蒼い月(1-2)
ボク達は元々普通の人間だった。……そうだね、三年程前までは。
『三年前?』
三年程前にボク達はそれぞれ別の場所で同一人物に誘拐されたんだ。それまでこの三人に接点と呼べるような物はまったく無い。おそらく無作為だったんだろうね、その辺りを一人で歩いている人間なら誰でも良かったんだろう。愚かにも当時のボクは両親とケンカをして家を飛び出し世間知らずにも関わらず一人で生きてやろうと意気込んでいた真っ最中だったんだよ。
そして、ボクは気がつくと窓の無い部屋にいた。直前の記憶と現状がまったく結びつかなくて当時のボクといえば部屋の隅で膝を抱え唯々息を殺し部屋中を観察する事しか出来なかったよ。もちろん泣き出しそうにもなったけれど、大きな音を出したらそれだけで消されてしまいそうなくらい殺風景で静かな場所だった。所々塗料のはげた白い壁に囲まれた十畳程の部屋でね、家具はもちろんトイレも無くて、外に繋がっているのだろうドアにはもちろん鍵がかけられていた。
どれくらい経った頃だったろう。ドアの向こう側に人が近づいてくる気配を感じた。恐怖心が麻痺し始め少しウトウトしかけていたボクは途端に目が覚めて、猛烈な胃の痛みを覚えた。
一呼吸の間に鼓動が何回も続いて、ドアから一切目をそらす事が出来ない。喉を下る唾がとても酸っぱかった事を覚えているよ。膝を抱えたままの腕を放したらもう二度と恐怖による身体の震えを押さえる事は出来ないんだろうな、と思った。
やがてドアが開くと女性が一人きりで入って来たんだ。白いブラウスに黒いスリムパンツ、その上から白衣を羽織っていて研究者のように見えた。屈強な男達が数人で押し寄せてくる妄執に囚われていたボクは少しだけ安心もしたけれど、毛先が少しだけ内向きに巻かれていた金髪のロングヘアから透けて見える藍緑色の瞳を備えた人を人とも思わない程に冷たい目を見た時、ボクは例えほんの少しとはいえ安堵した自分を恥じた。
そしてその女性はゆっくりと近付いて来たんだ。ボクは拘束されているわけでもないのに立ち向かう事も逃げ惑う事も出来ずただその場で蹲っていただけだった。
「あ……あ……あぁ……」
すり潰れ怯えた声を呼吸と共に響かせるのがやっとさ。これが恐怖と言う物なんだろうね、後にも先にもこんなに怯えた事は無かった。
「……貴様は何処なら無くしても良いと思う?」
やがて目の前に立ったその女性は落ち着いた低い声でそんな言葉を口にした。その意味がまるで理解出来ないボクは恐る恐る視線を上げ彼女と目を合わせたんだ。彼女はその切れ長なたれ目に相変わらずの冷酷さを纏わせたまま、けれどもそれ以上は何も言わなかった。
早く何か答えないと、彼女の望む何かを伝えないと、そうしないとボクはきっと殺されてしまう! ……そう思ったよ。
「あ……あの……」
にも関わらず何の解答も見つかられなかったボクは、とにかく何か喋らなくてはと適当な事を口にした。口にしてから、その次に続けるべき言葉を考えていたんだ。とにかく、もう沈黙に耐えられなかった。
「あのっ……何処……って……?」
結局ボクが出来た事は質問に質問を重ねる事だけだった。余計な怒りを買う危険性ももちろんあったけれど知った振りをして適当に答える方が恐ろしかったんだ。
「……貴様は失うとしたら身体の何処が良い? と聞いているんだ」
「ひっ……」
ボクは思わず悲鳴を上げた。恐怖に支配されたその場においてもすぐに情けなさを感じる程ひっくり返った惨めな声だったよ。
「その代わりに貴様は、見返りを得る。人間と言う存在を超え特別な力を得るのだ。その代償になら、……お前は何処まで自分の身体を犠牲に出来る?」
質問の内容はようやく分かったけれど意味はまったく分からなかった。しかし不思議な事にボクはその答えを真剣に考え始めたんだ。そのくらい彼女は真面目に質問をしていた。『何処も失いたくない』なんて興ざめな解答を口にしてしまったら即座に殺されてしまうと直感したよ。
「え……えっと、その……」
ボクは膝から手を放し手のひらを見つめながら必死に考えた。
頭。論外だ。
両腕。出来る事なら残したい。
内臓。間違いなく死ぬだろう。
両足。両方を失う事は避けたいが……
――結局、何かを失わなければならないと言うならば、それは片足。失っても移動が全く出来なくなる事は無い、ただ歩くだけという事ならきっと義足でも何とかなる……一旦そう思い始めるとその考えを否定出来るだけの材料はもう見つけられなかった。
「……決まったようだな。それでは私に、その答えを教えてくれ」
「か、かたほうの……あし、なら……」
ひっく、ひっくとひきつけを起こしたかのように何度も息を飲みながら、震える声を振り絞り精一杯の答えを口にした。すると彼女は、
「ほ~う……」
大げさにそう言った。再び視線を上げたボクの目に飛び込んできた彼女の顔は喜びに歪んでいて、まるでボクの目に魚眼レンズをはめ込まれたみたいだった。
「素晴らしい。素晴らしいぞ貴様。今までこの質問に回答出来た者は皆無だった。それがまさかか弱い女性が、しかも大胆に足と答えるとは、な!」
満足げにそう話すと彼女は強引にボクの手を引き寄せそして噛み付いたんだ。あまりに突然の出来事でボクは痛みを感じる間も無く、それよりも奇妙な感覚が先に全身を駆け巡った。
「あ……あぁあ……ぐぅ……」
それはまるで血管の内側を丁寧に舐め取られているかのようでくすぐったさと痒みの中間を巡る感覚だった。その内に噛まれた箇所が熱を帯び反対に背筋の下から何か冷たい感触が背骨を駆け上がったんだ。
「あ……あ……あ……」
程なくして全身の力がかくん、と抜けて涙と、恥ずかしながら唾液があふれ出した。筋肉を自分の意志で制御する事がまったく出来なくてね、まるで自分の身体じゃないみたいだった。
「さて、……それではこちらに」
まったくボクの言う事を聞かないそんな身体が、しかし彼女の声を聞いた途端に動き出した。自分では全く動かす事が出来ないのに足の裏が地面を蹴る感覚はしっかりとあって、とにかく怖かったよ。おそらくはこれが彼女の能力だったんだろうね。
「さぁこっちだ。この上で仰向けになって寝てくれ」
監禁されていた部屋を出るとそこは通路になっていて、他にも部屋がいくつかあった。その内の一つに入るとそこには検視台があって、ボクは言われるがままにその上で仰向けになってしまったんだ。
――かちゃり、かちゃり、かちゃり。
すると彼女は金具とベルトを取り出してボクの右足首と右膝を固定し始めた。何をするつもりなのかは一目瞭然だ。しかし抵抗したくてもやはり身体を動かす事は一切出来ずボクは唯々呆けたままで天井を見ていた。
「これで準備は完了だ。あとは……そうだな、今から貴様は生まれ変わるのだ、その喜びを顔で表現してくれ」
「は……はひ……」
屈辱の極みだった。ボクは無理矢理、……笑わされたんだ。
「は、ひ……ひゃ、あは、あはは、あはははは、ひゃひゃひゃひゃひゃひゃひゃっ……!」
そして彼女は斧を振り上げ、一直線に――
……それでもボクは、笑い続けたんだ。