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孤高の闇  作者: たたら
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【四】 暗転


 戸倉の寺院から、至急救援を求むとの急使が到着したのは、その日の夜遅くのことだった。

 にわかに屋敷中が騒がしくなり、あちこちで駆け回る足音が慌ただしく響いた。大広間では、長老会や幹部たちが急ぎ集まり、状況の確認を始めていた。

 その突然の喧騒に紛れて、一人の少年が屋敷の廊下を歩いていた。普段なら消灯後は宿舎から出ることは禁じられているが、この状況では誰もそれを咎める者はいなかった。

 少年はできるだけ目立たぬように廊下を進み、すれ違った相手には礼儀正しく会釈しつつ、急ぎの使い走りのように足早に走り抜けた。

 少年は大広間の入口まで来ると、人の流れが途絶えた隙をついてそっと中へ入り込み、何食わぬ顔で壁づたいに上座へと移動していく。上座近くの控えの間まで辿り着くと、背後から扉をわずかに開き、素早く身を滑り込ませた。

 薄暗い部屋を見回し、誰もいないことを確認すると、そっと扉に張り付いて耳をそばだてる。予想通り、ここなら長老たちの会話が聞きたい放題だと、その少年―――比壬(ひみ)は笑みを浮かべた。

「……どうやら、その闇惹きの途中で、惹き寄せた闇が暴走したらしい」

「暴走? まさか……それで儀式はどうなった?」

「とりあえず、陣はまだ決壊していないらしい。おかげで周囲への流出は食い止めておるが、中の状況はまったく見えぬ」

「やはり直前になって陣形を変えたのが影響したのでは……」

「それは関係ないだろう。儀式そのものが失敗したのなら、結界内に闇が留まるようなことにはならんじゃろう。今回の件、むしろ巫女様の方に……」

「しっ……、その以上は口に出すな。親方様のお怒りを買うぞ」

 小声でささやきあう声までは聞き取れなかったが、長老たちも詳しいことまでは分かっていないらしい。

 陣が決壊したわけでもないのに、闇が暴走しているという状況が何を意味するのか、比壬には分からなかったが、これ以上ここにいても意味はないと判断し、踵を返して戻ろうとした、まさにそのとき、その声がひときわ大きく耳に届いた。

「先ほど、座句嗣(ざくし)の部隊が救援に向かったそうです!」

 ざわめきが一瞬止まり、それから安堵の声があちこちで漏れた。

「とりあえず、これで一安心じゃな……」

「しかし、間に合うかどうか……まだ油断は許さない状況に変わりはない」

 嫌な名前を聞いたと、比壬は内心舌打ちをしたが、今は為すべきことをしなければと気持ちを切り替え、再び動こうとしたとき、今度は別の声が彼の足を止めた。

「―――まずは負傷者の回収が最優先だと座句嗣へ伝えよ」

 ひときわ重く響く声が、その場の空気を一変させる。広間はしんと静まり返り、誰もが息を呑んで次の言葉に耳を傾ける。

 比壬も扉に耳を押し付け、一言も聞き洩らさないようにと全神経を集中させた。

「こちらからも救護班を向かわせる。薙都(なぎと)、何人出せる?」

 扉の隙間から広間を覗き見ると、あの男の姿がそこにあった。そのすぐ後ろで控えている男が、素早くそれに答える。

「常駐は二名ほど。先ほど藤璃(とうり)へ応援を要請しましたが、到着までにはあと一刻ほどかかるかと」

「おまえは常駐部隊と先行して座句嗣と合流し、今から言うことを伝えよ―――陣が決壊するまでは、一切手を出してはならぬ」

 一瞬、比壬は自分の耳を疑った。今、なんて言った……?

「しかし、それでは……」

 薙都の困惑した声に、今の言葉が聞き間違いではないのだと分かる。

 陣が決壊するまで手を出してはならない―――それはつまり、陣内に残された者たちを助けられない、ということだ。なぜそんな指示を出すのか、比壬には到底理解できなかった。

「陣が決壊していないということは、誰かがまだ中で戦っているということだ。それを外から干渉すれば、すべてが無に帰す」

 誰も反論する者はいなかった。当然だ、この男に反論できる者など、この玄武の屋敷にいるわけがない。

「決壊するまでは、決して手を出してはならぬ。よいな?」

「……承知いたしました」

 薙都の声に比壬は我に返り、扉の隙間から相手を睨みつけた。押し殺した怒りの感情がふつふつと湧き上がり、今にも扉の外へ飛び出したい衝動に駆られる。

 あのときと同じだ……あの男は助けられる力があるくせに、助けようとしない。助けられるはずの者たちを、平然とした顔で見捨てる。こんな男が玄武の頭領だなんて、俺は絶対に認めない。誰が何と言おうと認めない。

「東門から転移する。準備を急げ」

 薙都の指示に従い、皆が自分の持ち場へと足早に動き始める。

 その雑多な人の流れに紛れて、比壬もその場を抜け出した。広間を出て、渡り廊下まで来ると、素早く地面へ降りて木々の影に身を隠す。

 心中の怒りはまだ燻っていたが、今はそれよりも大事な使命が比壬にはあった。まずは救護班よりも早く現場へ向かわなくてはならない。そのための移動ルートを頭の中ではじき出す。彼らが使う転移陣は限定されているため、それよりも早く移動できるルートがあるはずだ。


「おい、比壬じゃないか。おまえ、ここで何をしている?」

 大きな声にびくりと体を震わせると、背後から肩をつかまれた。振り返ると、自分の身長の倍はありそうな大男がそこに立って、こちらを見下ろしていた。

「おまえ……また館を抜け出してきたな? 藤璃様に知られたら大目玉だぞ」

 その聞き慣れた声に、比壬は思わず安堵の溜息をつく。思えば、こんな場所で自分を知っている人間は、この男くらいだ。

 と同時に厄介な相手に見つかってしまったことに比壬は舌打ちし、この場をどう切り抜けようかと算段する。下手な言い訳をすれば長々と説教をされるのは目に見えていたし、素直に謝ったところで日頃の行いから逆効果だ。

 ここは興味の対象を自分ではなく別の事柄へ向けるのが最善と判断し、比壬はいつもの悪だくみをするような目で、相手を見上げて言った。

「ちょうどいいところで会えてよかったよ、瀬斗(せと)。今から戸倉へ行くんだろ?」

「あ?……そうだけど、なんで知ってるんだ」

「さっき戸倉から急使が来てたし、屋敷中が騒がしいし……なんかあったんだろ? だったら俺も連れて行ってくれないか」

「ふざけるな、遊びにいくんじゃねえ。子供は留守番だ」

「子供じゃない、知ってるだろ。俺だって瀬斗の手伝いくらいできるからさ」

「だめだ、危険だからついてくんな!」

 こうなれば、立場が逆転だ。追われる側から追う側になれば、瀬斗の方から退散してくれるはずだ。比壬の目論見通り、瀬斗は怖い顔で比壬を威嚇してから、くれぐれも大人しくしていろと言い残して、立ち去って行った。

 その後ろ姿を悔しそうに見送る振りをしながら、比壬は周囲に誰もいないことを確認すると、再び薄暗い裏道に身を隠した。

 比壬はゆっくりと息を吐き出し、暗い空を見上げた。わずかな月の光も届かぬほど、どす黒い雲がどこまでも続いている。ここから先は、もう後戻りができないのだと、比壬は思った。

 本当に覚悟があるのだな―――?

 館を出るとき、藤璃にそう問われ、比壬は深く頷いた。

 運命が大きく動き出す、まさにその瞬間に、自分は立ち会いたいのだと答えると、ならば行って、その心で真実を受け止めてこいと、藤璃は言った。

 この目で真実を見ることが自分の使命なのだと、それがずっと自分が求めていたことなのだと、なぜか比壬は確信していた。

 だからこの先に何があろうとも、自分は目を逸らさない。真実とは、ただ目で見るものではなく、ただ言葉で語るものでもなく、ただ心が受け取るものだと、何度も教えられた言葉を胸に刻みながら、比壬は暗闇の中へと駆け出していった。


   †


 比壬は慎重に転移陣を選び、目的地へ向かっていた。気持ちは急いている、けれど冷静に行動しなければならないことも充分に理解していた。

 戸倉の寺院までの道のりはすべて頭に入っている。月のない夜は裏道は使うなと言われていたが、比壬はできるだけ最短で辿り着ける裏道を使って進んでいた。

 現場では一刻を争う。少しでも遅れれば、助けも間に合わなくなる。とはいえ、今回は現場の状況がよく分かっていない。結界が崩壊したわけでもなく、ただ惹き寄せた闇が暴走するという事例は、これまで比壬も聞いたことがなかった。

 通常、儀式が成功するする確率は、陣の規模や術者の力量にもよるが、約六割程度と言われている。どんなに事前に準備をして陣を完璧に組み上げても、やはり不測の事態は必ず起きる。そのため、途中で成功する見込みがないと判断した場合は、儀式を中断することになっている。この中断をするか否かの判断は、部隊長の役目だ。

 今回の儀式の部隊長は桂陀(かだ)と聞いている。桂陀が判断を誤ったのだろうか……? 比壬の知る限り、彼は慎重な性格で、少しでも危険があれば、安全な選択肢を選ぶはずだ。それに今回は巫女様の血縁者が参加していると聞いている。危険を冒してまで強行するとは思えなかった。

 他に考えられる可能性は……そこまで考えて比壬は頭を振った。そんな恐ろしいことは、考えるべきではない。けれど、藤璃の先見はこれまで外れたことがないのだ。もしそれがすでに現実になっているのだとしたら―――押し寄せる不安を振り払うように、比壬はもう一度、頭を振った。今はだた目の前の仲間を助けることだけを考えよう、そう比壬は自分を奮い立たせた。

 陣が決壊していないということは、陣内に生存者がいるということだ。まずは彼らを救い出すことが先決だ。あの男が何と言おうと、このまま中の者たちを全員見捨てるような真似は絶対にさせない。閉じ込められたまま闇に侵され続ければ、やがて抵抗力の弱い者は息絶える。一命を取り留めたとしても、人としての自我を取り戻すことは困難になる。そうなる前に、手遅れになる前に……何としても助け出さなくては。


 周囲の空気が重く沈んだ霧のように視界を覆い始めた。

 比壬は慎重に辺りを見回し、その違和感の正体を確かめる。深夜だというのに、闇の気配が全く感じられない。まるで、周囲の闇がどこかへ惹き寄せられてしまったかのようだ。いくら儀式の後とはいえ、ここまで闇の気配が消え失せることがあり得るだろうか。

 わずかな月明かりを頼りに、寺院の階段を上り、敷居をくぐり中庭へと続く歩道を進む。

「これは……」

 そこには、確かに儀式の痕跡があった。五芒陣のように見えたが、どこか違和感があった。

 儀式の際にはこの陣の周囲に闇祓いたちが立ち、中央部分へと闇を誘い込む。けれど今は誰もいない。闇の気配もそこにはない。儀式の場は静まり返っていた。むしろその静けさが、何か異常なことが起きたのだと、そう告げていた。

 比壬はゆっくりと魔方陣の周囲を歩いた。おかしい……そんなことがあるだろうか。普通なら、どんなに几帳面に陣を描いても、必ず地面に足跡が残るはずである。それなのに、この魔法陣には足跡が一つもない。まるで、宙に浮きながら、陣を張ったかのようだ。

 宙に浮いて……?

 嫌な予感がして、比壬は咄嗟に頭上を仰ぎ見る。

 その瞬間、目の前に浮かぶ巨大な空間が視界を埋め尽くし、それが闇を閉じ込めている結界なのだと、比壬は瞬時に理解した。

(大きい……)

 その大きさに思わず息をのみ、そして次に誰が?という疑問が湧く。こんな巨大な結界を、それも宙に浮かせた状態で維持できる者がいる、その事実が驚きだった。

 そのときだった、比壬の耳に何かが届いた。


 ―――タスケテ……

 声が、聞こえる―――? それも結界の中からだ。

 咄嗟に声を上げようとした、その瞬間、別の声が聞こえた。

由羅乃(ゆらの)!」

 姿は見えない。けれど確かに声が聞こえた。

「由羅乃! 返事して! どこにいるの?」

 誰かを必死に呼ぶ声。けれど、それに答える声はない。

 比壬は懸命に声の主を探した。暗闇でも視界のきく自分の目を大きく見開く。やがてうっすらと、その輪郭が現れ始める。

 結界の奥深く、不気味にうごめく闇にまぎれて、確かに声の主はいた。

(あれは……なんだ?)

 人のようで人ではない、闇に溶け込んでは消えて、また浮かび上がるその物体は、確かに人の形をしていたが、その実態を常に留めることができないようだった。

 いったい自分が何を見ているのか、比壬には分からなかった。実体なのか幻影なのか、それとも自分の目が幻覚を見せられているのか、それさえも判別できない。ただ暗闇の中でひときわ目立つ白い腕だけが、浮かんでは消えて、何かを掴もうとしている。何度も何度も繰り返されるその行為を見つめながら、比壬は自分が何をするべきかを必死で考えた。

 真実は心で受け取るもの―――その言葉が、最後の迷いを吹き消した。

(あの人は……誰かを助けようとしている)

 それだけが、いま比壬の心に届いた、ただ一つの真実だった。


   †


 ―――カエリタイ

 遠くであの声が聞こえていた。

 いつもあの声から逃げていたのに、今はなぜか懐かしい。今はなぜか、あの声のする方へ行かなければいけない、そんな焦燥すら感じていた。

 そうだ、早く行かなければ……手遅れにならないうちに……

 ゆっくりと瞼を開くと、徐々に視界が明るくなっていくのを縞稀(しまき)は感じた。徐々に戻ってくる意識の波に揺られながら、記憶の糸をたぐり寄せる。夜空を貫く閃光、白づくめ男、自分が最後に見たものは、透き通るような青い瞳だった。

 ―――おまえに選択肢はない

 その言葉が耳に蘇った瞬間、縞稀はすべてを思い出した。あの男の冷たい視線と、氷のような手の感触を。

 縞稀は勢いよく起き上がり、周囲を見渡した。そこには真っ白な空間が、何もない白い空間だけが、どこまでも広がっていた。

(ここは……?)

 この感覚は、以前にも感じたことがあると縞稀は思った。どこか懐かしいとさえ思える感覚。過去に幾度となく感じてきたもの。ここはまるで……あの場所に似ている。そう認識した瞬間、縞稀は自分の体が宙に浮くのを感じた。

 驚いて下を見ると、今度は声にならない悲鳴を上げた。そこには、あるはずの自分の体が何一つなかった。手も足も、それを知覚している頭もない。

 ではこの光景を見ているのは誰だ? 確かに自分はここにいると、そう感じている自分とは何だ?

 自分という存在が、まるで空気のように流されていく。このまま薄く広がり続けて、自分という意識も消えてしまうのではないかと、縞稀はそんな気がした。

「孤高の闇……」

 不意に、どこかで聞いた声が聞こえた。振り返った瞬間、自分の体がうっすらと視界に映った。声のした方向へ走ろうとする。その途端、地面を蹴る両足がそこにあった。手を伸ばせば、確かに自分の手が、その男の影を掴もうとしていた。

 やはり同じだ―――此処は、あの場所と同じなのだ。

 あの声が聞こえると、いつも自分は此処にいた。何度も何度も、あの声に呼ばれるたびに此処へきた。そしていつの間にか、現実との区別がつかなくなるほどに。

「どうして……」

 発せられた声は、確かに空気を伝わる波動となって耳に届いた。

「どうしてあなたが、此処にいるの?」

 視線の先には、流れるような白銀の髪の青年が立っていた。さっきは白い布で髪を隠していたせいで、全身白づくめの印象しかなかったが、確かに小屋で出会った男だ。その証拠に、その透き通るような青い目は、あのときと変わらず冷たく光っている。

「あなたは、孤高の闇を……知っているの?」

 男は少し驚いたような顔をしたが、すぐに遠くへ視線を移した。

「この場所をそう呼んだのは、他宇良(たうら)様だ」

 その名で呼ばれる人を、縞稀は一人しか知らない。滅多に口にすることも、耳にすることもないはずの名前が、なぜこの男の口から出たのだろう?

 そう問いただそうとして男を見ると、その腕がある場所を指し示していることに気付く。視線をその先へと向けると、小さな黒い点が見えた。それは、認識されると同時に、あっという間に足元まで広がり、辺りを白から黒へと塗り替えた。

「これは……何?」

 急に視界が真っ暗になり、男の姿を見失ったが、まだ近くにいるような気がして、縞稀は声を上げた。

「儀式で惹き寄せられた闇の集合体だ」

 予想通り、その声はすぐ背後から返ってくる。

「それが、なぜこんな場所に?」

 その問いに、わずかな間をおいて、今度は質問が返ってきた。

「おまえは儀式で集まった闇が、どこへ行くのか知っているか?」

「闇は祓われるのだから、消えるだけよ」

 当たり前のことを聞かれた気がして、当たり前のようにそう答えると、ふっと男が鼻で笑ったような気がした。

「では祓うとは何だ?」

「それは……玄武の加護により、闇を消滅させること……」

「玄武の加護とは、よく言ったものだ。おまえたちが当たり前のように言う、その加護とは何か、考えたことはあるか?」

 改めてそう問われて、縞稀は明確な答えを持っていないことに気付く。漠然とした嫌な予感がひしひしと忍び寄り、見えない相手の顔を探して暗闇を凝視する。

「闇が消えるのではない―――アレが闇を喰らっているのだ」

 その言葉の衝撃は、縞稀に恐怖とは別の何かを与えた。

 自分は知っていた気がする。ずっと前から、確かにその事実を知っていた。でもそのことを、ずっと忘れていたは……なぜ?

「闇を喰らうモノがいるからこそ、闇は消滅する。おまえたちが闇祓いと称して行う儀式とは、単に闇を集めて、逃がさぬように結界の檻に閉じ込めるだけだ。そこに加護などない、ただアレに闇を喰わせているだけだ」

「どうして……そんなことを……」

「どうして? おまえたちが選んだことだ」

 いつの間にか、男の顔がそこにあった。氷のような青い瞳が、自嘲的な光を浮かべて、縞稀を見下ろしていた。

「おまえたちの先祖が、はるか昔から、生き残るために選んできた道だ。それを今更、おまえはどうしてなどと言えるのか」

 押し殺された怒りのようなものを感じて、縞稀は目を見張った。それが、この男が初めて見せた感情だった。

「……あなたが何に怒っているのかは知らない。でもあんな巨大な闇を喰うなんて……できるはずがない」

「そうだ、できるはずがない……だからこそ、生贄が必要なのだ」

 その不穏な言葉に、何かを問い返す間もなく、縞稀は背後から肩を掴まれた。両腕で抱え込まれるように掴まれ、身動きが取れない。相手の顔は見えなかったが、おおよそ男の意図することは分かっていた。

「私を……生贄にするつもりなのね」

 それは問いかけではなく、確認でもなく、承諾に近かった。男は無言のまま腕を離すと、縞稀を背後から強い力で押し出した。

 体が勢いよく宙に放り出される。そのまましばらく漂っていたが、やがて前方から何かに惹き寄せられるように、体が加速し始めた。


 重力に引き寄せられるように、体が落下していく。実際には、実体としての体は存在しないのだから、落下するという感覚は単なる錯覚なのかも知れない。此処では感覚というものがあまりに不確かで、自分の意志で如何様にも変えられるのだと、これまでの経験から縞稀は学んでいた。

 落下する速度が少しづつ加速して、やがて視界が大きく開いた。眼下には、どこかの寺院らしき光景が広がっている。さらに落下していくと、そこには見覚えのある模様が、くっきりと浮かび上がってきた。

(あれは……五芒陣?)

 それは儀式を行うために地面に描かれた陣形―――五芒陣だ。そして今、自分が惹き寄せられているのは、まさにその五芒陣の中心だった。

 なぜ?という疑問に襲われ、縞稀は懸命に抵抗を試みたが、速度はさらに増していく。視界に映る陣形が大きくなるにつれ、次第に何かを唱える声が聞こえ始めた。それが闇惹きの詠唱であることに気付くのに、そう時間はかからなかった。これはまさに闇祓いの儀式の最中であり、その闇寄せに自分が惹き寄せられているのだ。

 彼らが祓おうとしているのは―――自分だというのか?

 その疑問がよぎった瞬間、彼らの顔がくっきりと視界に映った。見間違うはずがなかった、陣の中央にいるのは桂陀その人、そして周囲を囲むように結界を張っているのは、すべて見知った顔だ。その中に由羅乃もいる。そうか、ここは戸倉の寺院、今夜、自分も一緒に儀式を執り行うはずだった場所だ。

 その刹那、縞稀は背後から巨大な闇が迫ってくるのを感じた。振り返る間もなく、それは自分の体をすり抜けて、もの凄い勢いで落下していく。まるで周囲の闇がすべて陣へと吸い寄せられているかのように、それは一点に集中していく。

 桂陀が発する闇惹きの言霊に、闇が惹き寄せられているのだ。そしてすべての闇が陣の中に吸い込まれた瞬間、結界の入口が閉じられた。惹き寄せられた闇は結界の中に封じ込められ、逃げ場を失ったかのように蠢いている。

 彼らが祓おうとしているのは自分ではないのだと分かり、縞稀はわずかに肩の力を緩めた。けれどそれもつかの間、縞稀はすぐにその異変に気づいた。結界内の闇が消滅していない。本来なら、闇はすぐに祓われるはずなのに。

 そう、祓われる―――はずなのだ。けれど、うごめく闇の勢いは衰えることなく、まるで閉じ込められた檻の中で暴れ回っているようだった。何かが、縞稀の頭の中で警鐘を鳴らし始める。

 ―――では祓うとは何だ?

 先ほどの会話が脳裏に蘇る。あの男は何と言った? あのとき、自分は何か大切なことを思い出したはずなのに。

 闇が消えるのではない、アレが闇を喰らっているのだ―――

 思い出せ、アレとは何だ……アレとは……その刹那、遠い記憶の欠片がかすかな音を立てて脳裏をかすめた。けれどそれはあまりに一瞬で、その後に続く豪雨のような音に、すべてがかき消された。

 それが悲鳴なのだと気付いた瞬間、縞稀は背筋が凍りつくような恐怖に襲われ、心臓を貫かれたような痛みを感じた。悲鳴は結界の中からだった。覗き込むと、陣の中央に闇が凝縮して渦を巻いている。あそこには、あの場所には……桂陀がいたはずだった。今は人影は見えない。ただ黒い渦だけが蠢いている。

 縞稀は素早く陣の周囲を見渡した。まだ人影がちらほら見える。その中に必死で由羅乃の姿を探そう目を凝らす。けれど、すでに暴走を始めた闇の渦の中では、視界はほぼ黒一色だった。

 このままでは陣が決壊する―――そう直感した。もし決壊すれば、ここにいる闇が溢れ出し、周囲に甚大な被害を及ぼすだろう。

 頭で考えるよりも早く、縞稀は行動していた。今の陣の外側に、さらに別の陣を描く。なぜそんなことができると思ったのか、自分でも分からなかった。けれど瞬時に陣形が地面に浮かび上がり、新たな結界が周囲を包み込んだ。内側の結界が消滅したのは、それとほぼ同時だった。

 安堵する間もなく、一呼吸おくと、縞稀は結界の中へ飛び込んだ。一瞬、すべての視界が奪われたような錯覚に襲われ、何度も目を瞬かせる。徐々に影の動きが視認できるようになり、やがてうっすらと光を感じた。

 最初どこから光がきているのか疑問に思ったが、その答えはすぐに分かった。光は自分自身の体から出ていた。手を伸ばすと腕が実体化し、その腕がわずかに発光する。実体化を維持することが難しいため、何度も消滅しては実体化を繰り返しながら、わずかな光を頼りに縞稀は闇の中を彷徨った。

 この中から由羅乃たちを助け出さなければならない。これほど深い闇の中に居続ければ、間違いなく戻れなくなる。桂陀はすでに手遅れかも知れない、でも陣の外側に位置する闇除けならば、負担は分散されるはずだから、まだ助かる見込みがある。それに由羅乃は他の人よりも玄武の加護が強いはずだ。大切な友人の無事を祈りつつ、縞稀は深い闇の中を彷徨い続けた。


 どのくらい彷徨っただろうか。縞稀は焦りはじめていた。視界は予想以上に悪く、自分がどの方向へ動いているのかさえ把握が困難だった。もしかしたら、同じ場所をぐるぐる回っているだけなのかも知れない、こんなに探しても誰一人見つからないなんて……

 そのときだった、確かに声が聞こえたような気がして、縞稀は耳を澄ました。

 ―――タスケテ……

 かすかな声、でもまだ生きている。

「由羅乃!」

 思わず相手の名を呼ぶ。意外にも声は実際の音となって耳に響いた。そうか、実体化すれば音も届くのだ、どうして今まで気付かなかったのだろう。

「由羅乃! 返事して! どこにいるの?」

 もう一度、耳を澄ます。けれど応答はない。

(お願い、もう一度、返事をして……)

 そう強く願いながら、縞稀は再び名前を呼ぶ。名前を呼んでは、じっと耳を澄ます。幾度となくそれを繰り返したが、自分以外の声は何一つ聞こえなかった。

 泣きたくなる気持ちを堪えて、何度も名前を呼び続けていると、突然、別の声が聞こえた。

「こっちだ……!」

 その声がする方に、縞稀は振り返った。誰かは分からない、けれど、自分以外にも無事な人間がこの結界の中にいる。

「こっちに人がいる。聞こえるか、こっちだ!」

 声を頼りに縞稀は必死にもがいた。地を蹴る足が欲しいと願うと、足が実体化した。そのまま走りだすと、顔をなでる風を感じた。

「どこなの!」

 声を上げると、こっちだ!と再び応答があった。その方向へ強く手を振りかざすと、まるで闇が吹き飛ばされたように、視界が開けた。その視界の先に、確かに人影が見える。こちらに気付いたのか、相手も手を上げた。

 縞稀は必死で駆け寄り、そして、その場に崩れ落ちた。そこには、地面に横たわる由羅乃の姿があった。透き通るように白かったその顔はどす黒く変色し、生気を失った目は虚ろに空を見つめていた。

「そんな……どうして……」

 触れようと手を伸ばすと、そばにいた少年に止められた。

「止めておけ、闇落ちが感染する」

 声も容姿も少年としか思えなかったが、その表情はひどく大人びていた。

「何を言っているの、由羅乃は闇落ちなんかしない。だって由羅乃は―――」

 けれど言葉は続かなかった。周囲の黒い闇が、まるで由羅乃の体に吸いこまれるように、集まってくる。完全に闇を除ける力が失われてしまっている。

 どうして―――いつもなら、玄武の守護が闇を除けてくれるはずだ。由羅乃の周囲には、絶えず玄武の守護がついていたはずなのに。

「ここまで浸食されたら……もう助からない」

「噓だ!」

 少年を睨みつけるように、縞稀は叫んだ。

「まだ生きてる! どうしてそんなこと言うの」

 少年は一瞬、その勢いに怯みながら、それでも縞稀の腕をつかむ力を緩めなかった。

「生きてても……こんな状況で、助けようがないんだ」

 その苦しそうな声に、縞稀は冷水を浴びせられたような気がした。いつの間にか冷静さを失っていた。そうだ、まずはこの状況を何とかしなければ、誰も助けることなどできない。

 どうしてこんな状況になったのか……考えなければ。いつもなら、惹き寄せられた闇は祓われるはずだ。それなのに、いつまでも行き場を失ったまま、結界の中で渦を巻いている。なぜ祓わないのか―――では祓うとは何だ?

「そうか……ようやく意味が分かったわ」

 そうつぶやく相手を、比壬は驚いて凝視した。

「祓うとは、闇を喰うこと……」

「おい、何言ってるんだ?」

 あの男が自分をここへ遣ったのは、この闇を喰わせるためだったのだ。生贄が必要だとあの男は言った。それが何なのかは知らない、知る必要もない。でも自分が闇を喰えば、由羅乃を助けられる。それで充分だ。

「おい、待てよ」

 力強く腕を引かれて、縞稀は少年を振り返った。

 初めてお互いの視線が間近で交わる。見知らぬ顔だった。けれど懸命に誰かを助けようとするその目は、とても綺麗だと縞稀は思った。

「あなたが誰かは知らないけれど、ありがとう……あなたの声が聞こえなかったら、助けられなかった」

「あんた、なにする気だ……?」

「自分でもよく分からない。でも多分、こうするしかないの」

 そう言って、縞稀は少年の顔を見つめた。これほど濃い闇の中で正気を保っていられるということは、それだけ強い力に守られている証拠だ。そしてなぜか、彼になら託しても大丈夫だと、縞稀は思った。

「お願いがあるの……由羅乃を連れてここから逃げて」

 その言葉と同時に、縞稀は実体を消滅させた。


 自分の中に棲まう何かが、初めて闇を喰らうのを見たとき、恐怖よりも先に絶望が襲ったのを覚えている。もはや自分は人ではないのだと、認めるのが恐ろしくて、ただ必死に隠し続けることしかできなかった。誰にも打ち明けることができず、自ら命を絶つ勇気も持てず、ただ恐怖からずっと目を背け続けてきたのだ。

 けれどもはや目を背ける必要もない。隠す必要もない。今は自分が化け物だったおかげで、誰かを助けることができる。こんな自分でも、生まれてきた意味はあったのだと思える。誰にも知られることなく、最期を迎えるしかないと思っていた自分に、こんな役目を与えてくれたあの男に感謝の気持ちさえ湧いてくる。

 縞稀は渦の中心へ視線を向けると、大きく息を吸い込んだ。これほど大きな闇は初めてだが、今回は手加減する必要もない。好きなだけコレに喰わせてやればいいのだ。肺の中に溜め込んだ息をゆっくりと吐き出すと、体の中から何かが這い上がってくるような感覚に襲われる。その不快感をじっと耐えていると、やがてそれは、殻から抜け出した蝶のように大きく羽を広げる。いつもは暴れ出さないようにと手綱を引いていたが、今回はただ解き放ってやればいい。

(さあ、好きなだけ喰うがいい)

 そう指示すると、ソレは狂喜の声をあげた。実際には何も聞こえないが、縞稀にはソレの気持ちが手に取るように分かった。

 周囲に漂う闇の渦を、より一層深い暗闇が覆い始める。光さえも吸い込むブラックホールのように、その暗闇は次第に大きくなり、結界全体を覆い尽くすと、今度は急速に収束し始める。闇が闇を喰うという表現が適切かは分からないが、確かにコレの中に闇が吸い込まれている。その証拠に、コレが収束した後の空間には、闇の気配が何一つ残らないのだ。

 やがて掌に乗るくらいの大きさまで収束すると、ソレは宙に浮いたまま停止した。周囲の闇をすべて呑み尽くし、その一ヶ所に凝縮させたかのようだった。

 縞稀は再び意識を集中して実体化した。もう一度、アレを自分の中に取り込まなければならない。果たして自分は、それに耐えられるのだろうか。もし耐えられなければ、あの男が言ったように、自分は人間に災いをもたらす穢れになってしまう。

 けれどあまり考える余裕は与えられなかった。結界の中の闇がいなくなり、次の獲物を探そうと動き始めるソレを見た瞬間、縞稀は必死で手を伸ばす。

(―――戻れ!)

 咄嗟にそう叫ぶ。けれどソレが自分の指示に従うはずもなく、縞稀の体は宙に放り投げられ、そのまま実体を失った。宙に霧散した意識は、ソレの触手に絡め取られるように捕獲され、声にならない悲鳴を上げた。


 恐怖のあまり意識を手放そうかと思ったが、すでに意識体である自分は、それを手放すことはできないのだと、縞稀は知った。全身を襲うような感覚は、実体があった頃の名残りなのだろうか。アレが自分の中にいるのか、自分がアレの中にいるのか、もはや区別さえつかない。意識の中をうねり狂う、この不快なモノから解放されるのなら、何でもよかった。

 意識を失うこともできず、不快な感覚を与え続けられるというのは、想像以上の恐怖だった。この恐怖から解放されるためなら、何だっていい、何だってする……これまで自分が守ってきたもの、すべて失っても構わないとさえ、縞稀は思った。

 穢れになるとは、こういうことなのか。自我を失うこともできず、恐怖と絶望を生み出し続けるだけの存在―――これが永遠に続くのだとしたら、それはまさに、死を与えられることだけが救いだ。

(嫌だ……嫌だ、そんなモノにはなりたくない!)

 無我夢中で手を伸ばす。見えるはずのないその手を、縞稀は懸命に伸ばす。

 こんなふうに、何かを強く求めたことがあっただろうか。こんなふうに、誰かに助けを求めたことがあっただろうか。恐怖と絶望だけが支配するこの暗闇の中で、自分にできることは、ただ子供のように助けを求めることだけなのだ。

『それでも』

 その伸ばした手の先に、何かが触れたような気がした。

『それでも、おまえは―――』

 その瞬間、ふっと体が軽くなり、誰かの声が聞こえたような気がした。それは優しく撫でるように、かすかな風のように耳に届いた。

(―――誰……?)

 そう問いかけようとした瞬間、忘れていた記憶の断片が鮮明に蘇る。

 そこは白い空と白い大地、どこまで続く白い空間。その彼方に、その人はいた。一人静かに、どこへ行くでもなく、何かを待つでもなく、その人はただそこにいた。

 艶やかな黒髪が風になびく。白い横顔がちらりと見える。うっすらと赤みの差した唇が、優しく微笑んでいるのだと分かる。とても美しい人だった。

(あなたは……)

 聞きたいことがたくさんあるのに、言葉が出ない。手を伸ばして触れたいのに、近づくこともできない。ただあのときと同じように、優しく心に触れて、消えていく。

(お願い待って、行かないで―――)

 懸命に手を伸ばしたが、すでに視界は真っ白で、どこまでも続く光の中に、縞稀は自分が落ちていくのを感じた。

 ああ……どうして忘れていたのだろう。

 初めて此処へ来たときも、自分はあの人に出会っていた。この何もない場所で、流れるままに、あの人に出会った。あのときも、こんなふうに手を伸ばして、でも決して届くことはなく、ただその声が優しく心に触れた。

 孤高の闇―――そう教えてくれたのも、あの人だったことを、今ようやく思い出した。


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