蒼い月(1-5)
「……? どうした?」
彼女が再び異変に気づいた時、既に囚われ人の人格は完全に遮断されていたわ。もう何も考える事の無い、ただ其処に身体だけがあるという存在になっていたの。
「完全に理性を失ったか。まぁ大人しくなっただけ良しとしよう……っ!」
そしてやはり大して気にも止めず、彼女はその刃を再び振り下ろしたのよ。
――ダン。
大腿部に狙いを定めたにも関わらず部屋に響いたその音は金属同士の激しい鍔迫り合いそのもの。衝撃の反動かそれとも神経の反射なのか、切断された左足は最期に大きく屈伸のような動きを見せて……そのまま動かなくなったわ。
「声も上げず、か。人格が死んでしまった今、蛹化がどのような反応を見せるのか見物だな」
切断したのは左足のみだったけれど彼女はそのまま蛹化の儀式を始めたわ。おそらく、左足を捧げるために必要な自身の血液量を見て右足を切断するかどうかを見定めようとしていたのね。被験者の出血によるショック死を避けるため彼女が切断後すぐ蛹化の儀式に取り掛かったのは当然とも言えるのだけれど、……それが最大の過ち。
囚われ人の人格が消失してもその体内にはまだ私――【加治佐眞子】の人格が存在していたのよ。そして主人格が消滅した今、蛹化の儀式を司る気まぐれな神様か何かが契約の対象として選定した精神体は彼女にとって不幸な事に、私だったの。
私にとって欠損した肉体は、両足だけではなく全身そのもの。
だってそうでしょう? 生まれながらにして私の手足は主人格に奪われその精神だけが脳内に存在していたのだから。
だから必然的に、彼女が呪文を詠唱し終えたその瞬間――
「っ! なっ……!?」
指先に付けた傷跡から垂れる血液は徐々にあふれ出しまるでダムが決壊したかのような勢いで傷口をこじ開け終には、
「ぐぎゃ、あぁぁぁぁぁ! 何だ、何だこれはっ!」
その指先を圧力で吹き飛ばしたの。
そして囚われ人の全身が紫紺色の発光に包まれた時、彼女は自身の過ちにようやく気づいたわ。でも既に、……遅かったのよ。彼女は自ら幕を上げた蛹化儀式の結末を看取る事無くその場に伏せたわ。おそらくはほぼ全ての血液を失ってしまった事でしょうね。
全身を消滅させられた私は蛹化には成功したけれどもちろんそのままでは生き存えない存在だったわ。でも幸運な事に蛹化と共に私が目覚めた能力はその状況を補って余る程だったの。
そう、それが……【肉体編成】と【精神感応】。
私は人に乗り移りその精神を支配してその肉体を自在に操作する事が可能なの。だから魅翠奈に左腕を与える事も出来たし、もっと言えば蛹化後に眠っていた魅翠奈の精神と同調して予め事の顛末を伝えておく事も可能だったのよ。
……もう、分かったかしら? そうよ、今の私の身体は、……私達を拉致し研究対象としていた、あの女の肉体よ。
そうして肉体を得た私は、それでもまだ危機を脱していない事にすぐ気づいたわ。何しろその身体には血液がほとんど存在していなかったからろくに動かす事も出来なかったの。
朦朧とする意識の中で私は懸命にこの窮地を脱出する方法を考えていたわ。するとすぐにとある感覚が思考を妨害し始めたの。……それは嗅覚、だったわ。
そうそれは、とても美味しそうな匂いだったのよ。
でも何故、……目の前にあふれる囚われ人の血液が、こんなにも美味しそうに感じるの?
でも、――もはや私には論理的に考えている余裕なんて無かった。まともに動かないその身体で床に飛散した囚われ人の血液を懸命に啜ったのよ。
ぺろり……じゅるり……べとり……
一握りの血液を得たその身体はすぐに生命活動を維持し始めたわ。そして私の核が生み出す血液が身体中に満たされるのをゆっくりと待って、それからようやく私はドアに向かって歩き始めたの。ぺたり、ぺたりと一歩一歩、その感覚を噛み締めながら歩いたものよ。




