【五】 断罪
「対象者六名の回収、すべて完了いたしました」
薙都がその報告を受けたのは、すでに東の空がうっすらと白み始めた頃だった。夜を徹しての救出活動がようやく終わり、薙都は小さく安堵の息を漏らした。
「ご苦労さまでした。後はこちらで対処しておきますから、皆さんは先に屋敷へ戻って、ゆっくり休んで下さい」
周囲の者たちへそう指示を出すと、薙都は中庭の方へと足を向けた。体は疲れ切っていたが、薙都の仕事はこれからが本題だった。
昨夜、薙都が戸倉寺院へ到着したとき、すべては終わった後だった。実際のところ何が起きたのかは分からない、けれどすべて終わったのだということはすぐに分かった。なぜなら、暴走したという闇の気配はどこにも見当たらなかったからだ。
何が起きたのか、それを知るために、薙都はその少年の元へ向かっていた。
あの場所でただ一人、意識を保ったまま救助を待っていた少年―――術者のほとんどは闇に感染していたのに、彼だけは強い結界で闇除けされていた。あれほど強力な闇除けを長時間維持するには、かなり高度な結界の技術が必要だ。そしてそんなことができる人間は、薙都の知る限り一人しかいない。
少年は見つけたときと同じ場所で、両腕で膝を抱えて座っていた。近づいても動く気配がないので、もしかして寝ているのかと思ったが、薙都の気配を感じると、ゆっくりと顔を上げた。そのひどく疲れた表情で、彼があれから一睡もしていないのだと分かる。
薙都は膝をつき、少年と視線を合わせた。
「気分はどうですか?」
そう声をかけてみたが、少年は何の言葉も返さない。意図的にこちらを無視している。
「そろそろ何があったのか……話してくれませんか?」
昨夜から一言もしゃべろうとしない少年に、正直、薙都はどう接してよいのか分からなかった。自分を見るその鋭い眼差しに、どこか敵意のようなものを感じていたが、その理由が何なのか、確かめることもできない。
「話したくない理由があるのなら……それだけでも教えてくれませんか?」
辛抱強く待ってみたが、やはり何の返答もない。ついにあきらめて立ち上がろうとしたとき、ぼそりとつぶやく声が聞こえた。
「どうせ……信じないだろ」
「え?」
「俺が見たことを話したところで、おまえたちは信じやしない」
低い声でそう答えた少年に、薙都は改めて膝をついて目を細めた。
「なぜそう思うのですか?」
今度はあからさまに怒りを滲ませた目が薙都に向けられた。
「あんただって……あの男の言いなりだったじゃないか。あいつが一切手を出すなと言ったとき、あんたは何も言わなかった。あんな命令に従うような奴らに、俺は一言だって話す気はない」
彼が敵意を向ける相手が誠珂なのだと分かり、薙都は何も言葉を返せなくなった。ここで自分が何を言ったところで、今の彼には届かないだろう。それでも、このまま事情を聞かないわけにもいかなかった。
薙都はゆっくりと立ち上がり、あからさまに少年を見下ろした。
「では仕方ありませんね……あなたの犯した命令違反の責は、藤璃様に負っていただくことにしましょう」
「なんだって?」
少年の驚く顔を見て、やはり彼は隔離の里の関係者だと薙都は確信した。
「あなたは親方様の命令を聞いていながら、それを犯したのですから当然です」
「だからって……藤璃様は関係ないだろ」
「あなたがこのまま黙秘を続けるなら仕方がありません。命令は命令ですから」
「ふざけるな! 何が命令だ! おまえたちは助けられる命をまた見捨てようとしたんだぞ! そんな命令に従う必要なんかない」
また、という言葉が、薙都の心に鋭く突き刺さった。彼が誠珂に対して恨みを持つのは、以前にも同じような状況があったことを知っているからだ。もしくは、ここまで強い怒りの感情を抱くということは、彼自身がそのことに深く関わっている可能性もある。
「どうせ……あの男はまた大義のためだとか言って、自分のしたことを正当化するつもりなんだろ。でも俺は、そんな大義は認めない。そんなものは絶対に認めない! 何かのために犠牲になっていい命なんて、一つもないんだ」
薙都は胸ぐらを掴まれたような息苦しさを覚えて、片手で胸を抑え込んだ。
彼の言葉は正しい。彼の怒りは当然だ。けれどその怒りが、その感情の渦が、彼を苦しめ、そしてあの人をも苦しめ続けているのかと思うと、胸が張り裂けそうだった。
「俺は絶対に……あいつを許さない……」
その言葉に込められた憎しみの感情が、薙都の胸の奥に眠る薄暗い何かを呼び起こしそうになる。息を大きく吸い込んで、薙都は懸命にそれを抑え込んだ。
空気の流れが変わったのは、まさにその時だった。
「まったく……いい加減にしろよ。ガキのくせに、知ったふうな口を聞くんじゃねえ」
不意に見知った声が背後から聞こえて、薙都は振り返った。
相変わらず乱暴な物言いと、相手を威圧するような不敵な態度。予想通りの相手が、予想以上に不機嫌そうな顔でそこに立っていた。
「座句嗣……おまえ、なぜここに?」
薙都はそう口にしてから、言ったことを後悔した。不機嫌そうな視線が、少年から自分の方へと向けられる。
「ああ……? 呼んだのはそっちだろ。至急来いって言うから休憩も取らずに来てみたら、もう全部終わったから今すぐ帰れだって? まったく人使いが荒すぎるんじゃねえの」
昨夜のうちに座句嗣の部隊には救援は不要になった旨を伝えたはずだった。けれど休憩も取らずに移動していたのだとしたら、使者も追いつかなかったのだろう。
「どうやら行き違いだったみたいですね。だからといって、部隊長であるあなたが不在では、皆が困っているでしょう。早く持ち場へ戻ってください」
そう言って、追い返すように軽く手を振ると、今度は大きな溜息が聞こえた。
「なんだよ、久しぶりに遠征から戻ったっていうのに、厄介払いかよ。少しくらい、労をねぎらってくれてもいいんじゃないか?」
駄々をこねた子供のようだと薙都は思いつつも、少しくらいは謝意を示すべきかと口を開きかけたとき、それは別の声によって遮られた。
「相変わらず……自分勝手だよな」
低く吐き出すような声。振り返ると、少年の怒りに満ちた目が、座句嗣を睨み付けていた。
「……なんだって?」
「そうやって、いつも好き勝手に生きてるような奴に、ガキだとか、とやかく言われたくない」
二人の視線がぶつかり合う様子を見て、一触即発、犬猿の仲というのは、まさにこういう状況を指すのだろうと薙都は思った。
「……あなた方は、知り合いでしたか」
その言葉に、座句嗣はふっと肩の力を抜いて、溜息をついた。
「知り合いというか……身内だよ。こんな口の悪い弟がいるなんて、認めたくないけどな」
「それは珍しく意見の一致だな。俺もこんな自分勝手で放浪癖のある兄がいるなんて、認めたくはないな」
玄武最強と言われる座句嗣に、こんな口がきけるのは、確かに身内だけかも知れないと、薙都は思わず感心しながら二人のやり取りを聞いていた。とはいえ、こんな場所で兄弟喧嘩を始められては困るので、とりあえず二人の間に割り込む。
「座句嗣……とにかくあなたは戻って下さい。今ごろ、放浪癖の直らない部隊長を、皆が捜しているでしょうから」
嫌味を込めてそう言うと、座句嗣は不満そうに薙都を睨んだ。その視線を背中で受け流しながら、今度は少年の方に向き直って頭を下げる。
「先ほどはすみません。藤璃様の名前を出したことは謝ります。ああでも言わないと、君は何も話してくれないと思ったのです」
年下である自分に対して礼儀正しく頭を下げる相手を、少年はわずかに驚いた表情を浮かべて見つめた。
「だからもう一度、改めてお願いしたい。昨夜ここで起きたことを、話してくれませんか。ええと……君の名は?」
「……比壬だよ」
「ありがとう、比壬。私は薙都といいます。今回の事件の後処理と調査を任されています。もし君が協力してくれるなら、それなりの便宜を図りましょう」
薙都が辛抱強く少年の言葉を待っていると、またしても背後から邪魔が入る。
「そいつが素直に言うこと聞くわけないだろ。あきらめろ、薙都」
「ふざけんな、おまえこそ、さっさと戻れよ!」
二人の会話にどっちが兄か分からないと呆れつつ、これ以上ここで無駄な時間を費やすわけにもいかないと判断し、薙都は最終手段に出た。
「座句嗣、いい加減にして下さい。私は先ほど戻れと言ったはずですが、聞こえませんでしたか? これ以上ここに留まるなら、友人としてではなく、親方様の代理として命じるしかありませんね」
厳しい口調でそう言うと、座句嗣は子供のように口を尖らせ、ぼそりとつぶやく。
「……分かったよ、戻ればいいんだろ」
これ見よがしに不貞腐れた顔を薙都へ向けると、そのまま背を向けて来た道を戻って行った。
その後ろ姿を眺めつつ、相変わらず緊張感のない奴だと呆れながら、薙都は大きく溜息をついた。
「まったく……あいつは何をしに来たんだか」
そうぼやきつつも、座句嗣のおかげで助かったことも事実だ。あのまま心の闇を呼び起こしていたら、自分は何を口走ったか分からない。あの男があのタイミングで声をかけてきたのは、単なる偶然ではないのかも知れないと、薙都は思った。
「あんた……あいつの友人なのか?」
意外にも少年の方から声をかけられて、薙都はわずかに驚いて振り返った。そこには怪訝そうにこちらを見上げる少年の顔があり、警戒心は残っているものの、先ほどまでの敵意は消えていた。
「私たちは昔、同じ学舎で学んだのです。卒業後、偶然再会しまして、それ以来、まあ腐れ縁みたいなものです」
そう答えると、あんなやつにも友人がいたのか、と比壬がつぶやくのが聞こえた。
比壬と座句嗣との間には何か確執があるようだが、それが何なのか薙都から訪ねることは躊躇われた。座句嗣は今まで弟の存在を一度も話したことがない。それを興味本位で聞き出すのは、土足で踏み込む行為のような気がした。
「さっき……便宜を図るって言ったよな? だったら、どうしても知りたいことがあるんだ」
真面目な顔つきになっている比壬に気付き、薙都も真摯に答える。
「内容にも依りますが、できるだけのことはすると約束します」
比壬は少し考え込み、それから慎重に言葉を選んで言った。
「多分、信じられないかも知れないが……あの結界の中には、もう一人いたんだ」
薙都はわずかに眉をひそめたが、黙ったまま頷き、その先を促す。
「うまく説明できないんだけど……人の形をした何か、だった。闇の中に消えたり現れたりして……でも幻影とは違う、確かにあれは人間だった。声も聞こえたし、触れることもできた。俺はどうしても、その人のことが知りたいんだ」
内容は確かに信じがたい、けれど彼は本気で言っている。真実が何であれ、彼の言っていることは嘘ではないと、薙都は直感した。
「もしかしたら……それは意識体だったのかも知れません。実体は別の場所にあって、遠隔地へ意識を飛ばす特殊な能力です」
「意識体……? でも俺は直接触ることもできた。この手で腕を掴んだんだ」
「術者の能力によっては、五感すべてに作用可能とも言われています。つまり、視覚、聴覚、嗅覚、味覚、触覚、すべての感覚に対して作用するのです」
「もしそうだとしたら……目に見えて、声も聞こえて、触れることもできるのか。でもそんな能力を持った人間がいるなんて……」
「かなり特殊な能力ですから、使える者は限られているはずです。梓些様ならもう少し詳しい情報を知っているかも知れません。屋敷に戻ったら聞いてみましょう」
「あんた……俺の話を信じるのか」
「どうしてそう思うのですか?」
「こんな突拍子もない話だぞ? それも俺みたいなガキの言うことだぞ?」
自分で自分をガキと呼ぶ少年を、薙都は可笑しそうに見つめた。
「突拍子もない話かどうかは、私が決めることです。それと、先ほどの座句嗣の態度を見れば、あなたを疑う必要はないことくらい分かります」
あの男は自分にあきらめろと言った。つまり、口では何だかんだ言ってはいるが、比壬のことを認めている。彼を一人前として認めているからこそ、彼が口を開かないと決めたことはあきらめろと言ったのだ。
「まったく……あんたは人が良すぎると思うぜ。だから親切心で忠告してやる。あんな奴とはさっさと手を切った方がいい」
最後の言葉が、冗談には聞こえなくて、薙都は顔をしかめた。
「それはどういう意味ですか?」
「そのまんまの意味だよ」
「……あいにくと、切りたくても切れないから腐れ縁なんです。それに少なくとも、私の方から手を切るつもりはありません」
「そうやって、相手を信用させてから裏切るのがあいつのやり方だ」
「それは……君自身が裏切られたことがあるということですか?」
踏み込み過ぎたかと薙都は思ったが、比壬は下を向いたまま拳を握りしめていた。
「……そうだよ、あいつは俺たちを裏切って、俺たちを見捨てて、あの男のところへ行ったんだ」
あの男……それが誠珂のことを指しているのは間違いなかった。
「君の言う裏切りが何なのかは分かりませんが、彼が親方様に仕えているのは、私が頼んだからです。彼は自分から望んで出仕したわけではありません」
「だとしても、俺たちを見捨てたことに変わりない。そしてこともあろうに、仇である男に仕えるなんて……裏切りでなくて何なんだ」
「仇……?」
「……あいつはあんたに何も話してないんだな。あんたらが仕えるあの男は、俺たちにとっては仇なんだよ。あの男のせいで、俺たちの邑は消えたんだ。あそこにはもう誰もいない、近づくことさえできない……」
彼の言葉が、薙都の中で忘れられない過去の記憶を呼び起こす。
「邑が消えた……では君は……」
「そうだよ、俺たちは阿須の邑の生き残りだ」
その言葉が薙都の中で警鐘を鳴らす。そんなはずはない、あの邑の人間はすべて魔に呑まれたと聞いている。誰一人として助からなかったと。
「信じようと信じまいとあんたの勝手だ。でも俺は知っている、あの男があの邑で秘密裏にやっていた危険な実験のこと。失敗しても、被害が外部へ漏れないように、あえて辺境の邑を選んだこと……」
そして、その万が一が起きた。被害は予想以上に大きく、溢れ出した闇すべてを祓うことは不可能だった。だから、彼は決断せざるを得なかった。
「あいつのせいで阿須の邑は犠牲になったんだ。あいつは誰一人として助けようとしなかった。それどころか、助けることを禁じる命さえ出した。皆助けがくると信じていたのに、信じて待っていたはずなのに……あいつは何もせずに見殺しにしたんだ。それがあの男のしたことだよ」
人里離れた辺境の邑、そこで起きた惨劇を知る者は誰もいない。なぜなら、それを知る邑の人間は、誰一人として生き残っていないからだ。当時、薙都は事後処理班として現地へ赴いたが、そこで見た光景は今でも脳裏に焼き付いている。闇の巣窟と化した山を、邑ごと焼き払ったのだ。
あの事件以来、親方様の統治に不信の念を抱き、親方様を目の敵にしている者たちがいることは、薙都の耳にも届いていた。
「比壬、君はどうして……」
「あの事件のとき、俺は邑の外にいたんだ。皮肉にも、邑を見捨てて旅に出て行った座句嗣を捜すためにさ。でも俺はもう二度と邑へ戻ることはできなかった。何もかも、すべて失ったのに……それなのに、次に会ったとき、あいつはあの男に仕えていた。これが裏切りでなくて何なんだ」
座句嗣と再会したのは、あの惨劇の数ヶ月後だった。ではあのとき、座句嗣はすべて承知の上で、私の頼みを引き受けたということになる。あの邑を焼き払ったのが私だと知って、それを指示したのが誠珂だと知って、それでも出仕することを承諾した。それも、あんな条件までつけてだ。
「それが大義のためだって言うのなら、俺はおまえたちに問いたい。あんたの大切な仲間や家族が、大義のために目の前で切り捨てられたら、それでもあんたは、平然とした顔で立っていられるのか」
比壬の目に憎しみの感情が浮かぶのを、薙都は苦しげな顔で見つめた。
先ほどよりも強い息苦しさに襲われ、薙都はその場に崩れ落ちそうになった。自分は返す言葉がひとつもない。彼の怒りは自分に向けられたものだ。けれどその痛みよりもずっと大きな苦しみを、誠珂は一人で抱え続けているのだ。
「なんか言えよ」
黙ったままの薙都の顔を見て、比壬は顔を歪めた。
「そんな顔をして……それでも、あの男に頭を下げるのか」
吐き出すように投げられた言葉に、薙都の脳裏に浮かんだのは誠珂の言葉だった。
―――生きろ
そう言われたあの瞬間から、自分の気持ちは何一つ変わっていない。変わるはずがない。あの言葉がなければ、自分は生きていないのだから。
「私の命はあの方に預けている。それは今もこれからも変わらない」
そう言うと、比壬は握りしめた拳を振り降ろし、泣きそうな顔で地面を叩いた。
「なんでだよ……! 藤璃様も、座句嗣も……どうしてあんな奴に……」
子供のようにうずくまる比壬の体を、薙都はしっかりと両腕で抱き寄せた。
「すまない……本当に……」
腕の中で震える少年の肩が静まるまで、薙都はその体を抱きしめていた。遠い昔、生きろと言ったあの人が、自分にそうしてくれたように。
†
目が覚めると、そこはどこかの部屋の中だった。
明るい日差しが、やわらかく天井を照らしている。その光景が何だか不思議で、縞稀はしばらく、ぼんやりと天井を眺めていた。自分が知っている空の色はいつも薄暗い灰色で、目が覚めたときに感じるのは、いつだって胸を締めつけるような重苦しい不安と恐怖、そして逃げ出したいという感情だけだった。
こんな深い眠りからの目覚めは、本当に久しぶりだと、縞稀は思った。
やがて意識が明瞭になるにつれ、その部屋がかなり立派な部屋なのだと気付く。上品に装飾された天井や家具、背中から伝わる寝具の柔らかさから、さしずめ賓客をもてなすための部屋だろう。
なぜ自分はこんな場所で寝ているのだろう……? ようやくその疑問に到達したとき、それまでまったく気配など感じさせなかった場所から、唐突に声がした。
「お目覚めですか?」
驚いて起き上がると、一人の少女がかしこまって座っていた。
「目が覚めたなら、お連れするようにと、言われております」
「あの……あなたは?」
少女は少し困ったような顔をして、それから小さく笑みを浮かべた。
「私は本家から参りました、阿摩里と申します」
そう自己紹介をすると、小さな白い指を畳にのせて、ゆっくりと頭を下げた。その上品で洗練された仕草に見惚れつつ、縞稀も慌てて頭を下げる。
「あの……私は縞稀といいます」
「はい、存じております」
まるで花が開くように、にっこりと笑う。こんな笑顔を見せられたら、誰でも心奪われるに違いないと、縞稀は思った。
腰まで流れ落ちるような髪が、歩くたびにさらさらと揺れる。どことなく浮世離れした雰囲気の少女―――本家からの来客とは彼女のことだろうか。そこまで考えて、縞稀は妙な違和感に気付く。
本家からの来客……? なぜ自分はそんなことを思ったのだろう?
「縞稀様」
名前を呼ばれて顔を上げると、いつの間にか少女は出口に立って、ついてくるようにと手招きしている。
縞稀は言われるままに少女の後について部屋を出た。先ほどの違和感がまだ続いているような、そんな気分だった。
いったいどこへ……? そう問いかけようとして、先ほど彼女が自分の名前を呼んだときの違和感に改めて気づく。本家の人間が自分を様付けで呼ぶはずがない。ではこの少女はいったい何者なのだろう。
顔を上げると、少女の姿が廊下を曲がって視界から消えていくところだった。縞稀も歩みを早めて後を追う。廊下を曲がった瞬間、そこがどこなのか理解した。普段は滅多に来ない場所だったが、中庭の先に見えるのは、確かに見慣れた屋敷の光景だった。そして彼女が向かう先は、おそらく審議の間であることが分かった。
そこで誰が待っているのか、そもそもなぜ自分がここにいたのか、聞きたいことは山ほどあったが、前を歩く少女の後ろ姿は、どことなく人を寄せ付けない雰囲気を纏っていた。それでも、何も知らずに後を追う気にもなれず、縞稀は足を止めた。
背後の気配が遠のいたことに気付き、阿摩里は振り返った。
「どうされたのです?」
「教えてください……私はどうしてここにいるのでしょうか。この先で何が待っているのでしょうか」
不安そうにそう尋ねる縞稀の顔を、阿摩里はじっと見つめていたが、やがて深々と頭を下げた。
「私には……お答えすることはできません」
静かに響くその声は、一切の問答を拒絶するかのようで、縞稀はそれ以上は聞くことができなかった。
少女はくるりと背を向けると、再び歩き出した。その後ろ姿を見つめながら、縞稀はもう前へ進むしかないのだと、覚悟を決めて扉の中へ足を踏み入れた。
謁見の間には、長老たちをはじめ、主要な役職を担う者たちが一堂に会していた。
縞稀が部屋に入ると同時に、一斉に彼らの視線が彼女に向けられる。なぜ自分に対してそんな視線が向けられるのか、そもそもこの場がいったい何のためのものなのか、自分が呼ばれた理由も、これから起きることも、分からないことだらけだったが、その顔はどれも険しい表情で、かなり深刻な事態が起きているのだということは、縞稀にも分かった。
部屋の入口で立ち尽くしていると、突如、阿摩里に手を掴まれた。縞稀は呆気にとられながらも、彼女に手を引かれるような形で、部屋の中央まで足を進める。やがて阿摩里の手がふっと離れたかと思うと、いつの間にか彼女の姿は消えていて、顔を上げるとそこは上座のまさに正面だった。
四方から無数の視線が集まる中、一人取り残された縞稀は、逃げ場を失った獲物のように、その場に小さくうずくまってひれ伏した。
どのくらいそうしていただろうか。やがて聞き覚えのある声が頭上から響いた。
「―――いつまでそうしている気だ?」
縞稀は自分の耳を疑った。彼が直接自分に話しかけることなど滅多にない。だがその声はまぎれもない誠珂自身の声で、他の誰も言葉を発することはなく、周囲はしんと静まりかえっていた。
縞稀は覚悟を決めて、顔を上げた。
誠珂はいつものように台座の中央に座していた。けれどいつもと異なるのは、彼のすぐ隣にもう一人いる。見慣れない白い衣装に身を包み、親方様と同列に座している。頭巾が邪魔で顔はよく見えないが、おそらくその異例の待遇から、本家からの賓客に違いなかった。
「おまえをここに呼んだのは、戸倉の件で聞きたいことがあるからだ。あの場所でいったい何があったのか説明せよ」
淡々と親方様の声が響き、自分が何か尋問されていることは理解できたが、その内容については全く意味が分からず、縞稀は何と返答してよいか分からなかった。
「戸倉の件とは……いったい何のことでしょうか?」
恐る恐るそう答えると、周囲のざわめきが聞こえた。問いかけた本人は動じる様子もなく、ただじっと相手の顔を見つめている。
「……昨夜のことを、覚えていないのか」
わずかに眉をひそめる親方様の顔を見て、縞稀は自分が何か大事なことを忘れてしまっているのだと直感した。
いったい自分は何を忘れているのだろう。思い出せ、思い出せ……戸倉と言えば、確か自分が儀式を行う予定の場所だった。けれど自分は―――
ずきりと全身に痛みが走った。急激に心臓の鼓動が速くなる。いったいどうしたというのだろう……何か、思い出せそうな気がして、けれどそれがひどく恐ろしいことで、思い出すべきではないと警鐘が鳴り響いている。
「昨夜……私は、戸倉へ行ったのですか……?」
そんなはずはない、自分は戸倉になど行っていない。行けるはずがないのだ、だって私は……あの夜、破門になって―――
その瞬間、真っ暗な光景が、脳裏に再生され、縞稀は悲鳴を上げそうになった。
これは……何だ? これは……何だというのだ!
暗闇の中、うっすらと浮かび上がった五芒星の模様が、まだ脳裏に焼き付いてる。そこへ惹き寄せられるような甘い感覚が、今でもこの手に残っている。そして結界の中でうごめく闇のざわめきが、いつまでも耳から離れない。
確かに自分は、あの場所にいたのだ。まぎれもなく、あの場所に―――自分は存在して、そして、あの場所で見たもの、聞いたもの、触れたもの……細部の記憶が鮮明に蘇ってきて、記憶を混乱させる。
唐突に思い出した事実に、縞稀は押し潰されそうになりながら、それでもどうしても確認しなければならないことがあった。
「由羅乃は……? 由羅乃は無事ですか?」
乾いた口から漏れる言葉は、思ったように声にならない。
「あの場所で、何があった?」
黒く変色した顔。生気を失った虚ろな目。あの場所で見た光景が、フラッシュバックのように次々と脳裏に蘇り、縞稀は自分の意識が飛びそうになるのを必死で堪えた。
「教えてください、親方様……由羅乃は無事なのでしょうか?」
縞稀は必死に訴えた。周囲から制止の声が聞こえたような気がしたが、縞稀は訴えを止めなかった。
「お願いです、教えてください! 由羅乃は無事ですか?」
乾いた声を振り絞って叫ぶと、目の前の相手がすっと立ちあがった。
「無事ではない。だがまだ生きている」
誠珂の静かな声が響いた。何の感情も読み取れない顔で、彼は縞稀を見つめていた。
「それは、どういう……」
そう言いかけたとき、誠珂の体が大きく動いた。どんと音を足を踏みこんで台座から降りると、そのまま襲いかからんばかりに縞稀に詰め寄った。伸ばされた腕が力強く縞稀の胸ぐらを掴み上げ、微動だにできずにいた縞稀は中腰の状態のまま吊り上げられた。
「答えよ、縞稀! あの場所で何があった?」
それはまるで、氷のように鋭く、炎のように熱い眼差しだった。その突風のような激しさに、縞稀は茫然としたまま息を呑んだ。
「答えるんだ……あそこで何があったのか」
間近に迫る相手の視線が、わずかに揺れた。一瞬ではあったけれど、そこに現れた表情は、悲しげで苦しげで、そしてあの頃の懐かしい目だと、縞稀は思った。
「闇が……結界の中で暴れていました」
「―――それで、どうした?」
「祓わなければと、思って……」
「おまえは何をした?」
誠珂の声が容赦なく響く。すでに懐かしさは消え失せ、いつもの有無を言わせぬ強い口調に戻っていた。
何かが引っ掛かった。小さな疑問が、大きな戸惑いとなって縞稀を襲う。
彼はすでに知っているのだ。自分の中に潜む闇を、彼は最初から知っている。ならばなぜ、今ここでそれを問いただす必要があるのか? 必要があるとしたら、その目的は事実を知ることではない。今ここで、長老たちが立ち並ぶこの場所で、その事実を公にすることだ。
でも、分からない、なぜ、今になって―――
不意に、彼の隣りで鎮座していた男が立ち上がり、そして前に歩み出た。
「答えられぬなら、私が答えよう」
その声を聞いて、縞稀はそれが昨夜の男だと確信した。青い目も銀色の髪も隠されていたが、その声を忘れるはずがなかった。
「おまえは己の中に棲まわせた闇を呼び出し、結界内の闇を喰ったのだ」
あっけなく告げられる容赦のない言葉に、愕然としたまま、縞稀は相手の見えない顔を凝視した。
一瞬の間をおいて、周囲から困惑の声が上がる。
「そ、それは、つまり……」
口に出さずとも、誰もが同じ言葉を思い浮かべた。そして彼らの心情を代弁してやるとでも言わんばかりに、男が言葉を続ける。
「玄武の掟では、闇飼いは禁忌とされていたはず……それを見過ごしたとあれば、管理者としての責任を問われても仕方がないな、誠珂?」
そう言って、男は意味ありげに誠珂へ視線を送る。
男が告げた事実を、彼は否定も肯定もせず、そのまま自席へと戻った。それが何を意味するのか、縞稀には分からなかった。
確かなことは、この男はすべて知っている、ということだ。自分が闇飼いであることを一目で見抜き、アレに闇を喰わせるように仕向けたのは、すべてこの男なのだから。
不穏な空気が周囲に漂い始める。その場にいた誰もが、にわかには彼の言葉の意味を理解できず、理解できても容易には信じられず、それでも今の状況を説明することができるただ一つの答えだと納得せざるを得ない、そうした憶測と疑念が大きなうねりとなって広間を埋め尽くしていった。
やがて長老の一人が声を上げた。
「今の話が事実ならば……これは忌々しき事態。早急な対処が必要かと。禁忌を犯した闇祓いは、すみやかに排除しなければ」
その声に続くように、別の声が上がった。
「しかし本当に……闇飼いなのか? 闇を飼い慣らすには相当な訓練が必要なはず……そもそも未熟な闇祓いに扱えるものではない。これまで周囲の者たちは誰も気づかなかったのか?」
「今だって我々の目の前にいるが、誰も気づかなかったではないか」
「この玄武の館の中で、誰にも知られることなく隠し続けるなど不可能だ」
「そうだ、そもそも闇飼いだという証拠はない」
彼らの声を遠くに聞きながら、縞稀は少しづつ冷静さを取り戻していく自分を感じた。
自分の身にいったい何が起きたのかは分からない。けれど、少なくとも、由羅乃は生きている。その事実だけで十分だった。
安堵の感情が全身を流れると、今後は漠然とした不安が沸き上がってくる。
先ほどの誠珂は尋常ではなかった。彼があれほど激しい感情を表に出すのは見たことがない。あのときの誠珂は、まるで、普段の無表情さが消えて、彼の本心が剥き出しになっていたようだと思った。
でも、だとしたらなぜ―――あんな悲しくて苦しそうな顔をしていたのか。いったい何がそこまで、彼の心を苦しめているのだろう。
不意に、ざわめく声が止まった。見上げると、皆が白づくめの男の方を向いていた。
「確かに闇飼いだという証拠はない。けれど証人ならいる」
その言葉と同時に、控えの間の扉がゆっくりと開いた。
扉の向こう側から姿を現したのは、阿摩里と一人の少年だった。
その少年の顔を、縞稀はどこかで見たことがあると思った。阿摩里につれられて歩くその姿が近づくにつれ、その予感が増していく。互いの顔がはっきりと分かる距離まできたとき、先に口を開いたのは、少年の方だった。
「あんた……生きてたんだな」
その言葉で、彼があの結界の中で出会った少年であることを、縞稀は確信した。
「彼の名は比壬といいます。藤璃様のもとで働いております」
阿摩里は長老たちにそう説明すると、少年に何か小声で伝えた。
「言っただろ、俺は何も話す気はない、おまえたちに話すことなんて何もない。こんな場所、気分が悪くなるだけだ」
そう言って今にも出ていこうとする比壬の腕を、阿摩里がそっと掴んだ。容易に振りほどけそうに見えたが、比壬は強く抵抗はせずに、渋々その場に座り込んだ。
白い衣装を纏った男が再び口を開く。
「何も話したくなければ、話さずともよい。だが私が言ったことが事実でないなら、そう指摘することだ―――沈黙は肯定とみなす」
有無を言わさぬ口調でそう前置きして、男は続けた。
「おまえはあの夜、薙都の部隊よりも早く戸倉へ到着し、そしてそこで、結界の中で暴走する闇を見たはずだ」
しばしの沈黙が流れた。それはつまり肯定を意味する。
「おまえは結界の中に取り残された術者たちを助けようと、結界の中に踏み込んだ。そしてそこにいる女の姿を見た」
会ったではなく、姿を見たと言った男の言葉に、比壬はわずかに顔を上げた。
「陣を組んだ術者たちは全員意識を失っており、結界の中で動ける者は、おまえとその女以外にいなかった」
淡々と事実を語る相手の顔を、比壬はまじまじと見つめた。白い布を深く被っているせいで、表情までは分からないが、その顔は白い陶器のようだった。
「そして女が姿を消した後、結界の中の闇がすべて消えた」
比壬は大きく目を見開き、震える声で答えた。
「なんで……知ってるんだ……」
「結界の中の闇がすべて消えた、それが事実だと認めるか」
「……そうだ、一瞬で消えた、跡形もなく」
長老たちのざわめきが広間を襲う。これまでの疑惑が覆され、すべてが事実であると示されたのだ。
「本当に……闇を喰ったというのか」
「まさか……信じられん」
「我々の中に闇飼いが紛れ込んでいたなんて……」
どよめく空気の中で、比壬は自分だけが取り残されたような気分になった。
いったい何が起きているのか分からない。いきなりこんな場所へ引っ張り出されて、訳の分からない尋問をされている。彼らが口走る言葉の断片から、縞稀が闇飼いだと疑われているらしいが、その当の本人は、一人座りこんだまま、何も言葉を発さない。
「おい、ちょっと待てよ! これはいったい何の茶番だ?」
思わず大声を上げると、長老の一人が苛立ちげに彼を見た。
「親方様の前で無礼だぞ、小僧!」
無礼だってことは百も承知で、比壬は声を荒げた。
「じゃあ教えてくれよ。一瞬で闇が消えたからって、なんであいつが闇飼いだって結論になるんだよ?」
「それ以外に……闇が消えた理由を説明できぬからだ」
「闇が消えた理由? そんなの、闇を祓えば闇が消える。それだけのことだ。あのときだって、ただ闇を祓っただけじゃないのか」
その言葉に、周囲のざわめきが一瞬だけ静まった。なぜその当たり前の答えに、誰も触れようとしないのか、それが比壬には理解できなかった。
「それは……あり得ないのだよ、少年」
「どういう意味だよ」
けれどそれに答える声はなかった。比壬は混乱したまま、上座へと視線を向ける。けれど誠珂は目を閉じたまま、口を開く様子はない。
怒りに任せて声を上げようとした瞬間、先ほどの男の声に遮られた。
「闇飼いであるならば、明確な証拠を示せばよい」
その言葉に、長老たちは顔を見合わせ、小声で何やら相談し始めた。親方様が何も言わぬ以上、その上位者である本家の指示には従うべきである、というのが彼らの出した結論のようだった。
「恐れながら、久沙戯様……その明確な証拠とは、どのような……?」
「簡単なことだ。あの者に対して、闇惹きをすればよい」
その答えに、縞稀はびくりと体を震わせた。
「闇惹きは普通の人間に対して使ったところで、何も起きはしない。だがもし本当に闇を飼っているならば、その奥底に潜む闇を惹き寄せる」
「しかし、もし惹けたとしても、今の我々に祓うことは……」
「祓う必要はないだろう。人に寄生する闇は、宿主が死ねば共に消滅するのだから」
「いい加減にしろよ!」
突然、比壬の怒声が部屋中に響き渡った。彼の怒りに満ちた視線が、相手を射抜くように鋭く、久沙戯へと向けられていた。
「あんた……どんだけ偉いの知らねえけどよ。あいつがいなかったら、今頃大惨事になっていたんだ。闇飼いだろうと、闇落ちだろうと、誰かを守るために命をかけたんだ。それなのに、なんでそんなことを平気で言えるんだ!」
言い終わると同時に、ぱんと頬を叩く音がして、少年の顔が横に振れた。親方様の背後に控えていた薙都が、彼の目の前に立っていた。
「それ以上、暴言を吐いたら処罰する」
「なんで……」
「いかなる手段をもってしても、闇は祓わなければならないからだ」
久沙戯の声が冷たく響いた。
「そのためなら、どれだけ犠牲が出ようと構わないのか!」
赤く腫れた頬に手を当てながら、比壬は怒りを滲ませた目で相手を睨みつけた。久沙戯は静かに目を閉じ、それから初めて見せる憎悪のような視線を相手に向けた。
「……その犠牲が、別の犠牲の上に成り立っているのだとしても、おまえは同じことが言えるか」
その声は低く冷たく、押し殺した怒りさえ感じさせると、縞稀は思った。孤高の闇で彼と会ったときにも、同じような怒りを感じたのを思い出した。
「誠珂、本家の代理人として命じる―――玄武の総力をもって闇を祓え。それをもって、本家への忠誠の証とせよ」
それまで沈黙を守っていた誠珂が、ゆっくりと立ちあがった。久沙戯以外の、その場にいた誰もが、一斉に頭を下げる。
「明日の夕刻、闇惹きの儀式を決行する」
誠珂は真っすぐ縞稀を見つめ、そして、その残酷すぎる決断を自ら口にした。
「惹き手は私が行う」
その声が静かに響いた後、次に何が起きたのか、縞稀はよく覚えていない。ただ断片的な記憶だけが、いくつか残っているだけだ。
自分でもどうしてそんな行動をしたのか分からない。それは一瞬の出来事で、縞稀は気付くと久沙戯に飛びかかっていた。伸ばした腕が彼の衣装の裾を掴む。勢いよく引き寄せると、それは何の抵抗もなくするりと手元に落ちた。
見上げると、あの青い瞳が見下ろしていた。幻ではない、実体を持つこの男と対峙するのは初めてだった。
「なぜ? なぜ今ここで殺さない!」
それと同時に、人の波が押し寄せ、無数の手が伸びて、縞稀の腕や肩を抑え込む。両手を拘束され、それでも懸命に声を上げる。
「証拠なんて必要ない。それはおまえが一番良く知っているくせに!どうして―――」
けれど言葉は途中で遮られた。強い力でねじ伏せられて、頭に強い衝撃を受け、視界が闇に沈んでいく。
こんな惨めな状況になっても、まだ心が何かを叫んでいる。心が泣いている。
どうして―――こんな残酷な仕打ちを受けなければならないのか。命ならくれてやる、生贄でも何でも好きにしたらいい。
だからどうか、あの人を苦しめるようなことだけはやめてくれ。
初めて手を差し伸べてくれた、あの人の手を……たったひとつの大切な思い出さえも、自ら汚さなければならないのなら、こんな命は今すぐ消えてしまえばいい。