番外編
兄が二人分の麦茶を持ってきてくれた後、田嶋さんは「ちょっと和泉借りるね」と言いながら兄を扉の外へと押し出した。
私の反射的な返事を聞く頃にはもう兄はもちろん、田嶋さんも扉の向こうに消えかかっていて、残された片腕が最後にひらりと振られた。
「どうしたんだろう」
驚いて閉められた扉を見つめる私に、夏君はふっ、と口元を緩めた。
「きっと課題を手伝わせようとしてるんだよ」
扉から視線を移した先で面白そうに笑う夏君の、健康そうな笑顔が、なんて、眩しい。
「そっか」
困ったように笑って、夏君から視線を逸らす。
「………じゃあ、少し質問してもいいかな」
逸らした視線の先で軽く息を吸うと、私はなんでもないことのように聞こえるよう、意識して言葉を吐き出した。
夏君の顔を見ながら聞く度胸は、私にはなかった。
「ん?」
不思議そうに首を傾げられ、それと同時に戻した視線の先がきらめく。
「………えっと、夏君、すごく細い、から。いつも何をして過ごしてるのかな、って」
白すぎない、けれど焼けているわけでもない。
細すぎない、けれど標準と言うには少し細い。
モデル体型、とでも言うのだろうか。
夏さんの細さと比べれば確かに健康的な細さだと思うのに、それでも夏君に違和感を感じるほどの違いを感じない。
その事実が、怖かった。
「………」
沈黙。
そして、何か物凄く苦いものを食べたみたいに夏君の顔が歪む。
「本を読んで、過ごしてる、かな」
丸テーブルの上の本を見ながらそう言って、夏君は「冬馬兄さんから聞いてない?」と苦く笑った。
そういえば、田嶋さんからは聞いていないけれど、兄が言っていたような気がする。
本を読むばかりの弟の相手をしてやってほしい、と田嶋さんに言われていたと。
でも、それでも、こんなに細いものだろうか、と思う。
女子として感じるべき羨ましさとか、悔しさとか、そんなものはなかった。
ただひたすらに、怖い。
あの出来事がなくても、夏君は何か病気にかかる運命だったのか。
元気に生きていてほしいと、あの願いは叶わなかったのか。
ひたすら、ひたすらに、私は怖かった。
そういえば、と言って曖昧に笑ったら、夏君は言い訳のように愚痴りだした。
「これでも筋肉トレーニングはしてるんだよ。走ってはいないけど、家にこもってばかりじゃなくたまに歩いたりもしてる。まあ、それ以外は本を読んでるけど」
丸テーブルの上の麦茶を手に取って、夏君は軽く一口飲み込んだ。
喉仏の動く様に、ああ、夏さんにはなかったものだ、と、ぼんやりと思う。
「脂肪があんまりつかないんだ。結構学校とかでもっと太れって言われたりもするんだけど、どれだけ食べてもダメで。まあ、胃の容量がそもそも周りと違うみたいで、さ」
そうなんだ、と目を瞬けば、筋肉はある程度ついてるんだよ?と、面白そうにこちらを見てくる。
Tシャツの上から腹筋に右手を当てている様が、なんだか触る?と問われているようで、私は敢えて気がついていないように「あんまり食べてもお腹を壊すだけだから、無理はしないほうがいいよ」と、筋肉じゃなく脂肪の話に無理やり戻した。
少し残念そうな様子を横目に見ながら、私も丸テーブルの上にある麦茶を手に取って、軽く一口飲み込んだ。
「それじゃあ、何か病気とかではないんだ?」
麦茶を元の場所に戻して夏君を見ると、夏君は私をじっと見ていた。
飲んでる様子を見られたのだろうか、という照れと焦りを外に出さないよう気をつけながら聞けば、夏君はそうだと頷いて、茶化すように言う。
「随分前に、クラスの女子が俺のことを噂してた時があってさ。いや、あれは俺のこと、ってわけじゃなかったんだろうけど」
首を傾げて話の続きを促せば、夏君は少し緊張したように笑った。
「忘れ物を取りに行こうとしたら、田嶋君とかは?かっこいいじゃん、って聞こえて、自分の名前が出たからかなんとなく入りづらくて、そのまま教室の前にいたんだ」
盗み聞くつもりはなかったんだけどさ、結果的にそうなったかな、とボソッと呟く。
私は正直話の流れがわからなくて、でもきっと意味のないことは言わないだろうと夏君の話を黙って聞いていた。
夏君が握り拳を作るほど、それは言いづらい話なのだろうか、と、まだ続きそうな話に相槌を打った。
「でも、彼氏にするには細すぎて、絶対会うたび嫉妬する。そんなの疲れるし、彼氏にはしたくないよね、って。まあほら、彼氏にしたい男子の話に名前が出るくらいには、健康的だ、ってこと」
わかる?と笑う夏君は、きっと当時それに衝撃を受けたのだろうと、思う。
私は力の入っている夏君の右手を自分の両手で握って、少し躊躇いながらも、話した。
「確かに夏君はとっても細いから、羨む気持ちはわからなくもないよ。でも、元気に生きていてくれるなら、どんなに細くても、きっとどこかで喜ぶ人がいるから。御家族もそうだし、きっと夏君のお友達も。夏君が病気になったら、みんな心配するでしょう?」
みんな自分にできることはないかと、何ができるかと、きっと考えて、考えて、そして行動するはず。
「細さなんて気にしない、夏君そのままを好きになる人が、きっと、ううん、絶対にいるから」
――だって、私が、そうだった。
「………そう、だね」
言葉と共に夏君の右手から力が抜けて、そしてほっそりとした、けれど夏さんと違って少し骨張った指が、私の両手に触れた。
「ありがとう」
柔らかな笑顔が、夏さんとかぶる。
ドキリと跳ねた心臓を落ち着かせたくて、私は笑い返すと同時に夏君の右手から手を離した、と、思った。
上に乗っていた夏君の左手が、まるで引き止めるように私の右手を掴む。
驚くよりも先に夏君の右手も動いて、ついさっきまでの立場が入れ替わった。
「ところで、」
え?と漏れた声を気にした様子もなく、いつの間にか機嫌良く細められたアーモンドの瞳に見つめられる。
心臓の鼓動が、たった一瞬でうるさいほど存在を主張してくるようになった。
「香澄さんは、俺みたいに細い男子を彼氏にするのは、イヤ?」
予想もしていなかった質問にそして何よりも握られた右手に、私は動揺を隠せなかった。
「い、イヤ?じゃない、けど………えっと、」
試しに自分のほうへと引いてみた右手は、離さないと言うように強く握られて、ピクリとも動かなかった。
「――そっか、良かった」
挑むようにきらめくアーモンドの瞳が、私の右手を握る両手よりも強く、私の鼓動に打撃を与えてきていた。
私はもう自分達がなんの話をしていたのかわからず、困ったように笑って、軽く首を傾げるしかなかった。
肉食系ヘタレ男子の誕生ですね。誕生日だけに!(黙
修正しました。8/24