの。朝目が覚めて、自分でなくなっていたら、もう自分ではどうすることもできない。自分のせいで、大切な人を傷つけるくらいなら、そうなる前に、終わらせるしかない」
「必ず闇落ちするかなんて、分からないじゃないか。なぜ生きるための方法を探さないんだ」
「そんな方法は存在しない。闇飼いが禁忌とされる理由は……いつか必ず宿主が闇落ちして、穢れになるからよ」
突然、両肩を強く掴まれて、縞稀は全身を強張らせた。比壬は無言のまま、手を放そうとしない。そのまま沈黙が続くのかと思って視線を上げると、そこには彼の真剣な顔があった。
「あんたは……ただ逃げてるだけだ」
少年とは思えないほど、低く押し殺した声だった。縞稀は彼があの結界の中で、自分よりもずっと正気を保っていたことを思い出した。
「あんたはただ、自分が楽になりたいだけなんだ。いつ闇落ちするか分からない恐怖に耐えられなくて、逃げようとしてるだけだ。だけど、本当に誰かを守りたいと願うなら、最後まで戦えよ。最後まで、あきらめずに手を尽くせ。ぎりぎりまであがいて、もがいて、それでもダメだったら、そのときは……そのとき考えればいいんだよ!」
縞稀は苦しげに顔を歪めた。もうすべて終わらせようと覚悟を決めたのに、この目の前の少年が、それをすべて打ち砕いてしまう。
「どうして、そこまで私に構うの」
なぜ彼が危険を冒してまで自分を助けようとするのか、なぜ自分のためにここまで懸命になれるのか、縞稀には分からない。
「さあな、自分でもよく分からない……でもあんたには生きていて欲しいって、そう思うんだよ」
その言葉の意味を、自分は正しく理解できているのかさえ、縞稀には分からなかった。昨日出会ったばかりの相手に、生きていて欲しいと言われる理由が、いくら考えても思い当たらない。
「それに巫女様が亡くなった今、闇を祓えるのはあんただけだろ」
縞稀は大きく目を見開いて、相手の顔を確かめるように凝視した。
「今、なんて言ったの……?」
比壬は意図せず言ってしまったことを少し後悔したが、どうせ誤魔化しても無駄だと判断して先を続けた。
「審議の間で、長老たちの煮え切らない態度がどうしても気になって……あの会議の後、しつこく問い詰めたんだ。そしたら巫女様が亡くなったって……あの緊急会議はそのためだったんだ。あの広間で、何も知らなかったのは、俺とあんただけってことになる」
縞稀はその場に崩れ落ちた。
「巫女様が……」
恐ろしいほどの喪失感が縞稀を襲う。玄武の一族にとって、巫女の存在は何よりも神聖なものとされているが、それは巫女の存在が、玄武の守護そのものだからだ。
不意に由羅乃の青ざめた顔を思い出した。あのときすでに、他宇良の命が消えかけていたのだとしたら、玄武の守護も同時に消えてしまったのかも知れない。儀式で惹き寄せた闇が暴走する結界の中で、由羅乃を守るものは何一つなかったことになる。
「巫女が死ぬと、闇が祓えなくなる……そんなこと、藤璃様も教えてくれなかった」
ぼそりと呟く比壬の言葉を聞いて、縞稀はその事実が意図的に隠されているのだと悟った。
「それはおそらく、闇祓いにとっては知らない方が都合がいい事実だからよ」
「都合がいい?」
「闇を祓うとは、闇を喰うこと。これまで私たちが何も知らずに行ってきた儀式は、単に闇を惹き寄せ、閉じ込めるだけのもの。だとしたら、その閉じ込めた闇を、誰かが喰っていたことになる」
「あんた以外にも、そんなことができる奴がいるのか」
驚く比壬の言葉に、縞稀は頭を振って答えた。
「違う……あれは私一人じゃできなかった。あのとき、私を助けてくれた人がいたの」
あのとき……ただ必死で助けを求めたあの瞬間、縞稀は確かにあの人の姿を見た。闇に喰われそうになった自分を、あの人が助けてくれたのだ。
「その人はきっと……今まで何度も何度もそうやって、闇を喰ってきたんだわ。私たちが何も知らずに集めた無数の闇を、何も言わずに喰い続けて、そして……」
縞稀の言わんとすることに気付いて、比壬は大きく目を見開いた。
「まさか……嘘だろ、だって、そうだとしたら」
「他宇良様が飼っている闇が、すべての闇を喰っていたのよ。だからこそ、他宇良様亡き今、誰も闇を祓えない。闇を喰ってくれる人がいなくなってしまったから」
「そんな……巫女自身が闇飼いだっていうのか? だから事実を隠した?」
「いいえ、その逆だと思う。闇飼いを巫女にしたのよ。闇を喰わせるための闇飼いを巫女に祀り上げて、その事実を覆い隠したんだわ」
茫然とした表情で、比壬は頭を抱えた。
この事実を知る者は、玄武の屋敷の中でも限られているはずだ。頭領である誠珂と、おそらく長老会だけだ。現役の闇祓いたちは何も知らない。事実を知れば、これまでのように儀式が行えなくなるし、何より闇飼いを禁忌とする玄武の掟そのものが、信頼を失うことになる。
「あんた……知っていたのか」
「知らなかったわ、あの男に教えてもらうまでは」
「あの男って……久沙戯とかいう? あの男は何者なんだ?」
「分からない……でもあの男が、私の意識を戸倉へ飛ばした。おそらく、他宇良様の代わりに、闇を喰わせるために」
あの男は、他宇良様の容態が悪いことを知っていたのだ。そしてもう闇を祓えないことも。だからこそ、自分を戸倉へ送り込んだ。
「でも、だとしたら……あんたが死ななきゃならない理由はどこにもないじゃないか。巫女様が闇飼いとして闇を喰っていたのなら、あんたはそれと同じことをしただけだ」
そう問われて、縞稀は返答に詰まった。確かに結果だけを見れば同じかも知れない。けれど他宇良の助けがなければ、自分はあの場所で穢れになっていたかも知れないのだ。
「巫女様が闇飼いでありながら闇落ちしない理由は、他にあるのかも知れない。でも私は巫女じゃない。いつ闇落ちしてもおかしくない」
「だとしても……いま闇を祓えるのは、あんただけなんだ。あんたは死ぬべきじゃない」
その言葉に、縞稀は何と答えてよいか分からなかった。闇を喰うことは危険を伴う。再び闇を喰って、無事戻れるのか分からない。もう他宇良はいないのだ、助けはどこにもない。
―――だから生贄が必要なんだ
あの男がそう言ったとき、生贄とは自分のことを指しているのだと思った。けれどその言葉の意味を、もし今の自分が正しく理解しているのなら、それは巫女自身を指していたのかも知れない。
「でも私は巫女じゃない、私は……」
そう言おうとして、急に口に手を当てられた。
比壬の視線が鋭くなり、周囲を警戒している。耳を澄ますと、遠くから人の気配が近づいてくるのが分かった。
今ここで見つかれば、自分はここに留まることができるかも知れないが、危険を冒して自分を助けようとしてくれた比壬まで捕まってしまうかも知れない。そう思うと、縞稀は声を上げることができなかった。
そんな縞稀の葛藤を知ってか知らずか、比壬は縞稀の手をしっかりと握り締めると、建物の外へと縞稀を連れ出した。そう簡単に脱獄などできるはずがないと縞稀は思っていたが、意外にも、途中で人に出会うこともなければ、人影を見かけることさえなかった。
敷地内の裏道を走り抜け、西門の近くまで来ると、比壬はいったん足を止めた。屋敷の外へ出るには、必ずどこかの門を抜けなければならないが、門番の許可なく扉は開かない。どうやって脱出するつもりなのかと、比壬を見ると、彼は少し驚いたような顔で周囲を窺っていた。
「ここまで完璧に人払いするなんて……あいつ、いったいどんな手を使ったんだ?」
そう呟く比壬の言葉に、縞稀も周囲を見回す。確かに様子が変だ。ひどく静まり返っていて、門番の姿が一人も見えない。さすがにここまで人気がないのは、普通ではあり得ない。
戸惑う様子の縞稀に、比壬は小声で囁いた。
「大丈夫だよ、すべて計画通りさ。まあ、なんていうか……戸倉の調査に協力するかわりに、それなりの便宜を図ってもらったのさ」
その言葉の通り、その後も誰にも遭遇することなく、門外へ出ることができた。いったいどんな便宜を図ってもらったのか分からないが、ここまでの比壬の手際の良さといい、脱獄を実行する大胆さといい、この少年はいったい何者なのだろうと、今更ながらに縞稀は思った。
†
そこから先は、わずかな月灯りを頼りに、夜の闇の中を走り続けた。
山林をぬけ、河を渡り、崖を登り、途中で何度か転移を繰り返しながら、再び森をぬける。追手の目をくらますためか、比壬はあえて複雑な迂回ルートを選んでいるようだった。
縞稀はただ無我夢中で比壬の背中を追いかけていた。最初は比壬に引っ張られる形だったが、いつの間にか自分の足で彼に従っていた。誠珂の命に背き、独房を抜け出し、こうすることが正しいのかも、自分がどうしたいのかも分からない。ただ比壬が言うように、闇を祓えるのが自分だけだとしたら、まだ果たすべき役割があるのかも知れないと、そんな気がした。
ただそれだけが、彼の背中を追いかける理由だった。
「……大丈夫か?」
気付くと、比壬が心配そうにこちらを見つめていた。先ほどから思うように足が動かなくなっていて、彼に心配をかけてしまったようだ。
「足が動かなくて」
比壬は縞稀の足の状態を確認すると、腰の袋から布を取り出して、小さな飴を縞稀に渡した。
「足のむくみが取れる薬草で作った飴だよ。瀬斗の薬は味は最悪だけど、効果は抜群なんだ。その……俺がいつもの調子でずっと走り続けたせいだな、悪かった。ここからは、もう少しゆっくり歩くよ」
そう言われて、縞稀は何と答えてよいか分からなかった。半ば強引に彼に連れ出されたはずなのに、いつの間にか、自分から彼の後を追っている。ここで追手に捕まったところで、自分は何の問題もないはずなのに、今はこの逃避行が無事終わることを望んでいる。
「大丈夫、藤璃様の結界まであと少しだから。結界の中に入れば、まず見つからないよ」
縞稀は飴を口の中に放り込むと、再び歩き出した彼の後を追う。確かに味は最悪だったが、彼の言う通り、足のむくみが少し軽くなったような気がした。
比壬の背中は大人のそれほどは大きくない。けれど少年と呼ぶにはたくましく、そして自分よりもずっと頼もしく見えた。自分に生きていてほしいと言い、最後まであきらめるなと叱咤し、自分にまだ生きていても良いのだと、そう思わせてくれたのは、彼が初めてだった。
なぜ彼が自分を助けるのか分からないと、そう思った自分が情けないと縞稀は思った。分からなくて当然だ。自分は彼のことを何も知ろうとしなかったのだから。
「比壬は……藤璃様のところに住んでいるの?」
歩調がゆっくりになったことで、縞稀は比壬の隣を歩きながら、彼に問いかけた。
「そうだよ、俺は小さいとき、藤璃様に拾ってもらったんだ」
何の抵抗もなく彼がそう答えるのを聞いて、彼が自分と同じ孤児でありながら、それを隠そうとはしないのだと知った。
「それからずっと世話になってて……というか、今じゃ俺の方が世話してる感じだけど、まあ、俺のお師匠様みたいな人だよ」
その屈託のない笑顔を見つめながら、彼のいう藤璃とはどんな人なのだろうと縞稀は思った。彼女の名は玄武の屋敷の中で何度も聞いたことがあるが、縞稀は一度もその姿を見たことはない。長老たちが彼女の名前を呼ぶときは、どことなく厄介者扱いする響きがあることも知っている。けれど彼の口から呼ばれるその名前は、明らかに好意と尊敬の念が込められていると、縞稀は感じた。
「あんたの顔を見たら、藤璃様きっと喜ぶな。なにせ外からの客は滅多にないからね」
「逃亡者をかくまったら、迷惑がかからない?」
「そんな心配無用だよ。たとえ玄武の頭領でも、藤璃様の結界には手出しできないから」
それがどういう意味なのか、縞稀には分からなかったが、自分をかくまえば迷惑がかかるはずで、あまり気が進まなかった。そんな縞稀の気持ちを読み取ったのか、比壬は真面目な顔つきになって答えた。
「それに藤璃様も俺も、この件に無関係じゃないんだ。俺が戸倉に行くことも、俺とあんたが出会うことも、藤璃様は最初から知っていたと思う」
その思わぬ言葉に、縞稀はずっと疑問に思っていたことを思い出した。それは比壬との出会いだった。偶然というには、あまりに不自然で、説明がつかない。どうしてあの場所に彼がいたのか。そしてあの結界の中で、どうして彼だけが意識を保ったまま居られたのか。
「あのとき、比壬があの場所にいたのは……」
「藤璃様には先見の能力があるんだ。それで、まもなく運命が動き出すから、準備をしておけって。それを聞いて、俺はどうしてもその運命が動き出す瞬間を、自分の目で見たいと思ったんだ。だからあの日、玄武の屋敷へ潜入して、そして戸倉へ向かった。あの場所であんたと出会えたのも、藤璃様があらかじめ俺自身にかけてくれた結界のおかげなんだ」
先見―――未来に起きる出来事を予知する特殊な能力だと、梓些様から聞いたことがある。そんな能力を持つ人が本当にいるのなら、この先何が起きるのかも分かるのだろうか。
「運命が動き出すって……どういう意味なの?」
「具体的なことは分からないって言ってた。先見といっても、何でも分かるわけではないらしい。でも俺は、あんたがそれに関わっている気がする」
「私が……? だから私を助けたの?」
「どうかな、ちょっと違う気がする……俺が戸倉へ行くとき、藤璃様に言われたんだ。この先は何が起きるか分からない、だからどうするか迷ったときは、自分の心を信じろと。だから俺はあんたを助けた。誰かを助けようとするあんたを、俺が助けたいと思ったんだ」
そう言って、比壬は少し照れくさそうに笑った。
「なんか格好いいこと言ってみたけどさ、本当は自分のためなんだ。俺はね、自分の運命が許せないんだ。本当は運命なんて信じたくもないけど、自分ではどうしても逃れられないのが運命だというのなら、今度は俺が、俺の方から、運命に立ち向かってやるって決めたんだ」
彼が少年とは思えないほど大人びているのは、運命が許せないと言わせるほどの、つらい出来事が過去にあったからかも知れない。どんなにつらい過去があっても、必死に運命に立ち向かおうとする少年の姿が、縞稀にはとても眩しく思えた。
†
「到着したぜ」
その言葉と同時に、森の中に不思議な空間が現れた。
森の中という表現が的確かどうか分からないが、棚田のような場所にいくつかの小さな家が建ち並び、その一番高い場所には、ひときわ大きな屋敷が建っていた。月の光に照らされたその屋敷は、全体が異国風の造りをしていて、まるで魔女の館のようだと縞稀は思った。
「ここはいわゆる隔離の里と呼ばれる場所だよ。あちこちに見える家が隔離病舎で、あの頂上に見えるのが藤璃様の館だ」
隔離病舎―――その名は幾度となく聞いていた。傷ついた闇祓いたちが運ばれていく場所であり、闇落ちした者を周囲から隔離するための鳥籠だとも。いつか自分もここへ隔離されるかも知れないと覚悟していたが、こんな形で来ることになるとは思いもしなかった。
一つ一つの屋根を照らす灯りが、まるで命の灯火のように輝いている。思っていた光景とは全く違うことに縞稀は息をのんだ。一言でいうと、それは美しい光景だった。この美しい光景を、自分のせいで壊したくはない。
「比壬……やっぱり私はここにいない方がいい気がする」
「まだそんなこと言ってるのか?」
うんざりしたように、比壬が肩をすくめた。
「親方様は分からないけど、少なくとも久沙戯が黙っているとは思えない。そうなれば本家を敵に回すことになる」
「本家だろうと何だろうと、この里には手出しできないんだよ」
「だとしても、藤璃様に迷惑がかかるわ」
そのとき、強い風が正面から吹き抜け、縞稀は両腕でそれを受け止めた。なぜ急に突風が?という疑問は、その後の出来事ですべて吹き飛んだ。
春風のように力強く、月夜さえも霞む陽気な声で、その人は縞稀の前に現れた。
「気にすることはない。私はおまえを歓迎するぞ、縞稀」
まるで風と共に現れたかのように、一人の女性が立っていた。丈の長い洋風の衣服を身にまとい、腰まで落ちる艶やかな黒髪が風になびいている。
異国の魔女―――それが縞稀が抱いた第一印象だった。
「藤璃様! ただいま戻りました」
すぐ隣で、比壬の嬉しそうな声が上がる。
「まったく……遅いから心配したぞ、比壬。ドジ踏んで、おまえまで独房に入れられたんじゃないかとな」
「そんなドジは踏みませんよ。藤璃様こそ、ちゃんと夕食は食べたんですか? 昨夜はベッドで寝たんでしょうね?」
手慣れた様子で問い詰める口調に、どちらが面倒を見ているのか分からないと言っていた比壬の言葉を、縞稀は思い出した。
「なんでそれを……」
「またソファで寝たんですね! ちゃんとベッドで寝ないと疲れが取れないって何度も言っているのに……」
呆然と二人を見つめている縞稀を見て、比壬は慌てて苦笑いを浮かべた。
「悪い、思わずいつもの調子で……ええと、この方が藤璃様だ」
そう改めて紹介されて、縞稀は目の前に立つ女性を見上げた。
想像していたよりも、ずっと若くて気さくな人だと思った。とはいえ年齢について言えば、見た目通りではないかも知れない。玄武の中には、巫女と同じく、成人のまま外見が変わらない者がいる。
「初めまして、藤璃様。私は……」
「知っているよ、縞稀だろ?」
にっこりと微笑むと、藤璃は待ち切れないとばかりに、足早に近づいてきた。
「なぜ私の名前を……」
「当たり前じゃないか。おまえのことは何度も聞かされたのだぞ」
「え……」
「大きくなったな、縞稀!」
そう言って、翼のように広がった両手が伸びて、縞稀は背中を優しく抱きしめられた。
「あ、あの……」
ほんのりと草花の香りがして、どこか懐かしい温もりを感じた。暖かくて安心できる場所、もしかしたら、母親とはこんな感じなのだろうかと、そんなことを考えた。
「あの、どこかで、お会いしたことが?」
驚く様子の縞稀の顔をじっと見つめながら、藤璃は優しく微笑んだ。
「いや、直接会うのは初めてだな。だが私はおまえを知っているよ。それもずっと昔からね。誠珂がおまえを館へ連れてきた、あの日からずっとさ」
縞稀は顔を上げた。何かを聞き間違えたような、そんな顔で藤璃の顔を見つめる。
「いま何て……?」
「おまえには、話さなければならないことがたくさんあるんだ、縞稀。だが積もる話は後だ。まずはゆっくり休むといい」
そう言って、藤璃は大輪の花のように、艶やかな笑みを浮かべた。