霧と繭(1-3)
「……そこまでだ」
――ひゅん。
聞き覚えのある女性の声と共に、薄い金属がしなる音が確かに聞こえた。
「あぁ……?」
次の瞬間。
宗像玖耶の身体が重力に引かれ地面に落ちる。その遠慮の無さはせいぜい二、三十センチの高さからの落下にも関わらず足先が体重を支える事が出来ずに再び尻餅をつく程だった。
「げほっ……ぐっ……」
迅速に肺を吸気で満たし全身の細胞へと刺激を与えようやく指先の痺れが取れてきた宗像玖耶は、未だ纏わり付く男の両手を無我夢中で振り解いた。
「はぁ……はぁ……はぁ……」
……振り、解いた?
脳が思考回路を取り戻し自身の生存を確認すると同時に、現状へと帰結するまでの過程に疑問を抱かざるを得ない。ふと衝動に突き動かされた彼が周囲を確認すると、そこには当たり前のように振り解いた男の両腕が二つ、地面に転がっていた。
「ぎにゅあぁぁぁぁぁぁ……」
どうやら男も同程度のタイミングで自身の惨状を知覚したらしく途端に喚き散らし始める。
「……五月蠅いね、ゴミクズの分際で」
……まただ。俺は、この声に聞き覚えがある。
宗像玖耶がすぐ横を見上げるとそこにいたのは泉水七零だった。彼女はまるで隣に立つ男の両腕が無くなった事なんてどうと言う事では無いと言わんばかりの冷めた表情で男の苦しむ様を眺めている。
「これ以上騒がれると迷惑なんだ、」
彼女の右手からは刃渡り五、六十センチはあろうかと言う鎌の刃のような物が突き出ておりおそらくはこの鎌で男の腕を切断したのだろうが、しかし奇妙な事に緩やかな孤を描くその刃は彼女の右手の甲から直接生えているようにしか彼には見えなかった。
「だからもう、……死んでくれたまえ」
そしてその刃が、――余りにも簡単に、恐ろしい程躊躇無く男の心臓を貫いた。と同時に彼女は持っていた布で男の口を強引に塞ぎ断末魔の叫びさえねじ伏せる。軟骨を押し潰したかのような身の毛もよだつ気色の悪い音が響き、彼女の指が布ごと男の顔面にめり込んでいく。男は手の無い腕で必死に抵抗を試みるが時既に遅く、やがてすぐに膝を突きそのまま不自然な角度でその膝を捻りながら仰向けに倒れた。
「お、おいっ……」
「もう大丈夫だよ、立てるかい?」
「え?……あ、あぁ。俺は大丈夫……」
口から漏れる安堵の言葉。
しかし次の瞬間、彼の脳裏に赤く焼き付いたのは怯え泣き叫ぶ樋口羽衣美と、血の湖に沈んでいく樋口魅翠奈の姿だった。
「……っ! そうだ、二人は、二人は大丈夫なのか!?」
すぐに走り出し歩道に飛び出した彼の視界に映るのは、四人の女性。
割座のまま後ずさり膝を立てた状態で震え惚けている樋口羽衣美を香山美衣が後ろから優しく包み込むように抱き締めている。加治佐眞子は樋口魅翠奈の傍に立ち唯々無言で見下ろしていた。たまらず宗像玖耶は道路を渡り樋口魅翠奈の下へと向かう。
「おいっ! 大丈夫なのか!?」
もちろんそんな事があるはずもない。それは分かっている。分かってはいるが、それでも知らない振りをしたかったのだ。もしかしたら、万が一、自分がその事実を知らなければ彼女は無事でいられるのかもしれないという精神論、もしくは習いたての量子力学に縋りたいのだ。
「……っ!」
しかし残念ながら彼等はミクロの世界に存在しているわけではなく、すぐに樋口魅翠奈の現実を直視する事となる。
街灯の蒼白い蛍光、その全てを逃さない黒体の眼球は何も無い宙の一点をただ見つめているだけであり呼吸と呼べる生体反応は微かにプクプク、と口元が泡立っているその点のみ確認可能だった。血だまりは深度を増し今となっては沈むと言うよりむしろ浮かんでいるようにすら見える。
破断された黒いTシャツがヌメヌメと細かく光を反射し薄暗い蛍光灯の下でも鮮明に煌めく赫を主張しており男に噛み付かれた左首筋は未だ鮮烈な歯形を禍々しくも残していた。
そして何より、――左腕が、無い。
どれだけ脳内で否定してみても、彼女を照らす街灯が描く円の外周部分に転がっている肉塊に気づいてしまっては受け入れるしかないのだ。
「うわ……あぁあ……ぐっ……ちくしょう! 何だよ、何なんだよ……」
その肉塊は自ら垂れ流す血液にゆっくりと包まれながら指先をぴくり、ぴくりと痙攣させ、宗像玖耶が悲痛な面持ちで立ち尽くす中、……遂に動かなくなった。
その様子を目の当たりにした彼は悪夢のような【今】が紛れも無い現実なのだと覚悟を決めそして歯を食いしばり、目を見開いて再び彼女を注視した。すると彼女の口が小刻みに、まるで餌を求める熱帯魚のようにパクパクと動き始めたのだった。
「おい、どうした? ……何だ、何か伝えたいのか!? 意識はあるのか? あるんだな!?」
しかしそんな悲痛の叫びに返答は何も無くただ不規則に口がパクパクと開閉しているだけ。
「ちくしょう、ちくしょう! このままじゃ……このままじゃヤベぇんだぞ!」
その言葉はひょっとすると自身への免罪符だったのかもしれない。次の瞬間、意を決し彼は樋口魅翠奈を抱きかかえた。重傷者に対し下手に動かす事が悪影響を与える事は無論承知しているがこのままだと自身の血が作り出した沼に溺れ静かに窒息してしまいそうだったのだ。
「あ……あ……あぁ……ぐ……ぁ……っ」
震える口元は微かな喘ぎ声を漏らしながら時折うめき声と共に血を咳き込みその度に無数の緋色が彼女の肉体をキャンバスにマーブルを描く。
「そうだ、加治佐さんっ! きゅ、救急車だっ! 早く電話を……」
何故今までそんな大事な事に気が回らなかったのか。宗像玖耶は自身の判断力を呪いながらもまだ間に合うと信じそう叫んだ。
しかし彼が顔を上げると、――つい先程まで目の前に居たはずの加治佐眞子が見当たらない。