霧と繭(1-4)
……そんな馬鹿な、一体何処に!?
道路を挟んだ向こう側には地面にへたり込んだ樋口羽衣美と、その樋口羽衣美を抱き留める香山美衣が居る。それは先程から変わらない。
夢じゃない。今までの事全て、何もかもが現実なのに、ふと一人の少女だけが消え失せた。
「加治佐さん…………っ!?」
――ぞクり。宗像玖耶がその名を再び口にした瞬間、背筋を悪寒が駆け抜ける。既に今以上の絶望があろうかという状況にも関わらずその現状を遙かに超えるだろう未知なる恐怖が彼の背筋を強制的に伸ばし身構えさせた。
――ドクン。
その感覚は。
まるで水平線の向こうから大量の節足動物が群れをなして進軍して来るかのようで、
「……私は此処よ」
「……うわわわわっ!!!」
自身の迷夢を途絶され突然深夜に目が覚めた時のように周囲を冷静な目で把握しようと努めた彼が振り向くとそこにはさも当たり前のような顔をした加治佐眞子が立っていた。
ぎりぎりり。
……おかシい。
……何かが、おかしイ。
樋口魅翠奈が暴漢に襲われ死の淵にある、そんな出来事は所詮自分達の日常と紙一重の関係でしかないと思えてしまう程の違和感が霧となって辺りを包み込んでいる。
樋口魅翠奈に対し何の動揺も見せない加治佐眞子。
暖かさすら感じさせる笑顔で樋口羽衣美を抱き留める香山美衣。
そして、手の甲から不可解な武器を出し躊躇いなく男の心臓を貫いた泉水七零。
この三人の何もかもが、彼の知る日常の世界と馴染まない。
「加治佐さんっ、救急車! 早くっ!」
そんな隔絶感を振り払うかのように彼は語気を強め叫んだ。
「宗像君、落ち着いて。……大丈夫よ」
大丈夫。……大丈夫? 何が、どう大丈夫だと言うのか。しかし加治佐眞子の凜と輝く瞳からは仄暗いこの惨状を憂う感情が微塵も窺い知れない。
「大丈夫って……どういう意味だよ……?」
「そうね。……まずは魅翠奈さんをゆっくりと地面に寝かせてもらえるかしら」
重傷者を迂闊に動かすなという事だろうか。無論彼もそんな事は把握している。しかしその点を指摘するならばまずは救急車を呼ぶ方が先決ではないだろうか? 彼には言われた事が意味するその先が全く理解出来ない。
「いや、そんな事より……」
「早くっ!」
真っ向からの視線が彼を突き刺す。初めて聞いた加治佐眞子の怒号はとても鋭くそして声に一点の歪みも無かった。
「あ、あぁ……分かったぜ……こうで良いのか?」
その自信に満ちあふれた声はこの場を支配する奇怪な雰囲気も相まってともすると助ける術を知っているのではないかと宗像玖耶を麻痺させる。その根拠の無い期待感に身を任せ彼はゆっくりと赤褐色の泉へ樋口魅翠奈を浸した。
「ありがとう。後は危ないから離れていてもらえるかしら。……七零、良いわね?」
「……あぁ。仕方無いね」
いつの間にか香山美衣の傍で様子を伺っていた泉水七零は目を瞑り少しだけうつむいてそう返事をした。許可を求めてはいたが肯定が前提の会話のように宗像玖耶には聞こえた。
そんな儀式的な会話を終えると加治佐眞子は左手を前に突き出した。
その手は、――ダラリと垂れ下がる細長い何かと握手を交わしている。その正体を宗像玖耶の脳が理解する前にその視線は自然と街灯の蛍光が描く縁をなぞった。
……無い。
「お、おま……そ、れ……」
最後に言葉を発したのはつい数秒前だというのにまるで長期間喋らなかったかのように彼の声は擦れ喉が押し潰される。それより先は言葉を繋ぐ事が出来ず開いた口をただ無意味に痙攣させるのみだった。そんな彼に反応を示す事無く加治佐眞子は自身の右手首の辺りを優しく噛んだかと思うと、
「……っ!」
そのまま強引に肉を引き千切る。
――もはや、宗像玖耶の口からは呼気すら漏れ出せない。
ぺっ、と肉片を地面に吐き出すと加治佐眞子は赤よりも黒色の成分が強くとても人間の血液とは思えないその体液を樋口魅翠奈の全身に垂らし始めた。瞬く間に樋口魅翠奈の身体は深紅の血液から禍々しい黒色に塗り替えられる。
「……祖と断絶し死の呪縛に彷徨う肉塊よ、されど諍え、汝は腐乱の運命に非ず。我の血と盟約により自らを灰燼に帰して破綻せし祖の憧憬を絶望の深淵より済度せよ……」
加治佐眞子が静かに呪文のような言葉を口にした次の瞬間、彼女と握手を交わす左腕が微かに痙攣を始めその内側より黒い霧のような物質が吹き出しすぐに左腕全体を包み込んだかと思うと内部より紫紺色の幻想的な発光を始めた。
「泥土に浮遊する卵囊、淫慾に塗れる妖蟲、唾棄し抛棄せよ、その身躯に寄生る贄を蚕食し霧と繭の抱擁にて寧静と睡れ……」
もやの中わずかに透けて見える左腕は急速に風化しやがて完全に消失すると今度は霧が樋口魅翠奈の体表をあっと言う間に包み込み加治佐眞子の体液が呼応するように光り出す。やがてその赤黒い光は霧共々樋口魅翠奈の体内へとゆっくり沈み込んで姿を消し、……すぐに辺りは平穏な静けさを取り戻した。
……これで樋口妹は、助かるんだろうか。
足に体重をかけ直しただけでこの場にいる全員の気を引いてしまいそうな程の静寂の中、そんな根拠の無い論理にねじ曲げられたままの疑問を宗像玖耶が問おうと口を開いた、まさにその瞬間。
――ぐきり。
何処からか、気味の悪い音が響く。
ぐきり。
ぐきり。
ばきばき、こきこきこき……ばきばきばきばき。
「ぐ……ぐぎゃ……あぁぁぁぁっ!」
樋口魅翠奈の関節という関節が鳴動しまるでコマ送りのように手足が瞬時に引き攣っては止まり引き攣っては止まり、そんな不気味な動きを繰り返し始めた。その動きに合わせ飛び散る血の飛沫だけが辛うじて今この瞬間も時間は連続的に繋がっている事を示すのだった。
「あ……あ……ぎゃ……」
「……宗像君。ちょっとの間だけ、あちらを向いていてもらえるかしら。ここから先は女性なら皆等しく、……殿方には見られたくないでしょうから」
「あ……あぁ、分かった」
むしろその言葉をきっかけにようやく目線を逸らす事が出来た宗像玖耶は内心ほっとしていた。これ以上直視していたらきっと自分自身もおかしくなっていた事だろう。
「あー……あー……あぁぁ……」
人間の声のような、それとも単なるビープ音のような、そんな無機質で規則的な喘ぎ声が目を背けた宗像玖耶の耳に纏わり付き恐怖心とはまた違う理由で鼓動が高鳴った気がした。自身の血によって撹拌された涙と涎を垂れ流しながら仰け反り痙攣する樋口魅翠奈のその様は何処と無く官能さすらも醸し出し彼が直視しなかったのは正解と言えるのかもしれない。




