霧と繭(1-2)
迷走する判断力をオブラートに包み微かに残る冷静さを持った意識で彼はその正体を探す。
するとすぐに、つい先程まで真横にいたはずの樋口羽衣美が少しだけ前に居る事に気づいた。
……いや、違う。樋口羽衣美が前に出たのではない。
――自分だ。自分が、後ずさっている。
その瞬間、彼は音の正体を知った。
全身が震える中、満足に足を上げる事も出来ず無様にも細かな砂利を靴底ですり潰しながら後退しているのだ。
「……くっ」
情けない。客観的にそう感じた。しょうがない、とは思いたくなかった。
「どうして……どう、して……こんな目に……合わなく、ちゃ……」
すすり泣く樋口羽衣美がつぶやいたその言葉は確かに口から発せられたというのに誰に届けようという意思は既に感じられずもはや独り言も同然だった。おそらくは何かに縋る事さえ諦めてしまったのだろう。
――『どうして』
だが、そんな彼女の屈服した言葉の一節が、――彼の琴線に触れた。
――そうだ、どうしてだ? そう言えば何で俺はこんな場所に居るんだっけ……?
彼はほんの十数分前の事を、それまで当たり前のように繰り広げられていた自分達の日常を懸命に思い出す。
退屈な授業。慌ただしい放課後。一昨日の脈動。昨日の失態。今日の勇気。
あぁそうか、そうだった、俺は二人を――
「おい……」
その声は擦れていた。渇く喉の第一声はそんな物だろうと宗像玖耶にも分かっていた。
「なぁおい……」
だからこそ少しずつ、調子を確かめながら声帯を濡らし伝えるべき言葉に備えていく。
「……宗像……さん……?」
「……っ」
自身を呼ぶ声が鼓膜を優しく揺らす。その声に最後の勇気を得た彼は大きく息を吸い、
――そして覚悟を決めた。
……なぁに、簡単な事だろ? そうさ、入学式の夜みたいに、
「おい、」
後先なんて考えず、
「てめぇ聞いてんのかっ、」
俺はまず、助けたいんだ!
「この……変態野郎っ!!!」
それまで樋口魅翠奈の柔肌を舐め回すように頭を上下させていた男が、……止まった。
……やっちまった。宗像玖耶はそう思った。もう、後には退けない。
「宗像さん……」
「大丈夫だ、樋口。俺が何とか……するからさ」
もちろん『何とか』の正体なんて彼自身にも分からない。だが、樋口羽衣美の崇めるような上目遣いを見ては奮い立たずにいられない!
「おい、この変態野郎! 聞いてんのかって言ってんだよ! そいつを今すぐ放しやがれ!」
――無言。男は無言のまま、だがゆっくりと顔を上げる。
「ひっ……」
まるで発声直後に首を絞められたかのような、一瞬の悲鳴。しかし樋口羽衣美がそんな悲鳴を上げるのも無理はない。
「何なんだ……てめぇは!」
男の両目は、全てが唯々黒かった。眼球全体が黒目のようでもありそもそも眼球自体が無いようにも見える。そして男は口から血を滴らせながらその二つの漆黒で宗像玖耶を捕らえしきりに首を傾げていた。
「……何か言ったか? このクソガキ」
その明瞭な発音は相手もまた日本人であろう事を印象付け、何故かほんの少しだけ宗像玖耶を安心させる。
少ししゃがれたくぐもり声。背格好や顔つきから言っても四、五十歳台くらいだろうか。服装や髪型はその年代の一般的なサラリーマンといった程度でありその両目と行動の異常性以外は普通過ぎる程に普通だった。
「……もう耳が遠いのか? その娘を放せ、って言ったんだよ!」
その普通過ぎる程に普通な外見に宗像玖耶は勢い付く。
「……これだからクソガキは、目上の者に対する口の利き方がなっちゃいねぇ……」
そう言うと男は樋口魅翠奈を乱暴に投げ捨てた。びちゃり、と粘つく音を立て彼女が自身の血の海に沈んでいく。
「どうやら教育的指導が必要なよぅだなぁぁぁぁ……」
そう言うと男は両手両指先に力を込め構え始めた。その意識は完全に宗像玖耶へと向いておりまず第一の目的を達した彼は樋口羽衣美に対し軽く頷くと顎を振り後ろを指し示す。
「あ……あぁあ……」
未だ恐怖に怯えへたり込む彼女だったがその意図を理解し臀部を地面に引きずりながらも両手両足を使い歩道から後ずさるのだった。
すると突然、男が宗像玖耶目がけ突撃を開始する。
「くっ……」
速い。速過ぎる。片側一車線、数メートルの距離とは言え中年男性としてはあり得ない程の速度で男は一気に詰め寄って来た。宗像玖耶はその突進を避けようと身を後ろに捻るが男は彼の脇をすり抜けたその瞬間に左足を強く地面に叩きつけてその身を制止させ、そのまま軸足として回し蹴りを放つ。
「うぐ……ぁ……!」
右回し蹴りが直撃した宗像玖耶は受け身を取る事も出来ず歩道から道路とは逆方向の区画に跳ね飛ばされた。そこは半分ほどをアパートが占め彼が飛ばされて来たもう半分は未整地のまま数台の車が停められている他には背丈ほどの茂みがそこかしこに存在するだけの区画だった。
「くそっ……」
砂利に強く身体をこすりつけあちこち擦り傷だらけとなった宗像玖耶は今更ながら無茶な事に手を出したもんだと半分呆れ、それでも半分は自身を褒めていた。
「おいおい、……もう終わりかぁ?」
「へ……へへへ……さぁな……」
……マズい。やっぱコイツ、人間じゃねぇ。
宗像玖耶は改めてそう痛感する。脚力。腕力。どれをとっても異常でありとても眼前に居る中肉中背の冴えない男から繰り出される代物だとは到底考えられない。
「減らず口だけは一人前って奴かぁ?」
「くっ……」
しかしこの絶望的な状況においても宗像玖耶は決して諦めず、あえて尻餅をついたまま逃げ回り始めた。立ち上がって逃げてしまえばきっと男は自分に対する加虐心が冷めその矛先を樋口に向ける、そう考えたからだ。
追いつかれぬように、しかし離れ過ぎぬように。そうやって蛇行しながらも宗像玖耶は樋口羽衣美から徐々に離れて行く。
彼女もまた彼の意図に気づき、――しかしなかなか行動に移せない。
早く、早く男から身を隠し携帯電話で助けを呼ばなければ。そう理解はしているのに身体は震え携帯電話を握る事もろくに出来ずにいた。
「……そろそろお終いにしようかぁ……!」
未整地箇所とアパートを仕切るブロック塀まで追い詰められおあつらえ向きに茂みで道路からは目撃されない位置へと追い詰められた宗像玖耶は、もはや覚悟を決めざるを得ない。
「くそっ……!」
樋口は無事に逃げられただろうか。一先ず思い付く心残りは、それくらいだった。それくらいあっと言う間に、追い詰められてしまったのだった。
「なぁに、あの娘達もすぐに後を追わせてやるからよぉ……!」
男はそう言うと宗像玖耶のTシャツの襟を掴みそのまま強引に持ち上げた。即座に身体は立ち上げられ、そして地面から足が離れていく。
「ぐ……が……このっ……野郎っ……! が……」
「あひゃひゃひゃひゃ、知ってるか、窒息ってのはクソ撒き散らして汚ねぇらしいぜぇ……?」
宗像玖耶がいくら渾身の力を込め爪を男の手に食い込ませてみても、どれだけ全力で足をばたつかせてみても、状況は非常なまでに何も変わらない。ただゆっくりと意識が遠のいていくだけだった。
「あ……あ……」
もはや両手両足に力が入らない。
「ひゃーははは、てめぇにはピッタリの死に様だなぁ、せいぜい派手に垂れ流しやがれぇっ!」
……ちくしょう、こんなところで……
……おれは、
……「 」