前編
ふわっと読んでください。
『さあ、行くよ』
見慣れた服を着た私が、聞き慣れた声に従って家を出る。
いったいこれからどこへ行くのか、遠出するときに必ず持っていくお土産用の袋がトートバッグからはみ出して見える。
『待ってよ兄さん!』
聞き慣れた自分の声が、まるで何かに遮られているかのように小さい。
やがて兄と自分が見慣れた街を歩いていくのを見て、私は目を開けた。
「………おはよう」
瞬きを繰り返し、閉じそうになる瞼を必死に開けながら、私は食卓に並んだ朝食をチラ見した。
今日のメインは鮭だった。
「おはよう」
「おはよー」
「ん、おはよう」
私は返ってきた三つの穏やかな声を聞きながら、まずトイレを済ませて手を洗い、自分が食べる分のご飯をよそって席についた。
準備ができた人から食べるように家族で決めた通り、私以外の三人はもう食べていた。
それぞれ食べるスピードが違うからかお皿の空き具合はバラバラだが、中でも兄が一番早い。
今日一番最初に食べ終わるのは兄さんかな、と考えつつ、両手を合わせて小さく食事の挨拶をする。
少し温い味噌汁を飲んで、適当に中身を頂く。
豆腐を箸で切ってしまったので、とりあえずわかめだけを咀嚼しながら、そういえば、と思った。
『さあ、行くよ』
夢で聞いた兄の言葉が脳裏に浮かび、寝起きにも考えたことをもう一度考えた。
きっと、兄はいつか私と二人でか、友人も含めた数人でかはわからないが、遠出しようと考えているのだろう。
先に兄の考えを知ってしまったのはなんだかばつが悪いような気がするが、行き先は知らないのだからきっと問題はないはずだ。
そもそもいつ行くのかすらわからないのだし、きっとその頃には忘れているだろう。
私は鮭の身を切って口の中に入れ、ご飯も同じくらいの量を口の中に入れた。
「…鮭の炊き込みご飯、今度食べたいな」
チラリと向かいの母に強請ってみると、母は柔らかく笑ってみせた。
「実は炊き込みご飯にしようか迷ったの。今度鮭を使うときは炊き込みご飯にするね」
その言葉に喜びを隠さず感謝を伝えると、ふふっ、と笑いが広がった気配がして、私は誤魔化すように笑った。
――自我がはっきりしだした頃から、私には少しでも知っている人を対象に、その人の夢の中に入り込んでしまう“力”があると気づいた。
両親は絶対に外でこのことを言わないようにと、当時まだ小さかった私と兄に言い聞かせていた。
私だけじゃないと思っていた無邪気な頃だったから、誰かに、特に家族に話すのに戸惑いなんてなかったのだ。
やがて成長してからは、いつだって罪悪感を抱えていた。
どうにかできないかと、疲れきってから寝てみたり、逆に寝ないでみたり、いろいろ試してもみたけれど、ダメだった。
試した甲斐あってか“力”への認識は確かなものとなり、私の中に当然のものとして根づいたけれど、ただそれだけで、私の求めた解決法は見つからなかった。
原因はわからないし、そもそもなぜこんな“力”を私が持っているのかもわからない。
けれど所詮夢なのだから、時間が経てば忘れるということで、私は渋々この“力”を受け入れることにした。
一番の決定打は、寝ないのは体に悪いんだから寝なさい!と怒られたあの言葉だったのだけど、今でもあの時の記憶はなかなか褪せてくれない。
母は強いのだ。
「香澄」
不意に名前を呼ばれて、反射的にゲーム画面から顔を上げる。
「ん?」
時計を見ると、短針が10を少し過ぎたところにあり、長針が4の上にあった。
仕事がある両親はもう家にいないので、必然的に声をかけてきたのはバイトがお休みで家にいる兄しかいないのだが、兄が私に声をかける理由がわからなくて驚いた。
「暇なら一緒に出掛けないか?」
よく見ると既に出掛けられる格好をしている兄を見て、私は目を瞬いた。
――入り込む、というよりは、迷い込む、というほうが正しいのだろうか。
それとも、入り込む、で良いのか。
わからないから、わからないなりに自分の感覚でこっちだと思うほうを使うしかないのだ。
私の“力”は、知っている人の夢に迷い込んで、その人の思い描いている未来を覗いてしまうというものだった。
夢に迷い込んだからと言って、その人がその日その時見ていた意味もない曖昧な今までの様々な記憶と想像を根幹とした夢の内容を覗くのではなく、その人の思い描いている未来を覗くのだ。
例えば誰か知っている人の夢に入り込んでしまって、そこにその人が思い描く温かい、私も知っている人との未来があったとき、私はその人の恋心を知るだろう。
例えば思い描く未来が漠然としたものだったら、何処か不安を抱かせる温かくない、けれど冷たくもない未来が見れる。
ただ会社で椅子に座りパソコンをいじる姿や、お利口さんな子供達の相手をする姿、そんな中身が詰まっていないと言うと聞こえは悪いけれど、つまりはそういう夢も見れる。
ちなみに親しい人、じゃなくて、知っている人、と言っているのは、本当にたくさんの人が私の迷い込むリストに入ってしまっているからだ。
小さい頃に何回か公園で仲良く遊んだ友達、学校で同じクラス、委員会で一緒になった人達、先生方まで、私が存在を覚えている限り、リストから消えることはないのだろう。
前に、これが親しい人だったら、とも考えたことがある。
けれどそうだったなら、私は親しい人を作らなかったかもしれない。
そう今では思うので、一概に知っている人で良かったとも良くなかったとも、私には言えない。
たまに連続で同じ人になったり、一度覗いた人もまた何日か経ってから覗いたりと、どういう基準で選ばれているのかはわからないけれど、だから私は、誰かの思い描く未来を毎晩覗いているのだ。
気怠そうなアーモンドの瞳が瞬いた。
「………彼女、は、その、」
力を失ったように隠された瞳を瞼の奥に見ながら、私は聞きたかった質問をしようとして、言い淀んだ。
兄に連れてこられたのは、よく一緒に遊ぶという田嶋さんの家だった。
田嶋さんには私と同じ歳の病弱な兄弟がいるから、どうか私に相手をしてやってほしいと前々から言われていたらしい。
けれどどうしても時間が取れなくて、ようやく今日時間が取れたそうだ。
それなら昨日にでも先に言っておいてほしかったと思うのは、我が儘だろうか。
そんなこんなで紹介された兄の友人は、なかなかの好青年で、とても印象が良かった。
だから、きっとご兄弟の方も良い人に違いないと、私は少し肩の力を抜いた。
と、そこで、私はこれから会うその人の性別を聞いていないことに気がついた。
私と同じ歳ということは、弟さんか、妹さんか。
もうすぐ会えるのに聞くというのも変な気がしたので、私は結局性別を聞くことなく、田嶋さんの案内に従って歩いていた。
促されるままノックをして、聞こえてきた許可の言葉に「失礼します」とドアノブを捻る。
「どうぞ」の一言だけじゃ性別がわからなかったから、私は内心ワクワクしながら扉を開けて、そして。
その先を見て、衝撃を受けたことを、私は否定しない。
短く揃えられた髪が枕に落ちていた。
細い、細い腕が布団の上にあって、右手が左手の内肘を触っている。
どうやら窓を眺めていたらしいその人の顔がこちらに向けられる、その動作がやたらとスローモーションに映って。
私は、息を呑んだ。
「いらっしゃいませ。本日はわたし、のために、わざわざありがとうございます」
少し困ったような表情の彼女は、零れ落ちそうなアーモンドの瞳で私を見ていた。
「い、いえ、そんな」
彼女から視線を外せない私は、後ろから兄に「ほら」と小突かれてようやく、部屋の中へと一歩を踏み出した。
それから丸テーブルの周りにある椅子に「どうぞ」と勧められるまま座った私は、隣に兄が座ったのを視界の端に捉え、また田嶋さんの妹さん――夏さんを、見た。
比喩でなく零れてしまいそうなアーモンドの瞳と、はっきり浮き出た鎖骨が、印象に強い。
けれどそれよりも、どこか諦めたような雰囲気と、アーモンドの瞳の奥に見える、“絶望感”が、私の胸を締めつけた。
「私と同じ歳、って、ことは、14歳、ですか?」
夏さんの相手をしてほしいという田嶋さんの願いに応えるため、何か喋らなければ、と遠慮がちに切り出した言葉がたどたどしくなってしまったのには、私もどうしようもない。
もういっそ実は私はコミュ障だったみたいな設定を付けてもいいくらいには、自分が動揺してることを自覚している。
「はい。でも、もうすぐ誕生日なので、そうしたら15歳になります」
少し低い声が耳に心地よく響く。
私は唾を飲み込んで、とりあえずは夏さんとの会話に集中することにした。
それから麦茶を持ってきてくれた田嶋さんを含め、四人で会話をしていたとき、夏さんが小さく欠伸をして。
それから起きた数秒の出来事は、収まっていたはずの私の動揺をいとも簡単に蒸し返した。
「ん………すみ、ません、また………おはなし、した………」
耐えるように瞬きを繰り返していた夏さんの瞳が、遂に隠された。
「あ、の」
私はハ、と息を吸って、動揺を隠せないまま彼女のことを聞こうとしたけれど、途中で言葉が途切れてしまう。
安らかとは言いづらく、まるで吸い込まれるように眠りに落ちた夏さんの白い顔から目が離せなかった。
「………夏はね」
見かねたのか、元々話すつもりでいたのか、田嶋さんの話はスムーズに始まった。
「本当に、病弱なんだ。免疫力が弱くて、病気になりやすい。けれどそれだけじゃなくて、何かを食べても上手く体に吸収されない。そして、不定期に体が求めてくる睡眠に抗えない」
ポツリと漏れた「なに、それ」は、あまりにも掠れて、私の耳にも届かなかった。
「兄さんも知ってたの?」
小さく頼りない私の声に、兄は首を横に振った。
「病弱な兄弟がいるとは聞いていたが、詳しくは知らなかった。正直、俺も………驚いている」
ふと見ると、兄は右手で左手の甲を掴んでいた。
動揺しているときの癖だ。
もしかして、部屋に入ったときからずっと掴んでいたのだろうか。
「………こん、こんなの、病弱じゃないっ………もう、病気と言うべきです」
言外におかしいとは思わなかったのかと、病院は行ったのかと、震えた声で田嶋さんに問う。
田嶋さんはその全てを察したわけではないだろうけれど、一度唇を噛み締めて答えた。
「毒、みたいなものなんだ。昔、夏は毒を飲まされた。解毒薬のない、最悪なものさ。それで夏は痛みと苦しみを強制的に背負わされた。当然病院にはすぐに行ったけど、匙を投げられたよ。症状が多くて、下手したら一つの症状を治すための薬が他の症状に悪影響を与える可能性がある、と。結局、発熱したときのための薬を貰っただけだ。毎日点滴に通って栄養を、夏の体に送って、それで………っ、夏が、どうせ死ぬだけなら、最期まで家で、大好きな家族と過ごしたいって泣きそうな顔で言うから、俺はっ………!」
「冬馬!………もう、いい」
兄が立ち上がって、田嶋さんの肩にそっと手を置いた。
私は田嶋さんからそっと目を逸らすと、白い、白い夏さんの寝顔を見て、言った。
「………また、来ていいですか」
少し俯いて、目を伏せる。
諦めたような雰囲気の、細い、細い少女。
「来てくれると、有難い。滅多に自分の希望を言わなかった夏が、それを望んでいた」
ぎゅっ、と、膝の上で両手を組んだ。
「………はい」
――彼女の思い描く未来は、なんて綺麗なのだろう。
モノクロで色などないのに、鮮やかで、くっきりとしている。
彼女の兄が私の兄に勉強を教わりに行く姿、仲の良い彼女の両親が夫婦水入らずでお出掛けする姿、私が笑っている姿。
けれどそこに、彼女の姿はない。
あの日、枕の横にあった数冊の本を読む彼女の姿を、私でも想像することができるのに、彼女は自分のその姿を未来に思い描かない。
私が覗いてきた未来に、未来を思い描いたその人の姿が出ないことなんてなかったのに、その出ない夢を、この時初めて見てしまった。
だから私は、きっとそうなのだろうと、確信に近い思いを抱く。
――彼女は、もう長くない。
「おはよう、ございます」
驚いたように瞬きを繰り返す夏さんに、私は笑って同じ挨拶を返した。
「………もしかして、ずっと、見てました?」
ほっそりとした腕が布団を鼻まで引き寄せた。
私は誤魔化すように笑って、「えへ?」と、間違いなく肯定の返事をした。
そうして恥ずかしがっている様子の夏さんと二人、たくさんの話をした。
今日は少し雨が降った、ここは蝉の声がうるさくないか、いつも暑くないのか、というような取り留めのない話から、バスケ部が準優勝したらしいとか、吹奏楽部の人はすごいだとか、私の通う学校の話をした。
そしてお互いの家族の話をして、最後にいつか一緒に遊園地に行きませんか、と誘ってみたのを最後に、夏さんはまた眠りについた。
「いい、ですね………ぜひ、いき………たい………」
力が抜けたように瞼が下ろされて、アーモンドの瞳を覆う。
「………おやすみなさい、夏さん」
私は小さく、震えた声でそう言うと、田嶋さんに軽く挨拶をして足早にその場を去った。
笑みが、抑えきれなかった。
私は掠れた小さな声でも、確かに夏さんから了承の言葉を得られたことに、自分でも驚くほど感情を昂らせていた。
例え私の顔を立たせるための、その場限りの返事だったとしても、それでも。
私はこんなに、震えるほど、嬉しい。
夜ご飯は兄と二人きりだった。
「今日、早速冬馬のところに行ってきたのか?」
豆腐のハンバーグを箸で切りながら、兄はチラリと私を伺ったようだった。
「うん、行ってきたよ」
私はなんでもないことのようにそう言って、すぐに「ちなみにどちらかと言うと夏さんのところに行ってきたよ」と訂正を入れた。
するとトン、と音を立てて、食事途中のはずの兄が箸を置いた。
「………正直」
驚いて見た兄の顔は、いやに真剣味を帯びていて。
「紹介したのは失敗したかと、思っている」
豆腐のハンバーグを咀嚼していた口を一瞬止めて、私は軽く目を見開いた。
「仲良くなって、いつか傷つくのは香澄だからな」
目を細めて私を見る兄の視線は、私の心まで覗こうとするようで。
「………」
私は、何も言えなかった。
返す言葉はいくつか思い浮かんでも、今言うべき言葉は一つも見つからなかったのだ。
「そう、かな」
結局、曖昧に濁して返事をすると、私は兄から視線を外して残りのご飯をかきこんだ。
「ご馳走様でした」
私は両手を合わせてそう言うと、お皿と箸を流しに置いて、私の雰囲気を察したのか何も言わずに食事を再開した兄の肩をポンッと叩いた。
「あんまり考えすぎないで」
大丈夫だよ、というニュアンスは、きっと伝わったと信じたい。
私は、望んだ人の未来を覗けることを知った。
夏さんの思い描く未来が見たいと、そう思って眠ったら、昨日見事に見ることができたのだ。
だから、私は試してみることにした。
あれが偶然でないのなら。
もしもまた、今晩、夏さんの思い描く未来を覗けるのなら。
きっと、私との約束を多少は思い描いてくれているのではないか、と。
「………っく、」
――しかし、夏さんの思い描く未来に、変化はなかった。
目覚めた直後は力が入らないのが常なのに、食いしばった歯が僅かに音を立てる。
私と夏さんが遊園地で遊ぶ姿は、なかった。
なんて、悔しいのだろう。
なんて、悲しいのだろう。
握りしめた布団に皺ができて、すぐに戻った。
「夏さん、こんにちは」
パッと笑顔を浮かべ、柔らかく挨拶を返してくれた夏さんのアーモンドの瞳に、絶望感は見えない。
純粋に私が来たことを喜ぶ色を見て、やっぱり聞かずにいることはできなかった。
私は会話のタイミングを探り、会って三日目で聞くには考えなしと言える質問を、した。
「ところで夏さんは、行きたいところとか、したいことはありますか」
そんなことを聞いてどうすると、望んだって叶わないのにと、いっそ詰ってくれたなら、私は夏さんが生への希望をまだ持っているのではないかと考えられた。
けれど。
「………そう、ですねー。いろんなところに行きたいです。昨日誘ってくれた遊園地も、水族館も、ファミレスも、ゲームセンターも、いろんな、ところ」
今までにも聞かれたことがあるのか、その答えは滑らかに薄い唇から放たれた。
「コンビニで買い物とか、カフェでお茶とかしてみたいし、自分で料理とかもしてみたい、です」
自分の右手を見ながらそう言った夏さんの瞳には、諦めと絶望の色が濃く映っていて、私は。
「………しましょうよ。私と、一緒に」
そこに希望の色を、生への渇望を見つけられなかったことに、ショックを隠しきれなかった。
「料理とか、簡単なものなら私も作れますし、材料のお買い物とか、時間がなければカフェでお茶とか、そんな身近なことから、ね!」
元気に、力強く言えれば、夏さんも少しは希望を持てたのだろうか。
けれどたどたどしく飛び出してしまった言葉は、もう戻らない。
いつの間にかぎゅっと組んでいた両手を離して少し躊躇うと、私は夏さんの右手を両手で握った。
「今日はもう帰らなければいけないのですが、また明日も、来させてください」
どうか。
「はい、是非。来てくださると嬉しいです」
どうか、
――私が来ると言うだけで、こんなにも嬉しそうに笑う、アーモンドの瞳の少女に、未来を。