Ⅱ.真実の光、偽りの闇
ユノのジャケットを乱暴に掴み、彼の胸に顔を埋め、私はただただ泣きじゃくった。認めたくない惨事。それは紛れもない事実。
「どう、してっ……!」
ユノの胸板を私の拳が叩く。――悲しみ? 怒り? わからない。渦巻くのは言葉では言い表せない複雑な想い。どうして、ただそう繰り返しながらやり場のないそれをユノにぶつける。私の理不尽な仕打ちをユノは何も言わずに受け止めてくれた。
「……アンジェリカ」
不意に名前を呼ばれ、私は顔を上げた。憂いを帯びた漆黒の双眼。ユノの顔を見た瞬間、また涙が滲んだ。
「……ごめっ、なさい」
再び顔を埋め、私は謝罪の言葉を繰り返す。そう、悪いのは私。全部全部私のせい。どんなに繰り返したって何の罪滅ぼしにもならないことはわかっている。だけど、私はただひたすらその言葉を繰り返した。止めることができなかった。
「アンジェリカ、自分を責めてはいけません」
ユノが私の背中を撫ぜた。優しいその手に私の中で罪の重さが増していく。――どうして優しくするの? どんなに酷いことを言われても構わない。責めてくれた方がずっと楽なのに。
「……アンジェリカ」
もう一度諭すように名前を呼ばれ、私はゆっくり顔を上げた。腫れた瞼、赤い鼻、今の私の顔はさぞかし酷い有り様だろう。
「いいですか、これだけは覚えていて下さい」
両肩にそっと手が置かれる。向けられる真剣な瞳。強い意志の込められたそれは、視線を逸らすことを許さない。私は涙を押し込め、黙ってユノを見上げた。
「弱者を護る剣であり、楯である。大切な誰かを護ることこそ騎士の誇り。貴女を庇ったこと、アシルは後悔などしていません」
「……その“誰か”が、代用のお姫様でも?」
ユノの瞳が悲しみを映す。一瞬のことだったけれど、私はそれを見逃さなかった。私が口にした言葉、それは酷く残酷なもの。言ってはいけない、言うべきではない。わかっていたはずなのに―…。
「アンジェリカ、それは違います。アシルが護ったのは黒薔薇姫ではない。アンジェリカ、貴女自身です」
「えっ──」
心臓が大きく脈打つ。何を言われたのか、理解を拒むように言葉が通り過ぎていく。代用の姫としてではなく、私自身を見てほしい。望んでいたはずのそれ。なのに、今は受け入れることができない。ユノの言葉が本当だとしたら私は―…。
「これは貴女に言うべきことではないのかもしれませんが……。アシルが貴女を“アンジェリカ”と呼んだ日のことを覚えていますか?」
躊躇う素振りを見せながらもユノは話を切り出した。私は小さく頷きそれに応える。今でもよく覚えている。僅かな期待、膨らむ虚しさ。だけどそれは、私が勝手に作り出した虚構だったというの?
「あの日、アシルは聞いてしまったそうです。……アンジェリカが独り呟いた言葉を」
――ふたりの傍にいるのは私じゃない。
――私はアンジェリカ、黒薔薇姫じゃない。
吐き捨てた闇。薄汚れたガラスに映る歪んだ私の顔がフラッシュバックする。
「アシルはアンジェリカを護りたいと言いました。黒薔薇姫としてではなく、貴女自身を。“アンジェリカ”の傍にいてあげたい。独りだなんて思って欲しくない。だからアシルは『姫』と呼ぶのを止めた。僕にそう提案してきたのもアシルです。もう一度言います。アシルが護ったのは黒薔薇姫ではなく、アンジェリカ、貴女です」
押さえ込んだはずの涙がまた溢れ出す。――代用のお姫様でも? アシルの想いを踏みにじる残酷な言葉。最低だ。何も知らなかったのは、何もわかっていなかったのは、私だ。私が抱え込んでいた闇は全て偽りだったのだ。本当の想いを知った今、言いたいことが、言わなきゃいけないことがたくさんあるのに、もう全てが遅過ぎる。私はなんて愚かだったのだろう。ボロボロと零れる涙は私の頬を絶え間なく濡らす。私は声を上げて泣いた。
「アシルだけじゃありません。僕も“貴女”を護りたい。黒薔薇姫ではなく、貴女を―…」
泣き崩れる少女の小さな背を摩る。僕の言葉にハッと顔を上げたアンジェリカは愛らしいその顔を更に涙で歪め、最低だと自分を責めた。彼女は優しい。だからこんなにも傷付き、自分ばかりを責める。僕は少女の華奢な身体を抱き締め、囁いた。
「この命を懸けてでも僕が貴女を護ってみせます」
アシルが護った一輪の花、散らす訳にはいかない。騎士として在る本当の意味、僕もアシルもアンジェリカに教えられた。護りたい、心からそう思える喜び。それは今までこなしてきた義務的な護衛とは程遠い。彼女こそ僕らの唯一の姫君。騎士たる僕らが護るべき存在。
「……て……いで」
腕の中でアンジェリカが小さく呟いた。震えるその声はか細く、僕には届かない。そっと彼女の名を呼べば、少女の小さな手がジャケットを強く掴んだ。
「命を懸けて護るだなんて言わないで……!」
ジャケットを握るその手にギュッと力が込められる。蒼穹の双眼が映し出す不安。アンジェリカは唇を噛み締め、俯いた。何かを耐えるように彼女の肩が小さく震える。死んでも護れ、幾度となく聞いた言葉。少女の言葉は今まで聞かされてきた心無いそれとは真逆のものだった。
「……もう誰も、失いたくないの……」
掠れた声で呟く。ユノまでも、そう考えるととても怖かった。私のせいで誰かを失うなんてもう耐えられない。だからお願い、命を懸けて護るだなんて言わないで。
「……わかりました。では、共に生き残りましょう。約束です」
「……ええ、約束」
私が手を差しだし小指を立てれば、ユノは自分のそれを私の指に絡める。指切りを交わし、私達は誓った。共に生き残る。一度は壊されたこの誓い。護るため壊した貴方、守れずに拒絶した私。思い返せば残るのは後悔ばかり。だけど、どんなに悔いても失ったものはもう戻らない。ならば、この誓い、貴方と果たしてみせよう。生ある貴方と──。