序章
ふたつの世界が交わりし時、物語は幕を開ける
導くは血塗れの騎士
誘われしは憐れな少女
穢れなき白は鮮血の紅に染まり
人々は散りゆく薔薇に狂喜する
さぁ残酷劇の始まり始まり
+―…+†+…―+
時計の針が四時を指し示したのと同時に、校内に鳴り響くチャイムが退屈な授業の終わりを告げた。教室はざわめきだし、女生徒達の華やかな笑い声で満たされていく。窓からは夕日が射し込み、校内を優しい朱に染めた。今日も穏やかな放課後が訪れる。
「ごきげんよう」
軽く挨拶を交わし、ひとり、またひとりと女生徒達は教室を後にする。私も教科書や筆箱を鞄の中に詰め込み、帰り支度を始めた。
「アンジェ、帰ろ」
少し上の方から聞こえた声に顔を上げると、机の前に柔らかな笑みを浮かべた栗色の髪の少女が立っていた。美しい琥珀色の瞳を細め、上品に微笑む姿はいつ見ても素敵だと思う。彼女はロゼッタ=スノードロップ。愛称はロゼ。私の幼なじみであり、親友でもある。ロゼとは家が近く、その上、私達が通うこの女学園は幼稚舎から大学までエスカレーター式だから彼女とは物心ついた頃からずっと一緒だ。
因みにこの学園は俗に言うお嬢様学校ってやつで、校内での挨拶は『ごきげんよう』。マナー、身だしなみに厳しく、幼稚舎に通っていた頃から礼儀作法を叩き込まれてきた。高等部に上がった今でも週に一度、礼儀作法について学ぶ授業がある。
「ロゼ、ちょっと待って。すぐ準備するわ」
残りの荷物を鞄に詰め込み、椅子から立ち上がると私はロゼと共に教室を後にした。
†
夕暮れの中、たわいないお喋りを交わしながら通い慣れた道を歩く。時折吹く風が私達の髪をふわりと揺らした。いつもなら比較的人通りの多いこの時間帯。だけど、今日は誰ともすれ違うことなく、赤みがかった街には私達の声と足音だけが響いていた。
歩き始めて数十分。白を基調とした家と色とりどりの花が咲く美しい庭が姿を現す。あれがロゼの家。幼い頃、幾度となく遊びに行った。勿論今だって彼女の家にはよくお邪魔させてもらっている。
家の前で私達は互いに手を振り、別れの挨拶を交わした。彼女を見送り、私は再び歩き出す。次の十字路を右に曲がり、そこから少し歩けば、私の家だ。
十字路はすぐそこ。家まで後少し。帰ったら何をしようか。そんなことを考えながら十字路を曲がったその時だった。私の瞳に妙な人影が映った。その人はこちらに向かって来ているようで、私達の距離は徐々に縮まっていく。近づくにつれ、ぼやけていたその姿がはっきりとしてきた。
見慣れない青年だ。銀髪に黒縁の眼鏡。分厚い生地の白いコートを羽織り、腰に剣を差したその姿はまるで御伽噺の騎士のようだった。こんな街中にその姿はあまりにも不釣り合いで、彼の存在だけ浮いて見える。
――変わった人。そんなことを考えながらすれ違い際にチラッと青年を見ると眼鏡の奥の銀灰色の瞳と視線がぶつかった。冷たく鋭い瞳。スッと細められたその双眼に言葉では言い表せない程の恐怖を感じた私はすぐさま視線を外し、足早に青年の横を通り過ぎた。その時──。
「……黒薔薇姫、アンジェリカ=ローゼンノワールだな?」
私の耳に届いた低い声。その声に私は足を止め、振り返ってしまった。振り返らずにはいられなかった。
――何故って?
『アンジェリカ=ローゼンノワール』、紛れもない私の名前。前半の言葉の意味はよくわからなかったけれど、青年は確かに私の名を口にした。彼が知るはずのない私の名を。そして、振り返った私が目にしたのはあまりにも信じ難い光景だった──。
鞘から引き抜かれた剣。青年の右手に握られたそれは明らかにオモチャなどではなかった。鋭く光る刃。獲物を狙う銀灰色の瞳。その視線の先にいるのは、私……?
考えるよりも身体が先に動いていた。全身に駆け巡る恐怖。弾かれたように駆け出した私。咄嗟に逃げ込んだのは薄暗い路地裏だった。
振り向けど青年の姿は見えない。されど沈黙する街に響くひとつの足音が着実に私を追ってきている。腰まで伸びたブロンドを振り乱し、制服のスカートを翻しながら私はただ前へと進んだ。
もう何度目かになる曲がり角に差し掛かったその時、私は足を止めた。私の青い瞳に映る煉瓦造りの塀。自身よりも高いそれが私の行く手を完全に遮っている。走って走って、辿り着いたそこは行き止まり。だけど、引き返すことなんてできない。足音は未だに私を追って来ているのだから。
――戻れないなら進むしかないじゃない!
私は塀に手をつき、無理矢理それをよじ登り始めた。はしたない、なんて怒られそうだけど、今はそんなこと気にしていられない。
「きゃッ!」
よじ登った、まではよかった。しかし、着地失敗。バランスを崩した私は、重力に逆らえず、そのまま落ちるように塀の向こう側へ。
そこはどこかの空き地に繋がっていたようで、長い間手入れがされていないであろう伸び放題の草花が眼前に広がる。落ちた先が固いコンクリートの上でなかったのは不幸中の幸いかもしれない。それにしてもここはどこなのだろう。見知らぬその場所に不安が募る。それ程遠くには来ていないはずだから私の家の近くであることは間違いないと思うのだけど……。家の近くとはいえ全てを把握してる訳ではないし、無我夢中だった私は自分が走って来た道すらよく覚えていない。
―…考えたところでわからないものはわからないのだから仕方ないじゃないか。適当に進めばどこか知っている道に出られるかもしれない。とにかく早く家に帰りたかった。家の中に入り、鍵をかけてしまえばきっとあの人も追っては来られないから。
取り敢えずここから移動しようと、手についた泥を払い落とし、立ち上がろうと足に力を込めたその時だった。
「痛ッ」
左足首に鈍い痛みが走った。そっと触れるとそこは僅かに熱を持っている。先程の着地の際に痛めてしまったのだろう。しかし、いつまでもこんな所に座り込んでいる訳にもいかない。私は塀に手をつき、それを伝うように立ち上がった。
「……?」
不意にガサッと草の揺れる音が聞こえた。音がした方を見やると、空き地の隅にひっそりと佇む大きな木の陰に人の姿を捉えた。
――誰かいる! そうだ、あの人に道を聞こう!
不安だった。刃物を持った見知らぬ男に追い掛けられ、知らない場所に迷い込み──。ひとりぼっちでとても不安だった。だから、人がいたことに私は安堵した。怪我をした私を助けてくれるかもしれない、そんな期待さえ抱いた。
痛む左足を引きずりながらその人影に近づく。声を掛けようと口を開いたけれど、木の陰から現れたその人を見た瞬間、言葉は失われ、代わりに短い悲鳴が漏れた。
「な、なんで……!」
震える声で漸く絞り出せた言葉はそれだけだった。感情の籠もらぬ冷たい銀灰色の瞳と視線が交わり、びくりと肩が震える。足音はずっと私の後ろを追って来ていたはずなのにどうして……! いつの間に回り込まれてしまったのか、現れたその人はあの銀髪の青年。パニック状態の中、視界の端に映った鈍色の刃に、逃げろ、と頭の中で警報が鳴る。
――どこに逃げればいい?
――そんなのわからない!
とにかくこの青年から離れようと、身を翻し、足を踏み出した。しかし、自由にならない左足。痛みに足がもつれ、私は豪快に転んでしまった。
「鬼ごっこは、終わりにしようか」
低く響いたその声に顔を上げると、私の瞳に鋭く光る剣を振り翳す青年の姿が映った。冷たく見下ろす双眼。私を狙う刃。どうして私がこんな目に遭わなきゃいけないの? その答えもわからぬまま、襲い来る恐怖に私は動くこともできず、ただきつく目を閉じた。
キンッ
金属音が空気を震わせる。覚悟した痛みはいつまで経っても感じることはなかった。不思議に思った私は恐る恐る目を開ける。
「えっ──?」
その光景に驚いた私は、言葉をなくし、大きく目を見開いた。いつの間にか現れたふたりの青年。その内のひとりが私目掛けて振り下ろされた剣を身の丈程もある大剣で受け止めていた。もうひとりの青年は、銀髪の青年に銃口を突き付け、怒りの色を映した瞳で彼を見据える。漆黒の髪に漆黒の瞳。羽織っているそのコートもまた漆黒で。銀髪の青年とよく似た身なり、されど対照的なふたり。
「――僕らがお相手しましょう。覚悟はいいですか?」
彼は銃口を銀髪の青年に向けたまま低くドスの利いた声を響かせる。私に向けられている訳じゃないのに、殺気の込められたその声にビクッと肩が跳ねた。
銀髪の青年に向けられるあからさまな殺意。それなのに彼は眉ひとつ動かさない。
「……黒薔薇、か。……分が悪いな」
銀髪の青年は小さくそう呟くと、甲高い金属音を響かせ、しなやかな動きで大剣を弾き、後ろへ飛び退いた。彼がパチンと指を鳴らしたのを合図に空間に亀裂が生じる。彼は迷うことなくその亀裂に飛び込み、姿を消した。その亀裂は彼を飲み込むと跡形もなく消えてしまった。あまりに衝撃的なその光景に私は動くことができず、時が止まってしまったかのようにただ一点を見つめる。瞬きすら忘れてしまった。
「大丈夫ですか?」
動かない私を横から誰かが覗き込む。声の聞こえた方を見やると優しげな漆黒の瞳と視線がぶつかった。私に話し掛けるその声色は先程のそれとはまるで別人のように優しく柔らかい。立てますか、と差し出された右手に私は躊躇いながらも自分の手を重ねた。しかし、立ち上がろうとしたその瞬間、ふと腰のホルスターに収められた銀色の銃が目に留まった。フラッシュバックするあの光景。殺気に満ちた彼の声が頭の中で反響する。
「ひっ……!」
短い悲鳴を上げ、私は思わず青年の手を振り払った。中途半端な体勢だった私は、その反動で後ろへよろめく。
「危ねぇな」
倒れそうになった私の身体を支えてくれたのはもうひとりの青年だった。見上げれば、安心感を与えてくれるような屈託のない笑顔を返してくれる。だけど、私は彼の背中に背負われた大剣の存在ばかりが気になって仕方がなかった。
「大丈夫ですよ。僕達は貴女を傷付けるようなことはしませんから」
完全に怯えきった私に銃を持った青年は苦笑いを浮かべた。
「では、姫、僕らもそろそろ行きましょうか?」
そして、唐突にそう言い出した。それは明らかに私に向けられた言葉だったけれど、私にはその意味を理解することができない。否、理解したくなかった。
「ちょっと待ってッ! 一体どこに行くって──っきゃあ!」
大剣を背負った青年に後ろから軽々と持ち上げられ、私の言葉は遮られた。パチンと指が鳴り、先程と同じように空間に亀裂が生じる。
「ゃッ……!」
色々言いたいことはあったけれど、私の唇から漏れたのは言葉にすらならない小さな声だけ。青年は私を抱えたまま迷うことなくその亀裂に飛び込んだ。抵抗すらできずに私は彼らと共に深い闇の中へ墜ちていった──。