【一】 予兆
「―――マキ……縞稀」
心配そうな声が自分の名を呼んでいる。
「縞稀、大丈夫……?」
この声は由羅乃だ。また自分のせいで彼女に心配をかけてしまったようだ。
そんなことを考えながら、縞稀はゆっくりと瞼を持ち上げた。
「気付いたの、縞稀?」
ぼんやりとした視界の中で、彼女の輪郭が徐々に浮かび上がる。
「ここは……」
縞稀は自分の声を確かめるように、小さくつぶやいた。
「よかった……戻ってきたんだね」
由羅乃の安堵した顔を見た瞬間、先ほどまでの悪夢を思い出し、縞稀は自分が無事生還できたことを実感する。
―――ああ、そうか、私は、戻ってきたんだ。
暖かな温もりと人の息づかいが聞こえる。ここは確かに現実の世界だ。たったそれだけのことが、まるで遠い過去の記憶を呼び起こしたかのように懐かしい。
そんな束の間の感情を、縞稀はすぐにかき消した。
次は本当に戻れないかも知れない。それは悲観的な予感ではなく、冷静な状況判断だ。すでにアレは、味覚以外の五感を再現できるほどに、成長していた。
自分に残された時間は、もうあまりないのかも知れない。早く最後の決断をしなくてはいけない。まるで他人事のように、そんなことを考えながら、縞稀はゆっくりと上半身を起こした。
わずかに眩暈に襲われ、地面に手を突く。ここでまた意識を手放すわけにはいかなかった。これ以上、こんな姿をさらして、由羅乃に心配をかけさせたくない。
思い出さなくては。私は今、どこにいて、何をしていたのか……
そのとき不意に、あのときの光景が脳裏をよぎった。
鋭く射抜くような青い瞳―――そうだ、あれは誰だったのだろう? あのとき、あの人影が現れなければ、自分はこうして戻れなかったかも知れない。自分は何か大切なことを忘れていて、それを思い出さなくてはいけない気がした。
「……縞稀?」
その声に顔を上げた瞬間、縞稀は現実に引き戻される。今自分が何を思い出そうとしていたのか、思い出せなくなっていた。
「大丈夫? どこか痛むの?」
由羅乃の心配そうな顔がそこにあった。ひどく真剣な眼差しでこちらを注視している。
「ごめん、何でもない……もう大丈夫だから」
無理に笑みを浮かべて答えたものの、由羅乃の顔から不安の色が消えないことに気付く。明らかにいつもと様子が違う。縞稀は嫌な予感に襲われた。
由羅乃を見ると、無言のまま視線を落とし、それからゆっくりとその視線を別の方向へと移した。その視線の先に、縞稀は今まさに自分が直面している状況を認識した。
「何があったのか、説明してもらおうか」
淡々とした口調にわずかに苛立ちを滲ませ、こちらをじっと見下ろす桂陀の視線は、いつも以上に冷ややかだった。
彼の背後には、いつもの取り巻き連中の顔がある。彼らの嘲笑うような口元と、睨みつけるような視線が、今自分が置かれている状況がどれほど険悪なものなのか、あからさまに示していた。
「なぜ黙っている? それとも―――まだ、この状況が理解できないのか?」
その不穏な言葉の問いかけに、縞稀はまさかと息を呑む。いま自分が座り込んでいる場所がどこなのか、それを認識した瞬間、血の気が引く気がした。
そこは見慣れた訓練場の一区画で、周囲にはくっきりと陣の痕跡が残っている。それが何を意味するのかは、今の状況と合わせれば、容易に想像できた。自分はまさに儀式の訓練中に気を失い、そのせいで陣が決壊したのだ。
背後でこれ見よがしと交わされる言葉が、その事実を決定的に裏付ける。
「一人で五芒陣にも匹敵するって聞いたのに―――やっぱり噂なんて当てにならないな」
「そもそも一人で全部できるなら、陣なんか組む必要ないだろ……」
それはおそらく、どんな言い訳も通用しない、致命的なミスだった。今回の闇落ちは、まさに最悪のタイミングで起きてしまったのだ。
縞稀はゆっくりと立ち上がり、こちらを注視している相手に向き直った。
「釈明する気がないのなら……私としても、これ以上、黙認することはできない」
この状況で、釈明する気などなかった。ただ、儀式の最中に意識を失ったという事実に、誰よりも縞稀自身が打ちのめされていた。
相変わらず何も答えようとしない相手に、桂陀は小さく舌打ちする。
「これは部隊長としての判断だ―――縞稀、本日限りでおまえを部隊から除名する」
ざわり彼の背後でどよめきが起こった。誰もあからさまな声は上げなかったが、嘲笑と侮蔑と嫉妬の入り混じった視線を向けている。
除名という言葉に、縞稀は自分でも驚くほど冷静だった。いつかこうなることは分かっていたし、自分でもそれを望んでいた。けれど、このタイミングは最悪だった。
「明日の儀式は……どうするのですか?」
桂陀は眉をひそめた。自分の身を案じるよりも、儀式の心配をする相手を冷ややかに見返した。
「何が言いたい?」
「現状、この部隊に予備人員はありません。今ここで欠員が出れば、六芒陣は組めなくなります。今から至急、要員手配を申請しても、明日までに補充できるとは思えないし、仮にできたとしても、準備も予行練習の時間も確保できません」
縞稀の冷静な指摘に苛立ちを覚えつつも、桂陀は無表情まま答えた。
「それはおまえが気にすることではない。おまえがいなくとも、儀式は執り行える」
そう言って、背を向ける相手に縞稀は声を強めた。
「今から陣形を変更するつもりですか?」
「だとしたら何だ? おまえには関係ないと言っただろう」
「失敗する可能性は最小限に抑えるべきです」
ざわりと、闇が蠢く音が聞こえたような気がした。
自分の言葉が、彼の中の闇を刺激していることは重々承知していた。それでも、儀式を失敗させるわけにはいかなかった。
「この際だから、はっきり言っておいてやろう。私はおまえがいない方が、失敗する可能性は減ると思っている」
その言葉に、背後の取り巻き連中からも賛同の声が上がる。彼らはこの状況を胸のすく思いで眺め、嘲笑と侮蔑の視線を向けていた。
闇のざわめきが大きく共鳴し始めている。個々の中に潜んでいた闇が、はけ口を得たかのように、一斉に溢れ出てきたようだ。
(いけない……こんな状態で儀式に臨んでは、よくない結果になる)
けれど今の自分が何を言ったところで、事態は悪化するだけだろう。ここは無理を押してでも儀式に出させてもらうか、でなければ儀式そのものを延期しなければ危険だ。
縞稀が口を開こうと顔をあげた、そのときだった。すぐ横で凛とした声が上がった。
「お待ちください、桂陀様!」
周囲の視線が、一斉に声の主へと集まる。桂陀はわずかに目を細めて相手を見た。
「私の判断に異議があると?」
「はい。彼女の除隊を取り消してください」
その場にいた誰もが、その言葉に驚き息をのんだ。部隊長である桂陀に対して、命令しているも同然だった。もしその相手が由羅乃でなければ、彼は絶対に許さなかっただろう。
「いかなる理由があって、取り消せと言うか」
「逆です、なぜ除隊する必要があるのですか」
「私がそう判断したからだ―――言ったはずだ、これ以上黙認できないと」
最後の言葉を強調して、桂陀は繰り返した。由羅乃はその言葉の意味を探るように、しばらく相手の顔を凝視する。
「これ以上黙認できないとは……いったい何を黙認できないと?」
一歩も引かない由羅乃の態度に、桂陀は静かな怒りを滲ませた。
「それを私に言わせるのか……それとも、私が気付かないとでも思ったか。私はこれまで何人もの闇落ちを見送ってきた。だからこそ、その兆候がある人間は分かるのだ」
ざわりと空気が揺れて、周囲に緊張が走る。
闇落ち―――それは闇祓いにとって、最も忌避すべきことだった。もし仲間うちに闇落ちが現れれば、その周囲の者たちも影響を受けかねないため、その兆候が疑われた者は即座に隔離されなければならない。
「桂陀様は、縞稀が闇落ちしかけていると……そう疑っているのですか」
無言の返しが、その問いを肯定していた。
「ここで説明する気はない。異議があるなら、審議の場でするがいい」
背を向けて歩き出そうとする桂陀を、引き止めるように由羅乃は声を強めた。
「審議の場で、困るのはあなたの方ですよ、桂陀様」
振り返った桂陀の、鋭い視線にひるむことなく、彼女は続けた。
「今回の陣の決壊は、陣のバランスが偏って、縞稀に負荷が集中したことが原因です。負荷が一人に集中することは、六芒陣では通常あり得ません。意図的に仕向けない限り、それも陣を組む複数の闇除けが同時に仕向けない限り、です」
その言葉に、桂陀の表情が険しくなる。
「負荷が集中? まさか―――」
闇惹きを担う桂陀は、陣の中央に立つため、周囲を囲む闇除けの動きは見えにくい。だからこそ、彼女の指摘が間違っていると確信をもって否定できなかった。
桂陀は背後に控える取り巻きたちへ視線を移した。彼らの中にわずかに動揺の色が浮かんでいることに気付くと、無言のまま拳を握り、そのまま由羅乃へと向き直る。
「確たる根拠もなく、邪推するのはやめたまえ。巫女様の血縁者であろうと、不用意に仲間を疑うような発言は許さない」
先ほどまでの、威圧的な態度は消えていたが、彼の言葉に動揺はなかった。
「陣を組むには、仲間との信頼関係が不可欠だ。誰か一人でも欠ければ、全員の命が危険にさらされる」
桂陀はゆっくりと視線を縞稀へと向ける。
「仲間に信頼されない者と陣を組むことはできない」
その言葉に、それまで黙っていた他の隊員たちが、一斉に口を開いた。
「そうだ、いつ意識を手放すか分からない相手を、信頼なんかできない」
「これが訓練でなければ、全員死んでいたかも知れないんだぞ」
そうだ、そうだと、いくつもの声が上がる。由羅乃は唇を噛みしめ、反撃の言葉を発しようとしたが、桂陀が手を挙げてそれを制した。
「由羅乃、私は君の実力は評価している―――だが、君が彼女を擁護するたびに、周囲に無用な軋轢を生むことを理解したまえ」
「擁護ではありません。あなたは縞稀のことを何も知らない」
何も知らない―――その言葉に、桂陀が鋭く反応する。
「それは、どうだろう……君は先ほど、負荷が集中していたと言ったが、彼女はそれについて一言も弁明をしていない。私は最初に、何があったのかと聞いたはずだ。にも関わらず、それに対して一切の説明もない。これは今回に限ったことではないはずだ」
由羅乃は一瞬、言葉を失って相手を見つめ返した。
「仲間を信頼しようとしない相手に、私は命をあずける気にはならない」
「違います、先に仕掛けてきたのは―――」
「由羅乃!」
咄嗟に叫んだのは、縞稀自身だった。
由羅乃はびくりと体を震わせて、縞稀を振り返った。
「彼の言うことは正しい。もし儀式の最中に意識を失えば、それは全員の命を危険にさらすことになる」
そう断定する縞稀の顔を、由羅乃は驚いたように見つめた。
その視線を無言のまま受け止めて、縞稀は覚悟を決めたように桂陀へと向き直った。
「申し訳ありません、桂陀様」
縞稀はゆっくりと頭を下げた。
「除名の件、承知しました……短い間でしたが、お世話になりました」
桂陀はしばらく相手を見下ろしていたが、縞稀がそれ以上何も言わないことを見て取ると、無言のまま背を向けた。そのまま、明日の儀式の件を長老たちに報告してくると言い置いて、彼は立ち去って行った。
その場に取り残された部員たちも、一人二人とその場を立ち去っていく。
「今回の件、除名だけでは済まないと思え」
「それなりの処分があって当然だろう」
去り際にそう吐き捨てる声が聞こえたが、縞稀は静かに聞き流した。彼らの排他的な感情には慣れている。今更、どんな感情も湧いてこない。
ただ、少しだけ、後悔のような感情が縞稀の胸に残った。
†
「こんなの……おかしいよ」
周囲に誰もいなくなると、由羅乃が小さくつぶやくのが聞こえた。彼女がこの状況に納得していないのは明らかだった。
「悪いのはあっちなのに、こっちの言い分は無視して、いきなり除名なんて」
「私は別に気にしてないよ。もとはといえば、訓練中に倒れた私が悪いんだから」
「なんで? 縞稀は悪くない!」
先ほどまで、あの桂陀と対等にやりあっていた相手とは思えないほど、子供っぽく感情を表に出す由羅乃を見つめながら、縞稀は小さく苦笑した。
「どうして除名された私より、由羅乃の方が怒ってるの」
「縞稀の方こそ、どうして腹が立たないの! 今回だけじゃない、あの人たち、わざと縞稀のところに負荷を集中させてたんだよ。あんな子供じみた嫌がらせをするなんて」
そうやって、自分の代わりに怒ってくれるから、自分は怒りという感情を抱かなくてすむのかも知れないと、縞稀は思った。
「そうだよ、子供じみた嫌がらせだよ。だからその程度で意識を失ったのは、完全に私のミスだ」
肩をすくめてそう答えると、由羅乃は少し真面目な顔になってこちらを向いた。
「縞稀はいつも平然とそう言うけれど、今回のは明らかにやり過ぎだよ。相手が縞稀でなければ、つぶれてしまうほどの負荷だった。あの人たちは、そんなことも分からずにやっているんだ」
そう言って、悔しそうに視線を落とす由羅乃を、縞稀は無言のまま見つめた。
いつだって、由羅乃は無条件で自分の味方をしてくれる。でもそれが、時に周囲を見えにくくしていることも確かだ。
由羅乃は悪くないと言ってくれたが、おそらく桂陀の言ったことも正しい。自分はこれまで何も伝えようとしてこなかった。それが誠実ではないと言った桂陀の言葉は、誰よりも自分がよく分かっている。
けれど何を伝えれば良かったというのだろう。何を言ったところで、私の言葉は無視されるか、彼らの怒りを買うことになる。それでも伝えるべきだったのだろうか。由羅乃のように、恐れずに異議を申し立てるべきだったのだろうか。
いや無理だろう。自分にはそんなことはできない。自分は彼女とは違うのだ。ただそこにいるというだけで忌み嫌われる存在だ。玄武の血を引かない者が、その能力を持つというだけで、異物と見なされ、排除される。ここはそういう世界だ。
「心配してくれてありがとう。でも私は大丈夫だから」
「縞稀の大丈夫は当てにならないよ」
「ひどいな、でも本当に大丈夫なんだ。むしろ一人の方が気が楽だしね」
そういうと、由羅乃が心配そうにこちらを見るので、縞稀は仕方なく付け加えた。
「わざわざ陣を組まなくても、闇を祓うことは可能だし、単独で行動する闇祓いも結構いるって、梓些様も言っていたでしょう?」
「縞稀、本気で言ってるの」
「本気も何も……私は最初からそのつもりだったよ。私はもうどこの部隊にも所属しない」
この部隊に配属されたのも、由羅乃が望んだからだ。おそらく梓些が裏で手を回したのだろう。普通に考えれは、自分のような人間が、こんな純血ぞろいの部隊に配属されるはずがない。
「単独の闇祓いは危険すぎるよ。縞稀は確かに強いけど、あえて危険な道を選ぶ必要はないでしょう? 縞稀はずっと、私と一緒にいればいいんだよ」
一瞬、縞稀は言葉を失い、そして視線を落とした。
ずっと一緒に……幾度となく彼女の口から出るその言葉は、まるで自分にそれを確かめているかのように聞こえる。
巫女を血を引く者は特別な存在であり、彼女と一緒にいたいと思う人間は数多くいるはずなのに、由羅乃はいつも自分と一緒にいることを選んだ。
でもそれがいつまでも続くと思っているのだとしたら、伝えなくてはいけない。いつか必ず、一緒に居られなくなる日が来ることを。由羅乃は巫女としての道を、自分はおそらく今とは全く別の道を、それぞれ歩んでいかなくてはならないのだから。
今回の除隊は、まさにその機会なのかも知れない。
「ずっと一緒には居られないよ」
「どうして?」
「どうしてって……」
無邪気にそう聞かれると何と答えてよいか分からず、言葉を詰まらせていると、由羅乃が腕を組んできた。
「私はずっと一緒に居たいと思ってる。それだけじゃ駄目なの?」
横を向くと、予想外に真剣な顔がそこにあった。その強い眼差しに、縞稀はそれ以上言葉を続けることができなくなる。
「一緒には居られない理由は……私が巫女の血を引くから?」
それもある。けれどそれ以上に、決定的な理由があることを、彼女は知らない。
「それとも……縞稀の意識が飛ぶことと関係があるの?」
縞稀は一瞬、心臓がどくんと脈打った気がした。
驚いて相手を見返すと、じっとこちらの様子を伺っている顔があった。
「意識が飛ぶのは昔から時々あったし、いつもすぐ元に戻っていたから大丈夫だと思ってた。でも最近は、少し変だなって。飛ぶ頻度が増えてるし、突然すぎるし、ひどく苦しそうに見える」
自分でも気付いていた異変に、彼女が気付かないわけがなかったのだ。
「もし何かあったのなら……言ってほしいの」
何もないよ、そう答えようとして、縞稀はその言葉を呑み込んだ。
「私じゃ縞稀の役に立てないかも知れないけど……ずっと側にいるのに、何も教えてもらえないのは、つらすぎるよ」
白い頬をこぼれ落ちる涙を見つめながら、縞稀は自分の乾いた心を呪った。
「ごめんなさい、困らせるつもりはなかったの……気にしないで」
そう言って、由羅乃は小さく苦笑しながら、赤く腫らした顔を背けた。
もう終わりにしなければいけない。これ以上、彼女を苦しめ続けるのは終わりにしなければ―――たとえそれが、今は傷つけることになるとしても。
「ごめん……今まで黙っていたことは謝る。でもそこまで分かっているのなら……言わなくても分かるよね?」
小さく息を吸い込んで、一気に吐き出す。
「私もうすぐ闇落ちするんだよ」
その言葉が、彼女の耳に届いたことは間違いなかった。聞き間違いも、誤解もあり得ないくらいの、断定だったはずだ。
それなのに、由羅乃はただ静かに、いつも通りの声で答えた。
「そんなこと、あり得ないよ」
何の疑いもなくそう言い切る相手を、縞稀はまじまじと見つめた。
「あり得ないって、どういう……」
「縞稀が闇落ちすることは、あり得ないってことだよ」
「どうして……そんなことが分かるの」
「分かるよ、だって縞稀は強いもの。私が知っている闇祓いの中で、誰よりも強い」
どうして彼女がそこまで言い切れるのか、縞稀には分からなかった。
「私は強くなんかないよ。由羅乃が思ってるような人間じゃない」
「縞稀は自分で思ってるよりも、ずっと強いよ」
戸惑いは自嘲に変わり、口元から歪んだ笑みが漏れる。これまで自分が演じてきた縞稀という人間は、自分が思う以上に完璧だったらしい。
「由羅乃は……私が不安にならないとでも思っているの? 私だって……本当は怖いんだよ。次に意識が飛んだらもう戻れないかも知れない、意識が戻るたびにこれが最後かも知れない、夜眠るたびにもう目覚めないかも知れない……いつもそう思って目を閉じるんだ」
「大丈夫だよ、縞稀は絶対に闇落ちしない」
「絶対なんて軽々しく言わないで! 梓些様も言っていたでしょう? 闇は少しづつ心に巣食うものだって」
「それでも、縞稀は絶対に闇に落ちたりしない」
由羅乃の強い口調に、縞稀は一瞬怯んだ。
「だから、どうして……」
「私が絶対に、そんなことさせないから」
その強い眼差しに、縞稀は自分の判断が間違っていたのだと思い知った。自分が闇落ちする可能性があると聞いて、由羅乃が大人しく引き下がるはずがなかったのだ。
突然、駆け出そうとする由羅乃を、縞稀は慌てて引き留めた。
「どこへ行くの?」
「もし縞稀を除隊させるって言うなら、私も除隊させてもらう」
「何を馬鹿なことを」
「馬鹿でいいよ、私は縞稀とずっと一緒にいると決めたから」
覚悟を決めたような由羅乃の目を見て、縞稀は表情を厳しくした。
「それは許されないことだよ、由羅乃」
「どうして」
「あなたは自分の立場を分かってない」
由羅乃は大きく目を見開き、それから大きく息を吐きだした。
「私は、縞稀を守りたいんだよ」
「私を守りたいなら、玄武の血を守るべきだよ。それができるのは、由羅乃しかいない」
ここで血の話を持ち出すのは卑怯だと分かっていた。けれど由羅乃を引き止めるためなら、どんな手段でも構わない。
「玄武の血を守るためなら、何を犠牲にしてもいいって言うの」
「それよりも大切なことがあると言っている」
「どうして……縞稀までそんなこと言うの? 私は……縞稀を守りたいんだよ」
絞り出すような声が、震える肩ごしに聞こえた。
巫女の血縁者という立場がどれほどの重圧なのか、縞稀には分からない。でも由羅乃がずっと一人で苦しんでいることは知っていた。周囲から向けられる容赦ない期待に答えようとして、いつも人一倍頑張っている由羅乃を、ずっと側で見ていたのだから。
「うん、分かってる」
そうつぶやきながら、本当は自分だって由羅乃の気持ちは分からないのだと、縞稀は思った。由羅乃が自分を理解できないように、自分もまた由羅乃の気持ちを理解することはできない。
でも守りたいと言ってくれた、こんな自分を守りたいと言ってくれた、由羅乃の気持ちに嘘はないことだけは分かる。
だから、ごめん―――その気持ちさえも、自分は裏切らなきゃいけない。
「由羅乃……お願いだから、よく聞いて。私は違うの、私は守られるべき存在じゃない。むしろその逆、私は……排除されるべき存在なんだよ」
由羅乃は顔を上げて、怪訝そうにこちらを見つめた。
「……どういう意味?」
その視線を受け止めたまま、縞稀はゆっくりと由羅乃から離れるように後ずさる。
由羅乃はわずかに戸惑った様子で、その場に立ち尽くしていた。
「見せてあげる、私の中にあるものを」
片手を差し出すと、その手の上に徐々に瘴気が集まり始める。周囲に漂うかすかな闇を惹くことで、それは薄黒い瘴気となって実体化してゆく。
「縞稀、何をする気なの……」
驚愕の表情でこちらを凝視する相手に、縞稀は静かに答えた。
「言ったでしょう、私は守られる存在じゃないって。これが、その答えだよ」
手の上の瘴気の中から、どす黒いモノが現れ、それは瞬く間に縞稀の全身に絡みつく。
やがて全身がすべて覆われると、それは人の形をした化け物のようなモノになり、周囲の地面や木々を呑みこみ始めた。
由羅乃は微動だにできずに、その場に立ち尽くしていた。
今自分の目の前で起きていることが理解できず、自分の身に襲い掛かる危険さえも認識できない。
突然世界が一変してしまったかのように、それはひどい眩暈となって由羅乃を襲う。
巨大な闇の渦が世界を呑みこんでいく。もはやそれは、現実なのか悪夢なのか、それさえも分からなくなって、由羅乃は意識を手放した。
†
見上げると、夜空に満天の星が広がっていた。
冷たい空気が肺の中に流れ込み、手足の感覚を麻痺させていく。
なんて綺麗なんだろう……あんなにたくさんの星が煌いてる。手を伸ばせば届きそうな気さえする。
『あの星の一つ一つが、誰かの大切な記憶なんだよ』
不意に誰かの声が脳裏に響いた。それは、意識に直接話しかけるような、心地よい感覚だった。
『あの小さな煌きすべてが、誰かの大切な命なんだ』
そう言って、その声は楽しそうに笑った。
『ねえ、考えたことはない? もし、あの星をすべてこの手で掴めるのなら』
伸ばした手の先で、煌く星々がまるで歌っているようだった。
「―――この手で全部、壊してやりたいって」
不意に現実の声が耳元で響き、全身が逆立つ。
振り返ると、すぐ横に誰かの悲しそうな顔があった。すぐに見覚えのある顔だと思った。けれど見慣れない顔だ……ああ、そうか。これは、自分自身の顔だ。
その瞬間、今自分自身が抱いた恐ろしい感情を思い出し、由羅乃は思わず両手で頭を押さえ込んだ。
(あ、あああああっ……)
体の力が抜け、勢いよく膝が地面に当たる。けれど痛みは感じない。遠くで自分の名を呼ぶ声が聞こえる。何度も何度も繰り返し呼んでいる。答えなければと思ったが、声は出なかった。
闇は少しづつ心に巣食うもの―――そう言ったのは誰だったか。
けれどこれは、そんな生易しいものじゃない。自分の中に巣食う醜い感情が、もはや手に負えないくらいに、大きく膨らんでいく。少しでも気を許せば、閉じ込めた殻を喰い破り、荒れ狂う感情を心の外へ吐き出そうとする。
いつか自分の意識もソレに呑み込まれ、区別がつかなくなるだろう。そうなったら、もう自分は人ではなくなるのだ。
そうだ、誰にも分からない、おまえの苦しみなど、分かるはずもない。他人と関わるくらいなら、一人でいることを望んだのはおまえ自身だ。己で選んだ道だ。未来永劫、一人で苦しみ続けるがいい。
(これは……誰の声? これは、誰の……?)
そのとき、水面に落ちる水滴のように、澄んだ声が聞こえた。
―――カエリタイ
すべての思考が停止し、静寂の中に突き落とされる。
(帰りたい……?)
思考が混乱する。自分の声なのか、誰の声なのか、分からなくなる。
(帰りたいって、何処へ……?)
そもそも自分は誰だ? これは誰の意識だ? この感情は、誰のものだ……?
(私はいったい―――誰?)
†
「由羅乃!」
気付くと、縞稀の心配そうな顔がそこにあった。
「由羅乃……大丈夫? ごめん、少し深く潜りすぎてしまったね」
それは一瞬であり、ひどく長い時間にも思えた。ただ目の前の縞稀の顔が、ここが現実なのだということを認識させてくれる。
「縞稀……私、いま……」
あの場所が現実とは思えない。けれどただの夢でもない。あの場所で聞いた声も、荒れ狂うような感情も、確かに現実のものだった。
「少しだけ……私の中に棲む闇を見せたんだよ。由羅乃に知ってほしかったから。私がどういう存在か」
目の前にいるのは確かに縞稀なのに、その声も顔も話し方も全部知っている相手なのに、その口から出る言葉は、どこか他人事のような気がした。
「私が守られるべき存在ではないことが、分かったでしょう?」
悲しそうにそう告げる相手に、由羅乃は何と答えてよいか分からなかった。
心だけが騒ぎ続けている。思考は混乱したままなのに、ただ心だけが何かを叫んでいるようだった。
「由羅乃が気に病む必要はない。あの場所で見たモノも感じたモノも、すべて私の心の闇だから」
呆然としたままの自分を気遣うように、そう言って、縞稀は立ち上がった。片手をあげて、誰かを呼んでいる。
そのときになって、ようやく周囲の様子に気づいた。先ほど呼び寄せた闇のせいで、異変を検知した教員たちが訓練場へ集まってきていたのだ。
何事かと問いただす周囲の声に、縞稀が冷静に答えている。自分を医務室へ連れて行ってほしいと伝えている。
促されるまま歩き出そうとすると、背後で縞稀の声がした。
「今まで話せなくてごめん……私のことは、気にしなくて大丈夫だから」
振り返ったとき、もうそこには縞稀の姿はなかった。人混みに紛れて、彼女の背中が遠のいていくのが見えた。
相手の名を呼ぼうとしたが、声は出なかった。
†
心が乾いていると感じたのは、いつの頃からだろう。
感情をぶつけることが怖いと感じたのは、いつの頃からだろう。
心は確かに泣いているのに、叫んでいるのに、それを隠し続けて、胸の奥で殺し続けて、いつの間にか、何も感じないつもりになっていた。でもそうじゃない、心は確かにここに存在していて、ずっと叫んでいた。
己で選択した道だ。未来永劫、一人で苦しみ続けるがいい。
あれは自分自身の声、自分の心に巣食う闇そのもの。皮肉にも、その闇に落ちそうになった自分を止めたのが、あの声だとは。
闇飼い―――自身の心に闇を寄生させる人間をそう呼ぶ。
その言葉を知ったのは、この屋敷に連れてこられ、物心ついた頃だった。寄生した闇は宿主の中で成長し、やがて宿主を呑み込み、大量の闇を引き寄せる穢れになると言われている。ゆえに闇飼いは昔から禁忌とされ、宿主である人間は見つかり次第、寄生した闇と共に排除される。
いつか自分が排除される日がくると知ったとき、恐怖と絶望で打ちひしがれた日々があったことを思い出す。でも今は何も感じない。ただ乾いた心だけが、遠くから自分を嘲笑っているだけだ。
未来永劫苦しむなんてあり得ない。なぜなら自分が選択する道に、未来はないのだから。
縞稀は自分自身の心の声に、そう答えた。
思い出せ―――この世界に、おまえの居場所なんてないことを。