此処にいるよ
むせ返るような花の香り。
いや、それに混じるスパイシーで野性的なこの香りはなんだろう。
目を覚ましたアローナは眠っている自分の側に横たわり、頬杖をついてこちらを見ている黒髪の美しい男に気がついた。
長い黒髪をひとつにまとめたその男は、その髪と同じ色の鋭い瞳をしていた。
ひーっ、と悲鳴を上げたつもりだったが、声が出ない。
そんなアローナを見て男は呆れたように言う。
「お前がアハトが連れてきた娼館の女か。
王の褥で爆睡しとはたいしたものだな」
アローナは慌てて、若き王から遠ざかる。
その恥じらうような仕草を見て、男は、ほう、と驚いたように言った。
「アハトがどうやら生娘のようだと言っていたが、本当なのか。
まあ、娼館にいたのだろうから、男を騙し、その気にさせる手練手管を仕込まれてはいるのだろうが」
……ご期待に添えなくてあれなんですけど。
私、娼館にいたのは、本当にわずかな時間だったんで、なにも仕込まれてないんですけど。
盗賊たちに娼館に連れてこられて。
金の受け渡しをするのをぼうっと見てて。
奥へ呼ばれて、粥をご馳走になり。
とりあえず、上の階へ行けと言われて行ったら、すぐにアハト様が現れて、買われて。
それで、今、此処にいるわけですから。
なにも仕込まれる暇なかったですよね~、と思ったとき、男は自己紹介をはじめた。
「私の名はジンだ。
見たところ、異国の女のようだから、この国の事情はよく知らないかもしれないが。
国民が父王の悪政に耐えかねていたので、先日、私が父を追い落とし、王となったのだ。
父には王宮から離れた場所で隠居してもらっている」
そ、そうだったのですか……。
「娘よ。
名はなんという。
ああ、しゃべれぬのだったな」
アローナです。
ア・ロー・ナ、と口を大きく開けて教えようとするが、じっと見ていたジンは、
「わからぬ」
と言う。
いやいや、わかってください。
アローナはジンが注目してくれるように、おのれの唇を指差し、ア・ロー・ナと言おうとした。
だが、いきなりその唇を塞がれる。
そのまま寝台に押し倒された。
ひーっ。
ジンはその美しい黒い瞳で間近にアローナを見つめて言ってくる。
「娼婦の相手などしたことはないが。
お前はなんだか可愛らしいな。
なにもしないのもお前とアハトに悪いだろう」
いやいや。
なにもしてくださらなくて、結構なんですけどっ、とアローナはジンの額に手をやり、押し返そうとした。
ほう、とジンは感心したように頷く。
「そうして一度、抵抗して見せるのも娼館仕込みが。
……なるほど、燃えるな」
燃えないでくださいっ。
鎮火してっ。
「おとなしくしろ。
抵抗するな」
とジンに両の手首を押さえ込まれる。
「そういう男を誘うような素振りはもうよい。
今、王位を継いだばかりで、朝も昼も夜も忙しいのだ。
娼婦の駆け引きに付き合っている時間はない」
駆け引きじゃなくて、本気ですっ、とアローナが上に乗ってくるジンを押し返そうとしたとき、
「王っ! ジン様っ」
と扉の外から声がした。
あの騎士のもののようだった。
「大変ですっ。
アッサンドラ国から前王の許にお輿入れされる予定だったアローナ姫が突如、行方不明に!」
ジンが起き、扉を開ける。
騎士は衣の乱れたアローナをチラと見たが、すぐに視線をそらし、ジンに報告した。
「まだ姫に付き添っていた一団が到着していないので、詳しいことはわからぬのですが。
どうもアローナ姫は旅の途中、忽然と姿を消してしまわれたようで――」
「神隠しか……?」
とジンが訝しげに呟く。
いや……、
神隠されてません。
此処にいますよ、
とアローナは思っていた。
嫁ぐ相手の息子に襲われかけた寝台の上で。