Ⅱ.赤の記憶
――私がまだ高校生だった頃、何でもない日常が何よりの幸せだと気付いたのは全てを失った後でした。
+―…+†+…―+
「行ってきまーす!」
スクールバッグを片手に家を飛び出した私。外に出ると晴れ渡る空がどこまでも続いていた。雲ひとつない快晴。気持ちの良い風が頬を撫ぜた。
「アイリス! 忘れ物よ!」
聞き慣れた声が響く。振り返ると桃色の包みを差し出す母の姿が。
「あっ、お弁当! ありがと、じゃあ行ってきまーす」
「気を付けてね」
「おねえちゃん、いってらっしゃーい」
微笑む母さん。その隣で年の離れた弟が小さな手を振る。私が手を振り返すと弟はもう一度私を呼び、その手を高く掲げて小指を立てた。
「かえったら、やくそく、だからねー!」
「うん、約束ね」
私も同じように真っ青な空に小指を掲げる。もう何度目になるだろうか。朝、玄関の前で交わす私達の指切りのサイン。可愛らしい笑みを浮かべた弟に私はもう一度手を振り、学校へと歩を進めた。
いつも通りの朝。特別なことなんて何もない。こんな日常が明日も明後日も、この先ずっと続くものだと信じて疑わなかった。それなのに──ねぇ、誰がこんなこと想像できた? まさかこれが家族と交わす最後の言葉になるなんて──。
†
「終わったー! あー、疲れたー」
授業チャイムと同時に隣に座る少女が目を覚ます。彼女は最早枕と化していた教科書やノートをいそいそと片付け始めた。
「ベティったら殆ど寝てたくせに疲れたはないでしょー」
呆れ顔でそう返せば私の友人──ベティは自慢気にノートを差し出す。そこには綺麗に写された文字が並んでいた。いつもそう。授業は大して聞いてないくせにノートだけはバッチリで。その上、要領がいい彼女は成績も悪くない。……何だか悔しい。
「あっ、そうだ! ねぇアイリス、今日これから空いてる?」
不意に何か思い付いたようにベティは私に問い掛ける。大した用事はない、と答えると彼女はその大きな瞳を輝かせた。
「この間ね、すっごく可愛いカフェを見つけたの! そこのケーキが絶品なんだって! ねぇ、これから行こうよー」
嬉々として話すベティ。期待の眼差しが私に向けられる。
「しょうがないなぁ。ベティがどうしてもって言うなら行ってあげてもいいよ?」
「本当は行きたいくせに素直じゃないなー」
ベティの言う通り。甘いものに目がない私がそんな話を聞いて断れるはずがない。――帰ったら遊んであげる、駄々をこねる弟と交わした約束。だけど、偶には寄り道してもいいよね? 明日は早く帰るから、なんて心の中で謝りながら私はベティと共に学校を後にした。
「わぁっ、すっごい可愛いじゃん!」
「でしょー!」
学校から歩くこと約十分。辿り着いた先にあったそれはまるで──。
「お菓子の家みたい!」
屋根はビスケット、扉はチョコレート。勿論作り物だけど、それは小さい頃に絵本で見たお菓子の家そのものだった。子供みたいにはしゃぐ私達。やっぱり女の子だもん、こんな可愛いカフェを目の前にしたらやっぱりテンションだって上がる。早く入ろうよ、とベティに促され私達は店の扉を潜った。
賑わう店内。女の子達の楽しげな声が飛び交う。私達も席に着き、美味しそうなケーキやタルトの並ぶメニューに目を通した。――どれにしよう? 優柔不断な私達は暫くの間メニューとにらめっこを繰り返す。散々悩んだ挙げ句ベティはイチゴタルトとミルクティー、私はミルフィーユとレモンティーを注文した。
「これおいしい!」
「ねぇ、一口交換しようよ」
運ばれてきたケーキ。一口食べれば口の中いっぱいに甘い幸せが広がる。その美味しさに思わず頬が緩んだ。甘いスイーツに美味しい紅茶、自然と会話も弾み、気付けば私達はお喋りに夢中になっていた。話題は尽きることを知らず、楽しい時間はあっと言う間に過ぎ去っていく。気付けば窓の外は宵闇に染まっていた。
「そろそろ帰ろっか」
ガラス越しに日の落ちた街を見て私達は席を立った。会計を済ませ、店の外に出ると厚い雲に覆われた空が私達を出迎える。雨が降りそうだなんて思った矢先、ポツリポツリと空から雨粒が落ち始め、地面に小さな染みを作った。
「うわぁ、雨降って来ちゃった……」
次第に強さを増していく雨を見て傘がないと騒ぐベティ。その隣で私は折り畳み傘を取り出した。それを見た彼女は私の腕を掴み、入れてくれとせがんだ。
「えー、ベティの家、私と反対方向でしょ」
「この雨の中友達を置いていくのっ!?」
「走れば大丈夫じゃない?」
軽くあしらえば薄情者、鬼だなんてベティは散々なことを言ってくれる。そんな彼女に私が傘を差し出すとベティはきょとんとした顔でこちらを見返した。
「うそ。ほら、送ってあげるから感謝してよね?」
「さすがアイリス! ありがとう助かる! やー、アイリスは本当優しいなぁ」
「さっきまで真逆のこと言ってたくせに調子いいんだから……」
小さな傘の下、ふたり身を寄せ合い街灯に照らされた夜道を歩く。強さを増す雨がしきりに傘を叩いた。ベティの家に着いたのは歩き出してから数分、靴に雨水が染み込み始めた頃だった。門の前でベティと別れの言葉を交わし、玄関へと続く石畳を駆けていく彼女を見送る。そして私は先程歩いて来た道を引き返し始めた。住宅街から少し外れた、喧噪を知らぬその場所に私の家はある。足早に追い抜いていく人々を見送りながら私は家へと続く道を黙々と歩いた。
曲がり角に差し掛かる直前、私はふと気付いた。
雨音に混ざる人々のざわめき。それは曲がり角の向こう、私の家の方向から聞こえてくる。何かやっているのかな。考えてみればいつもより人通りも多かった気がする。この時はまだ他人事。それ程気にも留めず、私はその曲がり角を右折した。
異変に気付いたのはその直後。少し遠くに見える赤く光る我が家、その周りに群がる人、人、人。ただ事ではないことくらい誰にだってわかる。サァーっと血の気が引き、気が付けば私は傘を投げ捨て駆け出していた。群がる人々を掻き分け、そこで目にしたものは──。
何が起こっているのか理解できなかった。いや違う、目の前の事実を受け入れることができなかったんだ。そこから先の記憶は靄がかかったように曖昧でよく覚えていない。