第一章 Ⅰ.黒薔薇の街
墜ちているのか、浮いているのか。
どちらが上で、どちらが下か。
深い深い黒に支配された世界。終わりの見えない闇が広がる。何も見えない。何も聞こえない。だけど、誰かが私をしっかりと抱えてくれている。深い闇の中で、その感触だけが私の心を落ち着かせてくれた──。
†
晴れ渡る空。沈みかけていたはずの太陽は高く昇り、爽やかな青がどこまでも続く。
「えっ……?」
一体何が起こったというのだろう。気が付くと、そこはどこか知らない街の広場だった。広場の中央には、小さいながらも繊細な装飾が施された噴水があり、そこから噴き出される水が美しい弧を描いている。
とても綺麗な街だった。だけど、どこか異様な雰囲気を感じた。建ち並ぶ家は煉瓦造りの可愛らしいデザイン。統一性があり、自分勝手な建物がゴチャゴチャと並ぶ街なんかよりずっと綺麗。そんな物語の一節にありそうなこの街のどこか異様なのかって?
それは──薔薇。誇らしげに咲く薔薇のひとつひとつはとても綺麗なのだけど、その数は異常な程多く、その全てが漆黒の花を咲かせている。無数に咲き乱れる黒薔薇が美しいこの街を異様ものに変えていた。
ここはどこなの? 何が起こったの? 常識では考えられないことばかり。驚愕と困惑が頭の中をぐるぐる回る。
「……ど、こ……?」
「ここは華の国、黒薔薇の領土です」
殆ど呟きに近かったそれに答えてくれたのは、銃を持った青年だった。しかし、私にとって彼の言葉は非常に理解し難いものだった。ふざけているのか、からかっているのか、はたまた私の聞き間違いか。『はなのくに』なんて聞いたことがない。
「あの……、今なんて……?」
「ここは、華族と呼ばれる者達が暮らす華の国。そして、今僕らがいるこの場所は黒薔薇族の領土です」
「……頭、大丈夫ですか?」
パッと両手で口を押さえたけれど、時すでに遅し。出てしまった言葉は戻らない。さすがに今の発言はまずかった気がする。まだ相手がどんな人だかよくわからない上に彼は銃を所持している。怒って発砲なんてことがないとは言い切れない。見た目は穏やかそうだけど、人は見掛けによらない。現に銀髪の青年に銃口を向けていた時の彼は別人かと思うほど怖かった。
「やだな、僕は至って正常ですよ。ここは、そうですね……姫から見たら異世界っていうんでしょうか? 僕らの世界と姫の世界は遠くて近い存在なんです。まぁ、詳しいことは城で説明しますよ」
穏やかな笑みを浮かべ、青年はそう言った。その言葉に私は眉を顰める。
だって、異世界って何? 勿論『異世界』って言葉は知っている。意味だってわかっている。でも、それは想像の世界。所詮は作り話。異世界が存在するなんて本気で言う人はきっと頭がいかれてる。異世界なんて存在しない。それが常識。それが現実。
でも、否定しきれないのもまた事実。そう、今の私には。異世界なんてあり得ない。だけど、それ以外に今の状況を説明できるものがない。
不安、動揺、焦燥。行き場のない思いが私を支配していく。ぐるぐる、ぐるぐる。それは終わりのない迷路のように──。
「!」
ひとり悶々としていると、突然身体が浮いた。一瞬何が起こったのかわからず、自分が抱え上げられたのだと気付くのに少し時間を要した。
「ま、待って! 待って!」
私を抱えたまま歩き出そうとした青年に慌てて制止の声をかける。先程の会話から、彼の言う“城”へ向かうつもりなのだろう。しかし、随分と物騒なものを所持した得体の知れない人間に素直にのこのこついて行く程私も馬鹿じゃない。
「何者かもわからない人達とこれ以上、どこかへ行くつもりなんてありません!」
強めの口調で私ははっきりそう言った。家へ帰して、勿論そういう意味を込めて。それなのに彼らから返ってきたのは私の期待とはまるで違う答えだった。
「ああ、すいません。申し遅れました。僕はユノ=アルフォード。以後お見知り置きを、アンジェリカ嬢」
「俺はアシル=ランドール」
「いや、名乗ればいいっていう問題じゃ──」
そこまで口にして私はふと気が付いた。
「なんで、私の名前を……?」
銃を持った青年──ユノは確かに私の名を口にした。あの時と、銀髪の青年とすれ違ったあの時と同じ。私の中に漠然とした恐怖心が生まれる。――どうして? 初対面のはずなのに。名乗った覚えなんてないのに。
「あんたが黒薔薇姫だからだよ」
答えてくれたのはユノではなく、大剣を背負った青年──アシル。彼の言葉に恐怖心は疑問へと変わる。
「あの……『黒薔薇姫』って一体……?」
“黒薔薇姫”
あの時は大して気にも留めなかったけれど、確か銀髪の青年も私のことをそう呼んだ。それなりに裕福な家庭で何不自由なく過ごしてきたけれど、私は『姫』なんて呼ばれる程高貴な身分じゃない。この国のことだって何も知らないのに、彼らは何故、私のことをそう呼ぶの?
「城で全て説明しますよ」
ユノはそう言うと、私を抱えたまま有無を言わさず歩き出す。必死の抵抗もあまり意味をなさず、黒薔薇の街に私の制止の声が虚しく響いた。
†
降ろして、と何度かお願いしてみたけれど、ユノは断固として私を降ろそうとはしなかった。結局城までお姫様抱っこのまま強制連行され、やっと降ろして貰えたのは城の大扉の前だった。大扉には交差した二本の剣に薔薇が巻き付いたレリーフが施されている。目の前に聳え立つ城は美しく迫力があった。ここに来るまでに通った城の庭も絵画のように美しかった。街といい、城といい、まるで御伽噺の世界。絵本の中に迷い込んだような気分になる。
「姫、中へ」
差し出される右手。一瞬、その手を振り切って逃げてしまおうかとも考えたけれど、怪我をしたこの足で彼らを振り切れる自信など到底なく、私は意を決してその手をとった。扉は音を立て、煌びやかな城内が徐々に姿を現す。ユノに手を引かれ、私は遂に城の中へ足を踏み入れた。
「「お帰りなさいませ」」
綺麗に重なる声。私達を出迎えたのは深々と頭を下げるふたりの少女だった。お揃いの黒いワンピースに白いエプロン。その出で立ちから彼女達がこの城のメイドであることは容易に想像がついた。
「お待ちしていました、黒薔薇姫様」
「さぁ、こちらへどうぞ」
少女達は私を城の奥へと促す。不安げな瞳で見上げる私に、ユノは大丈夫だと言い聞かせるように小さく頷いた。そして私は、拭いきれない不安を残しつつも、一旦彼らと別れ、少女達と共に城の奥へと進んだ。
この時はまだ知らなかった。私を待ち構えているものがあまりにも残酷な運命だということを──。