後編
――私の“力”には、わからないことが多い。
その日の夜、夏さんの夢にと望んで寝たはずなのに、私は知らない路地裏を見ていた。
『ふ、ふふふ、ふふふ………』
そこには兄の姿も田嶋さんの姿もなく、夏さんの両親の姿もない。
あるのはよれた白衣を着た、知らない壮年の男の姿だけだった。
『………!』
暫くゆっくりと歩を進めていた男が、何かを見つけたようにあちこち彷徨わせていた視線を止めて、ニタリと唇を歪める。
私の視界もその視線の先を映そうとするように移動して、けれどやがて見えたものに、私はすぐに反応できなかった。
そこには小学校中学年くらいの、黒いランドセルを背負って歩く男の子が、いた。
私はなんとなくその男の子をじっと眺めてみた。
そうしたら、最近見たような大きなアーモンドの瞳に既視感を覚えて、そこで。
白衣の男が、動き出した。
『………っ!?』
先程までのゆっくりとした歩みからは考えられないような速さで走り、男の子を路地裏に引き摺りこむと、白衣の男はポケットから錠剤を取り出す。
恐怖でか悲鳴を上げることもできない様子の男の子の唇にその錠剤を含ませると、鼻と顎を押さえて無理矢理に飲ませた。
『ははっ!はははっ!さあ!どうなる!?どうなる!』
興奮したように目を見開く白衣の男は、けれどそれからすぐに男の子がいたところから入ってきた警察に捕らえられた。
きっと男の子が引き摺りこまれたところを見た誰かが通報してくれたのだろう。
『は!ははっ!どうなる!どうなった!』
白衣の男は捕らえられても興奮状態のまま目を見開いて、男の子から視線を外さずにいたが、やがてそのまま連行されていった。
『大丈夫ですか?大丈夫ですか?』
警察の一人がいつの間にか意識を失っていた女の子に声をかけるが、目を覚まさないことから救急車を呼んだ。
――私の“力”は、その日ようやく、私に何ができるのかを教えてくれた。
朝食を済ませた私は歯磨きもそこそこに家を出て、夏さんに会いに行った。
「あ、香澄さん、いらっしゃい」
田嶋さんに「お邪魔します」と会釈して、私は「夏さん、まだ寝てます?」と夏さんの部屋を見ながら聞いた。
「ちょうどさっき起きたよ。昨日は早く寝ていたからね」
私はそうですか、と一度頷いて、ありがとうございますと軽く頭を下げると、そのまま夏さんの部屋の前まで歩く。
「夏さん、香澄です」
ノックをしながらそう言うと、扉の向こうから柔らかな声が入室を促した。
私はそれに従って扉を開け、夏さんのいるだろうベッドを見ると、夏さんは布団の上の開かれた本に手を置いて、もう片方の手で私に手を振っていた。
「おはようございます。読書中だったんですか?」
手を振り返しながら近づいて椅子に座ると、私は枕の左右にある数冊の本を見た。
「はい。香澄さんが来るのが楽しみだったのか、早く起きてしまったので」
照れたように笑う夏さんの、私から逸らされたアーモンドの瞳に、確かに親しみの色を見て、私は胸が締めつけられるようだった。
一瞬、呼吸の仕方を忘れて、泣き出しそうに顔が歪む。
夏さんが私を見ていないのが幸いだった。
「私も夏さんに早く会いたくて、急いで来たんです。早すぎたかな、って思ったけど、良かった」
夏さんが寝てしまう前に来れて、とは、続けなかった。
私は夏さんの右手をそっと両手で握ると、真剣に見えるよう意識しながら夏さんの目を見た。
不思議そうな夏さんのアーモンドの瞳が、幼い男の子とかぶる。
「――夏さん。性別を、教えてください」
隠されない驚きが、私を凝視する。
夏さんの言葉を待っている間の沈黙が、私の心臓に負荷をかけていく。
やがてこの音が夏さんにも聞こえてしまうのではないかと心配になってきた頃、夏さんは細く、小さい声で答えた。
「お、とこ、だよ」
絶望と諦めが、蝉の鳴き声に包まれる。
「お兄ちゃんに聞いた?ごめんね、ただでさえ変な病気を持ってるのに、気持ち悪いよね」
両手に震えが伝わってくる。
「――でも、僕、こんなんでも、男なんだ」
私は、勢いよく椅子から立ち上がって片膝をベッドにつくと、夏さんの頭を抱えるように両手を回した。
“滅多に自分の希望を言わなかった夏が、それを望んでいた”
“仲良くなって、いつか傷つくのは香澄だからな”
私は、自分の“力”のせいで、誰かと仲良くなるのが怖かった。
学校で一緒にいる友人はいても、外で一緒に遊ぶような友人を作れなかった。
たまに誘われても、理由をつけて断ってしまう。
いっそ、友達なんていらないと思っていた時期もある。
そんな私が、たった三日、数時間を一緒に過ごしただけの人に、こんなにも強い思いを抱いている。
「男でも女でも、関係ないです。病気は夏さんのせいじゃありません。だから、」
叶えてみせる。
そのための“力”が私にはあるのだと、もう知っている。
「だから、一緒に遊びましょうね」
どうか、今にも折れてしまいそうな彼に、未来を。
――例え、今の関係が失われたとしても。
「兄さん」
寝る直前、風呂上がりの兄を見かけて思わず声をかけた。
「ん?どうした?」
私は少し躊躇って、けれどしっかりと兄の目を見ると、少し笑いながら、言った。
「夏さんと会えたこと、私は後悔してないよ」
兄は驚いたように目を瞬いて、すぐに何かを言おうとしたが、何故か言葉に詰まった。
一瞬、兄の右手が左手の甲を掴んで、けれどすぐに離れた。
「………それなら、いい」
困ったように笑って、部屋へと入っていった兄の後ろ姿を見送る。
何がいいのか、何に納得したのか。
兄の言いたかったことを全て理解できてはいないだろうけれど、私は確かにそれを受け取って、自分の部屋に入ると布団の上に横になった。
「………おやすみ、夏さん」
今頃寝ているだろう彼に、届かない挨拶を送る。
*
目を開いたとき、そこには見覚えのある道があった。
うるさくない程度の蝉の声と、涼しい風を感じて、季節は夏だろうかと考えていると、声がかかった。
「あれ?お姉さん、どうして靴履いてないの?」
冷たいコンクリートを直で感じることに、私はその言葉で初めて気がついた。
「っあ、あの、ちょっと、家を飛び出してきちゃって」
混乱して自分でもよくわからないことを声の主に伝えると、アーモンドの瞳を不思議そうに瞬かせて、その子はふぅん、と首を傾げた。
「………!?」
と、そこでその男の子が夏さん――夏君、だと気がついて、私は瞬時に成功したのだと理解した。
「あ、えっと、なっ…キミ、は、学校帰り?」
突然の会話に驚いたのか、一瞬落ちた沈黙の後、夏君は笑って答えてくれた。
「そう!夏休み前最後の学校だったの。明日から夏休みなんだ!お姉さんも、夏休み?」
そうだよ、と頷いて私はハッとした。
夏君は、誕生日を前にして、明日からは夏休みだと浮かれていたときに、あんなことになったのか。
奥歯を噛みしめて湧き出た感情を耐えると、私は夏君を公園に誘った。
寝る前に考えていたのだ。
夏君があの道を通らなければ、あの男に見つからなければ、きっとあの変な薬を飲まずに元気なまま育つはずだと。
「えー?でも先に、お姉さんは靴を履いてきたほうが良いんじゃないかな?」
首を傾げながらの言葉は結構なダメージとなって私に刺さったが、それでも私は今はそれどころじゃないと、どうにか言いくるめられないかと、必死に言葉を模索していた。
――その時だった。
「それに、一度帰ってランドセル置いてからじゃないと遊びには行っちゃダメって言われてるから、まずは帰らないとだし」
追撃のように発せられたしっかりとした言葉に、私が困って周りを見渡したとき、それはもうすぐそこだった。
「~~~っ!」
意味を持たない唸り声が、私の耳にまで届く距離で、その男は私に向かって手を伸ばしていた。
突然のことに驚いて動けないまま固まっていた私の腕を掴んで、よれた白衣を着た男はふふふと笑うと、凄い力で近くの細道に連れていこうと引っ張ってくる。
当初の目的も声を出すことも忘れ、ただこの男だ、と思った私は、そのままろくに抵抗できないで連れていかれそうになる。
けれどその時、視界の端に黒いものが横切った。
「やめろおおおおっ!」
ランドセルが太ももに直撃した男は僅かに態勢を崩した。
私は男の力が抜けた隙に自分の腕を取り返して、目についた黒いランドセルを夏君から奪った。
「こっのぉ!」
ずっしりと重いそれを思いっきり背中に叩きつければ、鈍い音が響いた。
「夏君!走って!」
私はランドセルを右肩に背負い、左手で夏君の右手を握った。
「う、うん!」
足にでこぼこが伝わって地味に痛いが、気になんてしていられなかった。
「待てえぇぇぇ!」
怒った様子の男が追いかけてくるのがわかる。
そのスピードはきっと、私と夏君の二人を捕まえるくらい簡単なほど速いのだろうけれど、私はすぐそこの道を抜ければ人がたくさん行き交っていることを知っている。
「っ、きゃあああ、ああっ!」
走りながら、どうか誰かに届けと甲高い悲鳴を上げた。
走りながらだからか長くは続かなかったけれど、道の先で何人かがこちらを覗いてきたのが見える。
関わりたくないのかすぐに見て見ぬふりをしてその場を離れた人もいたが、ちょうど近くにいたのか警察を呼んできてくれた優しい人もいたらしい。
やがて見えてきた警察の姿にホッとしたのか、私は握っていた夏君の手から僅かに力が抜けるのを感じた。
「う、わあっ!」
けれどそれは、すぐ後ろまで迫っていたらしい男が夏君を捕まえるのに格好な隙となってしまった。
「夏君っ!」
私はまたランドセルを構えて男を殴ろうとしたが、走ってきたらしい警察の人が私を通り越して、男を取り押さえてくれた。
「お姉さん!」
そんな声が返ってきてすぐ、男から抜け出した夏君が私にしがみついてこようとしたが、それよりも早く、私は捕まえるように腕を伸ばして夏君を抱きしめた。
良かった、と、その思いだけが私の心を占めて、そして。
「………ぁ、」
夏君の姿が、蝉の声が、どこからか香るおかずの匂いが、夏君に触れられている感覚が、全てがぼやけた。
私は“終わった”ことを察して、夏君の肩を軽く叩いて離すと、その小さな右手を両手で握った。
「――どうか、元気に生きていて」
浮かんだ笑みは、夏君のアーモンドの瞳にどう映っただろう。
私は夏君の手を離し、警察の人が抵抗する男を相手にしている横を走り抜けると、近くの角を曲がった。
「おねえさんっ!」
私は、そこで意識を失った。
*
ハッと目を覚ましたとき、目の前にあるのは見慣れた天井だった。
「………あ、れ」
何かを失ったような喪失感。
わけもわからないまま、寂寥感に襲われた。
だから私は、ぽっかりと空いたような気がする胸に手を当ててみたのだ。
確かに感じる命の鼓動、確かになくなった“何か”は、なんだろう。
“夏さんと会えたこと、私は後悔してないよ”
「――後悔は、してないよ」
私は、長い間共に在ったあの“力”がなくなったことを、理解した。
「おはよう」
なんだか数日ぶりに言ったような気になりながら、いつもと変わらない朝食風景に私も入った。
「………香澄、何かあったか?」
伺うような父の言葉にえっ、と瞬いて、私は笑顔で首を横に振った。
今日は鮭の炊き込みご飯だった。
*
「香澄」
朝食を食べ終わった頃を見計らってか、兄は私を呼んだ。
「ん?」
見慣れた兄の顔はどこか嫌そうで、私は何を言われるのかと軽く身構える。
「暇なら一緒に出掛けないか?紹介したい奴がいるんだ」
そんな既視感を感じる言葉に、一瞬、私の胸が音を立てた。
「いらっしゃい、和泉。そちらが妹さん?」
知っている道を「こっちだ」と案内されながら辿り着いたのは、予想通りの場所だった。
「そう。妹の香澄」
既視感と逸る心臓に耐えながら、私はあの日と同じやりとりを繰り返した。
本を読んでばかりの弟の相手をしてやってほしい、と前々から言われていたらしい兄が、ようやく時間が取れたからと言って連れてきてくれた。
ここは、田嶋さんの家。
「失礼します」
低い声が促すままに扉を開け、中を覗くと、ほっそりとしたアーモンドの瞳がこちらを見ていた。
「っ………」
息が、詰まった。
丸テーブルに積まれた本を読んでいたらしい彼は、椅子から立ち上がって「いらっしゃいませ」と笑う。
「ほら」
後ろから兄に小突かれてようやく、私は部屋の中へと一歩を踏み出した。
私は彼に促されるまま椅子に座ると、彼も自分の椅子の向きを調整して座った。
向かいにあるアーモンドの瞳が輝いている。
「それじゃ、ちょっと飲み物取ってくるから待っててね。和泉、手伝って」
は?と言いながらも渋々肯定した兄が「すぐ終わるから、待ってて」と扉を閉めた。
あ、うん、と返した言葉は、多分聞こえなかっただろう。
「えっと、はじめまして」
困ったような表情で彼が笑う。
同じ言葉を返そうと思うのに、言葉が喉元で詰まって、泣きそうに、なった。
「――なんだろう、プレゼントかな」
頷いて返事をすると同時に俯けた顔が、突然の言葉に驚いて彼のほうに向いてしまう。
彼は、とても“はじめまして”の相手に見せるような表情をしていなかった。
「………誕生日の、ですか」
なんて、幸せそうに笑うのだろう。
「うん、そう。冬馬兄さんに聞いた?俺、今日誕生日なんだ」
生への希望が溢れていて、眩しすぎて、目を逸らしてしまいたいのに、離したくないと思う。
「あ、タメ口でごめんね。なんだかはじめまして、って感じがしなくて…変だよね。あ、そっちも敬語じゃなくていいよ」
その笑顔が、眩しい。
「………あ、はい、じゃなくてうん。あ、でも、えっと………私、小川香澄、です」
その言葉一つ一つが、私に染み込んで離れない。
「あ、うん。俺は、田嶋夏です」
後悔なんて、するわけがない。
「夏、君?よろしく、ね」
ああ、これこそが、正しいと思える。
「香澄、さん?よろしくね」
これこそが、正しい始まりだ。
――私と彼の物語は、この瞬間に、ようやく始まったのだ。
そしてまずは兄を含んだ四人で遊園地に行くんですねわかります。
あのお土産用の袋をトートバッグからはみ出させながら。
ちなみに夏さんの誕生日は7月30日です。
おめでとう^^!
誤字脱字や文法の間違いは是非ご指摘ください。電光石火の如く直します。
読了、感謝感謝でございます(-人-)