しのぶ者 享受
しのぶ者の短編です。これ単体でも読めると思います。流血表現がありますのでR15としています。
死を初めて意識したのはいつだろうか。思い返してみると、本格的な修行が始まった頃に、大きな怪我をしていた。あの時は熱も出て意識が朦朧としていたと思う。なにせそこら数日間の記憶が曖昧なのだ。たしか、崖から落ちかけた友人に手を伸ばして掴んだはいいが、そのまま一緒に落ちたのだったと思う。そして友人の下敷きになったのだったか。骨は折るし筋は痛めるし頭も打つしと、あらゆる外傷というものを一度に体験した思い出でもあるといえよう。あれからなんとなく身体の感覚が分かり始め、思うように動かせるようになったのだから、僥倖であるとも言える。
死を怖いものと思っていたが、それよりも怖いものがある今、死はむしろ救いのようなものと感じて仕方がなかった。おぞましい恐怖を感じなくなるようになる。痛みに怯えることもない。他人の命を奪う、身体が冷え切るような感覚に襲われることもない。しかしそれでも殺されそうになったら生き延びようとするからたちが悪いのだ。何か未練があるのか、実は死が一番怖いと感じているのか。
いつの日か、我を忘れて生にしがみつくようになるのは、自分が女である事実を突きつけられた時なのだ、と気が付いた。どんな殺気を浴びようと、敵が何人襲い掛かってこようと、我を忘れるようなことにはならないのに。ならば自分は、何に怯えているのだろう。
周りを見れば、薄い月明かりに照らされた人だったものがいくつか転がっている。すでに熱も失っているそれらは、今夜自分の部屋に忍び込もうとした人間だったのだろうと考えられる。だろう、というのは、自分がそれすらも認識していなかったからだ。自分の領域に知らないものがあり、自分の身に危険が迫っていたのを引き金に正気を飛ばしたのだろう。これの始末ばかりは嫌になるほど骨が折れる。ひとまずというように自分の体を見下ろすと、血液を含んで湿っているし、口の中も鉄臭い。何かの破片と一緒に吐き出してみれば、布と、おそらく肉が出てきた。
何が原因でそうなったのかと考える間もなく胃液が上がってきた。慌てて外の水場に行き、彼女は口をすすいだ。念入りに口をすすぎ、舌で歯列をなぞり、何も残っていないことを確認して大きく息を吐いた。そしてこれから行わなくてはいけない作業を思い出し、また一つ深く息を吐いた。
「何やっているんだ?」
訝しげな声がかけられた。まさか彼が帰ってきているとは思っていなかった彼女は、答えに詰まった。やつらが今晩来たのもそのためだと思っていたのだ。
「またか?」
呆れたような声と同時に彼女の頭に手拭いがかけられた。洗いたての柔らかい布は彼女の波だった心を静めた。
「……こうまでして私の血を残したい理由が分からないな。血縁だけで言えば他にいくらでもいるだろうに」
顔を拭いながら立ち上がり、穴を掘るための踏み鋤を彼から受け取った。月明かりに照らされた彼女は血に塗れ、けして美しいわけでもないのに、なぜかぞくりとする目をしながら踏み鋤を見つめていた。多大な犠牲が出ているにも関わらず治めようとしない長老たちの思惑など、ふたりは知っている。知ってはいるが理解はできなかった。
二人は無言で穴を掘り、散らばっていたものを余すことなくそこに放り、血で汚れた部屋の中身もすべて投げ入れた後に土が戻された。部屋の汚れもすべて落とし終えたころにはすでに東の空が白み始めていた。
「長老たちはこの里の終わりを見始めていて、他の人間はそれに抗いたいんじゃないか」
ぽつりと、彼が零すように言った。
「俺も、たぶんお前も、この里がどうなろうと知ったことじゃないだろ。他のやつらはたぶん、終わりを認めたくないんだ」
戦国の世はもう間もなく終わろうとしている。自分たちのような存在など、むしろいなくなる方が望まれているのだ。
「終わりを受け入れられるか否か、か」
その言葉は、すとんと彼女の心に落ち着いた気がした。求めているもの、受け入れているものが違うから嫌悪を抱いていたのか。
「受け入れられないというのなら、受け入れさせるという手もあるな」
血と土に汚れた己の手を見下ろしながら彼女は言った。今までさんざんそちらの都合を押し付けてきたのだ。ならば、一度くらいはこちらの都合を押し付けてみようではないか。
「私の手で終わらせてしまえばいいんだ」
どう思う、というように顔を向けられた彼は、あっけにとられたような顔をしていた。
「その手があったなぁ」
彼は力が抜けたように笑った。かわたれ時の光に照らされた彼は紛れもなく彼で、そして他の誰も知らない彼であった。