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第五章 Ⅰ.レゾンデートル


どれくらい走っただろう。膝に手を付き、乱れた呼吸を整える。はぁはぁと繰り返される荒い息が妙に煩わしく感じた。


「……逃げて、きちゃった……」


ぽつりと呟いたそれは風に揺れる木の葉のざわめきに掻き消された。感情に任せてユノを振り切ってしまったけれど、冷静に考えると、ユノの行動は私を守るためだったと思える。思い出してみれば、あの時、ユノは僅かに息が上がっていた。きっと勝手に抜け出した私を必死に探してくれたのだろう。そんな彼を私は拒絶してしまった。悲しみか困惑かあるいはまた別の感情か、複雑な色を映した彼の漆黒の瞳が頭から離れない。悪いのは“敵”であるアイリスに近付いた私だ。


――私が彼らの傍を離れなければアイリスは死なずに済んだ? ユノにあんな顔をさせずに済んだ? 思うのは後悔ばかり。


また涙が滲む。私はしゃがみ込み、膝を抱えるその腕に涙でぐしゃぐしゃになった顔を埋めた。視界が遮られ、訪れるのは風音だけが響く暗闇の世界。不意に孤独感が襲う。


「……ユノ……アシル……」


弱々しい私の声は黒薔薇の騎士には届かない。私を探し出してなんて我が儘だ。だけど、心のどこかでは期待している、迎えに来てくれると。わかっている、そんなの身勝手だ。悪いのは全て私なのだから。



「あれ、ひとり?」


ざくっ、ざくっと地を踏む音が近付く。聞き覚えのあるその声に肩がびくりと跳ねた。弾かれたように顔を上げると、そこには──。


「やぁ、黒薔薇姫」


スカイブルーの瞳が私を見下ろす。目の前には巨大な斧を担ぐエルヴァの姿があった。――逃げなきゃ……! 咄嗟に立ち上がるも足が竦んで動けない。いや、例え自由に動くことができようと私が彼から逃げることなど可能なのだろうか。ラウルの姿は見当たらないけれど、騎士を持たない薔薇姫を捕らえることくらい彼ひとりでも造作もないだろう。


「何? オレとやろうっての?」


エルヴァがニヤリと笑う。逃げられないと思った私が手にしたのはユノから渡されたあの拳銃だった。


「……来ないでッ……! ……う、撃つわよッ!」


銃を構える両腕がガタガタと震える。虚勢を張る私の姿が滑稽に見えたのか、エルヴァは声を上げて笑った。


「そんなんじゃこの距離だって当たらないよ?」


エルヴァが一歩踏み出し、私は震える足で後退る。嫌な笑みを張り付けながらエルヴァは一歩また一歩と私を追い詰める。


「……!」


後退する内にドンッと背中に鈍い衝撃を感じた。振り返れば、大樹が私の行く手を遮っている。それでも尚じりじりと距離を詰めてくるエルヴァに恐怖で混乱した頭は更なるパニックを起こす。



 パァンッ!



余りの恐怖に私は思わず引き金を引いた。しかし、震える腕で放った銃弾はエルヴァの頬を僅かに掠めただけだった。その瞬間エルヴァの顔から笑みが消えた。彼は頬を伝う一筋の鮮血を指で拭い、再びニヤリと笑う。ゾクリと背筋に何かが走った。ただならぬ恐怖に足が、腕が震える。まるで自分のものではないかのような感覚。私はそこから動くことも、エルヴァから目を離すこともできない。エルヴァは私の顔のすぐ横に手をつき、怯える私の姿を楽しむかのように口角を吊り上げた。


「次は、オレの番かな?」


首筋に何か冷たいものがあてがわれる。ピリッとした痛みを感じ、漸くそれが斧であるとわかった。エルヴァは私の首から一旦それを離すと、一歩距離を置き、斧を振り上げた。


「さよなら、黒薔薇姫」










 +―…+†+…―+



「アンジェリカに逃げられただァ!?」


アシルに肩を叩かれ、僕は我に返った。地に根を張ったように足が動かず、アンジェリカを追うこともできなかった僕は、彼女が走り去ったその先を見据えたまま呆然と立ち尽くしていた。


「……すいません」


「い、いやユノが悪い訳じゃねぇって! アンジェリカのこと護ろうとしただけだろ? アンジェリカだって本当はわかってるって! ただ……その、なんだ……ちょっとびっくりしただけだって」


「ですが……」


僕は下を向いて黙り込む。アンジェリカの怯えた瞳。それは僕を映し出し、恐怖で揺れた。彼女を護るため銃を握ったが、それは間違いだったのだろうか。拒絶されるなど考えもしなかった。


「ああっもう! いつまでウジウジしてんだッ! とにかくアンジェリカを探すぞ! 他族が近くにいねぇとも限らねぇ。俺達は何のためにここにいるんだ? 姫《アンジェリカ》を守るのが騎士《俺達》の役目だろ?」


我慢の限界というようにアシルが乱暴に僕の肩を掴む。アシルの強い想いが込められたその言葉に僕はハッとさせられた。誇り高き黒薔薇の騎士。大切な姫君ひとり護れずにどうするというのだ。アンジェリカが危険な目に遭っているかもしれないというのにこんな所で油を売っている暇などないはずだ。僕らが護らず、誰が彼女を護るというのだ。


「アシルの口からそんな言葉が聞けるとは思いませんでした」


「うるせ。ほら行くぞ、ユノ!」


フッと微笑み、そう返せば、アシルは照れ隠しをするかのように僕から視線を外す。僕は力強く頷き、アシルと共に走り出した。










 +―…+†+…―+



助けは来ない。自力で逃げることすらできない私にはもうどうすることもできなかった。――私、死ぬんだ。そう思った刹那、誰かに名前を呼ばれた気がした。人は極限まで追い詰められると幻聴まで聞こえるのか、なんて頭の片隅でぼんやりと思う。


「…―アンジェリカッ!」


もう一度、先程よりも鮮明に私を呼ぶ声が聞こえた。それを認めた次の瞬間、私とエルヴァの間に黒い影が割って入った。


鮮やかな赤が舞う。振り下ろされた斧は私の楯となった影に深く突き刺さった。目の前で起こったそれは、まるで現実味のない悪夢のように感じられた。――なんで? どうして? 認められない、認めたくない。嘘だ、嘘だ、嘘だ……! ぐらぐらと不安定に地面が揺れるような、ぐるぐると視界が回るような錯覚が襲う。


ふわふわと定まらない意識の中、影に伸ばしかけた腕を横から強く引かれた。夢の世界から引き戻されるような感覚。世界が急速に現実味を帯びる。


「行けぇぇッ!!」


黒薔薇の騎士《   》が叫ぶ。それを合図にするかのように私の足は地を離れ、身体が浮いた。しっかりと抱えられた身体は私の意に反して加速してゆく。黒薔薇姫《わたし》が叫ぶ。遠ざかる背中に伸ばした腕はもう届かない。










「いやあぁああ! アシルゥウゥゥ!!」


舞い散る鮮血。涙で歪んだ視界に崩れゆくアシルの背中が映った──。



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