たった一つの生きる意味
僕には妹がいて、そして僕と妹はあまり家庭環境のいい場所にいなかった。
僕の家は母親が三年前に事故死してからずっと僕と妹と父親の三人暮らしだった。この父親がまた困った人で、人に暴力をふるうのがどうしようもなく好きな人だった。僕と妹はいつだって酒に酔った父親に殴られ、蹴られ、煙草を押し付けられ、酒瓶で頭を殴られた。
おかげで僕たち兄妹はいつだってアザだらけの傷だらけで、学校に行けばハレモノ扱いだった。教師たちは家庭の問題だと僕たちに関与してこなかったし、僕たちも誰にも相談することができなかった。
友達もできず、ただただ毎日が苦しくてつらかった。幸せなことなんてなくて、この世は不幸と絶望と暴力だけで埋め尽くされてるのだと思っていた。一つだけ幸運だったのは妹がいたことだ。この痛みも絶望も共感できる相手がいることだけが僕にとっての唯一の救いだった。妹と二人でいる時だけが唯一自分の存在を許されているように思えた。
寒い冬の日に倉庫に父親に倉庫に閉じ込められた時も、学校で周りの人たちから迫害された時も、近所の人たちに邪険に扱われる時だっていつだって妹はそばにいた。
僕たち二人はいつだって一緒にいてお互いを深く理解して、共感して、そして慰めあった。このみじめで笑えてしまうくらい最低な生活の中で僕たちはお互いだけを信じて生きていた。
「お兄ちゃんはお母さんみたいにいなくならないよね?」
同級生に投げ捨てられた妹のランドセルを川から引きあげて、二人して土手で服が乾くのを待っているとき不意に妹はそんなことを聞いてきた。
「私ね、お兄ちゃんがいなくなっちゃたらきっともうダメ。生きていけないと思うの。」
体育座りをして顎を膝に埋めながら妹は心底心配そうに言った。
「もちろん。僕もね、きっとサクラがいなくなっちゃたら生きていけなくなると思う。」
「私たちはやっぱり似た者同士だよね」
「兄妹だからね」
少しの沈黙があって、妹は顔を上げていった。
「私ね。夢があるの」
「夢?どんな夢」
「いつかあの家を出て、私たちを知ってる人が誰もいないところに行って、お兄ちゃんと一緒に穏やかに暮らすの。そこで私とお兄ちゃんで一緒に朝ごはんを作って、行ってきますって言って、家を出て。ただいまって言って帰ってくるの。二人でまた夕ご飯を作って「おいしいね。」って笑ったりして、夜は二人でお休みを言って眠るの。とても穏やかで平和な日常がそこにはあって。私たちはいつでも笑っていられる。そんな未来を私はずっと夢見てるの」
「それは幸せな夢だね。今からじゃとても考えられないほどに」
妹の言うその世界は僕にとっても理想的で、まさに僕が憧れる「普通の生活」だった。
「じゃあ僕が高校生になったら一緒にあの家から逃げようか」
「え?」
妹は驚いた顔で僕を見る。
「僕は来年高校生で、サクラは来年中学生だ。僕は県外の学校を受験して、あの家を出る。その時にサクラも僕と一緒にあの家を出よう。学費は奨学金でどうにかするし、生活なんかも僕がバイトして稼いでくる。だからあと一年我慢しよう」
「でも、本当にそんなことできるの?」
妹は困惑した顔で僕に問いかけてくる。
「確かに難しいことだし恐ろしく大変なことかもしれない。それでも僕は頑張るよ。サクラと一緒に一秒でも早くあの家から出たいからね」
「わ、私もいっぱい手伝うよ。ご飯作るし、洗濯するし、お掃除もする。中学生でもできるお仕事探してお兄ちゃんと一緒に頑張るよ!」
前かがみになって僕に詰め寄る妹は、今まで見た顔の中で一番希望に満ち溢れた顔をしていた。
「絶対に、一緒にあの家から出ようね。」
そういって笑った妹は今まで見た中で一番生き生きとしていたかもしれない。
そのあと家に帰ると帰りが遅いと、また父親に殴られて僕と妹は倉庫に連れていかれそこで一晩を過ごした。
妹と土手で話してから一年が立ち、僕と妹は明日卒業式という日、最悪の出来事が起きた。
その日は卒業後すぐに父親から逃げられるように荷物をできるだけ最小限にまとめていつでも家から逃げられる用意をしていた。妹も同じように荷物をまとめて僕の部屋で最終的な打ち合わせをしていた。
「明日卒業式が終わったら家には帰らないで、青空公園にきて。そこで合流してそのまま僕のアパートまで行って二度とこの家には戻ってこない。だから今日のうちに荷物は全部まとめておいてね。」
「うん。大丈夫だよ。さっき全部まとめてきたから」
「よし。くれぐれも父親にばれないようにね。ばれたら何をされるかわからないから」
「大丈夫。まとめた荷物も隠してあるから」
「オッケー。他に何か疑問点とかある?」
「今更だけど、私たちが逃げてあの人追いかけてこないかな?」
「その点は多分大丈夫だと思うよ。あいつは僕たちに対していてもいなくても変わらないくらいの感情しかないと思うから。道端の石と変わらないんだよ。いつだってなんか蹴りやすそうな石があるから蹴っておこうみたいなそんな軽い気持ちなんだ。」
「そっか。私たちそんな気まぐれに今までずっと悩まされてきたんだね。」
「そうだね。でも、それも明日で終わりだ。僕たちはこれでやっと普通の生活を送れるんだよ」
「明日かー。あの土手で約束した日から、今まですごい長かったね」
妹はベッドの上で体育座りをしながら感慨深そうに呟いた。
「ずっと苦しくて、つらくて、大変で、何回もう死んじゃおうと思ったかわからなかったけど、それも全部明日のために我慢してきた。いつか来るお兄ちゃんとの普通の生活を夢見て耐えてきた。それがやっと明日報われるんだね。」
「ずいぶん待たせちゃったけどね。でもこれで、ようやく僕たちは自由なんだ。」
「ありがとうお兄ちゃん。私ね、お兄ちゃんがいたから今まで生きてこられたんだよ。つらい時も苦しい時もいつだってお兄ちゃんがいてくれたから私今まで我慢してこれた。だから、本当にありがとうね。お兄ちゃん。」
気付けば妹は泣いていた。
「僕だって同じだよ。辛いとき、苦しいとき、いつだってサクラがそばにいてくれた。だから僕は頑張ってこれたし、これからも頑張ろうって思える。だから感謝するのは僕のほうなんだ。サクラ、今までありがとう。そしてこれからもよろしく。」
「こちらこそよろしくお願いします。お兄ちゃん」
二人して頭を下げて笑いあった。妹のその笑顔が輝いて見えた。希望に満ち溢れた顔をしていた。きっと今の僕もそんな顔をしているのだろう。
今の僕たちは希望に満ち溢れていた。この先きっと大変なことも多いし、苦労することもたくさんあるだろう。でも、妹と一緒なら不思議と怖くはなかった。なんでもやり通してやるって気合で満ちていた。僕には妹との明るい生活しか見えていなかった。
僕は夕方ごろに必要なものがあるといって家を出た。
妹もついてきたがったがすぐ戻るからと言って家に残してきた。今日は父親も帰りが遅くなる日だし、家にいても大丈夫だろうと思った。
僕は家を出て商店街で必要なものを買った後ケーキを買った。今日は二人でお祝いをしようと思った。何に対してのお祝いかなんてどうでもよかった。とにかく今日は何かお祝いをしたかった。帰りにCDショップによると妹がほしがっていたジャニス・ジョプリンのCDがあった。僕はそれをプレゼント用に包装してもらい家に帰った。
家の玄関には見慣れた大きな靴があった。父親の靴だ。買ってきたものはすべて手からするりと抜けおちた。背筋が凍るかと思った。家の中は異様にアルコール臭かった。急いで靴を脱いで家に上がってリビングに入る。
目に映ったのは馬乗りになって妹の首を絞める父親と苦しそうに悶える妹の姿だった。父親の後ろには妹が出ていくためにまとめていた荷物。父親は僕たちが逃げようとしていることに気付いたのだ。
妹の聞き取れないような悲鳴が耳に入って、僕は助けなきゃと思った。僕はリビングにある棚の引き出しから鋏を取り出して父親の背後から彼の首にめがけて突き刺した。
肉に鋏が食い込む感覚が気持ち悪かった。でも僕は構わず力を込めてどんどん鋏を奥に突き刺していく。血が信じられないくらい噴き出して、僕の顔や服を不愉快に濡らしていった。やがて抵抗がなくなり鋏が首を突き抜けたのが分かった。僕の父親はガクガクと痙攣して倒れこみ、やがて動かなくなった。
僕は父親どかして妹を抱きかかえて起こす。
「サクラ!大丈夫か!」
返事はなかった。目は開きっぱなし。体はやけに重く、息もしていなかった。体は冷たくて、脈もなくて、心臓も動いていなかった。首はどれだけ力を込めたらこんなアザができるんだというくらいくっきりと手形が残っており、首はおかしな方向い倒れていた。きっと首をおられたんだ。数十分前まで希望で満ち溢れていた瞳は今や濁りきり精気を感じることはできなかった。
サクラは死んでいた。
頭が真っ白になった。何を考えればいいのかすらわからなかった。なんでこうなったのか。どうして僕は妹を一緒に買い物に連れて行かなかったのか。なんで父親がここにいるのか。何もかもが僕にはわからなくて、理解できなくて、信じたくなかった。僕の腕の中にいる妹を見る。苦しそうにゆがむ顔。涙のあとが残る頬。濁り切ってしまった瞳。とても怖かっただろう。
いつも一緒だった妹。辛い時も、苦しい時も、大変な時も。いつだって一緒で、でも僕がいるから耐えられると言ってくれた妹。そんな妹を僕は一人にしてしまった。一緒にいてやることができなかった。一番怖くて、苦しくて、つらい時に僕は一緒にいてあげられなかった。
僕が出ていくときに見せた妹の笑顔が頭から離れない。これからたくさんいいことが起こるはずだった。妹にも僕にもこれからは幸せな時間が訪れるはずだった。それを一番楽しみにしていたのは妹だったはずなのに。僕は守ってあげることができなかった。
押し寄せる後悔の念と、絶望感が僕を支配した。生きている意味がなくなった。僕にとって唯一生きている理由だったものがなくなり僕は生きる意味を見失った。
僕はキッチンから油を持ってきて父親に全部ぶっかけた。父親のポケットからライターを取り出して僕は父親に火をつけた。
人の肉が燃える匂いなんて嗅いだことなかったけど、なるほど少し香ばしいようなにおいがするんだななんて考えた。僕は妹を抱えて僕の部屋のベットに寝かせた。
下ではきっと今頃いろいろなものに火が燃え移って大変なことになっているだろう。でもそんなことはもうどうでもよかった。僕はCDプレイヤーでジョンレノンのスタンドバイミーを大音量で流した。僕とサクラの最後にはぴったりの曲だと思ったから。
僕はサクラの隣に腰かけてごめんと小さくつぶやいた。そしてサクラの隣に横たわって僕は目を閉じた。
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