第四章 Ⅰ.紅薔薇の歌姫
響く歌声。大樹の陰に身を隠し、私はただ一点を見据える。私の視線の先には真紅のドレスを纏った少女がひとり。地に腰を下ろし、小さな唇で美しいメロディーを奏でる。艶やかな黒髪がふわりと風に舞い、肩の上で揺れた。辺りに彼女以外の人影は見当たらず、その余りにも無防備な姿に疑念が募る。だっておかしいじゃない。こんな目立つ場所でたったひとり、あれではまるで殺してくれとでも言っているかのよう。彼女が私と同じ立場の人間ならば──。どう考えてもこの状況は異様だ。
――戻ろう。
辺りがうっすらと明るくなった頃、目を覚ました私。固い地面に座り込み、固い幹に背中を預けるという最悪としか言えない条件下で眠ったせいか身体の至る所に鈍い痛みが走る。――最悪。贅沢言ってられないのはわかっているけれど、そんな言葉が思わず口から零れた。ゆっくり立ち上がり、身体を大きく伸ばす。
ふと隣を見れば、自分から見張っていると言い出したはずのアシルまでもが小さく寝息を立てていた。ダメじゃない、なんて心の中で呟く。だけど、本気で責める気なんて毛頭ない。だって、彼も疲れていることくらい百も承知だから。ふたりがこんな状態では動くに動けない。だからと言って疲れているであろう彼らを起こすなんて私にはできない。何もすることがなく手持ち無沙汰になってしまった私は元いた場所にもう一度座ろうと膝を屈めた、その時だ。何かが聞こえた。それは耳をつんざくような銃声や甲高い金属音ではなく──。
微かに聞こえた歌声。聞いたことのない、されど耳に心地良く響く旋律。不意に好奇心が芽生えた。この時の私は何を思ったのだろう。気付けば私はその声を追っていた。
そして、私達がいた場所からさほど離れていないこの場所で私はこの異様な光景を目にすることとなった。今すぐに引き返すのが賢明だろう。あの子が本当にひとりだとは限らない。彼女の騎士達が獲物を狙い、近くで息を潜めている可能性だってあり得る。そう、これは罠かもしれないのだ。それにユノとアシルが目を覚ます前に戻らなくては彼らに心配をかけてしまう。いや、私が傍にいないと知ったらそれだけでは済まないかもしれない。不安、焦燥。急にそんな感情が込み上げ、私は踵を返した。来た道を戻ろうと足を踏み出したその時──。
「わッ──!」
焦りから気持ちばかりが先走る。足下の注意が疎かになり、大樹の根に躓いてしまった。思わず上げた声に全身が一気に強張る。
「……誰?」
歌が止み、少女が振り返る。私よりも深い青の瞳と視線がぶつかった。沈黙の中、震える足で一歩また一歩と後退る。木の葉や小枝を踏む音がやけに大きく響いた気がした。今すぐ走って逃げてしまいたい。だけど視線を外すのが、背を向けるのが、怖い。
「……ねぇ、君もひとり?」
不意に発せられた彼女の声にびくりと肩が跳ね、足が固まる。パニック状態の頭。彼女の言葉が意味のない音のように通り過ぎていく。何を言われたのかすぐには理解できなかった。答えを待つかのように少女は私の瞳をじっと見つめる。何も言うことができない唇、困惑に染まる瞳。いつまでも口を開かないでいると突然少女が立ち上がった。真紅のドレスを揺らしこちらに歩み寄る。渇いた喉から引きつった声が漏れた。
遠くで見ていた少女はもう目の前に。彼女の白く華奢な腕が私に向かって伸ばされる。思わず目を閉じた次の瞬間、優しく手を握られた。
「私、アイリス=ノワゼット。君は?」
瞳を開ければ、そこには柔らかな笑みを浮かべる少女の姿があった。
「……ア、アンジェリカ=ローゼンノワール……」
掠れた声でただそれだけ呟くと彼女は笑みを深め、優しく囁いた。私は君の敵じゃない、と──。
†
「……ねぇ、ひとつ聞いていい?」
真紅の少女──アイリスの隣に腰掛け、彼女に問う。なぁに? とアイリスは小首を傾げた。
「どうしてひとりで歌なんか……」
アイリスが紅薔薇姫であること。戦闘でふたりの騎士を失ったこと。騎士達が庇ってくれたおかげで彼女だけは生き延びられたこと──。あの後、アイリスが全て話してくれた。罠なんかじゃない、彼女は本当にに独りだった。それなのに何故? 見つけたのが私でなかったらアイリスは今この世に存在していなかったかもしれない。
「私、歌うの好きなんだ。どうせなら最期は好きなことして死にたいから」
笑顔で答えるアイリス。彼女の答えを聞いた私はどんな表情をしていただろう。
「な、なんてこと言うのよッ! 死ぬ、だなんて……!」
「ねぇアンジェリカ、このゲームのルール覚えてる? 私が生き残るためにはこうしなきゃいけないんだよ?」
突然、アイリスの顔から表情が消えた。片手に握られた拳銃。銃口が私の額にあてられる。引き金に指がかけられ、私は思わず目を瞑った。
「バァンッ! ……なんてね。ごめん、びっくりした?」
アイリスはいたずらっぽく笑い、懐に拳銃をしまった。治まらない鼓動。一瞬、本気で殺されるかと思った。
「武器はある。だけど、使いこなせなきゃ意味はない。騎士を失ったお姫様が生き残れる可能性はゼロだと言っても過言じゃないよ」
アイリスはまるで他人事のように言い放つ。彼女の言っていることは確かに間違ってはいない。もし自分がアイリスと同じ立場に立った時、生き残る自信があるかと問われれば私はノーと答えるだろう。だけど、例え厳しい状況だとしても自分の死を前にして何故アイリスはこんなにも落ち着いていられるのか私にはわからない。
「死ぬのが、怖くないの……?」
「怖くない、というか……私には失うものがないから──」
率直な疑問。返ってきた答えはとても悲しく──。悲しみを帯びた瞳。アイリスの儚い笑みが胸に深く深く突き刺さった。
――アンジェリカ、貴女には教えてあげるよ。きっとこんな話ができるのは貴女が最後だから。私の話、聞いてくれるよね?