伝説の楽器
二人は変わった名前をしていた。
自分たちは人間ではないし、見えないはずなんだけど。とユレグは言った。それを証明するために、歌っていた男の頭を軽く叩いた。彼は驚いて歌をやめ、頭をさすった。そして上を見て、周りを見た。何かが飛んできたと思っているようだ。次にユレグはおじいさんのところに行き、膝に乗っていたハンカチを落とした。おじいさんはすぐに気付いて拾った。ユレグに何か言う気配はない。というか二人とも目の前にいる彼女の姿がまるで視界に入っていないようだった。
「ゆ、幽霊なの?」
「違うと思うけど、似たようなものかもね」
ラタンは疲れ果てたように座り込んで、ギターの音色に耳を傾けていた。男はさっきのことが腑に落ちないのか、ときたま上の方を探るように見ていた。少しすると気にするのをやめたのか、また歌い始めた。
「よし」とラタンは立ち上がった。少し顔色が悪い。
「大丈夫?」とユレグが言った。
「もうフェルマーも鳴いちゃったし、さっさと見つけよう」
ラタンは二本の棒を交差させるようにして打ち合わせた。その動作は勢いのない小さな物だったが、よく通る澄んだ音が一つ鳴った。そして、沢山の鳥がさえずりながら頭上を飛んでいった。しかし鳥の姿はなかった。
「行こう、ラタン! 近いぞ」とユレグは嬉しそうに言って、ラタンは頷いた。
「もう上からは探さないからね」
「わかってるよ。早く行こう」
葉月は二人の後についていった。不思議な二人のことをもっと知りたくなったのだ。
「ねぇ、この鳥の声みたいなのはなんなの?」
「これも聞こえるの? これは探知器が反応した証拠。音の向かう先に伝説の『破理の楽器』がある」ユレグが答えた。
「探し物は楽器?」
「そ、世界を救う楽器よ」
ラタンはもう一度クラベスを鳴らして方向を確認した。そして「もしかして、フェルマーの鳴き声も聞いたんじゃない?」と言った。
「フェルマー?」
「昨日の夜、空から振ってくるような感じで、結構大きい音だったんだけど」
葉月は、真莉愛には聞こえなかった妙な音を思い出して頷いた。
「あれはね、人類滅亡までのカウントダウンなの。破理の楽器を鳴らせばそれを避けることができる」ユレグが言った。
「滅亡? そのフェルマーとかいうやつが襲ってくるの?」
「確かに襲ってきそうな音だったかもね」とユレグは笑った。
「でもそうじゃない。あれは危機が迫ってるのを教えてくれてるだけ。私たちは三回鳴くまでに破理の楽器を見つけて鳴らせばいいの」
「昨日のは一回目?」
「そう。残りの間隔はわからないけど、三四ヶ月くらい余裕はあるんじゃないかな。今まで大体それくらいだから」
「今までって、もう何回かあったの?」
「そんなじゃないよ。十回、いや十一回だったかな」
「十一回だよ。今十二世代だから」とラタンが言い、ユレグが「そっか」と言った。
「そんなに……。人類滅亡って、みんな死んじゃうってことだよね」
「そうらしいよ」
「戦争でも起きるとか、隕石が降ってくるとか?」
「さぁね。でも大丈夫、もう破理の楽器はすぐそこだもの」ユレグは上機嫌だった。葉月は腑に落ちない物が残ったがそれが何なのかわからなかった。
そのとき、翼を広げた鳥の影が通り過ぎていった。なんとなく見上げたが、鳥も飛行機も見当たらない。
「今のはね、フェルマーの影だよ。久しぶりに見たな」とユレグが言った。葉月は顔をしかめた。
「フェルマーは鳥なの? 化け物じゃん」昨晩の騒音と葉月の知っている鳥を結びつけるのは至難の業だった。
「シルエットが似てるから、そう言われてる。実際どうなのかは知らないけど。とても鳥のさえずりとは思えないよね」
いつの間にか大学敷地内に入っていた。土曜の構内を歩いている人は少ない。三人が辿りついたのは、葉月の慣れ親しんだサークル棟だった。音楽室からはロックバンド演奏やピアノや管楽器の音が漏れ聞こえている。手を怪我して以来サークルに顔を出していなかったので気まずかった。活動日以外も廊下や空き部屋で練習してる人と顔を合わせるかもしれない。
「ここだ」とラタンが言った。そこはあろうことか室内楽サークルの楽器庫だった。しかもドアが半開きだった。誰かいるらしい。葉月が止める間もなく、二人は狭い楽器庫に入っていった。人に会いたくないがために、葉月は廊下でどうしようか迷っていた。中からがたごと音がして、出てきたのは森川だった。
「あ、葉月ちゃん。今来たとこ?」
「はい、今来たとこです。たった今」
「そう、誰か出てった?」
「いえ……」
「そっか」と森川は納得いかないような顔だったので理由を聞くと、移動棚が勝手に動いて挟まれたらしい。棚は重いし、ひとりでに動くなんて話は聞いたことがなかった。明らかにユレグとラタンのせいだろうが言えない。
「やれやれ、また怪現象か」
「他にも何かあるんですかこの部屋」葉月は相手が森川でほっとした。彼は個人的にみんなの練習をよく見てくれるがサークル活動自体には滅多に顔を出さないのだ。彼はケースを開け、準備を始めた。
「いやこの前バイト先でさ。謎の食い逃げ事件があって。おかしいことに料理も飲み物も全部残っててさ。みんなその席の人が飲み食いしてるの目撃してたんだけどね。俺も見た覚えがあった。でも誰もどんな人だったか思い出せないっていう」
「わけがわからないですね」
「最初に気付いた子が気味悪がってやめちゃうし。葉月ちゃんバイトしてる? だよね、残念」
「不思議なことって、あるんですね」
「俺は何かの間違いだと思ってるけどね。まぁ、あの棚には嫌われてるのかもしれない」
「逆かもしれませんよ。離れたくなかったのかも」
「あんまり嬉しくないな」と森川は苦笑した。ユレグとラタンの興奮した声が聞こえたので葉月は楽器庫に入った。ユレグがバイオリンケースを抱きしめていた。そしてうっとりした表情で「どんな音がするんだろう。きっと素晴らしいに違いないよ」と言った。
「そうだね。感無量だよ」とラタンは二本の棒を感慨深げに見つめている。
「へぇ、意外と……」どこにでもありそうなケースに入ってたね、と言おうとして葉月は黙った。黒い布張りのケースの持ち手には見覚えのあるイチゴのキーホルダーがぶら下がっていたのだ。
「それ、私のなんだけど」
ラタンがはっと顔を上げた。「すごい! 持ち主まで見つけてたの!?」
「なるほど。だから私たちの姿が見えたり、フェルマーの声が聞こえたのかもね」ユレグがウキウキした様子で言った。
「え、それがその、伝説の楽器なの?」声が大きくなりそうなのを慌てて抑えた。廊下では森川がバイオリンを弾いている。
「持ち主がいるなら話が早い。弾いてもらいましょう。今すぐ!」
「先にエナツさんに知らせた方がいいんじゃない?」ラタンが言った。
「そんなのあとあと。目覚めたオトナリと最初に話したいじゃない」
「今まで何も起きたことないよ。不思議なこととか」葉月は戸惑って言った。
「いいからいいから」とユレグは葉月を廊下に押し出した。何もないだろうと思いつつ、ひょっとしたら何か起きるかもしれないという興味にかき立てられた葉月は大人しくケースを開けた。一ヶ月近くぶりだった。
葉月が弓に松脂を塗ったりチューニングをしているあいだ、ユレグは森川のそばで演奏を吟味するように目を閉じて聞いていた。一方ラタンは激しいドラムの音が漏れるドアに張り付いていた。その光景はなんとなく変だった。
準備を終えた葉月はとりあえず音階をやることにした。譜面台にペラ一の楽譜とチューナーを置いて、音程を確認しながら一音ずつ出していく。すぐにユレグとラタンがやって来た。
「嘘でしょ。嘘だと言ってよ」とユレグが震えた声で言った。
「私はもともとバイオリンの音はそんなじゃないけど、これはわかる」ラタンが遠慮がちに言った。
「極上の料理だと思って口に入れたら砂だったみたいな」ユレグは脱力して壁にもたれた。
「そうだね。あれだ、プラスチックの焦げたような」
ひどくない? と言おうとして葉月は手を止めたが何も言わなかった。森川には見えていないのだと自分に言い聞かせる。けなされた上に、盛大に独り言をくり出したと思われるのはいたたまれない。
「ごめんごめん。初心者だったのね。いいの。たまたま好みの音じゃなかっただけよ。あ、そうだ、こっちの人に弾いてもらうのはどう? 知り合いなんでしょ?」ユレグが森川を指さした。
「そうだね。オトナリの技量は奏者の技量によるなんて説もあるもんね」とラタンが言った。
葉月は馬鹿馬鹿しくなって楽器を置いた。別に下手なことを言われて落ち込んだわけではない。まだ一年、勉強の息抜き程度しかやってないのだから当然だ。自分にだけ見えている変な人達。きっと花菜多の事で感傷的になって夢か幻覚を見ているのだ。ちゃんと存在する知り合いが近くにいるせいか、現実的な思考が妙なできごとを否定し始めた。何が人類滅亡だよ。
「何なの? しょうがないなぁ」とユレグ面倒そうに言うと、森川の所へ行って背伸びをして肩を叩いた。彼はびくりとして楽器を構えたままユレグを見た。
「なに?」
「葉月の先輩なんでしょ? お手本を聞かせてあげて欲しいんだけど」
「え? あー葉月ちゃんの友達?」と森川は葉月に向かって言った。しかし葉月は上の空で聞こえていないのか返事がない。座り込んで壁を見つめている。
「そう。上達の道のりは長いわ。モチベーションの維持が難しいときってあるでしょ。自分の楽器でどんな音が出せるのか知るのは一つの目安になると思うから」ユレグはてきとうに言った。
「初対面だと思うんだけど、最近入ったの? 何の楽器?」森川はそう言って楽器を置いた。
「ビオラ。バイオリンも弾けるけど。憧れの先輩が弾いてくれた方が元気出るでしょ」と更にてきとうなことを言った。
「憧れだなんて照れるなぁ」と森川は冗談ぽく言った。「それで、何を弾こうか」
森川が近くに来てようやく、聞こえていた会話が現実だと気付いた葉月はやけくそな気持ちでペラ一の楽譜をもう一枚出した。オーラ・リーのアンサンブルだった。
「それじゃ、ちょっと借りるね」
「はい。よろしくお願いします」と葉月は楽器を渡して、一体何が起きているのかという目線をユレグに送ったが無視された。ユレグはラタンに目配せしていた。
森川はやっぱり上手だった。音に芯があって、ビブラートも綺麗で、葉月には出せていない音だった。でも練習すればきっと出る音なのだ。そう思うと確かにやる気は出てきた。自分でこんな風に演奏できたらきっと楽しい。
「ありがとうございます。実は手を怪我してから色々あって、やる気なくしちゃってたんです。もうちょっと頑張ってみる気になりました」葉月は素直に言った。
「へぇ、こんなことでよければお安いご用だから」と森川は楽器を返した。
その横でユレグとラタンは顔を見合わせて首を捻っていた。
「ねぇ、次は三人でやらない? 葉月も弾いたことあるんでしょ?」ユレグは楽譜の書き込みを見て言った。それは去年使った楽譜で、二つあるバイオリンのパートはどちらも練習した。
「いいね。折角だし」と森川は自分の楽器を持った。「君楽器は持ってるの? あ、持ってたね。見えてなかったよ」森川が言った。ユレグはビオラを持っていた。
「あの、覚えてないかもしれないので私上の音でもいいですか?」葉月は言った。今お手本を聞いたばかりだし。
「もちろんいいよ」
それで森川が下の音、ユレグはもう一つ下の音を弾いた。彼女は殆ど指で弾く音で演奏した。
ビブラートはかけられないし音も細い。飛ばした音もあるし目指すものとはほど遠い演奏だったが、他の音と混ざり合うのは心地よかった。
「やっぱり合わせるのは楽しいね」と森川が言って、葉月は頷いた。
「でもよかったね、経験者の子が入って」
「あ……実は違うんです」と葉月は小声で言った。ユレグとラタンは険しい表情で話し合っている。
「この人達さっき知り合ったばかりで、サークルとは無関係なんです」
「そうなの?」森川は驚いて笑った。「誘ってみたら? 上手だし。君は何をやるの?」
話をふられたラタンはクラベスを振って見せた。ユレグはそっぽを向いて一人で一曲弾き始めた。
「私は打楽器です」
「それ、いい音だね。さっき鳴らしてたのそれでしょ?」森川は言った。彼が葉月の楽器を弾いているときも、ユレグたちと重奏しているときも、ラタンはクラベスを何度か鳴らしていた。
「えぇ、邪魔してすみません。これで万事解決のはずだったんですけどねー。当てが外れて困っています」
「何が不満なの?」葉月は言った。
「何も起きないんだもん。破理の楽器には特別なオトナリが眠っていて、演奏中にこれを鳴らせば目を覚ますってことだったんだけど」
「オトナリ?」
「そう。あなたたちは人間、私たちはオトナリ」ラタンは言った。「見た目は変わらないけどね。丸っきり違うんだ。あれ、生態が」
「どういうこと?」
そのとき、ユレグが弓を振ってきた。ぶつかるところだった葉月は「ちょっと、危ないな」と言った。
「おかしい。静か過ぎる」ユレグが言った。楽器を肩に乗せたまま、左手の指は弦を弾いている。
「確かに」とラタンが言って、葉月も気付いた。さっきまで沢山の部屋から漏れていた楽器の音がやんでいる。しかしそれ程不思議なことではないような気がした。たまたまみんなの休憩が被ったのではないか。
それより森川の様子がおかしかった。いつもの柔らかい表情なのだが目が半開きだった。写真だったら確実に取り直すだろう残念な半目で固まっているのだ。半分笑いながら葉月が「森川さん」と呼びかけても返事はない。ふざけているにしては動かなすぎる。
「何これ……」
「時間が止まってる」ラタンが言った。窓の外では羽ばたいた鳥が、風に舞う落ち葉が空中に静止しているのが見えた。
「それで、また葉月は巻き込まれてないね。やっぱり破理の楽器の持ち主は特別なのかなー」
「どうしてこんなことになったの?」
「さぁね、誰かが『静寂の調べ』を弾いてるんだきっと」
またよくわらからないことを言う、と思いながら葉月は別の質問をした。
「ユレグは何してるの?」
彼女は再びビオラを弾いていた。聞いたことのないメロディーだった。
「これは、電話みたいなものかな」
「電話。楽器でテレパシーでも送ってるわけ?」
ユレグはようやく弾くのをやめて、淡々と言った。
「三日前に静寂の調べが盗まれたらしい。だからこれは予定外の演奏。オトナリが目覚めない理由はよくわからない。こうなった以上、もうパラジオに戻ろう。楽器持って」
「わかった」とラタンは頷いた。
「ちょっと待ってよ。これ、元に戻るんだよね。怖いんだけど」
「多分ね。言っとくけど、葉月も私たちと一緒に来るんだからね?」
「え、どこに」
「いいから楽器をしまってちょうだい急いで」
葉月は少しほっとして楽器をケースに入れた。こんな状況で一人にされるよりは変でも話ができる人達と一緒の方が百倍マシだった。後ろでユレグがまた何か弾いている。
「準備はいい? この方法なら行けそうな気がするけど苦手なんだよね」ユレグは楽器庫のドアノブに手を掛けた。「上手くいきますように」と言って開けた。
ユレグとラタンに続いて扉をくぐると、そこは楽器庫ではなかった。
見たことないほど濃い青の空に、白い雲の海が広がっていた。