序
真っ暗な闇が怖いと感じたのは、いつの頃だろう。
孤独が怖いと感じたのは、いつの頃だろう。
人は生まれるとき、真っ暗な闇の中で、一人ぼっちだった。そして死ぬときもまた、同じ場所に戻るだけなのに。
それでも人は、闇を怖れ、孤独を怖れ、そして死を怖れる。
だとしたら、深い闇の中で、果てしない孤独の中で、ただ意味もなく生きることは、どれほどの恐怖だろう?
そこには、光もなく、希望もなく、生きている意味さえ分からない。
一切の感情が失われて、自我さえ認識されない。生と死の境界が曖昧な世界。
それは、なんて―――
『なんて、甘美なんだろう……』
そんなことを考えて、ふと我に返る。
いま自分の中から湧き上がった、背徳的な感情にわずかに驚きつつ、自嘲的な笑みが口元に浮かぶ。
いつの間にか、闇のざわめきが、どこか遠くで響いている。
深い闇と、その奥底に横たわる孤独。
『それでも』
口を突いて出る言葉は、もはや自分のものかすら分からない。
『それでも、おまえは―――』
目からこぼれ落ちる雫が、乾いた心をそっと撫でる。
涙と共にこぼれ落ちた言葉は、静かに深い闇の中へと消えていった。
†
立ち止まって見上げると、星が綺麗な空だった。
冷たく張り詰めた空気が、優しく頬に触れる。吐き出した白い息が、甘美なきらめきを秘めて流れていく。
縞稀は頭上で瞬く星を見つめ、決して届かぬ光を求めて手を伸ばした。
果てのない空、底なしの深淵。その圧倒的な存在に、足元がくらりと揺らぐ。
冷え切った指先に、そっと息を吐きかけると、わずかな温もりが伝わる。悴んだ手をそっと上着の中に滑り込ませると、縞稀は再び歩き出した。
―――カエリタイ
あの声が遠くで響いていた。
つぶやくように、ささやくように、幾度となく繰り返されるその声を、縞稀はずっと前から知っている。
―――カエリタイ、……ドコカ、……トオクヘ
近づいては遠のき、遠のいては近づき、決して逃れることはできない、呪いの声。
その声に、いつしか親しみを感じている自分がいることも知っている。
「早く、戻らないと」
顔を上げると、冷たい風が容赦なく顔面をすり抜ける。白い息が流れるように視界の外へ消えていくのを見つめながら、縞稀はふと自問する。
(でも、戻るって……いったい何処へ?)
無意味な疑問を投げかけながら、縞稀は嫌な胸騒ぎを覚えた。
この感覚はよく知っている。これまでに幾度となく経験しているものだ。早くこの場所から抜け出さなくてはいけない。それだけが強い警鐘となって、縞稀の脳裏に鳴り響く。
―――カエリタイ
本能的にその場から駆け出した。目的地などない。ただその声から逃れるように、走り続ける。冷たい空気が肺を駆け巡り、息苦しさと、胸の奥が凍り付くような痛みを覚えた。
―――カエリタイ、何処カ、遠クヘ
はっきりと聞き取れるほどに、その声はすぐ近くまで来ていた。
(いけない、戻れなくなる)
縞稀はいつの間にか唇を噛み締めていた。唇に食い込んだ歯を弛めると、小さく裂けるような痛みが走り、思わず唇を舐める。
その瞬間、ある異変に気付いて、立ち止まる。
あるはずの何かが、欠けている。何かを伝えようとして、全身の意識がそれに集中する。
視覚、聴覚、痛覚―――それらは確かにあるのに、足りないものがある。それが味覚だと気付くのに、それほど時間はかからなかった。
ここが現実ではないのだと、彼女は瞬時に理解した。
「孤高の、闇……」
そんな言葉がぽつりと漏れた。
なぜ?とわずかに自問するが、すぐに目前の危機に意識を奪われる。
見上げると、前方に広がる夜の空は、漆黒の闇となってすべてをのみ込んでいた。先ほどまでそこにあったはずの星は、わずかな瞬きも見当たらない。
縞稀は再び全力で駆け出した。どこへ向かっているのかも分からない。ただ、頭の中で鳴り響くこの声から逃げなければいけない。それだけは疑いようもない事実だと知っていた。
息苦しさで立ち止まり、肩越しに後ろを振り返ると、まるで荒れ狂った大蛇のような漆黒のうねりが、すぐそこまで迫っていた。
(逃げ切れない―――)
瞬時にそう判断すると、縞稀は両足で地面を強く押し返し、その場に踏み止まる姿勢をとった。
次の瞬間、大地に響く轟音が視界をかき消し、瘴気の渦が全身を襲う。凍て付くような痛みも、焼け付くような息苦しさも、すべて幻覚なのだと、すでに理解していた。
そして何より、ここで恐怖心に呑まれたら、戻れなくなることも。
―――カエリタイ
どくんと、闇が嘲笑う声が響く。縞稀は思わず両手で耳を塞いだ。
それが無意味な行為だということは、嫌というほど分かっている。それでも、無意識に両腕が頭を締めつける。
―――カエリタイ、カエリタイ、カエリタイ、カエリタイ……
容赦なく意識の中へと押し寄せてくる声に、全身が拒絶反応を示して悲鳴を上げ始めた。
幻覚であっても、それが直接五感に作用する以上、それは本物の痛みだ。
このままだと引きづり込まれると、そう直感した。
―――カエリタイ、此処デハナイ、何所カ、遠クヘ
耳を貸してはいけない、言葉を認識したら、取り込まれてしまう。そう分かっていても、苦痛が理性を凌駕してしまう。
息を吸い込むたびに、どす黒い瘴気が肺の中に流れ込んでくる。
その場に崩れ落ち、すべてを放棄してしまいたくなる衝動に駆られる。この苦しみから解放されるのなら、このまま闇に落ちてしまえばいいのだと、声がささやく。
そうだ、その選択肢はいつだってあるのだ。それなのに、何度も踏み止まったのは、何のためだ? 思い出せ、自分は何か大切なことを忘れている。
そのとき、何かが脳裏をよぎった。
それは人影だった。見知らぬ容姿、見知らぬ顔、けれどその瞳が―――透き通るようなその青い瞳が、悲しげにこちらを見つめている。
『それでも』
静かな声だった。けれどはっきりと脳裏に響く。
『それでも、おまえは―――』
その刹那、新鮮な空気が肺に流れ込むのを感じた。そのわずかな一瞬を、縞稀は逃さなかった。
ありったけの力を振り絞って、言葉を吐き出す。
「―――消えろ!」
それは力強く、明確な意思を表す言葉として、周囲の闇をまたたく間に制圧する。この世界を作り出した意志そのものが、その言葉に従うことを承諾したかのように。
やがて視界は白く染まり、光の中にすべてがかき消された。