予感(3-3)
「ごめんなさい、お待たせしました~!」
息を切らせた樋口羽衣美が一般教育練のとある教室内に滑り込む。途端に季節感を無視したさわやかに甘い匂いが鼻をくすぐった。
そこは教室とは思えない程の飾り付けを施され四方を覆う厚手のカーテンによって完全に外界から切り離された、まさに異空間。夏でも暗く冷たい印象の室内は暖色系の照明でまとめられ隅に置かれた大型の花瓶には様々な花が生けられており普段備えられている机や椅子は全て撤去され特別に用意されたテーブルとチェアはいずれも曲線部が美しくまるで楽譜を彩る音楽記号の様だった。スタッフの服装は白いブラウスに薄飴色のブレザーそしてミニスカートという女子校をイメージした制服で統一されている。
「あ、おはようございます羽衣美さん」
「「おはようございますっ!」」「「おはようございますっ!」」
準備を進める一同が次々と挨拶を交わしていく。息を整えた樋口羽衣美もまた制服に着替え香水を振り汗で乱れた髪の毛をアイロンで伸ばしヘアスプレーで毛先がまとまり過ぎない程度に固定し準備を整えた。
「よし、っと! あ、準備の方はどうですか?」
「バッチリですわよ。コレも羽衣美さんが前日までに段取りを組んでくれたおかげですわ」
「いえいえそんな、恐縮です~」
栗色の髪に毛先部分から全体の三分の一程度の位置までキツめのパーマをかけたロングヘアのおっとりとした女性が樋口羽衣美を褒め称える。実際このサークルの催事内容は皆で話し合った末の決定だが具体的な準備は樋口羽衣美が中心となって進めたのだった。
「……お姉、ちゃん、おはよう」
「おはよう、魅翠奈っ!」
樋口魅翠奈もまたこのサークルに所属おりもちろん制服に身を包んでいる。催事準備に関しては姉の手が回らない書類準備等の雑務を陰から支える役割に徹していた。
元々このサークルは静かに読書を楽しむ事を趣旨として設立された女子生徒のみの集まりであったのだが年を重ねる毎にその方向性が研ぎ澄まされ今日では表向きノンジャンルと謳うもその実所謂百合小説を持ち寄り大学敷地内の会館に点在する季節感の薄い密室を借りて読み耽る事を趣旨とする同好会と化していた。樋口羽衣美も『一卵性双生児なのに全く似ていない双子の姉妹が同学年にいる』という理由だけでクラスメイトから声を掛けられ、――もっとも髪型や服装が極端に異なるだけで顔の作りはやはり似ているのだが――自身もこの様式にまったく興味が無い事も無く、規則らしい規則が存在しないその緩さも手伝ってなんとなく在籍してしまい妹も姉に倣って入会したのだった。
「ごきげんよう、お姉様」
「「ごきげんよう、お姉様!」」
スタッフの発声練習も佳境に差し掛かり、いよいよ『百合喫茶』が開演の時間を迎える。
この時間帯は完全招待制にしたにも関わらず数十分前から廊下には行列が出来ていると聞き百合喫茶に対する前評判の高さを樋口羽衣美は開演前からひしひしと感じているのだった。
「それでは皆さん、ヨロシクお願いしますっ!」
古めかしい掛け時計が丁度正午を示し鐘を鳴らす。と同時に扉が開け放たれ異空間への招待状を持ったお客様――お姉様方の入場が始まった。その行列は乱れる事なくゆっくりと会場へ吸い込まれていきお決まりの挨拶を交わす。スタッフが席へと案内すると前述の優雅なテーブルの上には可愛らしい小物と共に上品な金縁で彩られたメニューが添えられておりよりいっそうの雰囲気を醸し出す事に成功していた。室内を優しく包み込むクラシックの音質は安物のラジカセにはとても感じられずそのふくよかな低音は大型スピーカーの存在を彷彿とさせるが目の届く範囲には何処にも存在しない。それはあたかも小規模なコンサートホールへと足を踏み入れたかのようであった。
「……うはっ~、」
瞬く間にお姉様で埋め尽くされていくその光景をカウンターから眺めていた樋口羽衣美は先程からひたすらに感嘆の声を上げている。
「いいですよね~、やはり思い切ってやってみて正解でしたね~」
両手を頬に当てため息をつくように感想を漏らす彼女のとろけた瞳にはハートマークが宿っているかのようだった。
「そ、そうですね……」
「え、えぇ……」
返答したスタッフももちろんこの大盛況ぶりには満足しているのだが隣で荒い息を吐きしまいにはひーひーと過呼吸気味になっている同級生程の高揚感には至らなかったらしく唯々肯定するのがやっとである。
「この時間帯は招待客がメインですが第二幕は学校帰りの学生さんとかも期待出来ますしますます楽しみですよねっ! あぁ、かわいい娘がたくさん来店してくれると嬉しいのですがっ!」
「え? えぇ……楽しみですね……あはは……」
第一幕であるこの時間帯は午後三時で一旦閉演し休憩を挟んで午後五時から午後八時まで第二幕を開催する、という二部構成での四日間。喫茶店としての完成度とスタッフの気力維持を目的として樋口魅翠奈がこっそりと立案したプランだった。
「そういえば羽衣美さんは三時から何か予定あるんですか?」
「あ、ワタシはまたクラスの出店に戻ります! なので申し訳ないですが第二幕の準備はヨロシクお願いいたしますっ! 五時前にはまた来ますので!」
「あっちでもこっちでも大変ですね……」
「あはは、そんな事ないですよ~、……あれ?」
「……? どうしました?」
「あ、いや、同じクラスの人が……」
そう言われたスタッフが樋口羽衣美の視線先を見るとそこには三人の女性が居た。