届かなかった手紙
玄関から一歩踏み出したら思い切り尻餅をついた。晴れた朝のアパートの廊下で、葉月は呻き声をあげ悶えた。何かを踏んで足を取られたらしい。体をかばおうとしたのか左手も強打しており、それは十二分後に始まる中間テストに行けなくても仕方ないと思えそうなほどの痛みだった。
痛みのせいか頭は寝起きとは思えないくらい冴え渡り、テストはあっという間に解き終わった。利き手が無傷で本当に良かった。と残りの時間を呆けて過ごした。
「あー終わった終わった。それにしても、葉月が寝坊なんて珍しいね」
隣に座っていた真莉愛が言った。同じ専攻で、授業をよく一緒に受けている。
「あ、寝坊とは限らないか。何かあったの?」
「んや寝坊。昨日よく眠れなくて」
「ふーん。飴食べる?」
「食べる」
「図書館行くけど、一緒行く?」
「や、私はサークル棟に行かなきゃ」
「ほうほう、練習熱心ですなぁ。それじゃあとで」
サークル棟は数年前に建て替えられたばかりの綺麗な建物で、夕方は人の出入りが多いし廊下で楽器を弾く人もいてやかましい。午前中は静かなもので、葉月がきたときはギターの音が聞こえているだけだった。楽器庫からバイオリンを出し、音楽室に入る。防音の部屋は固い扉を閉めると全ての音を遠ざけた。
葉月はこれまで音楽の授業以外、楽器とは縁がなかった。大学に入ってバイオリンを始めたきっかけは、母の断捨離だった。娘が一人暮らしになり手が空くというので、心機一転しようと思ったらしい。それで物置の奥底から長らく放置されたバイオリンが出てきたのだ。
「おばあちゃんは音大に行かせたかったみたいだけどね。小さい頃は本当につまんなかった。ちょっと弾けるようになってやっと少し楽しく感じたけど、私にはそれで充分だった。音大なんてとんでもない。息抜きにやるくらいがちょうどよかったのよね。それでも働き始めたらなんとなく触らなくなってたわ」
と懐かしそうに語るので、葉月は「いいじゃん。また始めたら?」と勧めたが、彼女は首を横に振った。
「バイオリンはもういいかな。フラダンス始めることにしたし。葉月ちゃんやる?」
「無理でしょ。楽譜も読めないのに」
「大きくなってから始める人なんて沢山いるじゃない」
「そうかもしれないけど……。私も小さい頃からやってればよかったのに」
「やぁね。葉月がやりたくないって言ったのに」
「え、そうだった?」
「そうよ。あ、カビ生えてる~。弓の毛もダメだし、とりあえずメンテナンスね」
葉月の地元、仙台市は古くから弦楽器工房が多いことで知られている。たこ焼きと言えば大阪、お茶と言えば静岡、バイオリンと言えば宮城である。母が昔お世話になっていた弦楽器工房は、仙台駅東側の万丈工房通りにあった。その歴史は江戸時代から続いていることで有名だ。
工房から帰ってきたバイオリンは見違えるほどピカピカになっていた。
背後で扉の開く音がして、葉月は我に返った。
「おっす。やるかー」と院生の森川が気の抜けた挨拶をした。彼はいつもどこかぼんやりしていたが、バイオリンを教えるのが上手だった。葉月のような楽器初心者が多いこのサークルでは、彼のような楽器経験者は重宝されていた。
ぼーっとしていた葉月は慌ててケースを開けようとして「いたっ」と手を止めた。痛みが引いたと思ったのは気のせいだったらしい。譜面台を出していた森川は葉月の方を見やった。
「どしたのその手。腫れてない?」
「今朝、ちょっと転んじゃって」と葉月はぎこちなく笑った。
「こりゃ練習どころじゃないよ。ちょっと待ってて」
森川はそう言って出て行くと、氷を入れた小さなビニール袋を持って戻ってきた。
「晴れてるあいだはあまり動かさない方がいいって。ハンカチ持ってる? 陸上部に友達がいてさ。部室に冷蔵庫あるから。人がいてよかったよ」
「すみません。時間取ってもらったのに。さっきまでそんなに痛くなかったんですけど……」
葉月は正直に言ったつもりだったがなんだか言い訳がましいなと思って恥ずかしくなった。もとを辿れば寝坊したのが自分が悪いのだ。
「いいよ別に。というか他にも怪我してんじゃないの? 大丈夫?」
幸い他に痛むのはお尻だけだったし、左手程ではなかった。痣くらいにはなっているかもしれない。さすがにそれは恥ずかしい上にどうしようもないので言わなかった。
折角なので譜読みを一緒にしたが、それでも時間が余ってしまったので早めの解散となった。
「それじゃ、手が治ったらまた連絡して。来週は俺も時間ないから、その後かな」
「すみません、色々。ありがとうございました」
「お礼はアイスでいいよ。氷だけに」
森川は後半を笑いながら言った。自分で言ってツボにはいったらしい。
「今のはよかった。今日は冴えてる。ね?」
「そうですね」
葉月は本心から同意つもりだったが、森川は悲しそうな顔になった。
「全然笑ってないじゃん。心にもない感じ出しまくるのやめてよ。俺だって傷つくんだからね」
森川の落胆ぶりに葉月は吹きだした。
「冷たい方がいいかと思って。氷だけに」
「あ、何それ。言うねぇ」
と森川は少し驚いてからまた笑った。
昼休みまでまだ少しあったので、葉月は図書館で時間を潰すことにした。一階のカウンター席はいつも空いていて、ガラス張りの壁に面していて外がよく見える。勉強道具を出すと、一緒に真莉愛からもらった飴が出てきた。急いでいたので結局まだ食べていなかった。行儀が悪いと思いつつ、右手と口を使って開けて口に入れる。
袋が黄緑色だったので、青リンゴ味を想像していたらマスカット味だった。風が柳の枝を揺らし、池の水面を波立たせている。葉月はペンを置いた。
「ね、ぶどうとマスカットどっちが好き?」
懐かしい声が脳裏に蘇る。花菜多とは小学五年のときに仲良くなって、中学に上がってからも時間が合えばよく一緒に帰った。
夏の近づいた蒸し暑い帰り道、差し出された手には紫と黄緑色の小袋があった。
「あ、いけないんだ」と言って葉月は紫の方を取った。そして「ぶどうとマスカットって、本当に味違うの? 私マスカット食べたことない」と加えた。
「マスカットの方が甘いんだよ。だから私はマスカットの方が好き。おっきくて皮も食べられるやつ」
溶けかけて袋にくっついた飴を口で引き剥がした。
「あのさ」と花菜多が切り出した。その声に元気のなさを感じたが、何も気付かないふりをして「何?」と言った。
「学校受かった。東京の」
「え! すごいじゃん。一人暮らしするの?」
「んーん、寮」
花菜多がなんだかんだ言って練習するのが好きだということを葉月は知っていた。難しい箇所が弾けるようになったとか新しい技を見つけたとか発見があったとか、花菜多は楽しそうに語ってくれた。そんな話を聞くのが葉月は好きだった。音楽に関することはいつも楽しそうに話していた。それなのに今どこか嫌そうな顔をしている。
「行きたくないの? 前から行きたいって言ってたじゃん」
花菜多は頷いた。
「なんかいざとなったらさ。大丈夫なのかなーと思って」
「大丈夫だよ。なんとかなるよ。ピアノ、頑張るんでしょ?」
「簡単に言うよね。他人事だと思ってさ」花菜多は少し拗ねたように言った。
「そりゃね。花菜多だって、前に私がスピーチ大会に出なきゃいけなくなって超不安で嫌だったとき、『なるようになる』ばっかり言ってたくせに」
「あ……ごめんね」花菜多は苦笑いした。
「でも本当だった。噛みまくって散々な結果だったけど、ぼけっと聞いてる人よりは私頑張ったと思った。別に世界は終わらなかったし、生活に変化もなかった。やってよかったよ。またこういうことがあったら、次はなんとしても断って逃げてやろうと決意できたもん」
「そっち?」と花菜多は笑った。
首筋に冷たい物が当たって、葉月はびくりとして思わず声を上げた。振り返ると、真莉愛がペットボトルを持って笑っていた。
「練習終わるの早かったんだね。食堂行く? 今なら席取れるよ」
「うん。行く」葉月は荷物をまとめた。食堂に行く間に真莉愛に左手を見せ、今朝のことを話した。
「ごめん。笑っちゃ行けないんだけど笑うわ。今日は散々だね」
「三コマが必修じゃなきゃサボって帰ったのに」
終業数分前に食堂に入った二人は無事に席を確保した。終業ベルがなると学生が押し寄せてきて、すぐに満席になった。ラーメンを食べた後、真莉愛はぶどうゼリーを食べ始めた。葉月はデザートを買わなかったしお腹いっぱいだったので冷たいお茶を飲みながらそれを見ていた。ふと思って尋ねる。
「ねぇ、マスカット食べたことある?」
「え? あるよ」
「普通のぶどうと味違うの?」
「普通のぶどうってなに。……デラウェアとか?」
「紫と緑のぶどうがあるでしょ。私、マスカット味は食べたことあるけど、マスカットって食べたことないんだ」
真莉愛はふふっと小さく笑った。
「ぶどうって種類色々あるんだよ。しかも色分けは黒赤緑」
「そうなんだ」
「味なんて品種によって全然違うんじゃないの? 私は違いを説明できる自信ないからしないけど、これだけは言える。ぶどうはおいしい」
葉月はスマホでぶどうの種類を検索していた。確かに紫と言っていたぶどうは黒と赤の方が近いようだった。
「旬は秋かぁ。まだ六月だもんなー。こんど買って見ようかな。でも高いじゃん果物って」
「まーねー。じゃ、誕生日に買ったげるよ。お高いマスカット」
「え、ほんと? 楽しみ」
真莉愛は最後の一口を飲み込むと「でも、そういうのってあるよね」と言った。
「私も青リンゴ味は食べたことあるけど、青リンゴ食べたことないわ。だって赤い方がおいしそうだし。でも今度買ってみようかな。一個くらい。知ってる? 海外のリンゴは日本のより二回りも小さいんだって」
小学生の頃、花菜多は占いとかおまじないにはまっていた。葉月はそういうものを信じていなかった。だってそれでなんでも上手くいくなら学校で教えてくれてもいいはずだ。けど、花菜多と一緒に色々やってみるのは楽しかった。その通りになるはずがないと思っていても、「でももしかしたら」とわくわくした気持ちになった。
雪の降る昼休み、花菜多はメモ用紙を出した。
「ねぇ、白雪姫占いって知ってる?」
「知らない。どうやるの?」
「まず赤リンゴと青リンゴを描いて。葉っぱつきのやつ」
葉月は言われた通りにした。
「その下に、はい・いいえで答えられる質問を書いて枕の下に入れて寝るの。そうしたら、お婆さんからリンゴをもらう夢を見るんだって。それが質問の答えなわけ。赤いリンゴなら『はい』、青なら『いいえ』だって。あ、ダメダメ質問は他の人に教えちゃダメ。終わったあとならいいけど」
葉月は帰ってから『私はお金持ちになれる?』と書いた。それでいざ枕の下に入れて明かりを消そうとして気付いた。もし『いいえ』だったらすごく嫌だ。すぐに『週末にお母さんがケーキを買ってくる』に変えた。これなら外れてもダメージはほぼない。
翌日、葉月は花菜多の顔を見るまで占いをしたこと自体忘れていた。
「どうだった?」と聞いた花菜多はすでに興奮気味だった。
「何も見なかったよ。そういうときは何? お婆さんに無視されたってこと?」
「さぁね。でも私は見たよ」花菜多は葉月の結果にはまるで興味を持っていなかった。
「へぇ、すごいじゃん。何をきいたの?」
「妹ができますか、って。お婆さんが赤いリンゴくれた!」
嬉しそうな花菜多を見て、葉月は言葉を飲み込んだ。答えをくれるこの『お婆さん』は白雪姫を殺そうとした悪い魔女だ。そんなやつの言うことなんて信用できないよね。と昨日質問を書き直していて思ったのだ。どうせ夢なんて見ないだろうし、見たとしても関係ないやつだろう。中々いいことに気付いたと思っていたのだが、信じ切っている様子の花菜多にはとても言えなかった。
「前から兄弟欲しいって言ってたもんね」
「うん、早く会いたいなぁ」
当時、葉月は家族が増えるか否かについては父母が決定権を持っている、くらいの認識しかなかった。本当に妹が出来たら自分も占いをもう真面目にやり直してみようかと少しドキドキした。しかし妹ができたという報告はなかった。よっぽど妹が欲しかったんだな、と葉月は思った。そのせいで夢にまで見たのだ。花菜多がまだ信じているかはわからないが、その話には触れないようにした。二人は間もなく中学に上がり、別のクラスになった。葉月はソフトボール部に入り、花菜多は吹奏楽部に入って疎遠になった。それでもたまに一緒に帰ることはあった。
「ねぇ、白雪姫占いって覚えてる?」
「あぁ、妹ができるって質問してたやつね」
雪がちらつく中、二人は帰り道を歩いていた。花菜多が何か言いたそうにしていた。
「え、できたの? 妹」
花菜多は頷いた。
「今日時間ある? これからうち来ない?」
「行く! すごいね、当たったじゃん占い」
家に着くまで花菜多は急に口数が減った。たまにあるので気にしなかった。中学生になってから彼女の家を訪れたのは初めてだった。特に雰囲気の変化は感じなかった。懐かしいな、と思った。
「ちょっと待っててね、お菓子取ってくるから」
葉月は二階の花菜多の部屋に入った。最後に見たときとは少し違う。模様替えをしたらしい。でも馴染みの友達の部屋だった。花菜多は温かいお茶とお菓子を持って戻ってきた。
「ありがとう! もしかして出かけちゃってた?」
家の中はとても静かで人の気配がしなかった。まだ赤ちゃんだろうから、きっと色々大変なんだろう。と葉月はぼんやり思っていた。花菜多は何かを言いあぐねているのか妙に歯切れが悪かった。
「名前はなんていうの?」
「え、と、ハルカ。季節の春に花」
「へぇハルカちゃんか……。ね、どうしたの? さっきから」
花菜多はお茶をすすり深呼吸すると、意を決したように「ここにいるんだ。ハルカ」と言い、ベッドの端に手を置いた。その瞬間、かじったクッキーを落とした葉月は慌ててそれを拾った。
「ここって……どこに」
「だからここ。ベッドに座ってるの」花菜多は真面目な顔でベッドをぽんぽんと叩いた。葉月はベッドの上を凝視し、戸惑って言葉が出なかった。この部屋には葉月と花菜多の二人しかいない。それなのに、ハルカはここにいるという。一体花菜多には何が見えているというのか。薄気味悪さに背中がぞわりとして何も言えないでいると、花菜多が「ごめんね」と言って気まずそうに笑った。
「私にしか見えないみたいなんだ。変なこと言ってる自覚はあるよ。でも本当に見えるし、話もできてさ」
「その、ハルカちゃんは最近?」
「実はあの占いをやってから一週間くらいたってからかな」
「え」
「ピアノ練習してたら隣にいたの。人生で一番ビックリした。椅子から落ちたし」
葉月は想像して少し笑った。
「家族にも見えないし聞こえない。たまに外についてくるけど、いつもは家にいる。私がピアノを弾いてると隣に座ってニコニコしてるんだ」
「ちっちゃい子なの?」
葉月はまとまらない考えの脳みそを捻って言葉を選んだ。間違ったことを言ったら何か大変なことが起きるのではないかと思ったのだ。花菜多は葉月が話を聞いてくれるのに安心したのか、さっきよりリラックスしている様子だった。
「それがさぁ、私とそっくりなんだよね」
「花菜多の小さい頃ってこと?」
「そうじゃなくて、今の私とそっくりなの」
「何それー……今もまだいる?」ぞっとしつつ葉月はベッドの上を注意深く凝視した。
「いるいる。さっきまで、葉月が怖がって帰っちゃうかもって心配してた」
「そ、そっかー。正直に言うと、ちょっとびびってる」葉月は苦々しい顔で言った。
「まぁそうだよね。私だってずっと自分の頭がおかしくなったかもっていうのは捨てきれないし」
「そんなこと言って大丈夫なの?」葉月は恐る恐る言った。
「ごめんね、だってさ。どうして私にだけ姿が見えるのか、ハルカにもわからないんだって」
「ハルカちゃんかー」葉月はどう受け止めたらいいのかわからないままお茶をすすった。
「私にそっくりだけど、正確はあんまり似てないかな。のんびりしてる。あとあんまり外のことを知らないみたい」
「へぇ。だから妹?」
「うん」花菜多は少し照れたように頷いた。
「他にも何か見えたりしないの?」いつの間にか恐怖よりも興味が上回っていた。
「何も。変わったことは何もないんだ。ハルカが現れただけ」
「私知り合いに霊感? とかある人初めてだ」
「霊は見えないけどね」
「初めての不思議体験だわ……どうして言ってくれる気になったの?」言わない理由は何となくわかる。存在を証明できるものがきっと何一つないのだ。
「本当はハルカが来たとき、すぐに葉月に言おうとしたんだけど、夢かもしれないと思ったんだよね。たまに夢の中で、あぁこれ夢だ。って思うことない? でもそう思った瞬間に目が覚めちゃう。葉月は一緒に占いをやったから、話したらハルカが消えちゃうような気がしてさ。でも……もうすぐハルカは行かなくちゃいけないんだって」
「……どこに? 成仏するってこと?」
「さぁ、そうかもね。よくわからないけど。それで、葉月なら見えるかもしれないって思ったんだ。ハルカが消えちゃったら、ハルカがいた跡はどこにも残らない。夢だったって思いたくなくって」
「そっか、役に立たなくてごめんね」葉月は心からそう思った。花菜多は首を振った。
「なんだか話したらスッキリしちゃった。ありがとね。こんな変な話を聞いてくれて」
花菜多はすっかり気が緩んだようで、ハルカのことを色々話してくれた。学校についてきたことがあって死ぬほど驚いたとか、夕飯をつまみ食いされたと思ったけど全然減ってなかったとか、瞬間移動するとか……。聞けば聞くほど幽霊っぽいなと葉月は思った。そして花菜多が心配になった。この手の怖い話のおちは三つ考えられる。花菜多がハルカに連れて行かれるバッドエンド、ハルカが花菜多を何かから助けてくれる感動系グッドエンド、普通に消えるノーマルエンドだ。ついこの前バッドエンドのホラー映画を見てしまったせいでハルカがどうしても良いものだと信じ切れなかった。もちろん他にも可能性は考えられるけど、普通に消えてくれますように。と祈りながら帰った。
それから一ヶ月くらいして、花菜多はハルカが消えたことを教えてくれた。葉月の祈りは届いたらしく、花菜多は少しだけ寂しそうにしていたがずっと元気だった。
葉月は頭を小突かれて目を覚ました。寝ぼけてここがどこかわからなかった。講義室の外へ向かう学生達の流れができている。隣で真莉愛が笑っていた。
「よく眠れましたかな?」
「首痛い」と葉月は頭を動かした。ノートを見ると、眠気と戦いを示す悲惨な文字が並んでいた。
「真莉愛さま、よろしければノートを……」
「しょうがないなぁ。ま、今日は大した内容じゃなかったけどねー」
真莉愛にノートのコピーを取らせてもらってから、大学の保健センターへ行き湿布をもらった。氷はぬるい水になり、じんわりと熱をもった左手は弱く痛んでいた。
今日の講義は終わってしまったので帰ることにした。何もやる気が起きなかったので売店で食べ物を少し買った。だるくて体が重くても、その内お腹が減るかもしれないし。アパートまでの帰り道、降り注ぐ日差しが憎らしかった。
玄関の前に棒が転がっていた。長さ十五センチほどで、滑らかな表面は焦げ茶色だった。葉月はそれを拾って部屋に入った。今朝転んだ原因はこれに違いない。廊下には他にちり一つ落ちていなかったのだから。
誰かの落とし物かもしれないが、その誰かのせいで酷い朝だった。大事な物なら落とした方が悪い。困ればいいんだ。ざまぁみろ。葉月はゴミ箱に怒りを込めて棒を投げたが、苛々していたせいか入らなかった。棒は壁にぶつかってフローリングに落ち、意外と大きな音がした。その音で我に返り、隣の人が外出していますようにと思った。
テーブルには一通の手紙があった。昨日、バイトから帰ってきて読んだ手紙だ。
花菜多との文通は中学を卒業してから始まった。と言っても年に二三通、封筒に何枚も便せんが入っているときがあれば、絵はがきのときもあった。いつも花菜多が送ってきて、葉月が返事を出していた。手紙を出したいと言い出したのも花菜多だった。
ポストに届く物と言えばチラシかダイレクトメールが殆どなので、手書きの手紙が来るとすぐにわかるし嬉しくなった。昨日も一目見て花菜多だと思った。ハガキでないなら恋バナかもしれない。
しかし開けるときに筆跡が全然違うことに気付いた。よく見ると送り主は、名字は花菜多と同じだが下の名前が違った。嫌な予感がした。宛名は確かに葉月だった。
三ヶ月前、花菜多は事故で亡くなっていた。手紙には生前仲良くしてくれたことへのお礼と、連絡が遅くなってしまったことへの詫びが書かれていた。
葉月は昨日何度も読み返した手紙をもう一度読んだ。悪い夢だったかもしれないという期待はすぐに打ち砕かれた。一字一句読み間違えてはいなかった。
クローゼットから小さな長方形のクッキー缶を取り出した。蓋のデザインが凝っていて、中身より缶が目当てで買ったやつだ。そこに花菜多からの手紙がしまってある。一番上には最後に花菜多から届いた絵はがきがあった。春休みに届いたもので『元気? この前美術館に行ったときのやつ。お気に入りを送りまーす』と書いてあり、反対側は空に巨大な岩が浮いている絵だった。
短いメッセージの隣には変な顔が描いてあった。花菜多はノートとか教科書の端によく落書きをしていた。楽譜の隅にも。呆然と眺めていた葉月は、その消印が亡くなる二日前だということに気付いた。もう一度手紙を開いて確認する。間違いない。
確か、このハガキに返事を出すのに一週間くらいたっていた。いつか送るために買ってある好きな絵はがきの一枚。何を書いたかは思い出せない。花菜多と同じようなことを書いたかもしれない。
あれが届いたとき、花菜多はもうこの世にいなかったのだ。
葉月は手紙を箱にいれ、クローゼットの奥にしまい込んだ。