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ハッシュトブレイク  作者: 齋藤月子
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パラジオ

 三人はクリーム色の石橋に立っていた。幅は三メートルほどあり、手すりがない。一歩踏み出せば真っ逆さまである。はるか下には、白い雲がゆっくりと途切れることなく流れていた。

 吸い込まれそうな恐怖を感じた葉月はユレグの腕を掴んだ。

「なにここ」

「パラジオ。やっぱりちょっとずれたわね」ユレグは遠くを見るように手をかざした。

「私だったらもっと遠かったよ」ラタンが言って、二人は歩き始めた。

 石橋の先には、地上からすくい取って空に放り投げたような小さな島があった。周りには似たような島がいくつか浮いていて、同じように石橋が渡してある。

「どうして、これ浮いてるの?」

「どうしてって言われても。地球がどうして宇宙に浮いてるのかって聞かれて説明できる?」ユレグに言われて葉月は少し考える。わからない。わからないことだらけで、自分が何を聞きたいのかもわからない。

「急に落ちたりしないよね?」

「しないしない」

「もしかして……天国なの?」

「パラジオだっつってんでしょ」ユレグが面倒そうに言って、ラタンが笑った。

「地球とは別の場所なんだよ。私たちはパラジオって呼んでる。人間じゃなくて、オトナリの世界」

「なんなのオトナリって。宇宙人?」

「それが近いのかなぁ、どうだろう」とラタンは首をかしげた。

「他人行儀じゃない? 私たちは人間から生まれて、食べさせてもらってるのに」ユレグが言った。

「んー、確かに」

「どういうこと?」

「四十年前」とユレグが語り始めた。

「静岡県の海辺の町に生まれた女の子がいたの。バイオリンに憧れてていつかやりたいと思ってた。そのチャンスは高校で巡ってきた。管弦楽部があって、初心者でも入れたの。ただ残念なことに、ビオラが足りないからってそっちに回された。形はそっくりだけど、音域が違うから雰囲気も全然違う。やっぱりバイオリンの方が華やかでいいなーとか最初は思ってたんだけど、練習してる内に楽しくなってきてね。バイオリンとは違った渋さが素敵と思うようになったの。三年生になって、学校の記念式典で演奏してるとき、彼女の背中から金色にきらめく白いもやが立ち上った。誰も気付かなかった。彼女自身でさえね。それが私だったというわけ」

「は?」葉月は言った。「彼女、がユレグだったの?」

「違う違う。もやの方」

「え」

「楽器を弾いてる人間の背骨から生まれるんだって。割と上の方」ユレグは自分で首の後ろをとんとんと叩いて見せた。

「私たちは食物を食べない。食べるのは、楽器の音。食べさせてもらってるってのは、そういうこと」

 どういうことか聞く前に島に着いた。森に囲まれた広場があり、小舟のような乗り物が並んでいる。その奥に、黄色い壁に三角屋根の建物があった。

「ここにいるのは擦弦研究員のキワメという極めて変態な変人だから気をつけてね」ユレグが言って、大きな玄関扉を押し開けた。薄暗い廊下を迷わず進んでいく。足元には作りかけの楽器のようなものがいくつも転がっていた。

 一番奥の部屋はドアが開けられていて、入るとすぐに声がした。

「ヒールの音ですぐに君だってわかるよ」

 白衣の男が嬉しそうに言った。茶髪でべっ甲模様の丸眼鏡をかけており、ひょろりと背が高い。

 そこは雑然としたほこりっぽい部屋だった。真ん中にある大きなテーブルは、本の山や実験器具らしき物、羽ペン、散らばったメモなどで埋め尽くされている。

「あっそ」と言ってユレグはテーブルの本を押しやった。押しやった向こうでパリンと音がしてキワメが叫ぶ。そんなことは少しも気にせず「さ、ケースを開けて見せて」と言った。

「何をするの?」

「弦の張り替えよ。パラジオの部品を使ったらいいかもしれないってそいつが言うから」とユレグはバイオリンのボディを指でなぞりながらキワメの方に顎をしゃくった。彼はブツブツいいながら何かの破片を片付けている。

「破理の楽器を見せるって約束しちゃったし。で、用意はできてるんでしょうね」

「もちろんだよ。でもその前に、本当に破理の楽器なんだろうね。ちょっと探知器鳴らしてみてくれない」

 キワメは大きな籠を持ってきて床に置いた。糸状の物がたくさん入っている。ラタンは「はいよ」とクラベスを鳴らした。その瞬間、四人はそろって顔をしかめた。ひどい耳鳴りがしたからだ。

「何今の」ユレグが言った。

「わからない。でも破理の楽器との共鳴だと思う。なんかぶるっとした気がする」ラタンは異変を探すようにクラベスを見た。

「鳥のさえずりが聞こえるんじゃなかった?」キワメが言った。葉月はうんうんと頷いた。

「地球ではそう聞こえてましたよ。こんなんじゃなくて」

「大きく変わった条件は何か。地球かパラジオかというところか……いや待て君誰。人間じゃん」とキワメは目を丸くした。

「葉月はこの楽器の持ち主なの。そのせいかフェルマーの声も探知器の共鳴も聞こえた上に、静寂の調べの影響も受けなかった」ユレグは説明した。ラタンは「おまけに探知器を拾ってくれたのも葉月だった」と付け加えた。

「素晴らしいね!」キワメは葉月の肩をつかみ、満面の笑みで「あとで是非君のことも調べさせてもらうよ。大丈夫、怖いことは何もないからね」と言った。葉月は背筋に悪寒を感じ、そばのラタンに視線を送ったが苦笑いを返されて絶望した。

 ユレグが変態研究員の足を踏んだ。あの高いピンヒールで。キワメは呻いてうずくまった。

「さっさと弦を用意しなさいよ。これが破理の楽器だってことは間違いないんだから」

「はい。すぐやります」へへへ、嬉しそうにキワメは言って、籠を漁りだした。

「どれがいいかと思って決められなくてさ。まさか破理の楽器に使う日がくるなんて思わないじゃん。笹傘逆毛ささかささかげの触覚とソラミミズ、どっちがいい?」

 どっちもなんだか気持ち悪そうだ。でもバイオリンの弦だってヤギや羊の腸でできたものもある。使ったことはないけど。弦になってしまえば原料なんてよくわからないし、意外と気にならないかもしれない。

「なんでそんな気持ち悪そうなやつばっかなの? もっといいやつあるでしょ、風の金糸とか」ユレグが苛ついたように言った。

「いや折角だから変わったやつを使ってみたいじゃん。こんな機会もう次はないかもしれないんだからさ」

「早く」ユレグの視線は冷たかった。「あるんでしょ」

「はい。風の金糸にします」へへへ、とキワメは笑みを浮かべながら籠から大きな糸巻きを取り出した。金色のワイヤーが巻かれているが、バイオリンの弦には太かった。彼はするするとそれを三十センチほど引き出してパチンと切った。そして「すぐにできるからさ、睨まないでよ」と言いながら手袋をしてその両端を持ち、捻るようにして引っ張り始めた。

「でもE線だけソラミミズでやってもいいかな。金糸では作れる自信がないよ、真面目な話」

「本当に? しょうがないな」ユレグはそう言って籠を見た。

「どれなの」

「水色の薄い封筒。それは長さとか大丈夫だと思う。エンドも何種類かあったはずだし、合うので先に替えといてよ」

 ユレグはそれらしき袋から丸まった銀の細い弦を出して葉月に渡した。

「よろしく」

「え、私がやるの?」

「当たり前でしょ。やったことないの?」

「あるけど、ちょっと不安というか……。ユレグの方が慣れてるんじゃない?」

「やだよ。弦弾はじいちゃったらどうするの。見ててあげるから」とユレグは嫌そうに言った。

 最終調整はキワメにやらせるというし、一応自分の楽器なので葉月は意を決して弦を交換することにした。四本一気に取り替えるのは初めてだったし、E線は張り替え中に切れてしまったことがあるのだ。

 キワメは引き出しからノギスを取り出して伸ばした弦の太さを確認した。

「それにしてもラタさんがユレグと組んでたとは知らなかったよ。久しぶりだね」

「え、あぁ、そうだね」ラタンはぎくりとした顔で苦笑いした。ユレグは吹き出してすぐ手で口を塞いだ。そして「知り合いだったの?」と笑いと堪えるように言った。

「いや、私けっこう前に研究員だった時期があって。そのころに報告会で何度か会ったことあるだけ」ラタンは顔を引きつらせて言った。「すごく苦手なんだよねこの人」

 するとキワメは笑った。

「あの頃と同じだ。君にそう言われるとぞくぞくして何とも言えない気持ちになる。僕が解明したいと思っていることの一つだよ」

「まぁ確かにうざいし気持ち悪いこと言ったりするけど、仕事はできるし役に立つのよね」ユレグは眉間に皺を寄せて言った。

「ユレグも中々だけど、ちょっと種類が違うんだよなー」

「安心したわ。それより、静寂の調べが盗まれたってどういうことなの?」

「どうもこうもないよ。エナツさんが留守中に誰かが金庫ごと持ってったんだって。何のつもりか知らないけど」キワメはそれほど興味がないようだった。

「弾いてみたかったんじゃない? あれって確か特別奏者にならないと見せてもらえないんでしょ。私も弾いてみたいなぁ」ユレグが言った。

「難易度が相当高いらしいからね。いやー弾いてみたさに譜面盗むヤツはいるし、破理の楽器見たさに報告を怠るヤツはいるし、エナツさんは大変だよね」

「言っとくけど、あんたも共犯だからね」ユレグは言った。その横でラタンが小さなカエルの形をしたギロを取り出して「そうだよ。さすがにもう報告するからね」と言って鳴らし始めた。棒がカエルの背中を撫でる度にころころと軽やかなカエルの鳴き声がした。

「で、できた。次は……G線? 外から攻めてく感じね」葉月はつるっとした金色の弦を手に取った。黄みは強くないが、三本もこの弦にしたらギラついたバイオリンになりそうだ。

「確かに、伝説の楽器とは思えない……」キワメが言った。葉月が指で弾く音を聞いたのだ。

「そんなこと言われても」葉月は自分がけなされているような気がして少し嫌になった。

「ソラミミズじゃだめだったかな。E線には一番だと思ったんだけど」

「とりあえず全部替えてみるしかないよ。いろいろ替えてたらその内、中のオトナリが気に入る組み合わせになるでしょ」ユレグが言った。「そうだ。松脂も替えてみよ。あるでしょ? なんかいいやつ」

「白い棚の引き出し。とっておきが一つ木彫りの箱に入ってた気がする」キワメは最後の一本を伸ばし始めた。ユレグは言われたとおりの場所を探り「うあっ」と声を上げた。同時に小さな音が響いた。

「最悪。ちょっと、なんでこんなもの一緒にいれとくのよ。バカなの?」ユレグはオレンジ色をした半球の物体をテーブルに置いた。

「それ、何だったかな。もらったんだよね」キワメはチラリと見て言った。

「鳴らないようにしといてよ。危ないなぁ。補給ができないってときに……」ユレグはじっとそれを見つめ、葉月の前に置いた。

「なに」

「鳴らしてみて。これはバイオリンほど技術の影響は大きくないと思うから、いい音出るかも」

「どうして私に頼むの? 自分で鳴らしたらいいのに」

「できるならとっくにやってる。私たちが取り込めるのは人間が鳴らした楽器の音だけなの」

「音を……食べるの?」

 そう、とユレグは頷いた。葉月は一度バイオリンを置いて、小さな楽器を手に取った。いびつな球体を半分にしたような形で、平らな面には平たくて長さの違う金属の棒が五本ついていた。片方が固定され、反対側は浮くようになっている。棒の下には穴が空いており、本体の中が空洞なのがわかった。

「親指ではじくの」とユレグは両手でやり方を示した。何も持っていないとゲームのコントローラーを操作する真似に見えた。

 押すように棒を弾くと、柔らかい音が響いた。簡単に綺麗な音が出るっていいな。と思いながら顔を上げると、ユレグが満足そうに微笑んでいた。キワメも手を止めて目を閉じている。部屋には優しい音とカエルの鳴き声だけが響き、静かな神秘の森にいるようだった。

「音を食べるってどんな感じなの? ただ聞いてるようにしか見えないけど」

「人間が食事するのとあまり変わらないと思う。聞くとお腹いっぱいになるの。そのかわり私たちは食べ物を食べても何も変わらない。味はわかるし楽しめるけど、命の糧にはならないの」ユレグが言った。

「自分でも弾いてるよね」ラタンの方を見る。まだ神妙な顔でギロを鳴らしている。

「これは、体の一部だから」ユレグは何もないところからビオラを出して見せた。

「楽器だけど楽器じゃないから手放せない。自分の腕や足をちぎって貸し借りしたりしないでしょ? 私たちが演奏するのは消費する行動なわけ。色々出来るけど、お腹が空く」ユレグは葉月のバイオリンの弓を手に取った。

「楽器には触れるし音も出そうと思えば出せるけど、すごく消耗するし体に悪い。さっきそれに指を引っかけて音を鳴らしちゃったせいで少し吐き気がしたくらい。葉月のお陰で治ったけど」

「人間が出す音じゃなきゃいけないんだね。食べさせてもらってるって、そういうことか。あー、だから人類の滅亡を阻止しなくちゃなんだ。食糧難になるから」

「そういうこと」

 キワメが「よしできた」と最後の一本をテーブルに置いた。「さ、小腹は満たされたから張り替えを頼むよ」

 カエルの鳴き声がやんだ。

「いい音だったね。それはカリンバだよ」ラタンが嬉しそうに言った。

「どうだった。怒られた?」とユレグ。

「いや怒ってなかったよ。もしオトナリが目覚めても、まだ弾かせないでってさ」

「どうして」

「フェルマーが鳴くのを待てってことでしょ」

「あぁ、そっか」

「なんか焦ってたな。静寂の調べが見つからないんだって」

「楽譜というより、弾いてるやつが見つからないのが問題なんでしょ。このまま引き続けられたら死者が出る。早くやめさせないと。せめてフェルマーがもう一度鳴いたあとならよかったのにね」ユレグが言った。

「そっか、そうだね」ラタンは頷いた。

 葉月は弦の張り替えを終えた。最後の方はキワメが近くで手元を凝視してきたのでやりづらかった。彼は楽器を受け取ると様々な角度で隅々まで顔を寄せて見た。

「ほうほう、これが破理の楽器か……手に取れる日がくるとは思いもしなかった……すごい、見れば見るほど、普通だ。何も特別なものが見当たらない」そう言って楽器をテーブルに置き、G線をはじく。Gから少し低い音が一つ響き、キワメは呻いて倒れた。

「ちょっ、何やってんのよこんなときに。葉月、それ鳴らして」ユレグが言った。呆気にとられていた葉月はカリンバを鳴らした。床に突っ伏した白衣の男は苦しそうだがなぜか笑みを浮かべている。

「あぁ、くせになりそう」

「大丈夫そうで残念だわ」ユレグはうんざりしたように言い、キワメの背中を踏みつけた。

「や、やめなよ」ラタンがユレグの肩をつかむ。しかし下から「痛い痛い痛い。いいです……ふふ」と聞こえてきたので止めるのをやめた。

「見た目は普通だけど、やっぱり違うね。全身がしびれているけど、吐き気や痛みはない。体力は奪われていないのか? いや、でもこの感じは……」キワメはブツブツ言い始めた。

 チューニングをやり直して、もう一度葉月が演奏することになった。金色の弦はとりつける前は高価そうに見えたが、実際楽器の一部になるとかえってメッキの安物のようだった。弾いている内に汗でメッキが剥がれるのではないだろうか。

 そう思いながらユレグに渡された松脂をつけ、弾き始める。心なしかさっきよりもはっきりした大きな音が出ている気がした。

「うん。少しはマシになったみたい」ユレグが言った。

「鳴らすよ」ラタンが少しためらったように言ってクラベスを構えた。そしてよく通る音がして、同時に酷い耳鳴りがした。さっきと同じだ。葉月はどうにか引き続ける。そうするように言われていたからだ。耳鳴りのせいで音が合っているかわからなかったが、ユレグに止められるまで手を動かし続けた。ラタンは何度かクラベスを鳴らした。

「ありがとう。でもまだダメみたい」

「じゃあどうするの?」葉月は弓を緩めた。こう何度も強い耳鳴りになるのは初めてだったし、嫌な感じだった。

「弓の毛を変える。楽器はしまって、移動するから」

「私、毛替えはできないよ」

「大丈夫、私はできるから。音を鳴らす危険もないし。ラタンはここにいてくれる?」

「え、えぇー」ラタンはあからさまに嫌そうな顔をした。「まぁ、このまま残していくわけにはいかないか。破理の楽器をはじいちゃったもんね、何か体に影響が……」と床に転がったままのキワメを見た。

「そうじゃなくて。何か入り用になったとき、動ける人がいないとどうしようもないでしょ」

「あぁ、そっか」

「この役立たず」と言いながらユレグはキワメの背中をまた踏んだ。「ぐえ」と声がした。

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