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孤高の闇  作者: たたら
3/13

【二】 破門


「―――で、補充要員の確保は可能なのかね?」

「すぐには無理でしょう。どこも人手不足ですし」

座句嗣(ざくし)の部隊に援軍を頼むのは?」

「今は遠征中ですし、呼び戻すにも時間がかかる。明日の儀式に間に合うとは思えんな」

 審議の間では、すでに長老たちが険しい顔をして押し問答を繰り広げていた。

 儀式を明日に控えた桂陀の部隊に、欠員が出たという知らせを受け、長老会の面々が急遽呼び出されていた。

 彼らにとって、儀式を滞りなく行うことが重要な責務であり、なぜ欠員が出たのかという理由については、さほど関心はないようだった。

 縞稀(しまき)は広間の一番下手の位置に座し、じっとそのときを待ち続けていた。長老たちの声は嫌でも耳に届いていたが、そんなものは些細な雑音に過ぎない。

 すべては、未だ姿を見せぬ玄武の頭領―――誠珂(せいか)の、その言葉一つで決まる。彼が今回の件をどう判断するのか、それだけが縞稀の心を揺れ動かしていた。

「やはり儀式は延期すべきなのでは? 今回の儀式には、巫女様の血縁者も参加すると聞いている。失敗は絶対に許されぬだろう」

「延期など進言してみろ、親方様の逆鱗に触れるぞ」

「では失敗したら、誰が責任を取るつもりなんだ」

 彼らの関心事が自分たちの保身であることは、このときばかりは縞稀にとって救いだった。

孤児であった自分のことを気にかける者は、ここにはほとんどいない。無名の闇祓い一人がいなくなろうと、彼らにとってはどうでもよいことなのだ。このまま議論の矛先が自分に向かなければ、自分への処罰も除名だけで済むかも知れない。

桂陀(かだ)

 唐突に、長老の一人が下座へ向けて声をあげた。一瞬、ざわめきが止み、その声の主に視線が集まる。

「そなた、どうするつもりじゃ?」

 それまで沈黙を守っていた桂陀だったが、さすがにその声の主の問いかけに答えないわけにはいかず、静かに視線を上げた。

「どうするとは?」

「この状況を生んだのは、隊長であるおまえの責任じゃ。ならば、おまえが何とかすべきじゃろう」

 ずいぶんな無茶ぶりだと周囲は冷ややかな同情を向けたが、桂陀は顔色ひとつ変えずに答えた。

「最も容易な方法は、陣形を五芒陣へ変更することです。そうすれば、今の人員のままで事足りるでしょう」

 さらりとそう答える相手に、問いかけた老人の方は、難しい顔をして目を細めた。

「それはいささか短絡的な答えじゃな。五芒陣の危うさは、そなたも重々承知のはず。実力に見合わぬ陣形は命取りになるぞ」

 的確な相手の指摘に、桂陀はやはり無表情のまま目を閉じた。

 六芒陣が安定した守りの陣形とされるのに対して、五芒陣は攻めに特化した陣形とされる。『闇惹き』の効果を最大限に発揮できる一方で、守りの『闇除け』が手薄になるため、高い負荷がかかると陣が崩れやすい。自分たちの実力以上の相手には使わないのが鉄則だ。

「実力に見合うかどうかはさておき、我々はやるしかないのでしょう? それとも、他の選択肢があるのですか?」

 年長者からの質問に対して質問で返すことは、ここでは厳禁とされている。けれど問い返された本人は、さして気にする様子もなく、その無礼を受け流しただけだった。

「確かに選択肢はないな……ただ、そなたの覚悟を確認したまでよ。その危険を冒すだけの覚悟があると思ってよいのじゃな?」

「もとより、その覚悟です、梓些(あずさ)様」

 そう言って、桂陀は頭を下げた。

 延期だ責任だと言い合っていた一部の長老たちも、それ以上は何も言えなくなり、ただ気まり悪さを誤魔化すかのように声を荒げた。

「よいか、絶対に失敗は許されんぞ」

 無表情だった桂陀の顔に、わずかに暗い影が浮かぶ。失敗が許されないとは、滑稽な話だ。現場に赴く自分たちにとって、失敗とは死を意味するのだから。

 普段なら冷静に受け流していたはずの、その些細な感情のさざ波は、彼の心の奥深くに横たわる、もっと黒くて荒々しい感情の渦に呑み込まれていく。

「ええ、分かっていますとも」

 その瞬間、彼の心の奥底でくすぶっていた闇が、小さく笑う声が聞こえた。

「だからこそ―――むしろこれでよかったと、安堵しております」

「なんだと?」

「事前に危険な要因が1つ減りましたので。これで安心して儀式が執り行えるというもの」

 そう言って、桂陀はゆっくりと視線を背後へと向けた。その鋭い視線の先で、縞稀は息を止めて身体を強張らせた。

 いつの間にか、その場にいる誰もが、敵意にも似た表情を浮かべて、縞稀を見ている。彼らの背後に忍び寄る闇の気配を感じながら、縞稀は身動きひとつできずその場に硬直した。

 危険な要因―――桂陀の言い放ったその言葉が、無意識の闇を呼び寄せる。

 今この場所で、あえてそう指摘したのは、自分が闇落ちであることを長老たちに印象づけたいからだ。除隊だけでなく、闇祓いとしても完全に排除するという、桂陀の明確な意思の表れだった。

 心の奥底で、ざわざわと闇が嘲笑っているのが聞こえる。耳を塞ぎたくてもできない。

 なぜ……なぜそこまでして、排除されなければならないのか。正統な血筋を持たぬというだけで、存在さえも許されぬというのなら。

 こんな血など、すべて滅びてしまえばいい―――


「何事か」

 不意に静寂を打ち破る声が響いた。

 全身に電流が流れ落ちたかのように衝撃が走り、手足が緊張で強張っていく。胸の鼓動がどくどくと脈打つように響いて、縞稀はその場にひれ伏した。

 上座の奥から一人の男が現れた。その場にいた誰もが頭を下げて道を開ける。その一歩一歩が、まるで周囲を圧倒していくように、彼の周囲に畏怖の空気が漂い始める。

「どうした、何事かと聞いている」

 静かに淡々と響く声。誰ひとりとして言葉を発する者はなく、ただじっと、その声に耳をそばだてている。

 衣擦れの音が次第に大きくなり、縞稀は彼がこんな下座にまで来たことに驚く。すぐ前でひれ伏していた桂陀が、わずかに声を上ずらせて答えた。

「……申し訳ございません。先ほどまで、明日の儀式の陣形について、長老会の皆様と論じておりました」

「そうではなかろう。そなた、いま何を見ていた?」

 わずかな沈黙が流れる。何か答えねばならない、そう覚悟を決めて、桂陀が口を開きかけたそのとき、別の声がその場を支配した。

「親方様」

 皆がひれ伏したままの状態で、その声が誰のものか分かった者は少ない。ほとんどの者が息を潜めて、その成り行きを見守っている。

「今回の件、私の失態にて皆様にご迷惑をおかけしました。先ほどは、その責を問われたまでのこと。お騒がせして申し訳ありません」

 一気に言葉を吐き出して、縞稀は相手の反応を待った。

 どこの血筋も受け継がぬ自分は、本来直接口が聞けるような身分ではないが、この状況では誰も咎めるものはいなかった。

「おまえは、責を問われるようなことをしたのか?」

 そう問われ、縞稀は言葉に詰まった。

 その問いに答えることは、ある意味、ひどく危険だと思った。

彼に嘘はつけない。偽りは必ず見抜かれる。そして今回の責を追求される中で、自分の中の闇の存在まで暴かれてしまったら、もう二度と闇祓いとして生きる道は閉ざされるだけでなく、この場で排除されてしまうかも知れない。

「……申し訳ございません」

 是とも否とも明確でない、そんな答えに彼が満足するとも思えなかった。けれど、予想外にも、それ以上の言葉はなく、静かに衣擦れの音が遠のいていくのが分かった。

 顔を上げると、上座の奥に戻る誠珂の後ろ姿が見えた。心臓がどくりと脈打つ。先ほどまで、あの姿がすぐ近くに居たのだと思うと、今更ながらに全身が身震いする。

 見逃してもらえたのだろうか……そんな期待が縞稀の胸の内に湧き上がる。けれどそれはあまりに都合が良すぎる気もした。

 それに彼の態度にはどこか違和感がある。それが心に引っかかって、縞稀はもう一度その姿を視線で追ったが、その表情までは見えなかった。

「では改めて、明日の儀式の変更点について説明を―――」

 上座では長老たちが事の次第を説明し始めた。

 その話の間中、彼は一言も口を開かず、その場に座しているだけだった。片肘をつき、その手を頬に当てているように見えた。そんな姿を遠目に見つめながら、縞稀はふと昔のことを思い出していた。

 自分がこの屋敷へ初めて来た頃、あの手に触れて抱き上げてもらったことを、今も覚えている。子供だった自分は、ただ嬉しくて、その姿を見る度、無邪気に何度もだっこをねだった。彼は自分を怖がらない初めての大人だったからだ。

 でもいつの間にか、彼はひどく遠い存在になってしまった。手を触れることも、その姿を間近で見ることも、今では叶わない。あの頃の懐かしさは遠い記憶の中に消え、今はただ畏怖の念を抱くだけだ。

 それでも、こうして間近に彼の姿を見ると、今でも心がかき乱される。この気持ちが何なのか、縞稀は自分でもよく分からなかった。

「……で、処分はいかがいたしましょう?」

 いつの間にか、広間にざわめきが戻っていた。明日の儀式は陣形を変更して執り行われることが決定し、あとは除隊者の処分についての議論となっていた。

「桂陀の言い分も分かるが、訓練中に意識を失ったからといって、すぐに闇落ちと判断するのは尚早ではないか」

「しかし、一度でもその疑いがあるとされた者は、どこの部隊も受け入れを拒むだろう」

「ではいったん藤璃(とうり)様のところへあずけて、様子見とすれば……」

 隔離病舎へ送られるのであれば、少なくとも周囲に迷惑はかからなくなる。もう外へ出ることはできなくなるが、先のことを考えるとそれが一番良いのかも知れないと、縞稀が覚悟したとき、上座から声が響いた。

「その必要はない」

 それまで黙って話の流れを聞いていた誠珂が、唐突に声を発した。長老たちは驚いて頭を下げ、その先の言葉を聞くために、息を潜めて待った。

「縞稀、おまえを破門とする」

 予想外の言葉に、誰もが一瞬、耳を疑った。

 長老たちの中で、いくつもの視線が交差し、彼の意図を探ろうと言葉が交わされた。

 隔離施設へ送るのでもなく、いきなり破門にするというのは、いったいどういう意図なのか。破門というは、最も重い処罰に違いないが、この場合、闇落ちの可能性がある者を、隔離もせずに放置するということは、つまり闇落ちではないと判断したことになる。

 だが、闇落ちでないのなら、破門にする理由は何なのか。長老たちも即座には判断できない様子だった。

 混乱する者たちの中で、ただ一人、縞稀だけは別の意味で大きな衝撃を受けていた。

 破門―――それは、つまり、玄武の加護を失うことを意味する。

 それが自分にとって、どれほど恐ろしい事態を招くことになるのか、縞稀には想像もつかなかった。心に闇を飼い続けながら、それを隠し、今まで生きてこれたのは、ひとえに玄武の加護があったからだ。

 その玄武の加護を失ってしまったら、果たして自分は闇を抑え続けることができるのだろうか。もしできなければ、そのときは、もう最期の選択をするしかない。

「今日中に館を出るよう命ずる」

「親方様、それはあまりに急では……」

 長老たちがざわめく中、誠珂は無表情のまま立ち上がり、おもむろに周囲を見渡した。

 何か言わなければと縞稀は必死で口を開きかけたが、それは次の言葉で容赦なく切り捨てられた。

「この件については、一切の異議は認めぬ」

 それだけ言い残すと、くるりと背を向け、長老たちの呼びかけにも応じる様子もなく、広間から姿を消してしまった。

 その後ろ姿を、縞稀はただ茫然と見つめながら、一切の異議は認めぬと言った彼の言葉は、まさにその言葉の通り、一切の可能性が消えたのだということを思い知った。

 残された者たちは、しばらく呆気に取られていたが、やがてこれで審議は終了だとばかりに、それぞれ解散し始めた。


 一人茫然とその場でうずくまる縞稀に、誰も声をかけることはしなかった。

 それは同情でも気遣いでもなく、ただ日常茶飯事の光景だった。ここでは適性のない闇祓いは破門となる。これまで何人もの闇祓いたちが、この屋敷から去っていった。

 血筋という後ろだても、実績もない自分が、破門されたとしても、誰も気にかけるはずもなかった。

「なら、どうして……」

 考えてはいけないと、理性がそう警告していた。けれど、熱いマグマのように湧きあがる自己破壊の衝動を、もはや抑えることはできなかった。

「どうして―――今になって、見捨てるのですか?」

 あのとき、差し出された大きな手を、何の疑問を持たずに握り返した幼い自分が、今はただ腹立たしくて、そして哀れだった。

 怒りと悔しさと、絶望のような悲しみが、津波のように押し寄せてきて、縞稀は叫ばずにはいられなかった。

「いつか見捨てるつもりなら……最初から、捨て置いてくれればよかったのに!」

 心の叫びは大きなうねりとなって、荒れ狂う嵐のように暴走する。目に見えぬ大気の震えが、部屋全体に広がり周囲を呑み込んでいく。

 そうだ、このまますべて呑み込んでしまえばいい。すべて呑み込んで、何もかも消えてしまえばいい。どうせ自分には帰る場所などないのだから。自分の居場所など、どこにもないのだから。

 ―――カエリタイ

 心の奥底で、あの声が聞こえた。


 気づくと、周囲に闇の残像が漂っていた。

 この闇を呼び寄せたのは分自身なのだと、縞稀はぼんやりと思った。ぼんやりとした頭のまま、見慣れた天井を見つめていると、あることに気付く。

 なぜ……自分はまだ、こちら側にいるのだろう―――?

 あれほど強い感情を吐き出したのだ……意識が飛んでいてもおかしくない。なのに、ここはどうやら現実のようだ。

 いったい何が―――

 その疑問がよぎった瞬間、唐突に何かが頭上から響いた。

「いつまで寝ておる気じゃ!」

 そのあまりに場違いな声に、縞稀は驚いて起き上がる。

「こんな場所で昼寝とはよい度胸じゃな」

 振り返ると、あからさまに不機嫌そうな顔で、梓些がこちらを見ていた。

「梓些様……」

「ふん、どうやら目が覚めたようじゃな。まったく、どうなることかと思ったわ」

 まるでひと仕事終えたように、梓些は首を傾けながら、肩や背中を揉んでいた。周囲を見渡せば、先ほどまでの闇のざわめきが、嘘のように消えている。

 自分が闇を呼び寄せている間に、梓些が闇除けをしてくれたのだろう。自分のせいでこの老人の手を煩わせてしまったことに恐縮して、縞稀は首を縮こませた。

「申し訳ありません」

「まったくその通りじゃ、この未熟者め! あろうことか、この玄武の屋敷で闇を呼び寄せるとは、他の長老どもに見つかったら、大騒ぎになるところだったわ」

 その言葉が意味するところは、つまり他の人間には、見つからなかったということだ。

幼い頃も、一時的な感情で闇を暴走させてしまうことがあり、そのたびに梓些に迷惑をかけていた。彼は、自分が闇飼いであることを知っている、唯一の大人だった。

「本当に……申し訳ありません」

 それ以外に返す言葉がなく、縞稀は恐縮したまま俯いた。

「謝るくらいなら、これ以上、この老体を酷使させんでほしいな」

言葉は辛辣であったが、その口調はそれほど怒っているようには見えなかった。むしろ、何か別のことに気を取られている様子で、難しい顔をしてぶつぶつと呟いている。

「こうも簡単に闇の侵入を許すとは……ここまで玄武の力が弱くなっているということか」

 その言葉に、縞稀は驚いて顔を上げる。

「弱くなって……? それはどういうことでしょうか」

 玄武の力が弱まっているというのは、初耳だった。でも考えてみれば、先ほどの桂陀の件といい、今自分が惹き寄せた闇の件といい、館の中にまで闇が侵入するということは、これまでだったらあり得ないことだった。

「そなたには、もう関係のないことじゃな」

 ぴしゃりとそう言い切られて、縞稀は唇を噛みしめた。

 すでに自分は破門されたのだということを思い出し、再び暗い影が忍び寄りそうになるのを懸命に堪えた。

「なぜ親方様は……私を破門にされたのでしょうか」

「ふん、わしにあやつの考えなど、分かるはずもなかろう」

 愛想なくそう答えると、梓些は自分の役目は終わったとばかりに歩き出す。その背に向かって、縞稀は思わず言葉を投げかけた。

「玄武の加護を失ったら、私はどうなってしまうのでしょうか」

 そんな弱音を吐いてしまったことを、縞稀は少し後悔しながら、それでも、幼かった自分に力の使い方を教えてくれた、この人の言葉を聞きたかった。

「どうなるかは……そなた次第じゃな」

「私次第……?」

「闇とは人の心に巣食うもの……つまり誰の心にも闇はある。わしの中にも、おまえの中にもな。重要なことは、その闇にどう対処するかだ」

「梓些様、私は……」

 すべてを吐き出してしまいたい、そんな衝動に駆られて、言葉が喉まで出かける。

 もう残された時間は少ないのだと。これ以上、抑え続ける自信がないのだと。闇にのまれる前に、穢れになってしまう前に、自分はどうすればよいのか。

「これ以上、わしに面倒事を押し付けるでないぞ」

 梓些はそうぴしゃりと言い捨てると、さっさと歩き出した。

 その遠のく後ろ姿を見つめながら、縞稀は追いかけたい衝動を何とか抑え込んだ。すべてを打ち明けたところで、自分はきっとあの老人を困らせてしまうだろう。自分の後始末くらい、自分で考えなければいけない。

 縞稀はそっと拳を握り締め、深く息を吐きだした。


 やがて誰もいなくなると、広間はしんと静まり返った。

 一人残された縞稀はゆっくりと広間を見渡し、あちこちを見て回った。これが見おさめかと思うと、わずかに込み上げてくるものがある。

見慣れた天井も、何度も泣きながら歩いた廊下も、恐怖で足がすくんで逃げ込んだ中庭も、せめて目に焼き付けておこう。あとわずかな時間であっても、自分がここで生きてきた時間は、確かにあったのだから。

 自分が闇祓いとしては不適格だということは、もうずっと以前から分かっていた。それが分かっていて、それでもこの場所に居続けたのは、自分にはここで生きていく以外の道は、残されていなかったからだ。

 孤児である自分に、唯一帰る場所を与えてくれたもの、それが玄武の屋敷だった。そして自分の中の恐ろしいモノを自覚したあのときから、自分のような存在が許されるのは、玄武の加護がおよぶ世界だけだと理解していた。

 だから、自分の居場所を守るために、ただそれだけのために、必死で努力してきた。闇祓いとして認めてもらうために。ここで必要とされるために。

 それなのに、いつの間にか自惚れていたのだ。自分だけは例外だと、自分だけはこのまま見逃してもらえるのだと、そんな期待をするなんて、傲慢にもほどがある。

(ああ、だからか―――)

 思わず自嘲的な笑みがこぼれる。

 だから、こんなにも、裏切られたような気持ちになるのだと、縞稀は思った。期待してしまったがゆえに、こんな惨めな気持ちになる。

 いつから自分は、他人に期待なんかするようになったのだろう。誰も信じることができない自分が、都合よく他人に期待するなんて、愚かで滑稽だ。

 じっと自分の手を見つめると、あのときあの手をとった自分の手は、今よりもずっと小さかったことに気づく。

あの頃の自分は、誰かを信じることも、他人に期待することも、無知ゆえに怖れなかった。自分がどれほど愚かで滑稽なのかも、無知ゆえに気付かなかった。だから今更あの頃に戻りたいとは思わない。戻れるはずもない。けれど今の自分は、少なくとも、あの頃の自分を羨んでいる。

 この手を誰かに伸ばすことを怖れない自分を―――羨ましいと思っている。


「―――縞稀」

 不意に呼びかけられて、縞稀は顔を上げた。

 いつの間にか、戸口の柱に寄り掛かるように、由羅乃(ゆらの)が立っていた。


「破門って……本当なの?」

 先ほどまで御所の方に呼ばれていた由羅乃は、破門の件を人づてで聞いたようだった。

「本当だよ。今日の夜にはここを出る」

「どうしてそんな急に……」

 数時間前の出来事を、まるで忘れてしまったかのような口調で話す由羅乃に、どこか違和感を覚えつつも、縞稀は心の奥で小さく安堵していた。

「親方様の決めたことだよ」

 ここでは彼の命令は絶対だ。たとえ巫女であっても逆らえない。理不尽であろうとなかろうと、それが玄武の掟だからだ。

「理由もなく破門にするとは思えない……それも、こんなときに……」

 そうつぶやく由羅乃の声は、どこか震えていて、縞稀は彼女の様子を窺うように、ゆっくりと戸口に近づいた。

今にも泣きそうな顔をしている由羅乃を見て、縞稀は何かがあったのだと直感した。

「どうしたの? そんな顔を他の人に見せてはダメだよ。玄武の守護者たる人が、そんな顔をしたら、みんなが不安になる」

 そう言うと、由羅乃はきっと表情を固くした。怒り出すのかと思いきや、勢いよく近づいてくると、縞稀の手を掴んでそのまま歩き出す。

「ゆ、由羅乃……?」

 驚く縞稀を無視して、由羅乃は歩き続ける。掴んだ手をぐいぐいと引っ張り、どこへ向かっているのかも分からず、縞稀は彼女に従うしかなかった。

 中庭を抜け、人気のない倉庫の裏手に来ると、由羅乃はくるりと振り返った。その顔は涙で赤く腫れていて、まるで泣き喚いたあとの子供のようだった。

「ここなら、誰にも見られない」

 そう言うと、由羅乃は顔を俯かせて、何かにじっと耐えているようだった。

破門の件で由羅乃が悲しんでいるのだとしても、何か様子が変だ。

「どうしたの……何かあったの?」

 そう訪ねると、不意に腕を掴まれた。柔らかいぬくもりを感じた瞬間、今自分が抱きしめられているのだと気付いて、縞稀は大きく目を見開く。

「由、羅乃……?」

「もう二度と会わないなんて言ったら……許さないから」

 背中に回った由羅乃の手が、ぎゅうっと握りしめられるのが分かった。

「怖くないの……? 私の中には……」

「怖いわけがない。あんな幻覚を見せられたくらいで、私が縞稀を怖がるとでも?」

「闇を怖れない闇祓いはいないよ」

「確かに驚いたけど、まだよく分かってないのかも知れないけど、私が縞稀を好きだって気持ちは変わらないよ」

 その言葉だけで十分だと思った。それ以上は何もいらない。

「ありがとう……由羅乃。もう二度と会わないとは言わない……でも次に会うのは、いつになるか分からないから……それだけは伝えておく」

 ここを出たら、できるだけ人のいない場所へ行くつもりだった。少しでも闇が近づかない場所へ、人の寄り付かない山奥がいい。

由羅乃は悲しそうな顔をして縞稀を見た。

「そうやって、いつも一人で決めてしまうんだね。一人で抱えて、一人で苦しんで、一人で行ってしまう。そばにいても、いつもどこか遠い場所にいるみたいだった」

 今にも泣きそうな由羅乃の顔を見つめたまま、縞稀は言葉が出なかった。

 由羅乃がいなければ、おそらく自分はここまで来れなかった。由羅乃がそばにいてくれたから、自分はここまで来れたのだ。でももう自分にはそれが許されない。だからもう、それを口にすることはできない。

「いつかきっと―――巫女の血を継いでほしい」

 せめて由羅乃だけは、約束された未来を歩んでいってほしい。

けれど、由羅乃はくしゃりと顔を歪めて、首を横に振った。

「……それは……もう無理かも知れない」

 その声が震えていることに気付いて、縞稀はやはり何かがあったのだと直感した。

「無理って……どういうこと?」

 他言無用だと前置きしてから、由羅乃は震える声でその事実を伝えた。

「さっき知らされたの……驚かずに聞いてほしい―――おばあ様の容態が良くないの」

 一瞬、その言葉の意味を理解できず、縞稀は由羅乃の顔を見つめ返した。

「……おばあ様って……巫女様が?」

 小さく頷いた由羅乃の顔が青ざめている。それだけ容態が悪いということだ。

「本家の話では、いつ代替わりが起きてもおかしくないって」

 代替わり―――それはつまり、現在の巫女が逝去し、次の巫女が生まれるということだ。それがいつ起きてもおかしくないということは、もはや危篤状態ということだ。

 その事実は大きな衝撃だったが、もし本当に代替わりが起きれば、巫女候補である由羅乃が次の巫女になるはずだ。由羅乃が無理だと言った理由が分からない。

「次の巫女候補は……」

 由羅乃は苦しそうに首を横に振った。

「分からない」

「分からないって……」

「それを決めるのは本家だから。でも少なくとも私には無理なの。巫女になるには数年の準備期間が必要だけど、私はまだ準備を始めてさえいない」

 少なくとも、あと数十年は延命が可能だと、誰もが思っていた。だからこのタイミングで代替わりが起きることは、誰も想定していなかったと、由羅乃は言った。

そして万が一、次の巫女候補が不在のまま、今の巫女が逝去するようなことがあれば、玄武にとって巫女不在という異例の事態となり、それがどれほどの災厄をもたらすのか想像すらできないとも。

「これから何が起きるか誰も分からない……でも何が起きても、私は縞稀と一緒なら怖くないと思ってた」

 由羅乃の声は震えていたが、どんなときでも気丈に振る舞おうとする彼女の芯の強さは、こんなときほど強く発揮される。

「忘れないで。どこに行っても、どんなに離れていても……縞稀は私の大切な親友だよ」

 そしていつもの明るい声で言った。

「さよならは言わない。見送りもしない。いつかまた会えるって信じてるから」

 そう言って、明日の準備があるからと、普段と同じように手を振って別れる。縞稀も軽く手を振ってそれに答える。

 由羅乃の姿が倉庫の角を曲がって見えなくなると、縞稀は静かに天を仰いだ。

 自分でも驚くほど静かに、涙が頬を伝わっていく。

 何が悲しいのか分からなかった。破門のこと、由羅乃のこと、巫女様のこと……すべてが悲しくて、でもどれも違うような気がした。何か大切なことが思い出せなくて、それがひどく悲しくて、縞稀はその場に泣き崩れた。


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