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孤高の闇  作者: たたら
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【三】 来客


 その声が聞こえるようになったのは、いつの頃だったか。

 最初は、小さな雫が水面に落ちるような、つぶやきにも似た声だった。

 ―――カエリタイ

 耳を澄ますと、まるで小さな子供が最初に覚えた言葉を確かめるように、その声は同じ言葉を繰り返した。

 ―――カエリタイ

 ささやくようなその声は、日々繰り返されるうちに、やがてはっきりと耳に届くようになり、気づけば日常的に聞こえる声として、自分の中に定着していった。

 普段の生活の中では無視できる程度のものだったが、何か嫌な出来事があったり、ひどい自己嫌悪に陥ったりすると、それは突如として耳障りな音になる。

 いい加減、消えて欲しくて、「消えろ」と言葉にすると、声は止んだ。実際には声に出して言ったわけではない、ただ、心の中でその言葉を発しただけだった。

 その頃から、ソレが自分の心の声を認識できるのではないかと思うようになった。認識できるということは、ある程度の意思疎通ができるということだ。ソレは少しづつ自分の意識と共存することを学び、やがて―――そういう表現が適切かは分からないが―――自我を持つようになった。


 その声のこと以外、縞稀(しまき)には幼い頃の記憶はほとんど残っていない。

 物心ついた頃には、孤児として施設で暮らしていた。そこには彼女と同じように、両親を亡くした子供たちが大勢いたが、彼らとの共同生活の中で、彼女は次第に自分が他の人間とは違うのだということに気付いた。

 それが具体的に何なのか、子供だった彼女には理解できなかったが、時おり大人たちが見せる不可解な表情から―――それが嫌悪と恐怖の表情だと知ったのは後のことだが―――目に見えない違和感を子供ながらに感じ取っていた。

 彼女の不可解な言動は年齢と共に顕著になり、周囲を戸惑わせ、それが原因で一ヶ所に長く留まることができなかった。いくつもの施設を転々とし、どこも引き取り手がなくなった彼女を受け入れたのが、玄武の屋敷だった。

 当時の彼女には、なぜ自分がここへ来たのか、そんな理由など知らなかったが、ただ、親方様と呼ばれる人が彼女を見て、大きな手を差し伸べてきたのを覚えている。

「今日からおまえはここで生活をすることになる」

 どこか冷たい印象を与える視線だったが、縞稀は彼の纏う空気が嫌ではなかった。他の人とは明らかに異なる雰囲気を持つ彼の存在に、どこか安心感さえ覚えた。

 けれどすぐに、彼はこの屋敷で一番偉い人だから、子供が容易に近づいて迷惑をかけてはいけないと教えられた。そして同時に、この屋敷で生きていくためには、闇祓いにならなくてはいけないとも。

 闇祓い―――その言葉を、縞稀はそのとき初めて知った。

 闇とは人の心を蝕むもの、人の弱い心に棲みついて、人を喰らってしまうもの。だから闇は祓わなければならない。それが闇祓いの仕事だと、子供心にそう教え込まれた縞稀は、自分が闇祓いになることに何の疑問も抱かなかった。

 そうして闇に対する知識が深まるにつれ、それまで何の疑問も持たずに共生してきた声の正体が、まさに“闇”そのものなのだということを、縞稀は知った。

 ここで闇祓いとして生きていくためには、自分の中に棲み続ける闇の存在は、決して誰にも知られていはいけない。幼いながらも、本能的にそう感じて、必死で隠し続けるようになった。


 玄武の屋敷での生活は、これまでの施設とは全く違っていた。

 屋敷には子供から大人まで、数多くの人たちが働いていた。縞稀と同年代の子供も多く、誰もが個人の能力に合わせて与えられた仕事を黙々とこなしていた。彼女もすぐに掃除などの雑用を与えられ、見よう見まねで覚えていった。

 仕事以外の時間は、敷地内であれば自由に動くことが許されたので、縞稀はできるだけ仕事を早く終わらせ、裏山に出かけた。裏山にはいくつかの訓練場があり、彼女はそこで行われる儀式の様子を見るのが好きだった。

 闇除けとなる数人の闇祓いたちが多角形の陣を作り、その中央に位置する闇惹きが、周囲の闇を惹き寄せる。惹き寄せられた闇は、陣の中に閉じ込められ、逃げ場を失い、そして消滅する。外側の陣が大きくなればなるほど、一度に惹き寄せられる闇の規模も大きくなり、儀式の難易度も上がるようだった。

 儀式の中でも最も目を引くのが、陣の中央に立つ惹き手で、彼らが闇を惹く様子は、ひどく縞稀の胸をざわつかせた。まるで自分の中の闇が惹き寄せられているようだと縞稀は思ったが、それでも見るのを止めることができなかった。

 やがて決められた年齢になると、日々の仕事だけでなく、学業も課せられた。縞稀にとって何かを学ぶのは楽しいものだったが、修行と呼ばれる実技だけは別だった。厳しい条件の中で、脱落していく者も多かった。脱落した子供たちは、いつの間にか屋敷から姿を消していく。どこへ行ったのかは、誰も教えてくれなかった。

 この屋敷に居続けるためには、すべての実技に合格して、闇祓いになるしかない―――身寄りのない子供が、無意識に自分の居場所を求めて、そう決断するのに迷いなどなかった。

 縞稀はどんなに厳しい修行でも耐えてみせた。我儘も弱音も一切吐かず、ただひたすら与えれた任務をこなしていく。いつの間にか、成績は常に上位を維持するようになり、それが何の血筋も持たない孤児だと分かると、周囲から嫉妬と軽蔑の眼差しが向けられた。


   †


 ゆっくりと扉を開けると、見慣れた空間がそこにあった。

 六畳ほどの小さな部屋、それがここで縞稀に割り当てられた、自分だけの空間だった。孤児院からここへ移り、十年以上過ごしてきた部屋は、ほとんど家具というものがない。

 とりあえず、野宿用に配布されていた背負い袋を取り出し、縞稀は生活に必要なものを詰め込む。もともと私物など数えるほどしかなかったから、その作業はあっという間に終わった。

 しばらくは衣食住が調達できないだろうと、寝袋や携帯用の保存食も入れておく。これらは私物ではないが、さすがに持ち出しを禁止されたりはしないだろう。

 あらかた部屋の片づけがすむと、縞稀はもう何もすることがなくなった。夜までに館を出ればよいのだから、もう少しここに居ても大丈夫だろうと考え、寝床の上に身体を横たえた。

 ぼんやりと天井を眺めていると、見覚えのある模様が視界に映る。

「あれは……」

 縞稀は目を細めて、天井へと手をかざす。すでに消えかかっているが、確かにそれは結界の跡だった。部屋の中央から天井いっぱいに描かれた陣の痕跡。自分の中に潜む闇を隠し続けるために、幼い縞稀が張った闇除けの結界だった。

「これは……懐かしいな」

 あの頃は、ちょっとした気の緩みで瘴気が表へ出てしまうので、それを隠すために必死だったことを思い出す。特に寝ている間に意識を失ってしまうと、どうすることもできない。だから、自室全体に結界を張って寝ていたのだ。

 当時の自分を思い出し、縞稀はゆっくりと目を閉じた。幼い自分は何事にも懸命だった。生きて行くために必死だった。生きる理由なんか、考える必要すらなかった。

 あの頃の自分に教えてやりたと思う。おまえが一生懸命にやろうとしたことは、すべて無意味なのだと。おまえの居場所など、どこにもありはしない。さっさと諦めて、祓われてしまえばよかったのだと。

 それでも―――と縞稀は思う。

 今自分はここでの生活を懐かしく思い出すことができる。それだけでも、一生懸命だった意味はあったのかも知れない。未来が真っ暗ならば、せめて過去だけでも足元を照らして欲しい。

 気付くと、頬に濡れた跡が張り付いていた。

 生きることが苦しいと、そう思うようになったのは、いつからだろう。どんなにつらくても、苦しくても、生きるために懸命だったのは、もう遠い日々だ。

 ―――今日からおまえはここで生活をすることになる

 あの大きな手が、自分に差し出されることは、もう二度とない。このちっぽけな居場所さえも許されないのだというのなら、なぜあのとき見捨ててくれなかったのだろう。

 いつの日か、遠い未来に、今の自分を懐かしく思い出す日が来るのだろうか。

 そんな日は決して来ないと、静かに瞼を閉じた。


   †


 それは唐突に現れた。

 夜空に煌く閃光のように。天に轟く落雷のように。それは幾重にも張り巡らされた結界を突き抜け、その場所へと流れ落ちた。

 そこは玄武の屋敷の最奥の間、最も厳重に守られているはずのその場所に、突然の来訪者が現れたことは、一部の人間を驚愕させた以外は、誰も気付く者はいなかった。


 誠珂(せいか)は静かに自室を出ると、その相手を出迎えるために中庭へと向かった。

普段は出入りが禁止されているその場所は、部屋の灯りも届かぬほど薄暗く、夜の静寂だけが横たわっていた。

 雲の切れ目から、わずかな月明かりが差し込み、かすかに光が反射している。目を凝らすと、それが流れるような白銀の髪であることに気付く。

 そこには一人の男が立っていた。姿だけならまだ青年と呼ぶべきかも知れない。陶器のような白い肌、冷たく光る青い瞳、初めて見たときから全く変わらぬその容姿は、いつ見ても不気味なほど美しいと誠珂は思った。

「これは随分と、唐突な来訪だな」

「無礼は承知している、だが時間がない―――あの娘はどこだ?」

 わずかな沈黙。誠珂は淡々とした口調で答えた。

「あれはここにはいない……破門にした」

 青い目がわずかに見開かれ、怪訝そうな視線で誠珂を見る。

「なぜそんなことを?」

「おまえのやり方は強引すぎる。まだ時間が必要だと言ったはずだ」

 誠珂は静かに男を見返した。互いの視線がぶつかり、そこに揺るがぬ意志があることを見て取ると、先に動いたのは来訪者の方だった。

「時間がないと言ったはずだ……私は私のやり方でやらせてもらう」

 そう言って、瞬時に姿を消した。

 誠珂は静かに目を閉じて、しばらくその場に立ち尽くしていた。


   †


 突然、何かが頭上できらめき、縞稀は足を止めた。

空を見上げると、何かが飛来したような、一筋の残光が、夜空の闇を貫いていた。

 何かが、ここへ来た……? なぜかひどく胸騒ぎがして、縞稀は思わず駆け出す。東門に近づくにつれ、人のざわめきが聞こえ始めた。

「すみません、あの……」

 門番らしき男に話しかけようとしたが、それどころではない様子で一蹴された。

「悪いがここは急ぎ閉門する。正門に回ってくれ!」

 何が起きているのか分からないまま、とりあえず正門へと向かう。途中、慌ただしく走る去る者たちや、結界の修復を急げと叫ぶ声が聞こえた。

 正門に着くと、やはりここでも扉は閉ざされたままだった。縞稀は何とか人を捕まえて、事情を訊ねた。

「悪いが詳しい事は何も分からない。ただ今夜は誰も屋敷から出すなという厳命だ」

「私は親方様に、今夜中にここを出ろと言われています」

 そう縞稀が強く主張すると、相手は言いにくそうに言葉を濁した。

「これは本家の命令なんでね」

 本家ということは、巫女様に何かあったのだろうか。由羅乃の話では、巫女様はすでに危篤だと言っていた。それと何か関係があるのだろうか。

 けれど、それ以上、縞稀に知る手段はなかった。

 屋敷から出ることもできず、かといって宿舎に戻ることもできず、縞稀は途方に暮れて立ち尽くした。

(どこにも行き場所がない……)

 事情を説明して今晩まで宿舎に泊めさせてもらうことも考えたが、誰かと顔を合わせるのも気まずい気がして、縞稀は踵を返した。

 敷地内には、いくつか物置小屋があったはずだ。施錠されていないことを願いつつ、いくぶん肌寒くなってきた夜道を、足音をしのばせて歩く。

 何とか入り込めそうな小屋を見つけると、軋む扉を開けて、身体を滑り込ませた。

内部は薄暗く、床は埃が積もっているようだった。歩いた場所から埃が舞い上がるので、口を覆いながら、どこか寝袋を広げられそうな場所を探して、ゆっくりと座り込んだ。

 しばらくうずくまっていると、空腹であることに気付く。そういえば、朝からほとんど何も食べていない。

初日から保存食を消費してしまうのは、何だかもったいない気がしたが、他に食べるものがない。つめたい指先で、袋を引き裂くと、ぼろりと固形食の欠片が、埃だらけの床にこぼれ落ちた。その残骸を見つめながら、手に中に残った分を、ゆっくりと口に運ぶ。しけった固い触感で、味はほとんどしなかった。

 昨夜の自分は、温かい食事を当たり前のように食べていた。一人で生きるとはこういうことなのだと、今更ながらに思い知らされたような気がして、目に涙が滲んだ。

 この先、自分がどこかの山奥で朽ち果てても、誰にも知られることはなく、誰も悲しむことはない。それを望んだのは自分自身だ。そうなることを望んで生きてきたのに、今更それを哀れと思うなんて、滑稽にもほどがある。

 ―――己で選択した道だ。未来永劫、一人で苦しみ続けるがいい。

 あのときの自分の心の声が再びささやく。

(いけない、また闇を呼んでしまう……これ以上考えてはダメだ……)

 昼間の未遂を思い出して、縞稀は必死で負の感情を追い出そうとする。今は夜だ、昼間よりもずっと多くの闇がうごめいている。心を静めて、やり過ごさなくては……こんな場所で騒ぎを起こせば、今度こそ排除されてしまう。

 でもそれが、何だと言うのだろう―――

(だめだ、考えてはいけない)

 どうせすべて消えてしまうのだ。このまま自分と一緒に、この世界も消えてしまえばいい。

(違う、そうじゃない……)

 そうだ、こんな世界は、

 ―――すべて消えてしまえばいい。


「世界を呪うとは、傲慢な娘だな」

 突然、背後から声をかけられて、びくりと体を震わせた。

 振り返ると、くずれそうな箱の上に、一人の男が腰かけていた。全身白づくめなのに、その青い瞳だけがやけに鋭く、こちらを見ていた。

「あなた……誰? いつからそこに……」

 ひどく冷たい空気が肌にまとわりついた。

 身を強張らせて相手を睨んだが、男は座ったまま微動だにしない。まるで空気と同化したかのように、気配を消して、最初からそこに存在していたかのようだった。

 空気が冷たいと感じたのは、その突き放すような視線のせいだ。

 まるで、外界から入り込んだ異物を見下ろす二つの眼。何かを観察するように、何かを見極めるように、じっとこちらを観察している。

 長い沈黙が続いた。もしくは一瞬だったのかも知れない。

「おまえに、選択肢はない」

 その声は静かに響いた。

それはどういう意味なのか、そう尋ねようとして口を開きかけたとき、その声が続いた。

「私がおまえを生贄に選んだ。だから選択肢はない」

 縞稀は震える唇を噛みしめて、相手を睨み返したが、その無表情な顔からは何の感情も読み取れない。ただ、その冷たい視線が、身体中を突き刺すように痛かった。

 その無言の視線が、なぜかは分からないが、自分の心を覗き見ようとしていると縞稀は思った。冷たく氷のように鋭い刃で、この男は自分の心の奥底を暴こうとしている。

 瞬間、胸をえぐられるような感覚に襲われ、思わず胸を押さえる。目に見えない何かが心の中に流れ込んでくるような感覚。これは幻覚だと、頭では明確に理解できているのに、心は苦しさのあまり泣き叫んだ。

 この感覚は、よく知っている。幻覚だとわかっていながら、逃げられない。目を背けることも、耳を塞ぐことも、すべてが闇に飲み込まれるまで、抗うことができない。

 カエリタイ―――

 ざわりと闇が笑った。

(どうして……)

 同時に意識が朦朧とする。全身の力が抜けていくような脱力感。こんなふうに無理やりあちら側へ飛んでしまったら、今度こそ戻れなくなる。

 強く拳を握りしめ、懸命に意識が沈むのを堪える。視界がぼやけて座っていることすら困難になる。これ以上、意識を維持するのは無理だと、そう思ったとき―――

 ぱちんと、小さな音がした。

 身体がふっと軽くなる。視界がクリアになって、意識が明確になる。先ほどまでの息苦しさが嘘のように消えていた。

 自分がいる場所を確かめるように、縞稀はゆっくりと拳を開いた。掌の上には、先ほどの保存食の欠片が残っていた。ここは確かに現実だ。

 そう安堵したのもつかの間、顔を上げると、すぐ目の前に男の顔があった。驚きのあまり声も出ず、ただ目を見開いて、その端正な顔立ちを見つめ返した。

「ずいぶんと大きな闇を、飼っているな」

 一切の感情を消し去った顔。恐ろしさのあまり、縞稀は一歩も動くことができなかった。

「どうやって手に入れた?」

 これだけの至近距離にいながら、人の気配というものが一切感じられない。

 その瞬間、直感する。これは実体ではない。以前に文献で読んだことがある。自分の残像を遠い場所へ飛ばすことができるという、難易度の極めて高い術だ。

 目の前の相手が実体ではないのなら、できることは限られる。精神的な力は作用しても、物理的な接触はできないはずだ。そう思うと、少しだけ心に余裕が生まれる。

「気づいたら……ここにいたのよ」

 そう言って、自分の胸に手を押し当てた。

「あなたは、コレがどういうものか知っているのね?」

 肯定も否定もしない相手に、縞稀はなぜか安堵のような感覚を抱いていた。ずっと誰にも言えずに、心の奥底に押し込めてきた秘密を、自分はこの男に平然と話している。

「知っているのなら教えて……自分がこの先、どうなるのか」

「知ってどうする」

「分からない……でも、できるなら、自分で始末をつけたいの」

 それがどういう意味なのか、相手にどう伝わったのかは分からなかったが、男は顔色一つ変えずにこちらをじっと見ていた。

「言ったはずだ、おまえに選択肢はない……だが、これほど大きな闇を飼いながら、まだ自我を失わないとは驚きだ」

「つまり私は、いつか自我を失うということね?」

 そう問い返すと、男はその目をわずかに細めたようだった。

「……そうだな、もしそうなれば、おまえは人間にとって大きな災厄となるだろう」

 大きな災厄―――つまり穢れになる、ということだ。自我を失い、大きな災厄として人々を脅かす穢れになり果てる。

「だったら……そうなる前に、私を処分してほしい」

 なぜそんなことを口走ったのか、自分でもよく分からなかった。

 いきなり目の前に現れた相手だというのに、この男になら殺されてもよいと、縞稀は思った。一瞬で自分の中の闇を見抜いた相手、誰にも言えなかった秘密を隠す必要のない相手、どうせ人知れず死を待つなら、この男の手で終わりにして欲しいと思った。

「約束してくれるなら、生贄にでも何でもなってあげる」

 どれくらいの間、対峙していただろうか、男の顔は無表情のまま、ぴくりとも動かない。

 やがて長い沈黙を断ち切るように、男が口を開いた。

「おまえは知っているか……死よりも深い孤独があることを」

 ひどく苦しげな表情で、青い瞳がこちらを見つめていた。ずっと無表情だった相手が、なぜそんな顔をするのか、縞稀には分からなかった。

「この手を取れ」

 差し出された手は、驚くほど白くなめらかで、これが同じ人間なのかと思うほどだった。縞稀はその手を見つめながら、これで終わりになるのなら、それでいいと思った。不思議なほど躊躇いはなかった。

 ゆっくりと腕を持ち上げて手を伸ばす。

 その手を見つめながら、ふと遠い過去の光景を思い出す。あのときの、差し出された大きな手を。その手を掴む、小さな手を。もう二度と自分から誰かに手を伸ばすことなど、あり得ないと思っていたのに。

 これで最期だから―――そう思った刹那、力強く手首を掴まれた。いや、掴まれたわけではなく、そう錯覚させられただけだ。実際、手首から上は、氷づけにされたように、冷たく動かない。

 驚いて顔を上げると、こちらを射抜くような鋭い青い瞳がそこにあった。

「おまえに選択肢はない……生贄として生きる以外の選択肢は、もうない」

 唐突に音が消え、視界が大きく揺らいだ。

 次の瞬間、足元が宙に浮き、体が沈んでいく感覚に襲われた。それはまるで、深く暗い海の底へどこまでも沈んでいくようだと、薄れていく意識の中で縞稀は思った。


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